清算事業団闘争が切りひらいた
勝利の地平
1990年秋 機関誌 「動労千葉」19号
はじめに
動労千葉は、1989年11・20スト以降、90年4・10ストまで、実に8波にわたるストライキに決起し、JRと政府.自民党が総力をあげた清算事業団闘争圧殺攻撃を打ち破った。全組合員の総力をあげた闘いをもってきりひらいたこの勝利の地平は、国鉄労働運動・清算事業団闘争のみならず、91年代の労働運動の勝利の展望をも指し示すきわめて大きな成果である。われわれはこの秋に向けて、さらに
息をぬくことなく、集眉の課題である清算事業団闘争の勝利と、この間のストライキに対する不当処分.スト損賠攻撃、職場を監獄のごとき状態において労働者を窒息させようとずる動労千葉根絶攻撃粉砕の闘いに、組織の総力をあげて起ちあがらなければならない。
その場合われわれは、何よりもまず、労働運動のおかれている現状、敵とわれわれとの関係、大きな歴史のなかにおける自らの立脚点について、はっきりと確認しなければならない。
◎歴史の岐路にたつ労働運動
日本の労働者階級は今、重大な歴史の岐路にたたされている。この間労働運動は、「戦後高成長」「いざなぎ景気以来の好景気」とうたわれた日常的な表層と、その背後で進む恐るべき危機との落差をひとつのものとして見すえることができず、支配階級の打つ手の前に、なす術もなく屈服につ
ぐ屈服を重ねてきた。しかし、中曽根の登場による臨調・行革攻撃の開始、国鉄分割・民営化攻撃の開始、労働戦線の右翼的再編攻撃の開始以来、この労働運動の屈服は、明らかにその質を変えてきたといえる。何よりも、支配階級の側が、その攻撃において「体制変革」の必要性を公然と語りはじめたのである。「本来、行政改革の最大の眼目は、行政の在り方を大きく改めることを通じて、国家と国民を合わせた国全体の歩みを、より望ましい方向に変えていこうとする点にある」(臨調第1次答申)「行革は、日本が21世紀に生き残るための国家大改造」(自民党82年度方針)「行政改革とは何ぞやといえば、それはある意味における精神革命であり、国家の構造改革である」(中曽根)「行政
改革ができなかったとすれば、もうあとは革命しかありません。そのくらい重要なタ―ニングポイントとしての意味が行政改革にはある」(土光)………等々、こうした真正面からの攻撃に対し、支配階級の攻撃が「本気」であることを敏感に感じとり、すくみあがって、より積極的な屈服、すなわち、労働者の顔をし、労働組合の旗を掲げて、敵の攻撃に積極的にコミットし、推進する勢力が生みだされた。
そのもっとも典型的な例がJR総連革マルであり、昨年11月21日に結成された「連合」であった。
国鉄分割・民営化という名のク―デタ―と、支配階級の手によって「完成」された「全的統1」(実は労働運動の大分裂攻撃)は、それがいかに破たんを内に秘めたものであろうと、労働運動にとって画期をなす攻撃であり、歴史の重大な転換点を示す大事件であった。そしてそれは、諸事件が激しいしぶきをあげて激突しあう激動の時代、変革の時代が始まろうとしていることを示しているのである。
動労千葉は、以上のような認識にたちきることをとおして、1989年第16回大会において、「自力・自闘・連帯の旗掲げ、変革の90年代をきり拓く新たな時代の労働運動を創造しよう!」という方針を掲げ、その実践として、清算事業団闘争への総決起をかちとってきた。
「4・1」を突破した清算事業団闘争
清算事業団闘争が切りひらいた勝利の地平
◎清算事業団闘争とは何であったのか
清算事業団闘争とは、言うまでもなく、国鉄分割.民営化―110万人首切りという、歴史上未曽有の国家をあげた労働運動解体攻撃との闘いの「後半戦」をなす闘いであった。この攻撃に屈せず、闘いを貫いて堂々と生きぬいた動労千葉、国鉄労働者が(そして全ての労働者が)、権力の手
のうちに押し潰されてしまうのか否かのかかった闘いだったのである。
