若い仲間たちへ!
動労千葉に結集しともに闘おう!
安全軽視、責任転嫁への怒り
尼崎事故という重い現実を前にして、今われわれに求められていることは何か。「闘いなくして安全なし」のスローガンに込めてきた労働運動の原点に改めて魂を吹き込むことだ。
動労千葉は、いつの時代も変わることなく、反合理化・運転保安確立の闘いをわれわれの原点として位置づけてきた。安全を無視・軽視し、ひと度事故が起きればその責任の一切を労働者に転嫁し、多数の人命を奪った当局への怒り、悔しさ、「明日はわが身」という切実な思いこそ、その根底にあるものだった。鉄道に働く労働者である以上、誰ひとりとして「事故」という現実から逃れることのできる者はいない。常にその責任を一身に負わされ、犯罪者のように扱われる。最悪の場合は生命を失うか、逮捕、首を切られる。これがわれわれの現実だ。
運転保安闘争は、こうした現実のなかで働くわれわれの怒りの声そのものであり、労働者としての誇りをかけた闘いだ。
鉄道の労働組合運動の出発点
戦後、鉄道の労働運動は、1962年の三河島事故、翌63年の鶴見事故に対する怒りの声のなかから始まった。
160名の生命を奪った三河島事故の後、国鉄当局は、「労使で事故防止対策委員会」を設置するという方針を打ちだした。それは今回のJR西日本と同じで、世間向けのその場しのぎに過ぎなかった。国労や動労はこの提案を受け入れて協定を結んだが、現場からは「当局とテーブルを囲んで話し合って安全が守れるか」という怒りの声が沸き起こった。その後開かれた動労の全国大会では、本部が結んだ「事故防止対策委員会」の協定に反対意見が続出し、協定は締結承認を拒否されたため、執行部は総辞職。これが労働運動の大きな転換点となったのである。
しかし、以降、その思いは裏切られ続けた。10年後、1972年の船橋事故のときには、「労働者への事故責任転嫁粉砕」を掲げて起ちあがった千葉地本の闘いに対し、本部は、「多くの負傷者がでているのに事故が労働運動の課題になるわけがない」と対応したのだ。
だがわれわれは、組織内からのこうした 反動に抗して何度ものストライキや順法闘争をはじめ、組織をあげた闘いに起ちあがり、高石さんの職場復帰を実現したのだ。
生命をかけたスローガン
「闘いなくして安全なし」のスローガンは、もともと炭労のスローガンであった。たび重なる落盤や炭塵爆発などで多くの仲間の生命を奪われ続けた炭鉱労働者は「抵抗なくして安全なし、安全なくして労働なし」のスローガンを掲げて闘いに起ちあがり、労働組合が安全と確認するまでは炭坑に下りない権利を労資協定としてかちとったのである。
しかし、1960年、戦後最大の争議といわれる三池争議に敗北し、炭労がガタガタにされ、それまでの協定が破棄された結果、わずか3年後、三川鉱での大炭塵爆発で、500名近くの労働者が一瞬にして生命を奪われた。
「闘いなくして安全なし」は、まさに労働者の生命をかけたスローガンであり、労働運動の死か、再生かをかけたスローガンなのである。
闘いなくして安全なし!
そもそも資本主義社会において、直接的な利益を生まない保安部門への設備投資や必要要員の配置などを、企業が無視・軽視するのは当然のことであり、労働者の抵抗や労働組合の闘いがあって、初めてそれを強制することができる。競争原理と安全は、絶対に相入れることのない水と油の関係だ。その意味で、運転保安闘争は、企業と最も鋭く対決する闘とならざるを得ない。
とくに、競争原理主義が社会全体をおおう状況のなかで「安全の崩壊」は、重大な労災事故や企業不祥事の多発など、社会全体の問題となって矛盾を噴出させ、労働者の生命を奪い続けている。今ほど「闘いなくして安全なし」のスローガンの重要性が問われているときはない。
職場に団結を取り戻そう
国鉄分割・民営化とは何だったのか。その過程で20万人の国鉄労働者が職場を追われ、嵐のような組合潰しの攻撃が吹き荒れ、200人が自殺追い込まれた。当時の動労本部(現在の東労組)はこの攻撃に屈服し、裏切って、首切りの手先となった。
この時動労千葉は「国鉄を第二の日航にするな」のスローガンを掲げ、首かけてストライキに起ちあがった。丁度御巣鷹山に日航機が墜落して何百人もの乗客の生命が奪われた直後であった。われわれにとって分割・民営化反対闘争も運転保安闘争だったのである。そして18年、その危惧は最悪の形で現実となってしまった。
運転保安確立の闘いを軸とした職場闘争−職場の力関係を守りぬく闘いこそが、いつの時代のも変わることのない労働運動の原点であり、団結の基礎だ。事故を防ぐ唯一の手段は、職場に団結を取り戻し、労働組合を再生することだ。
▼千葉転での不当解雇を許すな!
▼職場に団結を取り戻そう!
▼動労千葉に結集し、ともに闘おう!
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