進行の指示運転の問題点B
規制緩和、外注化・大合理化と安全
「安全」の構造的崩壊!
自作自演の改悪
JRは、国土交通省令が変わったのだからJRでも運転取扱いに関する規程を変えるのは当たり前のことで、何も非難されるいわれはない、という対応を行なっている。だがそれ自体ペテンというべきものだ。
省令の具体的な改訂作業は、部門ごとに「調査研究会」が設置されて行なわれたが、そのメンバーは、運輸省や学識経験者とともに、鉄道事業者や鉄道総合研究所が加わっており、議論の実質的な主導権をとったのはJRであり、JRの意向がつよく反映されたかたちで運輸省令の改訂が行なわれたのである。つまり「自作自演」の改悪なのだ。
駅業務委託と一体
国土交通省令の規制緩和−抜本的改悪は、ニューフロンティア21やニューチャレンジ21など、第二の分割・民営化攻撃と表裏一体のものだ。
この大リストラ計画の大きな柱をなすのは、車両検修・構内運転、保線・電力・信号通信、駅、車掌など、鉄道事業の中心的な業務を全面的に外注化=アウトソーシングしてしまうという攻撃だ。その底流に流れる発想は、弱肉強食の論理−市場原理の徹底した強調であり、ただひたすらコスト縮減と利益率の最大化のみを追求するという思想である。
とくに「進行の指示運転」の背景に
は駅業務の大合理化がある。この間も営業関係では、地方の小駅を中心に無人駅化や駅そのものの委託化が進められてきたが、ニューフロンティア21では、こうした攻撃がこれまでのレベルをこえて一挙にエスカレートされようとしている。
すでに千葉支社でも「駅体制の見直し」と称して、22駅の駅長を廃止するという提案が行なわれており、来年度以降派遣社員への置き換えなど駅業務の全面的な外注化攻撃が開始されようとしている。
言うまでもなく、代用手信号を出したり、列車を誘導したりという運転取扱いを派遣社員に行なわせることはできない。要するに「場内信号機に対する進行の指示運転」は、外注化によって駅には運転取扱いを行なう労働者が全く居なくなることを前提としたものなのである。
ルール無しの社会
それは運転取扱いに限った話しではない。検修の新保全体系合理化のように、車両や線路、電気、信号通信
設備などの検査・保守業務でも、省令改悪−規制撤廃によって、検査のあり方や周期等が、あらかじめ認定を受けた企業は、企業の裁量権で自由に決められるように改悪されている。第二の分割・民営化的な大リストラ攻撃と、運輸省令−運転取扱実施基準の改悪は、どちらが先でどちらが後とも言えない一体のものとして進もうとしている。
「規制緩和」の大合唱が、これまでの鉄道会社のあり方を根本から覆してしまうような大リストラに拍車をかけ、また逆にニューフロンティア21の冒頭にうたわれたような「冷徹な優勝劣敗の市場原理と自己責任の原則に貫かれた真の意味での競争社会が到来している」などという、社会全体を覆う資本の側からのアジテーションがさらに規制撤廃への圧力を増幅させる。───要するに「これだけは守らなければ安全が崩壊する」「これだけは侵してはいけない」という基準、ルールが無くなろうとしているのだ。安全の確保、運転保安の確立という問題にとって、これは恐るべき事態である。
ニューフロンティア21は、その結びで「この改革は当然困難や痛みを伴う」と宣言するが、われわれは今、安全の崩壊という面においても、また労働者の権利、労働条件・雇用・賃金の解体という面においても、重大な分岐点に直面している。
安全の構造的崩壊
今、「安全の崩壊」という問題はJRばかりでなく日本全体を覆う社会問題となっている。東電の原発事故隠し・検査偽造事件しかり、JOC
の核融合事故しかり、雪印食品、日本ハムなど事件しかり、企業倫理も安全に関する社会的規範も、すべてが崩れ去ろうとしてるかの観がある。
規制緩和と競争原理が社会に蔓延
し、安全に直接係わる現場の業務のほとんどが下請け、孫請けにアウトソーシングされ、安全に関する指導やチェック機能が全社会的規模で崩壊しようとしている。JRも同じ道を突っ走り始めたのだ。
しかもこうした流れは、個々の企業の問題というよりも、事故と事故隠しを構造化させるものだ。規制の緩和・撤廃は、本来は企業自身の責任が重くなることを意味する。企業は規制緩和をいいことに安全を徹底して切り捨てるが、その結果事故が起きると、自らの責任回避のために事故隠しに躍起となる。そして隠しきれなければ、事故を起こした当該の労働者に全ての責任をおしきせて、企業としての責任を逃れようとする。こうしたベクトルがこれまで以上に強くなろうとしている。「進行の指示運転」をめぐる事態も全く同じだ。「信号を無視しろ」と指示され、事故が起きればその責任は全て運転士におし着せられるのである。
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