DC通信No.100 06/05/14
職場討議資料−幕張構内脱線事故への不当処分許すな |
職場討議資料−反合・運転保安確立! 闘いなくして安全なし!
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2台の洗浄機。手前に入換信号機があり、その手前に踏切がある。 左上がランプ。奥が事故の起きた ポイント。(南引き上げ線側から) |
「洗い」がある場合、構内運転士は、洗浄中を示す洗浄機のランプが点灯したことを確認してから列車をだす。それも「C掃」の場合は水洗いだけ、「B掃」の場合は洗浄剤をかけた上で水洗いと作業の内容が違い、
さらに洗浄する場合は4q/h、通常の場合は25q/hと運転速度も違う。洗浄機を扱うのは車両整備鰍ナあり、ポイントの開通とは関係なく洗浄機は回りはじめライトが点灯する。
踏切や洗浄機に気をられ、作業によって運転速度も違うという状況のなか、現場では、洗浄機のランプが点灯すると、ポイントが開通していなくても、ついつり込まれそうになるという声がずっとあがっていのである。
さらに、洗浄剤の塗布は「南引き上線」に向うときに行い、水洗いは引き上げ線から折り返してくるときに行なわれるが、洗浄剤を吹き付けているときは、前方が全く見えなくなり、視界が開けたとたんに踏切があるという危険性も指摘されている。いつかこういう事故が起こることは誰もが感じていたと言っても過言ではない。
3つの業務の融合化
今回の事故は、以上のように、構内における安全対策が放置され続けてきた結果に他ならない。さらに、激しい合理化・要員削減攻撃の必然的な結果でもある。
構内業務(構内・仕業班)は、国鉄分割・民営化攻撃が開始されてから今日まで、最も激しい合理化攻撃にさらされてきた。
かつて構内・仕業班の業務は、構内運転と仕業検査、誘導がそれぞれ独立した業務であった。例えば幕張電車区では、国鉄分割・民営化に向けた大合理化が86年3月ダイ改で強行されるまでは、構内運転士33名、仕業検査45名の要員配置があった。それが現在は半分以下にまで削減されている。このダイ改で仕業検査周期が24時間毎から72時間毎に延伸され、大幅に要員が削減されるとともに、仕業検査と誘導業務が融合化された(仕業検査周期は、現在は「6〜10日毎」まで延伸されている)。
●幕張電車区(現車両センター)の構内要員削減[出面数] |
1985年3月 ▼構内運転士 9徹5日勤 ▼仕業検査 13徹4日勤 |
現 在 ▼構内運転士 4徹5日勤 ▼仕業検査 3徹2日勤 |
さらにその後、構内運転、仕業検査、誘導という3つの全く違う業務が融合化され、1人の労働者が全てをこなさざるを得ないようにされたのである。
入換合図の継続表示省略
しかもその過程で入換作業は、かつては誘導担当が添乗誘導していたものが、「入換合図の継続表示の省略による入換」などという考え方が導入され、通告だけすればよいことになった。
結局、要員削減のために、保安装置も全くない構内で、安全という最も大切な問題が、運転士ひとりの注意力だけを頼りとして担保されることになった。
さらに幕張には、かつては「整備指導」という業務もあって要員が配置されていた。これは、車両整備会社に委託・外注化されている車両清掃、洗浄業務の指導や引き取りを行なっていた。作業は、入換、洗い、仕業検査がひとつの流れのなかで行なわれるので、その調整を含めて専門の要員配置があったのである。しかしその業務も廃止された。
基本どおりの作業が不可能に
こうした結果、仕業検査を叩いては、転線作業に飛んでいき、手のあいたときは、臨時の転線作業を行い、あるいは誘導担当として入換の通告に行くという作業形態がしいられることになった。幕張では、臨時作業が入った場合などは、構内助役までハンドルをもって入換作業に飛んでいくということが日常化している。激しい合理化−要員削減攻撃によって、作業ダイヤどおり、基本どおりの作業などできなくなっているのが幕張の現状である。
