反合・運転保安闘争路線―出発点としての船橋事故闘争
労働学校講演 布施宇一
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労働学校会場には中野前委員長の遺影が掲げられた |
6月26日の労働学校実践講座は、布施宇一顧問の講演と併せて受講生・卒業生のよびかけで中野洋前委員長の偲ぶ会が行われた。布施顧問の追悼講演の要約を掲載する。
「反合・運転保安闘争路線」とその出発点としての「船橋事故闘争」ということですが、71年の反マル生闘争から77年の三里塚ジェット闘争、この間に私はどういうことをやっていたのかを話すのが一番いいのかなと思います。運転士の仕事をやりながら、非専従で組合活動をしていたこの5年間位が、私がここまで来る原点であったし、そこがあったからここまでやってこれたとも思います。
「マグロ」―反合・運転保安闘争
この間、OB何人かで雑談していたら、自然と「マグロ」の話になった。列車に轢かれて死んだ轢死体のことです。みんなその話は一つや二つ持っている。私も4つあります。一番最初は機関士の時だけど、一番ひどかった。千葉から郵便列車を運転して、木原線(現いすみ鉄道)の大多喜まで往復する仕事の帰りに飛び込み自殺をやられた。すぐ降りて機関士と車掌と3人で見に行ったら頭がない。グチャグチャで、しかも亡くなったばかりだから、死体がブルブル震えている。3人とも立ちすくんだ。死体を線路の外に出してみると、足が膝の下からとれて骨がむき出しになっていた。
運転士の心理としては、自分がいつそこにぶつかるか分からないというのがある。突きつめれば、むごたらしい死体を見て、自分もそうなるかも分からないという立場で仕事をしている。安全問題、運転保安というのは運転士、機関士という職種にとってはそういう問題なんです。場合によっては命までとられるような仕事をやらせておいて、安全設備にろくな手入れもしないで、合理化でどんどん輸送力を増やし、事故問題は本人の責任にされている。そういうなかでおきた船橋事故は、76年に反動判決が出て、それまでの国鉄の例で言えば、当該者は懲戒免職か、依願退職が普通だったけど、高石君はそうさせなかった。そのことは運転士をはじめとする現場の労働者にとって、極めて衝撃的事実としてあった。運転士に全部責任をかぶせようとすることに対し、正面から闘う連中なんだと、説明しなくても分かる闘いとしてみんなの前に示した。反合・運転保安闘争という時、そこに勝利したことが、動労千葉がここまでくる大きな出発点になっていると思います。
日常の職場闘争
70年頃の国鉄は、半分かそれ以上が45歳以上で、この世代の人たちに動員に行ってもらわないと地本の動員の数はとてもこなせない。オルグは自分の話を聞いてくれる人だけやっていたら、動員に出てくる人もだんだん少なくなるし、運動の前進もない。むしろ自分の言うことを聞いてくれない人に一生懸命やらなければいけない。だから否が応でも話をする。反マル生闘争の時には年齢的なギャップというか、対立、そういう要素がものすごくあって、年輩者はなかなか言うことを聞いてくれなかった。だけど船橋事故の裁判闘争の動員に行ってくれと言うと、これは仲間のことだから行ってやるか、みたいな雰囲気があった。当該の運転士を原職に復帰させたことの評価は、口に出していわなくても、彼らの間でもものすごく高い。そこを切り口に話を積み重ねていくと、いろんな動員に出てくれるようになった。
そういう年代の人たちの中には、戦後革命期の闘争を体験している人たちもいる。2・1ストのあと、ある共産党の人が職場から突然いなくなった。職場の労働者からすれば、信用してやっていたらある日突然、「何も指令が来なくなって、下からどうなっているんだと言われて立場がなかった。よっぽど鉄道を辞めようかと思ったけど、俺も生活があるから辞められなかった」と、そういうことを直接言われたのは1人か2人だけど、「党派の人たちは勢いがいい時にはいろんなことを言って、調子悪くなるといなくなっちゃうけど、俺たちは現場から離れられないんだ」、だから、ホイホイ言うことなんか聞いてられないよ、というのが相当強烈にあった。