国鉄攻撃の最大の狙いは、国鉄労働運動の解体をとおして、総評労働運動を中心とした労働者階級の抵抗力を、足腰たたないまでに解体し、支配階級の側に取り組み、その結果、憲法改悪までをも射程に入れた強権的な国家支配体制をつくりあげることにあった。すなわち、国鉄改革とは、危機にたつ支配階級の90年代労働者政策そのものだったのである。
動労千葉は、もし国鉄分割・民営化反対闘争1清算事業団闘争に屈したとすれば、日本の労働運動の未来がいっぺんに危機に立たざるを得ないとの認識にたって、85、86年の2波のストライキ、そして89年12月5日からはじまる清算事業団闘争の決戦段階の闘いに総決起してきたの
である。
また、清算事業団闘争は、極めて有利な戦場であった。すべての組合員が「クビ」をかけて分割.民営化反対の歴史的なストライキに決起することをとおして(そしてこの動労千葉の必死の決起があったからこそ、国労修善寺大会の決起もあった)「成功」するかに見えた国鉄労働運動の根底的な解体攻撃をはね返した時点で、清算事業団問題は、敵にとって分割・民営化攻撃の矛盾がすべて集中する最大の弱点に転化したのである。
「清算事業団」とは、わずか2年間の間に10万人もの首切りを行うという、大攻撃を行うために考えだされた「首切り収容所」であった。しかも「法」の名のもとに、国鉄分割・民営化へ向う過程では、「採用」の権限は国鉄当局にはないとして国鉄当局が1切の責任を逃れ、JR発足後は、採用者の名簿を作成したのは国鉄であり、新会社は名簿に登載されなかった者を「採用」する余地はない、として、JRが1切の責任を逃れるという、極めて巧妙かつ狡猾に準備された悪らつな策略であった。しかしこれは、攻撃の過程で、国鉄労働運動が解体し尽くされてしまうことを前提にして、はじめて成り立つものでしかなかったのである。
◎次々と暴きだされた国鉄分割・民営化の実態
この3年間(87年〜90年)の過程はまさに、国鉄分割・民営化の矛盾が、次々と明らかにされる過程であった。とりわけ、各地の労働委員会において次々とかちとられた勝利命令は、政府自民党、国鉄=JRの国家的不当労働行為の実態を、全社会的に暴き出し、全国の清算事業団労働者にも勇気をあたえて、「有利な戦場」としての清算事業団闘争の客観的条件を決定的なものとした、と言うことができる。
80件もの大量の命令が連戦連勝でだされたのは、労働委員会史上例を見ないことである。国の行政機関たる労働委員会すら認めざるを得ないほどの大量の悪質な不当労働行為が、法の名において強行され、現在もなお、より悪質さを増して続けられていること、これこそが国鉄分割・民営化攻撃の真の姿だったことが明らかにされたのである。
さらに国鉄分割・民営化攻撃の矛盾は、
@10万人首切りという極端な合理化を強行し、しかも、組合潰しのみを1切に優先させたことの必然的結果として、爆発的に顕在化した安全問題の危機、重大事故の続発、
A分割・民営化を強行するために、JR総連革マルと手を結んだ労務支配の異常性、
B表向きの目的であった「財政再建」も、30兆円もの清算事業団の莫大な債務の累積という現実の前に完全に失敗に終わっていることなど、となって噴き出し、国鉄分割・民営化攻撃は、その全ての面において、明らかに破たんしていることが、白日のもとにさらされたと言える。
すなわち、清算事業団闘争は、マスコミ等世論の動きを含めて、客観的条件としては、数々の解雇撤回闘争の歴史のなかで、も、極めて有利な情況のなかで闘われたのである。
◎清算事業団労働者・家族の不屈の奮闘
さらに確認しなければならないことは、当該である全国の清算事業団労働者が困難な状況のなかで、国労中央の極めて重大な方針、指導の誤りにもかかわらず、常に最左派として闘いの先頭に立ち続けたと言うことである。
とりわけ、北海道・九州においては、闘いは文字通り、家族ぐるみ、地域ぐるみの闘争となって発展した。ありとあらゆる差別・選別1首切り攻撃の渦中で、それに耐え、鍛えられた数千の清算事業団労働者・家族の存在は、清算事業団攻撃を確実に破たんの渕に追いこんだのである。3年間をかけて、真綿でクビをしめるようにジワジワと「自主退職」に追込んで、ゼロにしてしまおうとした敵の思惑は、完全に失敗したのだ。