とくに様々な作業が集中する午前中は、入換、入出区、仕業検査、誘導、洗い……と、ひとつひとつの安全を確認する間もなく飛び歩かざるを得ないような作業が強制されることになった。これでは事故が起こらない方がおかしい。
危険と背中合わせ作業が日常
とくに、先に述べたような複雑な構内をもつ幕張車両センターでは、こうした徹底的な要員削減や業務の融合化、入換合図の継続表示の省略は、深刻な影響をもたらした。幕張車両は、1本の収容線が「1区」「2区」「3区」に区分され、そこに列車を重ねどりするなど、危険と背中合わせの作業を日常的に行なわなければならない職場でもある。「入信冒進というけど、『〇番〇区2車入れ』とかの指示だけで列車をもっていくわけだから、普段の仕事自体が冒進しているようなものじゃないか」・・・これが現場の声に他ならない。
しかも、各番線の入換信号機の有効長が、113系などこれまでの車両を基準につくられているために、車両長が長い257系車両は、入信ギリギリまでもってこないと後が変わらないという、いつ信号冒進をしてもおかしくない箇所が放置されているのが現状だ。
ATSすら設置しなことも含め、「入信の軽視」も会社自身がつくりだしたものに他ならない。
責任は重く1人の労働者に
構内は、入換標識が入換信号機に変わり、電子連動化され、機械化が進められた。だがこれは、入換信号機に変わることで誘導担当等による通告の必要性も無くなるなど、要員削減をさらに進めるためのものではあっても安全性を向上するものではなかった。むしろ構内運転士ひとりの肩に全責任が重くのしかかることになったのである。
国鉄−JRをまたいで行なわれた構内・仕業グループの合理化攻撃は、安全を徹底的に犠牲にし、切り捨てるものであった。しかも、それに応じて保安設備が充実されたかというと、これまで述べてきたとおり、ATSすら設置されなかったのである。
業務融合化が生んだ問題
さらに業務融合化は、別な問題も生み出している。
業務の融合化によって、例えば、車両検修の経験のない運転士が、ごく簡単な短期間の教育をするだけで仕業検査をさせられることになった。国鉄時代では、交番検査等で少なくとも10年以上の検修作業の経験が無ければ従事することのなかった業務である。当事者からは、「異常や故障があったときはどうしようもない」という声は融合化以降今日までずっとあがり続けている。こうした無茶としか言いようのないことが「指導職の職名をもっている以上やれて当然」という、まさに無茶苦茶な論理で強制され続けているのである。
責任の区分も不明確に
幕張では「日勤1」とい、入換作業や、その間に行なわれる車両整備会社による清掃作業など、全体を指示・伝達する要員が置かれている。これまで述べてきたような激しい合理化攻撃によって、要員配置が半分以下まで削減される状況のなかで、何とか日常的な業務をなりたたせてきた要の位置にあるのがこの「日勤1」の存在であった。
しかし現実は、本来管理者が行なうべき指示業務まで「日1」にまる投げすることによって、業務がなりたっているという無責任体制になっている。
例えば「日1」、が本来管理者でなければできないはずの、休憩時間の変更を伴う業務指示まで行なっているのが現実だ。これもかつて千葉支社との団体交渉で問題点を整理し、それは管理者の業務であることを確認したにも係わらず、現場管理者が責任をもったのは、その団交が終わった後のごく一時だけであった。
その背景には、管理者が、複雑な構内作業全体を采配し、指示する力をもっていないという問題がある。無理な合理化・要員削減が、構内業務全体を歪めてしまっているのだ。
「1通告、1作業」もなし崩し
