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千葉運転区支部・荘司 仁副支部長を追悼する
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昨年5月の動労総連合定期委員会で議長を務める荘司仁さん |
昨年12月31日、千葉運転区支部・荘司仁副支部長が急逝されました。当日は大晦日の終夜臨時列車を担当する予定でした。しかし、就寝中、心筋梗塞の発作におそわれ、その日のハンドルを握ることもなく帰らぬ人となったのです。責任感の強かった荘司さんらしく、枕元には三つの目覚まし時計が置いてありました。享年四八歳。あまりに突然の、早すぎる悲報に言葉を失い、未だに信じられない思いで哀しみの底に沈んでいます。
荘司さんは、1978年に国鉄就職し、郡山機関区に赴任。その後、地元千葉に戻って成田運転区、津田沼電車区、千葉運転区で機関士・運転士としてハンドルを握る一方、組合運動でも、津田沼支部長や本部乗務員分科会事務長を歴任されるなど、その姿はいつも闘いの中心にありました。また、休みをとっては物販の全国オルグに出向いたり、一昨年には支部を代表して訪韓団に参加するなど、その活躍の場は全国各地に及んでいました。昨年12月には千葉運転区支部副支部長に新任されたばかりで、「支部のニュースを出そう」「来年は絶対組織拡大を実現しよう」とはりきっていた矢先の突然の訃報でした。
とくに荘司さんは組織拡大の闘いの先頭を担っていました。平成採の若者に声をかけては話をし、飲みにいき、労働学校に誘うなど、その取り組みは、千葉運転区で絶対組織拡大を実現するんだという決意を漲らせたものでした。
荘司さんは、生真面目で、出しゃばることをせず、もの静かな性格でしたが、その一方、人一倍正義感が強く、絶対スジをまげない強い信念の持ち主でもありました。いつも黙々と縁の下の力もちとなり、組合の行動には、勤務でない限り必ず荘司さんの姿がありました。人の嫌がる仕事も嫌な顔ひとつせずに率先して担っていた姿が今も脳裏を離れません。
荘司さんがいつも訴えていたのは、団結することの大切さであり、仲間を裏切らないことでした。ご遺族の話によれば、「団結」と書いて折り畳んだ紙が定期入れの中に入っていたそうです。
また、誰からも好かれる気さくな性格で、仲間と酒を飲むことを何よりも楽しみにし、カラオケが大好きでした。
いよいよこれからというときに、いつも闘いの中心にいたあなたを失うことは、返すがえすも無念でなりません。しかし、在りし日の姿はいつまでも私たちを叱咤激励しつつ心の中に生き続けることでしょう。私たちは、志半ばにして倒れたあなたの遺志を引き継いで、動労千葉の発展のためにこれまで以上に闘いを強化する決意です。
荘司さん、安らかにお眠り下さい。そしていつまでも動労千葉を見守って下さい。
1月14日、13時から、DC会館において、「08年動労千葉弁護団総会」が開催された。
弁護団総会の冒頭、葉山弁護団長からは、「サブプライムローン問題で世界中の経済が崩壊する状況の中で、日本では改憲・戦争への道を突き進んでいる。こうした時に動労千葉のような闘う労働運動が求められている。07年の闘いの成果を踏まえ、全力で闘いぬこう」と訴えた。
動労千葉からの状況報告が田中委員長から行われ、08年の課題として、@組織拡大に全力をあげる、A1047名闘争勝利に向けて2月17日に集会を開催する、B闘う労働運動の復権に向けて全国に労働学校・共同センター建設運動を展開する、C当面08春闘を全力で闘いぬくことが提起された。
つづいて、各事件について担当弁護士からのレポートと討論が行われた。とくに、1047名闘争をめぐって「4者・4団体」が民主党に「白紙委任」するという状況に対して議論が集中し、原則的に解雇撤回に向けて闘いぬくこと、鉄建公団訴訟で「不採用基準」について徹底して追及すること等をあらためて確認した。
また、「褒賞金支払事件」が最高裁で組合側勝利で確定したことはスト権との関係でも重大な勝利であることを確認し、現在闘われている「安全運転闘争介入事件」の勝利へ向けて全力を挙げることを確認し、08年動労千葉弁護団総会は、成功裡に終了した。