すなわち、闘いの主体的条件も、清算事業団労働者の不屈の奮闘をとおして、万全なものとして形成されていたのである。
◎国労中央の清算事業団闘争方針の誤り
問題は、清算事業団闘争の最大の当事者たる国労中央が、こうした主客の有利な情勢を活用しきって、JR本体―清算事業団を貫く総力戦を展開する方針を全くもっていなかっことにあった。
国労中央は、闘いの当初から、清算事業団闘争は、国鉄労働運動、ひいては労働運動総体の未来を左右する闘いであると匿う、その決定的な位置と、勝利性を戦略的に真正面から見すえることができなかったのである。
しかし、攻撃の矛先が当初から「国労壊滅」の1点にすえられていたことは明白であった。しかも、JR当局がJR総連革マルと一体となって、あらゆる手段を使って国労破壊のためにすべての力を注ぎこむ異常な「JR体制」の下にあって、最低限必要な立場のはずであった、様々な利害をこえて、国労が打って一丸となってこれとたち向かうことすら行わず、ただひたすら派閥(指導勢力としての革同・協会)の利害のみにきゅうきゅうとしていたのが、国労中央の実態だったのである。
まさに、国鉄分割・民営化闘争の過程で、当時の旧主流派執行部が屈服につぐ屈服、後退につぐ後退を重ねる状況のなかにもかかわらず、4万名が不屈の旗を守りぬいたことの意味について、現国労執行部も何ら、総括も教訓化もできていないことをあらわにしてしまったのである。
こうした状況は、ただちに清算事業団闘争にも反映し、第2次広域採用にあたって、革同が自らの指導下にある清算事業団労働者を根こそぎ、応じさせるという「方針」となり、第3次広域採用にあっては、協会派が「国労方針」として、北海道・九州の清算事業団労働者の自宅にまでオルグを行い、広域募集を推進するという誤った「方針」となって現れた。ここには、清算事業団労働者の解雇撤回に向けて組織をあげて闘いぬく立場も、清算事業団闘争を戦略的課題として位置付け、組織する方針も全くないと言わなければならない。
このような派閥のせまい利害のみからしか、清算事業団問題を見ることができず、むしろ、攻撃の重圧の前に自ら押し潰されてしまうという無方針と、他方で、各地の労働委員会で次々と勝利命令が交付されるという新たな状況のなかで打ちだされた方針が、「全面解決要求」路線であった。
その内容は、地労委命令を利用して、何とかJRにおける労使関係を「正常化」したいということに主眼をおいたものであった。これは中労委における和解の「懇願」、全面的な労働委員会依存主義という方向を国労が選択したことを意味するものであった。国労中央は、地労委闘争勝利の地平を自ら放棄したのである。
このような「全面解決要求」=「中労委和解」=労働委員会依存路線を国労中央が決定した背景には、このような「全面解決要求」など通用するはずがないことを、真正面から見すえきることができない指導部の脆弱性、情勢認識の甘さ、誤りがあったことは明らかである。
JR当局は、こうした国労方針を見透したように、より硬直的に国労との対決路線を強め、「和解」どころか、労働委員会に対してまで、「支離滅裂だ」「気違い(ママ)だ」「10年戦争をかまえる」と非常識な罵声を浴びせるようになる。国労中央の誤った方針は、地労委での連続的勝利というチャンスを反転攻勢へと転化させる機会を自ら潰してしまったのである。
国労中央は、以降、総評や社会党を根回ししての政治的取り引き、「和解路線」への埋没をさらに深めていく。そのもっとも端的な現れが、「本州清算事業団切り捨て方針」「1・10中労委和解案(北海道・九州での原地採用→即本州出向案)」であり、決戦の最大の山場であった2、26〜28ストライキの理由ならざる理由をもってする中止であった。