本来、構内入換作業において、安全を確保する基本は「1通告、1作業」を守ることであったはずである。しかし幕張では、人が居ないために、一連の入換として、何回もの作業が1回の通告によって行なわれるということが続けられてきた。
「日1」はぐるぐる回しに
さらにそればかりではない。「日1」業務は、当初は指定されたベテランが専門的に従事していたが、構内・仕業班全体の要員がどんどん削減されていく状況のなかで、そのような要員配置ができなくなり、何人かで回すようになり、今は全体で毎日ぐるぐる回しするようになっている。「安全」に関する歯止めがあらゆる面で取り払われてしまっているのが現実に他ならない。それを「2等級、3等級の者は、日1にはつけるべきでない」等、現場での組合からの要求で何とか歯止めをかけてきた。
それぞれの入換作業の誘導担当を誰にやらせるのかを構内助役が指定し、指示するようになったのも、今回の事故が起きてからのことである。
こうした問題点に抜本的なメスを入れない限り事故はいつ再び起きてもおかしくない。
構内業務の丸投げ的外注化
しかも、こうした現状のうえに、JRは、シニア制度とワンセットにして構内運転業務の部外委託−丸投げ的な外注化を提案し強行している。千葉ではストップさせているが、全国的には、検修・構内業務の外注化攻撃のなかでも、とくに構内業務の外注化が先行的に進められている。これが安全の危機をより一層深刻化させることは明らかだ。
そもそも外注化は、コストを削減するためのものであり、外注化する業務に安全対策のコストなどかけようとするはずはないからだ。
今回の事故は、こうした合理化攻撃と、安全対策の放置の必然的な結果に他ならない。
責任転嫁−重処分の画策
入換信号機の冒進は幕張のみならず、電車区構内でずっと繰り返し起き続けてきた事故である。つまり個人の責任に期して解決つく問題でないことははっきりしていた。しかし「コストがかかる」という理由で現場の声は無視され、入換が最も頻繁に行なわれる箇所にもATSすら設置しないとか、現場からいくら声があがろうが、つり込まれ対策ひとつ真剣に検討しようとしない現実がずっと続けられてきた。
結局、「事故防止対策」は、事故を起こした者の処分と、「基本動作の徹底」だけで済まされてきたのである。
今回の事故でも、入信の確認−指差喚呼をしていなかったことや、関係者が防護無線を発報しなかったこと、あわてて列車を後退させてしまったことが問題視され、重処分が画策されている。だが、絶対にそんなことで済ましてはならない。
鉄道総研主任研究員の指摘
指差呼称に対して過剰な期待を抱かないよう念のために注意しておきたい。設備などの改善を怠ったまま指差呼称の励行のみを指導することは、安全責任を個人の作業者に押しつける道具として指差呼称を利用しているようなものである。 指差呼称は安全対策のメニューのひとつに加えるべきものではあっても、それが安全対策のすべてであってはならない。 また、やたらに頻繁な指差呼称を強制することによって、かえって確認動作が形骸化(けいがいか)してしまう例もある。 ・・・『失敗のメカニズム』(角川文庫)より |
・・・これは、国鉄労働科学研究所研究員や鉄道総研の主任研究員の経歴をもつ芳賀
繁氏(現在は立教大学心理学科教授)の指摘である。
また、国鉄時代には、運転事故防止について次のような指導が行なわれていた。
「信号の確認」とか「打ち合せの徹底とか言う文字で事故防止対策なれりと考えたのは昔のことで、今は、ひとりひとりの、しかも、仕事をする場面毎の、すぐに応用できる方策を乗務員に示さなければ真の効果は期待できない。 ・・・『動力車乗務員の事故防止』(関東鉄道学園編)より |
まさにここで、こんなことはしてはならないと指摘されているとおりのことをやり続けた必然的な結果として幕張での構内脱線事故が起きた。
責任をおしつける道具!
