「中野イズム」は死なない!


「新潟に城を築け」と励まされ  国労新潟県支部執行委員 星野文男


●受けた教えは計り知れない

 中野さんとの出会いは40年をさかのぼり、1970年に法政大学で開催された反戦青年委員会の産別交流会だったと思う。その後会うたびに「おうっ元気か」と声をかけ叱咤激励をしてくれた。受けた教えは計りしれない。70年安保・沖縄決戦と国鉄5万人反合闘争・生産性向上運動との闘いの中でした。

 「新潟に城を築け」と励まされて、国鉄新潟反戦青年委員会を結成した。以来、「上越新幹線体制合理化反対路線」を打ち出して、動労・革マルの「合理化絶対反対」論のペテンを暴き、激しい党派闘争を闘って勝利してきた。狭山闘争での私を含めて3人の不当弾圧では、国労新潟の日本共産党・革同の除名攻撃をうち破ってきた。激しい闘いの連続だったが、確実に「城」を築いてきたと思う。

 ●労働者階級の勝利の道筋を築く

 中野さんのことを思うと、なんと言っても、船橋闘争で動労千葉の路線的心棒を形成して、国鉄分割・民営化攻撃との2波にわたるストライキを貫き、総評崩壊―連合結成の中で、労組交流センターを結成して闘う労働者の「時代認識と路線」を確立したことを思い返しています。

 新自由主義が蔓延した80〜90年代に、国鉄分割・民営化(外注化)や日経連の「新時代の日本的経営」(非正規職化)に日本帝国主義の狙い(戦争と改憲、民営化と労組破壊)を見抜き、国鉄を軸にした4大産別決戦路線を確立したことです。この路線的確立は、船橋事故闘争から国鉄分割・民営化反対ストライキの地平に立って、日本階級闘争―階級的労働運動の闘いの指針―路線として確立されたということです。帝国主義段階の最末期の大恐慌に突入した今、それは労働者階級の勝利の道筋として光を放っています。

 ●仲間への思いやりと思い入れ

 もう一つは仲間への思いやりと思い入れです。中野さんは何人もの後輩に先立たれてしまっています。吉岡さん、大須賀さんなど、動労千葉の屋台骨を支えてきた労働者が先立って逝きました。地方で見ていても心中察して余りある経験を越えてきました。そんななかで、階級的労働運動の総括軸「労働者の団結―階級の形成」であることをさししめしてくれたことです。それが、仲間に対する思いやりと思い入れだと思うのです。

 三里塚現地でデモが機動隊の並進規制を受けると、まだ小さかった私の子供を自然に抱き上げてくれた吉岡さん。成田現地で重圧をものともせずに闘った大須賀さん。運動の総括軸としての労働者階級の形成は、現場労働者に寄り添った活動家層をつくりだしてきたのだと思います。

 私たち国労の仲間が、夜遅く動労千葉会館を訪れれば、狭い三役室に招き入れてくれて手作りのつまみでもてなしてくれました。どんなに夜更けても、最後は必ず中野さんが後片つけをしていました。「人は石垣人は城」を体現しているようで学ばされました。

 ●動労千葉派の城を築く

 新潟に初めに来ていただいたのは佐藤芳夫(元中立労連議長)さんでした。分離・独立後に来ていただいたのは関川元委員長でした。中野さんが新潟の地を踏んだのは、91年の新潟交流センター結成総会と05年の2回でした。もっと早くから何度も来ていただいていたらと悔やまれます。そうできなかった分を、私たちが新潟に動労千葉派の城を築くことで弔いにしていきたいと思います。51年国労大会や57年新潟闘争など「新潟」にこだわった中野さんの国鉄労働者としてのスタートも新潟の鉄道学園です。「中野イズム」スタートの地に、2010年国鉄1047名闘争の分水嶺を期して、階級的労働運動の中核を担う国鉄労働者の階級的団結を形成することで遺志を継いでいきます。