政府・運輸省は、このような屈服をさらに見透かし、国労に対し、中労委への「白紙委任」のどう喝すら行うに至るのである。しかも、2月末ストライキの中止は、3月19日の清算事業団労働者の全員解雇提案を許してしまうという事態を引き出してしまったのである。国労内右派グル―プは、明確に清算事業団闘争の3月内終結旺清算事業団労働者切り捨てを画策するに至り、清算事業団闘争は、決定的な危機に陥っていたと言える。
しかし、こうした否定的事態を一挙に打開したものこそ、全国の清算事業団労働者の必死の決起であり、とりわけ、3・18―21の84時間ストライキを焦点とした、12・5以降の動労千葉の闘いだったのである。
◎全情勢を決定した動労千葉の闘い
89年12・5より開始された動労千葉の闘いは、まさに、清算事業団闘争の全情勢を決定するものであった。
12・5ストライキは、「JR体制」下において、誰も本格的なストライキを打ちぬくことなど提起し得ない状況のなかで、唯一決起した、まさに歴史的ストライキであったと言える。すべては、12・5からはじまったと言っても過言ではない。
動労千葉は、運転保安をめぐる重大事態、予科生の運転士への差別選別登用問題をもって開始されたJR当局=JR総連革マルによる新たな動労千葉破壊攻撃の背景には、清算事業団問題を含めて、分割・民営化そのものの矛盾、「JR体制」の危機が、2進も3進もいかないところに行きつこうとしている状況があることを見極め、国鉄労働者の総反撃への客観的情勢が確実に煮詰まりつつあること、ここで「JR体制」の危機を突いて起ちあがらなければ、90年4月に迫った清算事業団闘争の展望を切り拓くこともできないことを確認し、断固としてJR発足後はじめて、列車をストップさせる本格的なストライキに起ちあがった。
この闘いは、情勢を的確にとらえ、予想を越えて、燎原の火のごとく、全国鉄労働者の心を揺り動かした。
89年年末に急拠設定された国労の1・18ストライキが、この12・5ストの成果に影響されたものであることは、明らかであった。まさに、12・5ストは、1.18ストを生みだし、1―3月の清算事業団闘争の決戦段階の闘いを創りあげたのである。
1・18ストライキは、政府・自民党が「公的部門への採用」「第4次広域募集」という、清算事業団切り崩し攻撃を開始する状況のなかで闘われた。また、国労中央が、「和解」路線への屈服を一挙に深めるなかでの闘いであった。
この1・18ストライキは、「本州事業団問題」を全社会的にアピ―ルすると同時に、東京および千葉をストライキの対象から除外し、動労千葉との共闘を頑なに拒み続ける国労中央の対応に対し、国労千葉運転区分会を先頭とする現場労働者の激しい糾弾の闘いを生みだした。この闘いは、スト直前まで動揺をくり返す、国労中央のスト中止策動を許さぬ力となって、2月〜3月に向けた国労との共闘体制確立に向けて、大きな地平をつくりあげる原動力となったのである。
しかも、この闘いの過程で、スト破りを拒否して13名の仲間たちが動労千葉に結集したことは、もし国労がほんとうにハラを固めてこの闘いに決起していたならば、ストライキは「JR体制」をゆるがすダイナミズムをもったであろうことを示すものであった。
国労が、2月末の決定的な段階において、何の理由もなくストライキを中止するという、極めて否定的な状況と、他方で、2月27日の千葉県地方労働委員会における勝利命令獲得という勝利のなかでむかえた3月闘争は、まさに清算事業団闘争が、勝利の展望を切り拓きうるのか、1敗地にまみれるのかを問う歴史的な闘いであったと言える。
しかし、清算事業団労働者1、600名への解雇攻撃の強行という、切迫した状況のなかで設定された3・19〜21ストライキは、国労中央右派グループによる「3月内和解―終結」―スト中止策動のもとで、決定的な危機にたっていた。JR当局、JR総連革マルは、こうした動向を見てとり、全面的なスト圧殺攻撃をしかけ、更なる屈服へ国労を引きずりこむことに全力を投入したのである。