あの尼崎事故の後の原田支社長の談話は「基本動作や安全確認の徹底を指示しており(JR東日本は)現状でも安全性に問題はない」であった。尼崎事故の後、「JR発足以来の大惨事発生」という表題で職場に掲出された唯一の指導掲示は「1.決められたことは確実に実行する、2.お客さまの立場にたった接遇、3.制服の正しい着用、4.執務の厳正」・・・・たったこれだけであった。要するに後にも先にも「基本動作をやれ」というだけなのだ。
会社の幹部や現場の管理者が「安全」について語るとき、その話はつねに判で押したように「指差喚呼の徹底」にほとんどが費やされる。だが、それこそ無能の極みというべきものだ。あるいは安全について真剣に現場と向き合う姿勢が全くないことを示すものだ。今回の事故でも、まさに「安全責任を個人に押しつける道具」としてだけ指差喚呼の励行や基本動作の徹底がが使われようとしている。
9秒に1回の指差喚呼
無茶な要員削減等によって、基本動作などはじめから無理なことを承知の上でそれを強制し、個人の責任に全て転嫁する・・・こんなことを絶対に許してはならない。
これは、構内ばかりでなく、本線運転でも同じだ。総武快速線で千葉駅を発車して稲毛駅に到着するまで(運転時分3分30秒)の間に定められている指差喚呼は23回に及ぶ。9秒に1回の指差喚呼が義務付けられているのである。そんなことを乗務中ずっとやり続けるなど不可能なことだ。これは「やたらに頻繁な指差呼称を強制することによって、かえって確認動作が形骸化する」以前の問題だ。
団交で実態を訴えて改善を求めたが、まともに議論しようとすらしない。
なぜこんなマンガ的なことが起きるのか。無理だろうが何だろうが、決めておけば「指導」してあったことになり、会社の責任は逃れられるからである。だがそれは、こと「安全」に関しては、絶対にやってはならないことだ。
焦燥反応を前提とした対策を
今回の幕張構内事故では、とくに防護無線を発報しなかったこと、あわてて列車を後退させてしまったことが問題視されている。だが、事故を起こしたときの人間の心理状況や「焦燥(しょうそう)反応」ということを理解せず、処分というかたちで責任を追及すれば問題が解決するものではないことは明らかだ。「焦燥反応」とは、あせり、あわて、先急ぎの気持ちから、きちんと認知・判断する前に動作・操作をしてしまう(あるいはできない)ことをいう。こうした人間の性質をふまえたものでなければ、それは安全対策とは呼べない。
しかも、日常的に些細なミスが徹底的に追及されるような職場状況の中では事故を起こしたときの「焦燥反応」がより激しくなることは明らかだ。
事後対策ではなく未然防止を
この間JRは、重大な事故が起きなければ本格的な安全対策を行なおうとはしないという対応を繰り返してきた。「南引き上げ線」−入換信号機へのATSの設置も、今回の事故があって始めて真剣に動きだそうとしている。だが、本来やろうと思えばできることだったのである。事故を未然に防ぐのが本来の事故防止対策だ。
工事ミスによって線路が隆起させてしまうという、ひとつ間違えば大惨事につながりかねない重大事故を2月〜4月の間に3回も繰り返すということも含め、安全対策の根本的な見直しが必要である。
事故責任の個人への転嫁を絶対に許すことはできない。明日はわが身だ。裁かれるべきはJR当局だ。事故を起こした仲間を守りぬこう!
まさに当局の手先だ!
今回の事故に対し、東労組は、「幕張車両センターでの脱線事故で見えてきたことは、『マルにできないか』ということが職場の雰囲気になっていたこと」「安全に対する職場風土改善が必要」などと書きたてて、当該運転士や関係者への処分をあおり、当局にけしかけている。絶対に許すことはできない。
東労組は、会社と一緒になって「マル体質だ」「風土改善が必要」「馴れ合いだった」などと、当局と一緒になって現場の労働者を責め立てる。今回の事故では、東労組の組合員も処分の対象とされているにも係わらずだ。
だが、本来「馴れ合い」だとか「風土改善が必要だ」とか言うなら、その責任者は管理者(構内助役)にある。その助役は全員東労組の組合員である。自分が言っていることの意味もわからずにこんなことを言って、動労千葉を非難した気になっているのだが、彼らは、安全対策を放置した会社の責任だけは絶対に追及しない。
会社を擁護し労働者を非難
これは今回に限ったことではない。事故に対する東労組の対応は常にそうだ。例えば、大月駅事故のときも、事故直後の機関紙で「原因は究明中だが、現時点ではっきりしているのは運転士のミス」と書き立てた。結局、平成採用のこの運転士は当局から攻められ、組合からは見捨てられ、孤立無援の状態で裁判にかけられて職場を辞めていった。
東中野事故のときもそうだ。千葉−三鷹間の運転時分を3分40秒つめて増発したことが事故の原因だったが、東労組千葉地本は、自らの組合員が事故で生命を奪われたというのに「事故原因は究明中でありダイヤ改正が直接の原因ではない」という声明をだして会社を擁護した。「原因は究明中」などと言いながら、はじめから「会社は絶対悪くない、悪いのは事故を起こした労働者だ」と言い続けてきたのである。
腐り切った松崎講演!