また、「戦争では、後ろから撃たれる奴だっていっぱいいる」とも言われた。いい気になって後ろをちゃんと見ないとやられるぞ、ということを言いたかったわけだ。現場の労働者にすれば、そこの職場で生活していくことを大事にしなかったら誰も言うことを聞かないよと。それぞれ生活があって、家族があって、信じるもの、守るものがある、そのことを無視して言ってもダメだということなんですね。「一緒に鉄道に入ったあいつは助役になったけど、奴の言うことの方がお前らより信用できる」というような人間関係、信頼関係、そういうことも無視しちゃダメだと思うんだね。間違っていることは間違っていると言わなければいけないけれど、生一本に「正しいんだからついてこい」だけじゃ人は言うことを聞かない。それが職場生産点というものだと思うんだよね。また、どんなに熱心にやっても、原則を曲げたら、やはり最終的には獲得できない。基本的な考え方としてはそういうことだと思うんですよ。
事故問題は労働運動の課題―責任は資本の側にある
事故は、どこかで間違いがなければ事故にならない。だけどミスしない人なんて1人もいない。労働者が一つ二つミスしたって事故につながらないように、安全のための手立てをとる義務が会社、資本の側にある。そういう立場に立たないと、反合・運転保安闘争は成り立たない。
今、医療や介護現場のいろんな事故が報道されるけど、過重な労働を現場にやらせておいて、事故が起こった時だけ当該労働者の責任だなんて冗談じゃないという気持ちは、どこの職場にも共通してあると思う。しかし、そのことを労働運動の課題として真正面から取り上げて、団結で立ち向かうというふうに組織した労働運動というのは、私が知るかぎりない。
09年度だけで10万人からの人が死傷災害にあい、毎年1千人以上の人が労働現場で死んでいる(厚生労働省資料)。資本の側は、安全設備を一つひとつはがし、労働者の注意力だけが頼りの、そこが崩壊したら即事故というようなやり方をしてくる、それが合理化だと思う。「儲かればいい、事故処理等で利潤が吹っ飛ばない程度に手当てすればいい」というのが資本家の構え。危険が増すことは彼らも承知しているから、労働者に精神教育する。尼崎事故もそうだ。
そういう労働を強制した会社側に責任がある。そういう立場に立たなかったら労働者は守れない。船橋事故闘争は、その一番最初の道を切り開いた闘いとして決定的な意味があると思うんですね。
事故―資本への怒り
JRになって動労千葉が初めて列車を止めるストライキをやったのが89年の東中野事故一周年の12・5スト。87年にJRが発足して、翌88年12月に東中野事故が起きた。
津田沼電車区に行くと、職場全体が沈んじゃってる。庁舎に入っていくと、現場長以下、真っ青。そこで職場集会をやったわけですよ。中野委員長が「こんなことで動揺するな。こんなことをやらせたのは当局だから、もっと怒れ」と演説をぶった。俺は職場集会を現認させないために区長室に区長と助役を閉じこめて、「この雰囲気を見てみろ。こんな事故起こして毎日、新聞に叩かれて、このままでいたらまた事故を起こすぞ」「そういう流れをどうやって止めようと思っているんだ」と聞くと、区長も主席助役も何も言えなくて下を向いている。それで「こういう時は怒らせるしかないんだよ。みんなをふざけんじゃない≠ニ怒らせれば、緊張するし、ちゃんと仕事をやる。お前らにはできないだろうから、俺たちの方でやる」と。実際、どこの組合員だろうが、また同じような事故をやらせるわけにはいかない。こんなことをやらせたJRに対して怒れと。みんな腹の中ではそう思っているんだから。
