敵の手の内見たり  スト破りに弾劾の嵐

 

十二月早朝の外は、さすがに寒い。まだ夜も明けきらない四時頃になると千葉運転区前には、白い息を吐きながら、ポケットに手をつっこんだ組合員が続々と結集しはじめている。当局・JR総連どもによるスト破り弾劾行動だ。
 組合員は、時をおかず、,鉄の門をはさんで東日本全体からかき集められた課員どもに激しい弾劾をたたきつける。
間もなくして現地闘争派遣の責任者である布施副委員長が顔を出し、結集している組合員にむかって「十二.五ストは千葉転をはじめとする全乗務員と一の宮、鴨川、館山の各派出の全組合員が敢然とストに突入した。東中野駅事故一周年にしてついに運転保安確立をかかげストに起ったこの闘いは、差別、選別を欲しいままにしてきたJR体制の専制支配をぶち破る決定的な第一弾であり、清算事業団決戦の開始の闘いである。最後までやりきろう」と高らかに宣言。
 組合員の志気も一挙に高まっていった。組合員のどの顔も晴ればれとしている。
当初、当局やJR総連は「千葉労になにができる、ストでもなんでもやれるものならやってみろ」と見くびった態度をとっていた。ところが、動労千葉が一旦決断し、全支部で見る見るうちに闘争体制が築かれてゆく様を目の前にすると、今度は"理性"も何もかもかなぐり捨てて弾圧体制を敷きはじめる。当局はなんと! 革マルの“弾圧とスト破りの要請”を全面的に受け入れ、東日本の根こそぎ動員と警察機動隊の配置を行ない、それを背景にして違法、不当なスト破りに乗りだした。
 スト当日の年休に対し時期変更権を行使し、他組合の公休、特休者に対し業務命令を乱発し、勤務指定してくる。
 このあからさまなスト破り強要に千葉転、津田沼の国労組合員は激しく抵抗していく。
国労中央の指導放棄の中で、組合員が当局の前に裸で投げ出されるという、八五年の分割・民営化決戦と同じような裏切りが又々再現されようとしていた。こうした厳しい状況の中で、国労組合員一人一人に決断がつきつけられてゆく。
 分会長や地本との真剣な激論が、動労千葉組合員がかたずをのんで見守る中で、延々と続けられている。
「指導部は何度裏切れば気がすむのだ」「事業団の仲間を見捨る気か」という叫びにも似た訴えは、普段同じ釜の飯を食べている動労千葉の組合員の胸にもビンビン響くものがある。
 しかし、こうした現場組合員の叫びに応える指導は、ついに下されなかった。こうしたギリギリの状態の中から千葉転で二名、津田沼で二名の仲間が意を決して、あえて、動労千葉に結集し、即座にストに突入していったのである。
 結集したA君は、「私は、十二・五で犠牲になった平野君の同期である。その私が十二・五の一周年のストライキでスト破りをやることなど到底できない」と切々と語り。

B君は、
「今ここで闘わなくて清算事業団闘争をいつやるというのか、国労指導部は北海道や九州、本州の仲間の悲痛な叫びに応える気がない。絶対に許せない。動労千葉に入り共に闘う」

と訴え、その場に居合せた多くの組合員の感動をよんだ。中年の組合員の中には涙をぬぐう者さえいた。このニュースは、本部から全支部に伝えられていったのである。勇気をこめて決起した四名の仲間を迎え入れ、スクラムにも一段と力が入ってゆく。
 燃えに燃えている組合員の情熱は、それに比例してスト破りへの激しい怒りとなっていったのはいうまでもない。全運転区前で、あるいは、出先の駅で、スト破り、JR総連への激しい追及が展開されてゆく。恐怖した千葉支社は、スト破り運転士一人を何人もでガードし「防衛」にやっきになった。スト破り乗務員はうなだれ、不安と後めたさで顔面蒼白、ふらつく足でやっと電車にたどりつく。千葉駅で糾弾していた組合員の間から「あれで運転できるのかなあ」といった“心配”の声さえでるほどである。とどのつまり、当局の動員者が運転台に同乗し、弾劾の嵐の中、ようやく一番列車は出ていった。