大月駅事故の直後、当該の組合員は、連日、警察や会社の追及を受けて苦しんでいる状況のなか、松崎は次のように講演している。
責任追及から原因究明へという方向を明確に示し得たJR東日本の経営幹部は立派だ。世界に冠たる資質を持っている。松田社長は大社長になった。経営哲学あるいは企業文化の極めて高いレベルの所産だ。責任追及から原因究明へという世界に冠たるテーマ、概念、カテゴリーを明確にし得た労使の高いレベルをこれからも誇りにしていきたい。 |
当時は、この事故をきっかけとして、JR東日本の安全対策や安全指導のおそまつさが、連日マスコミで報道されている状態であった。その時に、歯の浮くような言葉を並べてて「ご主人様は立派です」と会社を全面的に擁護し、当該運転士に責任をなすりつけたのである。本当に腐り切っている。これが東労組の本質だ。
「原因究明」のペテン!
「責任追及から原因究明へ」などというが、それは完全なペテンに他ならない。実際、どんな些細や事故でも、事故を起こした労働者の責任だけは、昔も今も徹底して追及され続けている。こうした現実を百も承知の上で「責任追及から原因究明へという方向を明確にした東日本は立派だ」ともてはやしているのである。どんな事故が起きようと、会社の責任は絶対に追及しませんということだ。要するに事故を起こした組合員を切り捨て、一切の責任を追わせ、会社を擁護するということだ。こうやって、東労組は会社の忠犬であることを表明して汚い癒着関係を守ろうということだ。
問われる労働組合の立場
安全や事故という問題は、きれいごとでは済まない問題だ。事故を起こしたくて起こす者など誰もいない。だけど人間はミス犯し、あるいは一旦ミスをすればパニックに陥るもので、鉄道で働く労働者である以上、「事故」という現実から逃れることのできる者はいない。ひとたび事故を起こせば、当局の攻撃や世間の非難もその労働者に集中し、職場は暗たんとした雰囲気になる。問題は、そのときに労働組合が、事故を起こした労働者を守って闘うことができるか否かだ。われわれが船橋事故との闘いのなかから確立した反合・運転保安闘争路線の核心もここにあった。そうでなければ、労働組合など何の意味があるのか。
闘いなくして安全なし!
尼崎事故や羽越線事故、レール破断等、安全が危機に瀕している現実について、その原因を徹底的に究明すれば、いずれも、安全を無視・軽視する資本の合理化攻撃に行き着く。そして何よりも民営化、規制緩和という犯罪的政策に行き着く。その責任を徹底的に追及することなくして安全の確保など不可能なことだ。そして何よりもそうでなければ、選択の余地なく、一切の責任が事故を起こした当該の労働者だけに押し着せられるられることになる。安全の確保という課題は、労働者と資本が最も鋭く対立する課題である。安全の確保は、労働組合の闘いによって資本に強制する以外に実現するいかなる道もない。だからこそ「闘いなくして安全なし」なのだ。
不当処分粉砕−反合・運転保安確立へ全力で闘いへ!
JRにおける安全の危機という現実を前にして、問われているのは、JR資本ばかりではなく、国鉄分割・民営化攻撃をはじめ、資本の攻撃の前に膝を屈した労働組合である。東労組は分割・民営化攻撃の手先となったばかりでなく、その後のあらゆる合理化を全て丸呑みしてきた。労働組合が資本の手先に転落したことによって弱肉強食の競争原理が歯止めを失って暴走したのだ。安全問題は、労働組合の闘いと団結の問題なのである。
あすは我が身だ。事故責任転嫁−不当処分を許すな! 反合・運転保安確立。事故を起こした仲間を守りぬくために全力で闘いぬこう。