闘争宣言
今日、われわれは新たな闘いに突入する。この闘いは第二次分割・民営化反対闘争だ。情勢は回りめぐって、再び渾身の力をふりしぼって立ち上がるときがきた。この闘いは一度二度のストライキでは終わらない数年がかりの大闘争になる。
だがその闘いは、23年前の国鉄分割・民営化攻撃がそうであったように、労働者と労働運動の未来を左右する闘いだ。そして何よりもわれわれには、首をかけて国鉄分割・民営化攻撃に立ち向かい、団結を守りぬいた地平があり、その闘いの渦中で鍛えられた団結がある。
23年前の国鉄分割・民営化反対闘争は、新自由主義攻撃の出発点をなす攻撃との闘いだった。そして新たな闘いは、それが全て破産し、ありとあらゆる矛盾が吹き出す渦中での闘いだ。この闘いをやりぬけば、今はまだ団結する手立てを見いだせていない無数の労働者の怒りの声が堰を切ったように流れだす。今日はまだおとなしい労働者の大反乱が始まる。われわれはそのことを確信して立ち上がる。
「外注化」は究極の合理化攻撃だ。JRを数百の子会社・孫会社に分割し、無数の労働者を非正規職に突き落とす攻撃だ。それがもたらすのは第二の尼崎事故である。
NTTや日航の現実を見てほしい。この20年余り、こうやって労働者が最底辺へと突き落とされてきたのだ。「ワーキングプア」「派遣切り」「貧困」……。こんな言葉を聞くのはもう沢山だ! 人と人の社会的連帯を断ち切り、雇用・教育・医療・年金・社会保障、……全てを競争原理の中に叩き込んで、人が生きていく術を破壊した奴らを許すな!
労働者に絶望を強制し、未来を奪った奴らに反撃を始める時だ。
それは同時に、労働組合の再生をめざす闘いでもある。労働運動の現状を変えない限り何も変わらない。
ここに今問われている核心問題がある。労働者が置かれた酷い現実は、自然になったものでも、避けがたい必然だったわけでもない。民営化・規制緩和という国家をあげた攻撃の中で、労働組合が屈服と変質を深め、その手先となることによってもたらされたのだ。それは労働組合の犯罪でもあった。われわれは絶対にこの流れを断ち切ってみせる。
資本主義体制が断末魔の危機に悲鳴をあげ、それが労働者にさらなる惨禍をもたらそうとしている。こうした情勢が、あらゆる勢力を国鉄分割・民営化の原点に
引き戻している。1047名闘争をめぐる「年度内決着」という民主党・連合政権の動きは、どこから怒りの声が噴き出すかもしれない現実への恐怖を示すものであり、
この闘いに始末をつけなければ、道州制=360万公務員労働者への首切りに突き進むこともできないというあせりを示すものだ。今も国鉄分割・民営化攻撃の決着を許していないことのもつ意味は決定的に大きいのだ。
国鉄−JRにおける闘いは、どの時代にも、合理化とその結果もたらされる安全の崩壊・事故、その責任の労働者への転嫁という現実に対する現場の怒りの声の噴出と組合執行部の屈服、その衝突があらゆる闘争の底流をなす隠れた焦点であった。
国鉄ばかりではない。これまで既成の労働運動を支配してきた「常識」は、資本の本質との衝突となる合理化攻撃との闘いを非和解的に貫くことなど不可能だという敗北主義と屈服であった。だから合理化のたびに団結にくさびが打ち込まれ、労働組合が変質を深めていった歴史であった。
1972年の船橋事故闘争から始まった反合・運転保安闘争はその限界を突き破る闘いだった。われわれはこの闘いの中から生まれ、三里塚ジェット闘争、本部からの分離・独立闘争、国鉄分割・民営化反対闘争、JR体制下での闘いを貫いて、団結を強化・発展し続けてきたのである。今日から始まる闘いは、反合・運転保安闘争路線の真価をかけた闘いであり、三河島事故・鶴見事故以来の国鉄労働運動の全総括をかけた闘いである。
しかも、日本の労働運動の歴史は、60年安保闘争が1957年国鉄新潟闘争から始まり、70年安保沖縄闘争が1967年国鉄5万人反合闘争やマル生粉砕闘争と、沖縄・学生の怒りの声が結合して燃え上がったように、国鉄における闘いが常にその中心に存在していた。われわれはその誇りにかけて立ち上がる。怒りの声は社会の隅々まで満ちている。だがその声は未だ団結した力とはなっていない。この闘いはその怒りの声をひとつに結集する闘いだ。国鉄分割・民営化攻撃との25年間の攻防の決着を求める闘いだ。
国鉄1047名解雇撤回! 検修・構内業務外注化絶対反対! ライフサイクル制度撤廃! 滝君・小沢君の不当配転許すな! 第二の尼崎事故を許すな!
反合理化・運転保安確立! 今こそ闘う労働組合を時代の最前線に登場させよう。
2010年2月1日
国鉄千葉動力車労働組合 |