一方、3月16日、社会党田辺委員会による、「@広域募集をもう1度行う、AJR採用、即日自主退職、B退職金の上積み」、なる断じて許すことのできない3項目案が明らかにされ、これは当然にも、多数の上京団を東京に送りこんでいた清算事業団労働者の激しい怒りを呼び起こし、同日夜、社会党本部および国労本部への抗議闘争となって爆発した。社会党田辺案は、怒りの炎に油をそそぐ結果となったのである。
しかしその後も、スト中止、3月内終結、清算事業団切り捨ての策動はくり返された。このような状況を一挙に突破したものこそ、3月18日12時からの動労千葉のストライキであった。
JR当局は、清算事業団闘争の予想をこえた高揚をおし潰すために、JR総連革マルと手を結んで19〜21日に予定されていたストライキに対し、不当労働行為を承知で、異常きわまりないスト圧殺攻撃をしかけた。職場を何重もの有刺鉄線で囲い込み、入り口という入り口にサ―チライトと監視カメラを設置し、スト突入前夜から勤務中の組合員を排除し、さらには、スト前日の朝から庁舎前にピケを張り、本部・支部役員の組合事務所・職場への立ち入りすら阻止したのである。また、津田沼支部においては、組合事務所を封鎖するように囲い込む「塀」の工事まではじめた。
動労千葉は、このような違法なスト圧殺策動に対し、清算事業団闘争の成否を決するこの闘いを押し潰させることは絶対にできないことを、重大な決意をこめて判断し、断固として3月18日12時、ストライキに突入した。この戦術拡大は、ストライキを守りぬくためのやむにやまれぬ対抗手段だったのである。
しかし、突入時間を繰り上げて闘われたストライキは、それのみならず国労中央右派グル―プによるスト中止策動を粉砕し、翌日からの72時間ストライキを牽引する決定的な原動力となったのである。
◎うち破られた清算事業団闘争圧殺攻撃
たび重なる国労中央の動揺を克服して、ついに貫徹されたこの72時間ストライキヘの決起こそが、その最中に強行された、1406名への解雇予告という天と地を転倒させた暴挙を1身に受けながらも、清算事業団労働者をはじめ、すべての国鉄労働者に勝利への確信、自信と勇気を回復させ、清算事業団闘争の永続的な発展、勝利への展望を切り拓いたのである。
政府自民党・JR当局・JR総連革マルが総力をあげて襲いかかった清算事業団闘争圧殺攻撃は打ち破られ、1000名をこす仲間たちが、2度目の解雇を強制されながら、不屈の闘いを継続したのである。
支配階級は、1987年4月1日、国鉄労働運動の壊滅を狙った攻撃に失敗し、「新生JR」が、闘いの旗を守りぬいた国労4万、動労千葉750を身中に宿したまま発足せざるを得なかったことに続いて、2度目の敗北を喫した。
労働運動の解体・1掃、産業報国会化を目的とした日本帝国主義の労働者政策は、その出発点・根幹たる国鉄労働運動解体攻撃においてつまずかざるを得なかったのである。まる9年間を費やして、なお国鉄労働運動を制圧することができなかったのだ。しかもこの闘いは、まったく一体のものとしておし進められた「連合」の中に巨大な矛盾を生みだしている。
◎再び決戦の渦中に入った清算事業団闘争
清算事業団闘争をめぐる情勢も、不当解雇から半年、この秋また新たな闘いの渦中に入ろうとしている。清算事業団闘争が、完全勝利に向けて新たな1歩を踏みだすことができるのか、勝利の地平をこじ開けながら1敗地にまみれてしまうのか、重.大な岐路を迎えている.清算事業団闘争の「今秋闘争終結」策動が渦巻いているのである。
政府自民党は、清算事業団闘争が自らの足元を掘り崩しかねないことを敏感に感じとり、1刻も早く闘争を終結させようとして、「連合」、社会党右派、中労委などをつかって、国労を「今秋闘争終結」=和解にひきずりこもうとしている。むしろ、国労中央の動揺を見透かし、清算事業団闘争をつかって、国労の路線的変質・分裂・破壊を画策しているのである。