 おおかたは、ストライキをやっても列車が動けば無力感とか絶望感におそわれるものだが、今回に限ってはそうした雰囲気は感じられない。そこのところを組合員に聞いてみると、「今回はまず最初のストだ、当局の出方、手の内を十分見た、というか見ぬけたというだけでも成果だ」という感想がかえってきた。
 そうこうしているうちに組合員から「革マルの海宝(東鉄労地本書記長)と永島(千葉転)が当局の現認者に動労千葉の組合員の氏名を教えている」という情報が伝えられ、怒り猛った組合員が、2人が居るという場所に駆けつけた。 なんとそこには当局の動員者や私服に護られながら、ヒキツつた顔に、むりしてつくったうす笑を浮かべながら、震える手でメモをとっている海宝、永島が居るではないか。
 組合員の怒りは一挙にのぼりつめる。「スト破り革マルは許さないぞ」「警察、当局の手先は出てゆけ」と何度もシュプレヒコールがたたきつけられた。それを遠まきにしてじっと見守っていた乗客の間からも「がんばれよ」といった声援もおくられている。
 午前中の弾劾行動を終了し、意気揚々と待機場所に引き上げてきた組合員の耳に「東中野事故の原因究明を求めて」「民営化後初のストライキ」「十万人の足に影響」といったテレビニュースが入ってきた。ニュースでも十二・五ストの意味と影響の大さが強調されており、組合員も改めて自らの決起の大きさを、確認していったのである。

十二・五ストライキを各拠点で闘った組合員は、次のように感想を述べている。

(銚子支部)Sさんは、
「やりきったという解放感でいっぱいである。同時に労働者としてもっとも恥かしいスト破りを買って出たJR総連への怒りはすさまじいものを感じる。このストから得た確信を土台に何度でもストライキに起つ決意が固まったようにおもう。」

(館山支部)笹生支部長は
「ストの興奮が醒めやらぬ六日に支部大会を開催し、大成功をかちとった。出席した組合員の顔は誰れもが晴ればれとし、自信に満ちていた。実力でストをうちぬいた成果の大きさを感じる。」

(木更津支部)の通信員は、
「スト前夜から職場を守りぬき整然と全乗務員がストに突入。久留里線関係は100%列車を止めた。この闘いは九〇年の清算事業団決戦の突破口をこじあけたと言いきれる。」

(勝浦支部)Hさんは、
「スト対象者を先頭に全組合員と事業団、強制配転された仲間が一同に結集し闘いぬいた。JR以降初の運転ストということで多少のとまどいもあったが、不安を吹きとばし貫徹する。.館山ー鴨川間は完全ストップ、外房線も特急列車をはじめ七〇本を運休においこんだ。役員についても、やる気でやれば俺にも出来るという自信がもてたことは大きい。」
(
千葉転)の仲間は

「機動隊まで出てくる中で全力で闘った。俺たちのストが国労の仲間もゆり動かし二名が動労千葉に結集した。二名の勇気には頭が下がる思いだ。彼らを全力で守りぬき二波、三波に突きすすみたい。」

(津田沼)浜野支部長は
「この間支部はほとんどの役員が解雇されたり、事業団に送られるという困難な中でがんばってきた。今も支部破壊が襲いかかっているけど、十二・五をやりぬけた力で、今後大いにたたかってゆきたい。」

 JR移行後初の十二・五ストライキは、当局の必死のスト破りにもかかわらず、全組合員が一丸となって決起し、実に三百五十本を運休においこんだ。
 この闘いによって、激動の九〇年代への“挑戦権”を握りしめることができたのである。

館山支部