中野さんの思い出   新潟交流センター事務局長 牧絵孝栄


 3月8日、動労千葉を支援する会・新潟の阿部啓輔さんとともに中野洋さんの告別式に参列した。交替で運転しながら、中野顧問との思い出を語り合った。振り返ると私は、動労千葉に光りを感じて、中野さんによって導かれてきたと言えるし、それは偶然ではなく必然であった。それを思い出すことは、中野さんの遺志を継いで闘っていくために必要なことであると考えた。

 ●労農連帯に光りを感じて

 私が「動労千葉」を知ったのは、1977〜78年成田空港ジェット燃料貨車輸送阻止闘争の頃である。

 私は、上越市役所に就職して組合活動を始めたばかりだったが、県庁前(現新潟市役所)での県評青年部秋闘集会に動員参加した時に動労千葉の闘いを知らせるビラをもらい、「全人民の未来かけて」という見出しに心が揺さぶられたことを覚えている。中学生の頃、テレビで見た三里塚農民への機動隊の暴力に憤りを感じていた私は、農民に連帯し、自らの首をかけて成田空港のジェット燃料貨車輸送阻止を闘う動労千葉に共感をいだいた(当時は燃料パイプライン完成しておらず貨車輸送)。

 その前後では、松崎明ら革マルが牛耳る動労本部は「三里塚闘争と一線を画する」として動労千葉地本をつぶすことに躍起となっていた。私が幹事をやっていた上越地区労青婦協定期大会でも、動労・革マルが「動労千葉の闘いをどう思うか」と社会党・総評系指導部の反動的言辞をとろうと画策した。私は「動労(本部)の言うことはおかしい」と発言した。この発言が気に入らなかった動労・革マルは「意見が聞きたい」と後日スナックに私を呼び出し、数人で取り囲んで恫喝してきた。その席を立った私は、その後彼らとの非和解的な対決に入った。79年動労千葉は、動労・革マルの武装襲撃をうち破り、分離・独立する。

 「三里塚闘争は過激派の運動」として労働組合が「一線を画する」ことは、ブルジョアジーの農民への暴力を容認することであり、それは労働組合を利己的な存在に切り縮めるばかりか、自らがストライキなど実力で闘うことの放棄=転向であった。これはその後の国鉄分割・民営化の中で明瞭になる。 

 一方でこの頃は、戦後高度経済成長が行き詰まって74―75年恐慌となり、民間大資本は「リストラクチャリング(事業再構築、今の首切り=「リストラ」の語源)」という名の大量解雇を強行した。それは「希望退職者の募集」という形の個別面談による退職強要であった。これを許さないために私は、日本ステンレス工場門前(現住友金属)の支援集会に度々参加したが、社会党・総評系労組幹部は次々と屈服を重ねた。また自分の職場でも、清掃業務などの民間委託=民営化が開始され、同じ屈服が進んだ。私はこの現状を突破しようと、ストライキ方針を組合大会などで提起して社会党・総評系労組幹部と激突し、一時は執行部が総辞任するまで追いつめた。また三里塚現地集会や動労千葉支援集会に参加するようになり、遠くから中野さんの演説を聞くようになった。社会党の活動家は、私を「過激派」「浮いてういてどうしようもないやつ」というレッテルを貼り、ほとんど孤立状態だったが、動労千葉が放つ光りに確信をもつようになった。

 ●国鉄分割・民営化の大決戦

 この数年後、87年国鉄分割・民営化の大決戦を迎える。これは戦後労働運動の軸=国鉄労働運動の壊滅をねらう新自由主義の歴史的大攻撃だった。連日のマスコミを使ったヤミ・カラ、「国鉄=国賊」攻撃に、社共を軸とした国労幹部は完全に震えあがった。私を取り囲んだ連中は資本の犬に成り下がり(現JR総連)、「過激派」と非難した連中は「タコつぼ」に入ってまったく闘わなかった。まさにここが「日本労働運動、日本階級闘争の分水嶺」だった。