事故に対しての怒りは、事故がなければ沈静化しているけれど、地下のマグマみたいにいつも労働者の中にある。そのことを正しく解放すれば、資本主義打倒ということも含めて、必ず勝てる。そういう大きな基盤が職場の中にあることに確信を持つべきだと思うんですね。そこから外へも、内へもいろんなことやることを積み重ねて、初めて労働者の本当の解放みたいな地点に到達することができると思うんですよ。職場に依拠すれば、必ずどこかで穴を開けられる。突きぬける、そういうのがあると思います。
小林多喜二の小説で、舞台は北海道の石狩川だと思ったな。そこの農民が土地を地主にとられて、町に出て工場に就職したら、機械に巻き込まれてノシイカみたいになって出てきたという表現があるんだよね。これは1910年代に書かれた小説だけど、今ワーキングプアや貧困で毎年3万人の自殺者が出る状況で、百年前の労働者の現実と、尼崎事故で当該運転士1人だけが慰霊の列から外される―労働者がそういう扱いを受ける現実と、どれだけ違うのか。やはり資本主義が資本主義である限り、その本質は変わらないと思う。
職場生産点に依拠する
労働運動というのは、職場生産点の1人1人の労働者に依拠する、船橋事故闘争みたいに労働者が納得できる課題、そういうものを愚直にやることの積み重ねの上にしかできないと思う。
動労千葉は小なりと言えども唯一分割・民営化反対でストライキを打てた。それは、原則的な闘いを職場生産点で積み重ねてきたことがあって初めてできた。動労革マルと対決して、ほぼ丸ごと1400人で分離独立することができたのも、労働者が本当に困っている問題に職場できちんと正面から向かい合うことの積み重ねの上で初めて可能だった。原則を曲げないで、これだ、ということを積み重ねていく。どんな労働現場だって必ずそういう問題はあるはず。いろんな試行錯誤もあると思いますけれど、ブレそうになったらいつも基本の原則に修正していく、そういう闘いを愚直に積み重ねていくことだと思います。
闘う労働者の隊列を
最初はあんまり気が進まなかった話をしているうちに、いい機会を与えてもらったのかなという気がしています。私は職場のオルグで何回もはね返されたけど、最後には結構多くの人が三里塚まで出てくれるようになった。マル生の時も分割・民営化の時も、このまま渡りきれるか、大変な不安もあった。だけど、団結を守って今日まできている。これまで闘ってきたこと、この先に労働者の未来があるといういうことを話すことができる。この先、次の世代がこうした話ができるような運動体、組織であってもらいたい。そのためには動労千葉と同じような闘う労働者の隊列がちゃんとあることだと思う。そこに向けて6・13でひとつの出発点、橋頭堡を作りあげた。ここにかけて、交流センターとか三労組共闘、11月集会とか国際連帯も含めて、みんなで盛り上げてもらいたいと切実に思います。
【質疑応答の中から】
若い力
さっき1つだけ言い忘れたことがあります。やはり闘争をワーッと盛り上げるのは、若い力。闘争目的がハッキリしていて、最終的には組合の方針でやるということがきちっと押さえられていれば、そういう突っ走る若さが絶対に必要。船橋事故闘争はどこで火がついたかといえば、70名の職場の順法闘争。やる前は当局も70人で何が出来るんだと軽くみていた。そういう状況を職場から突破しちゃった。そういう雰囲気ができると職場の力関係が一変する。
だけど順法闘争が出来るようになったのは70年位から。私が支部の役員になった頃は、ストライキやってもまだ脱走する奴がいっぱいいた。公労法で3公社5現業のストライキが禁止されていたから、処分を恐れて、特に年輩者を中心になかなか参加しない。だけど船橋事故闘争で青年部が突出して順法闘争やって、それでたいした処分もされなかった。それを積み重ねて力関係を作っていって、最終的にはみんなやるようになった。最初はできた支部もあればできない支部もある。そういうことも含めて、戦略的にどう方針を出すかという指導部の姿勢、頭の中と生産点がちゃんとつながっていることが本当に大事なことだと思います。
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