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千葉支社は、総武緩行線6分40秒の運転時分短縮計画を撤回しろ

すでに衝突が4回!これ以上の事故はご免だ

ストライキで反撃に打って出よう!

 千葉支社による総武緩行線で千葉〜お茶の水間で最大6分40秒の運転時分短縮は、運転保安を根底的に解体しようとするものだ。
 総武緩行線は、首都圏最大の動脈として、朝夕のラッシュ時には2分30秒間隔で列車が運転されている。後続の列車は、先行する列車の後部標識(尾灯)を見ながらの運転になっているのが現状だ。
 列車は、60q/hで運転中の場合、ブレーキをかけてから停車するまで200bが必要になる。このため、運転士は前方の信号機と列車の後部標識をにらみながら、常に極度の緊張を強いられながら列車を運転しているのだ。一瞬の判断の誤りが事故につながってしまうということだ。
 こうした状況にもかかわらず千葉支社は、「ラッシュとは逆山だから運転時分を短縮できる」「209・231系電車は加速、ブレーキ性能も良く、これで1分短縮できる。その他には停車時分を見直せば6分40秒は可能だ」などということを言っている。しかし、ラッシュと逆山であろうが運転士が極度の緊張を強いられるのは同じだ。机上では簡単に運転時分を短縮することは簡単かもしれないが、実際に運転する側にとっては決定的に重大なことなのだ。
 われわれは、千葉支社による総武緩行線における6分40秒の運転時分短縮を絶対に認めることはできない。

運転保安闘争で仲間を奪い返す

 総武緩行線では、これまでに
 1964年 東中野駅
 1972年 船橋駅
 1980年 東中野駅
 1988年 東中野駅

と、4回もの列車衝突事故が発生している。
 この中で1972年の船橋事故では、動労千葉所属の高石運転士がその場で逮捕され、起訴されるという事態が発生した。 この時、当時の動労千葉地本は、事故の責任は、国鉄再建10カ年計画の最中で徹底したスクラップアンドビルドと運転保安無視・労働強化が職場を直撃していたために、起こるべくして起きた事故であること、直接の原因は信号停電と2分30秒間隔の過密ダイヤにあったことを当局に突き付け、運転保安闘争に起ち上がった。
 高石運転士が起訴された後の裁判には、組合の指示した数の2倍もの動員者が駆けつけるなど、この事故が運転士一人ひとりに突き付けられた重大な問題としてあったこと、そして動労千葉の基礎を築く闘いとなったのだ。
 この闘いの結果、高石運転士は1977年に津田沼電車区(当時)への職場復帰を果たすという勝利を得た。動労千葉は、闘うことによって当局の合理化攻撃を打ち破り、運転士への事故責任の転嫁を粉砕してきたのだ。

東中野事故の責任の一切はJRにある

 分割・民営化直後の1988年12月5日、東中野において列車が衝突し、運転士と乗客が死亡するといういたましい事故が発生した。
 この時には、事故直前のダイ改において千葉〜三鷹間で3分40秒の運転時分短縮を強行した。しかも短縮したことによる列車の遅れを回復させるために「信号機の内方まで進入しろ」との指導が行われていたのだ。これによって停止現示であってもATSの確認扱いを行った後、信号機を超えて進入し、衝突してしまったのだ。
 この事故も結局は国鉄分割・民営化による大合理化と運転保安無視の結果が招いたものであり、事故の責任は全てJRにあるのだ。
 結局JRは、翌年のダイ改において3分40秒の運転時分短縮は取り止め、元に戻さざるを得なかったのだ。
 そして東中野事故以来これまで総武緩行線の運転時分短縮は一度として行われてこなかったのだ。
 しかも、東中野事故以降、各現場では、当局も含めて「東中野事故を忘れるな」が合言葉となり、毎年12月5日には事故を風化させないための取り組みが行われてきた。
 しかし、ここ数年は、東中野事故の「ひ」の字も聞かれない状況で、動労千葉だけが声を大にして訴えてきたのだ。

JR東労組と決別し、ともに闘おう!

 われわれは、改めて訴える。この間の設備関係の全面的な外注化とそれにともなう昨年秋の中央線での大規模な輸送混乱、国土交通省による事業改善命令の交付、そして総武緩行線の6分40秒もの運転時分短縮など、状況は1972年の船橋事故、1988年12月の東中野事故と酷似している。
 事故を防ぐためには、JRの合理化攻撃に対して実力で闘う以外にない。JR結託体制では運転士と乗客の命は守れない。
 動労千葉に結集してともに闘おう!

大失業と戦争の時代に通用する新しい世代の動労千葉を創りあげよう!
 
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