 こうした情勢の中で、組合員の解雇と家族の生活の問題をかかえながら、国家権力の弾圧などすべての重圧を引き受けて中野さんは、動労千葉1100人と85〜86年2波のストライキを闘いぬいた。スト前の日比谷野音で行われた支援集会における委員長としての中野さんの発言は、全労働者の未来かけてストに決起することを語る力強いものだった。まさにこのストは「日本労働運動の金字塔」であり、このスト支援に新潟の闘う国鉄労働者も総決起した。

 この時の指導者としての中野さんの苦闘は『俺たちは鉄路に生きる2』に語られているが、07年9月交流センター拡大全国運営委員会で、「労働者の団結はすばらしい。ここにいるみんなはそれを感じたことがあるのか。俺は分割・民営化のストの時に組合員に教えてもらった」と語られた。現場労働者を信頼し、自分の階級に対して謙虚だった中野さんらしい発言だった。

 ●交流センター結成と路線闘争

 ところで、私が中野さんに真近に接したのは、91年12月15日新潟県労働組合交流センター結成総会だった。

 国鉄分割・民営化が強行された翌88年に新潟の闘う国鉄労働者やマスコミ労働者が中心となって、「労働運動の新たな発展をめざす6・26県集会」を開催した。それを契機に連合結成の動きに抗して「新潟県労働者交流会」を結成した。前々年より動労千葉物販の取り組みも開始され、県内の隅々まで回り始めた。そして89年に「全国労働組合交流センター」が中野さんと元中立労連議長・佐藤芳夫さんの呼びかけて結成され、新潟県労働者交流会は「新潟県労働組合交流センター」として発足する準備が開始された。そして91年12月に中野さんを記念講演に招いて結成総会が開かれた。

 そこで中野さんは、51年国労新潟大会(平和4原則採択)、57年国鉄新潟闘争の意義を明らかにし、「新潟は歴史の曲がり角の時に出てくるところだ。そういう伝統がある。それを経験した新潟の人々はそれゆえにさまざまな影響を受けたと思うけど、そういうことをやった新潟の労働者であるという誇りと確信をもって進むべきだ」(『新潟交流センターニュース』aD2)と叱咤激励した。今日に至る階級的労働運動への取り組みが開始されたのである。

 しかし一方では、この総会では労働者階級の革命性を否定する〈糾弾主義・血債主義〉の姿があらわとなった。それに対して中野さんは懇親会で「俺にいろいろ言うのは良いが、あれはまちがっているぞ!」と怒りをあらわにされていた。その当時から中野さんは、彼らの中にあった労働者を軽んじ蔑むものを直感しておられた。私はその意味がよくわからなかったが、その後の展開は中野さんの指摘のとおりになった。

 彼らはその後ますますエスカレートし、「労働者は敵だ!」「労働者の賃金・労働条件の改善は差別・排外主義だ!」「日本の労働者は腐敗しており、まず外国人労働者問題や被差別人民の闘いを取り組むべきだ!」とまで言い始めた。それは、交流センターが動労千葉を軸に労働運動の再生を切り開き、労働者階級の壮大な決起を引き出すことへの小ブルジョア的反発と恐怖だったが、最初その本質は見えずらかった。しかも分割・民営化後、多くの単産が89年連合結成に雪崩れ込み、労働運動と労働者階級への絶望が広がっていくという時代的背景があり、異議をとなえることは大変だった。

 しかし、57年国鉄新潟闘争の戦闘性を引き継ぎ、70年安保・沖縄闘争、動労・革マルとの熾烈な闘い、分割・民営化反対闘争を担った国鉄労働者の階級的な魂が反撃のバネになっていく。94年には、パンフ『戦後労働運動と1957年国鉄新潟闘争―高山克己編』を発行し、労働者自己解放闘争の不滅さと革命的エネルギーを明かにしていった。「平成採」との接点をもち始めていた私は、このままでは労働者自身の闘いが圧殺される≠ニ思い、共に反撃を開始した。新潟で顕在化した路線闘争は、交流センター関係の共闘団体も巻き込んで、中央レベルでも90年代から激しく展開されていくが、私たちは全国的にも「少数派」だった。

