home page 日刊動労千葉 前のページに戻る

No.

『蟹工船』ブームが示すもの
―闘う労働組合を時代の最前線に
6・29サミット闘争に向けてD

 小林多喜二の小説、「蟹工船」がものすごいブームになっている。130万部を突破したというのだからすごい数だ。なぜ、80年も前の小説が今?。
 小林多喜二は日本を代表するプロレタリア文学の作家で、「蟹工船」が書かれたのは1929年。その4年後に特高警察に逮捕され、その日のうちに拷問によって築地署で虐殺された。
 若者たちが圧倒的な共感を寄せているという。派遣などで酷い境遇に置かれている若者が「俺たちの職場の現実と同じだ」と言い始めたことからブームに火がついた。「仲間が団結して立ち上がれたことがうらやましい」とも言う。
 そして、秋葉原事件。未来も希望も打ち砕かれた現実の中から、怒りの声が巨大なマグマとなって吹き出そうとしている。今、問われているのは労働組合だ。

「蟹工船」はこんな本だ

 「おい、地獄さ行ぐんだで!」…函館や秋田、青森、岩手から集められた400人の漁夫や火夫、年若い雑夫たちが「くそ壷」と呼ばれる蟹工船・博光丸の船底に詰め込まれて、ソ連領・カムチャッカに向けて4ヵ月の漁に出航する。蟹工船団は帝国海軍の駆逐船が護衛している。
 蟹工船は「工場」であって航海法は適用されなかった。かといって工場法の適用にもならなかった。苛酷な労働条件と粗末な食事。横暴で卑劣な監督・浅川。
 監督は作業の遅い漁夫や雑夫をかたっぱしから殴りたおす。同じ蟹工船団からのSOSも無視して見殺しにする。「もったないほどの保険がかけてあるんだ。ボロ船だ。沈んだらかえって得するんだ」。嵐の中、川崎船(母船に積んである小舟)を出すことを命じ、行方不明になった川崎船を見捨てる。脚気にかかった漁夫を放置して死なせ、汚れた麻袋に入れて海に捨てる。「カムサッカのしゃっこい水さ入りたくねえ」「麻袋の中で、行くのはイヤだってしているようでな……」。殺されてたまるか!・・バラバラだった怒りの声がひとつに団結していくのには、もう時間はかからなかった。
 それに、見捨てられた川崎船は、実はカムチャッカの岸に打ち上げられ、ロシア人の家族の家で二日間を過ごし、片言の日本語で伝えられた素晴らしい希望をもって帰ってきた。「プロレタリア、いつでも、これ(首をしめられる格好)これ、駄目! あなた方、一人、二人……百人、千人、五万人、十万人、みんな、みんな、これ(手をつないだ真似をしてみせる)強くなる。大丈夫。負けない、誰にも。分かる?」。…労働者は団結して闘えば勝利できることを教えられ、「やるよ。キットやるよ!」と約束して帰ってきたのだ。
 そしてついにストライキが決行された。だが、そこにやってきたのは駆逐艦だった。多くの者は「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」と思い込んでいた。ドヤドヤと出てきた漁夫たちは「帝国軍艦万歳!」を叫ぶ。だが、乗り込んできた水兵たちは着剣し、あごひもをかけている。「しまった!」首謀者7名は有無を云わせずに連行された ……。

団結した力は決して打ち砕かれない

 「蟹工船」のストーリーはだいたいこんな感じだ。そして「蟹工船」は、新たな希望と展望を照らして終わる。少し省略してあるが、最後は次のように結ばれる。

 「俺達には俺達しか味方がねえんだ」 
 それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。…「今に見ろ!」…ストライキが惨めに破れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」とばかりに、苛酷になった。限度というものの一番極端を越えていた。今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。… そして、彼らは、立ち上がった。…もう一度。
 この後のことについて、二、三つけ加えておこう。二度目も完全な「サボ」(サボタージュ)はマンマと成功したということ。…「サボ」をやったりストライキをやった船は、博光丸だけではなかったということ。二、三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出たこと。… そして、「組織」「闘争」…この初めて知った偉大な経験を担って、漁夫、年若い雑夫等が警察の門から色々な労働者の層へ、それぞれ入り込んで行ったということ。

  時代は変わろうとしている。怒りの声は社会の隅々まで満ちている。今こそ、闘う労働組合を時代の最前線に登場させよう!

大失業と戦争の時代に通用する新しい世代の動労千葉を創りあげよう!
 
ページの先頭に
前のページに戻る