こうした状況のなかで、中労委は、9月か1月にも「和解案」を提示するであろうと言われている。しかしそれが、せいぜい、3月の「社会党田辺委員会案」の枠をいくらも出ない(あるいはそれ以下か)ものであることは明らかである。しかも、すでに「分割・民営化の容認」「労使共同宣言の締結」「全労協からの脱退」「4・1解雇を認めること」等が前提条件との検討までもが行われていると言われているのである。こんなものは、どのような意味においても「和解」でも何でもない!身ぐるみ脱いで全面的に屈服しろ、ということである。
しかし、問題は国労指導部である。国労中央は4月以降も、1千名の仲間が解雇されてなお、「和解路線」にしがみついてきたのだ。むしろ、「清算事業団闘争終結願望」「政治決着・和解路線」への埋没をより深めてきたといっても過言ではない。
こうした国労中央の屈服を最も象徴的に.小したのが、8月2日・3日に開催された、国労第55回定期全国大会であった。解雇が強行されて初めての全国大会であったこの大会において、清算事業団闘争について、方針らしい方針は何も提起されなかったのである。それどころか、「中労委の場での早期解決を求め、政治環境作りで強化する。3月末段階の社会党・政府の会談内容に基づき、社会党をはじめ各政党に要請する」というのが、提起された唯一の方針であった。さらに、国労東日本エリア、東京地本からは、「早く政治決着をはかれ」とする「意見書」まで提出されたのである。前記のような、全面的な転向要求が、社会党右派も含めて検討されているというのにである!
動労千葉は、清算事業団闘争は、敵を追いつめ勝利の展望をきりひらきながら、大きな危機を迎えていることについて、あえて警鐘を乱打しなければならない。「4・1」を突破した勝利の地平を1歩も低めることはできない。
北海道・九州を中心とした清算事業団の仲間たちは、このような国労中央の唾棄すべき屈服、解雇以降の生活と闘争を支える組織的援護さえほとんどなされない状況にもかかわらず、困難を突破し、長期闘争を辞さぬ「自活体制」を創りあげている。1千名の清算事業団労働者は、この間国鉄労働運動を支えてきた精鋭である。この1千名の大争議団が日本中を駆けめぐって闘いを展開すれば、「連合」路線を粉砕し、労働運動の戦闘的再生をかちとる力を充分に秘めた、最良の組織者となることは間違いない。闘いの方針さえ確立されれば、闘いの局面は、一挙にきりひらかれるのである。動労千葉は、89年12月から3月にかけて闘われた清算事業団闘争の成果と教訓にふまえ、9.24全国労働者集会の成功を突破口として、新たな決意をこめて清算事業団闘争に総決起しなければならない。
◎不当処分・スト損賠攻撃を許すな
7月17日、JR当局は、清算事業団闘争勝利.地労委命令の履行を求めて実施したこの間のストライキに対し、「出勤停止31日」を初めとする141名の大量不当処分を発表した。JRは、1千名もの清算事業団労働者の首を切ってなおあきたらず、JR総連革マルと手を結びその要求どおりに、今回の処分強行に及んだのである。また、JR当局は合わせて、3・18ストに対し、「損害賠償請求」を行う準備を進めている動向にある。
この不当処分・スト損賠攻撃は、動労千葉と清算事業団闘争の圧殺のみならず、労働者の基本的権利である争議権を否定し、憲法・労働組合法をも踏みにじる暴挙である。
処分の「理由」は、動労千葉のストライキが「ストライキの名をかりて、公益事業の運営を混乱させ、社会的に多大な影響を及ぼすことを企図した違法行為だ」、というのである。まさに、怒りをとおりこして慄然とせざるをえない主張である。しかも、加えてストライキ時に「不当な発言をした」「嫌がらせ発言をした」「職場に滞留した」ことを口実として、これらすべてを「非違行為」として処分の対象としたのである。まさに、労働者に争議権など存在して〜はならない、清算事業団闘争は手段を選ばずに解体せよ、とする支配階級の意を体現した攻撃である。
しかし、この不当処分のなかに、清算事業団闘争の予想を超えた高揚、動労千葉の闘いと不屈の前進の前に、たち直ることのできない打撃を受けたJR当局の真の姿をまざまざと見てとることができる。
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