 この私たちの主張・立場を一貫して支持し、叱咤激励し、中央での路線闘争を展開してくれたのが中野さんだった。この過程では、私は中野さんに厳しく叱責された。それは路線闘争に勝つためであったが、中野さんは活動家には厳しかった。

 この問題は、最終的に07年暮れから08年1月の交流センター内の関西・松田グループの脱落となっていった。この決着がついた後、同年9月に中野さんにDC会館でお会いした時に、私に「お前ら新潟も頑張ったよな」と声をかけられた。この路線論争と国鉄をはじめとする実践面での苦闘は、ついに階級的労働運動路線としてもぎとった。中野さんの奮闘がなければ、階級的労働運動路線、交流センターもなかった。10数年に及ぶこの試練は極めて重要だった。なぜなら社共など全党派が、労働者階級と労働運動への絶望を越えられず、今日、国鉄1047名闘争の奴隷的屈服の道を歩んでいるからだ。

 ●最後の全国行脚=05年新潟講演

 この決着がつく直前、05年4月に中野さんを講師に招いて「元気を出そう労働組合!今こそ出番だ!4・17新潟集会」を開催した。その頃から中野さんはからだの不調を訴え、全国行脚の最後の講演となった。「労働者の団結こそが時代を変える原動力だ」と題した講演で、「マルクスは労働者に光り当ててくれた唯一の人物」「労働者は労働運動、ストをやって人間として誇りを持てる」「労働運動を自らの天職に」と、労働運動の核心、労働者に生き方を提起した。これは今、新版『甦る労働組合』で展開されている。

 マルクスは、労働者を「救済の対象」とはみなかったし、自分を「エリート」と考えず、「偉大な指導者」と賛美されることを望まなかった。望んだのは、資本主義の変革と階級支配を廃絶する主体=労働者が自己の力に目覚めていくことだった。だから「最も恐ろしい飛礫」(マルクス)として『資本論』で剰余価値の搾取を暴き、社会主義への道を明らかにした。また第一インターナショナルの中で、労働者の「成功の要素」が「団結」にあり、それを形成する道が労働組合であると述べた。

 まさに中野さんは、そんなマルクスが大好きだった。その生涯は、最も苛烈な階級闘争の現場でマルクス主義を貫き、深化させ、階級的労働運動路線を創造し、私たちを導いてくれた。

 ●「中野イズム」は死なない!

 まだまだ思い出すこともあるだろうが、別の機会に譲りたい。

 『月刊交流センター』10年1月号で辻川慎一・全国労働組合交流センター代表は「中野イズム」ということばを使っている。私はあえて使っていると思うが、それは、スターリン主義の裏切りをのりこえて自己解放を求める労働者階級のエネルギーが生みだした革命をめざす労働運動の本格的な登場である。

 「中野イズム」は、不屈に受け継がれている。何よりも世界大恐慌の中で、1047名解雇撤回・検修外注化阻止大決戦を闘う動労千葉の中に。また全国交流センターの中に、そして新潟交流センターの中に脈々と受け継がれている。何よりも青年労働者が動労千葉労働運動に学び、職場生産点で実践している。これが2000万青年労働者の怒りと結合して壮大な決起を引き寄せようとしている。それをブルジョアジーや小ブルジョア、ファシストどもが阻むことなど絶対にできない。それは、米韓労働者が寄せた弔辞にあるように、民主労総ソウル本部、ILWU(国際港湾倉庫労組)の労働者の中に受け継がれていることを見ても明らかだ。

 中野さん! ありがとうございました。本当にお世話になりました。 私はあらためて誓います。あなたが切り開いた、教えてくれたこの地平を心に刻み、労働者自己解放闘争の勝利を絶対にもぎ取ります。勝利の日まで見つめていてください。