DC通信No.71 05/05/10
動労千葉の闘いの軌跡

DC通信目次 

動労千葉の闘いの軌跡

国鉄千葉動力車労働組合

  動労千葉結成以前の闘い

前史
1978年2月
助役機関士線見阻止闘争

 動労千葉の前身は、国鉄動力車労働組合(1950年に機関車労働組合として結成され、1957年に名称を変更)千葉地方本部である。
 千葉県と東京都新小岩地区の運転士と車両のエンジニアで組織した労働組合である。われわれの組合員の職場は、千葉県全域と東京駅を含む東京一部地域に及んでいる。現在組合員数600名。その他にリタイア労働者もOB会として組織している。企業側の新規採用の徹底抑制が続き、新規採用再開後も企業の差別政策で、採用時に動労千葉への不加入を強制されている。だがわれわれは民営化後も30数名の組織化に成功している。

 結成当初はけして戦闘的労働組合ではなかったが、60年安保闘争や、320人もの死者をだした62-63年の三河島・鶴見における鉄道事故への怒り、機関助士廃止−5万人合理化反対闘争、ベトナム反戦−70年安保・沖縄闘争、さらには「生産性向上運動」による激しい組合破壊攻撃(わずか2年余りの間に動労・国労の組合員が6万名も減少した)との闘いの勝利のなかで、今日の土台が築かれていった。

 また、動労千葉地本にとって重要な意味をもつ二つの闘いがあった。
 ひとつは、合理化や人員削減によって列車の安全運行が脅かされ続けている職場の現状に対する闘いである。72年千葉県船橋駅で列車衝突事故が発生し、組合員が逮捕された。われわれはこれに対し「資本の利潤追求の結果安全性の確保が軽視されたことによって起きた事故である」という立場から、数波によるストライキ、減速闘争をもって闘い、当該組合員の解雇を断念させ、職場復帰をかちとった。以降、「闘いなくして安全なし」はわれわれの最も重要なスローガンとなっている。
 もうひとつは、軍事空港建設に反対して闘い続けられている、日本における戦後最大の農民闘争であり、反権力闘争である成田(三里塚)空港反対闘争との連帯である。われわれは空港の開港に向けて、国家権力による激しい弾圧が反対派農民に加えられる状況のなかで、労農連帯をかけて1977〜78年、空港へのジェット燃料の貨車輸送を拒否する「100日間闘争」を闘いぬいた。

  新生動労千葉の結成

1979年3月30日
動労千葉結成大会

 このような闘いのなかで、動労千葉地本は組織と団結を強化し、動労内の最も戦闘的・民主的地方本部となっていったが、一方、動労本部は1970年代の後半から急速に変質を深め、1978年の全国大会では、@ストライキ闘争の放棄、A成田空港反対派農民との連帯闘争の中止等の方針が提起され、それに反対した千葉地本の大会参加者をロビーでリンチし、発言を封じるという状況に至る。
 そして1979年3月には、闘いを放棄する動労本部方針を拒否した千葉地本執行部全員の執行権・組合員権を停止し、さらに委員長以下4名の執行部を除名するという暴挙に走った。こうした状況のなかで、1979年3月30日、われわれは動労本部からの分離・独立を決定し、動労千葉を結成した。

 以降2年近くの間は、国鉄当局公認のもとに繰り返された動労本部の組合破壊のための職場への襲撃に対して、多くの重軽傷者をだしながら団結を守りぬくための闘となる。
 国鉄当局も、1979年12月に書記長を解雇、1980年5月に組織部長を解雇、1981年には3月2日〜6日まで闘いぬかれた成田空港へのジェット燃料貨車輸送阻止−6万人人員削減反対のストライキを理由に副委員長など4名の役員を解雇するなど、激しい組織破壊攻撃をしかけた。

  国鉄分割・民営化反対闘争

1985年11月17日
国鉄分割・民営化阻止!
日比谷野音でスト突入を宣言

 動労千葉の闘いの歴史のなかで、最も激しい攻防戦となった闘いは、国鉄分割・民営化−10万人首切り反対闘争であった。
 中曽根内閣は、1983年に国鉄を分割・民営化する方針を打ち出し、以降、嵐のような組合破壊攻撃が吹き荒れた。
 この攻撃の激しさは、国鉄の最大組合であった国労が、1983年から民営化が強行された1987年までのわずか4年間で、224,000人から44,000人まで減少したこと、同じ間に130,000人の国鉄労働者が職場を追われたことに示されている。
 また中曽根首相は、全日本労働組合総評議会を潰すために国鉄労働運動を潰すことが民営化の目的だったと後に公言した。この攻撃は、民営化によって十数万人の国鉄労働者を解雇し、その権利を破壊するだけでなく、労働運動を解体するために仕組まれた国家的不当労働行為であった。

 激しい攻撃のなかで労働組合の対応は、民営化反対:動労千葉・国労・全動労、民営化推進:動労本部・鉄労と二つに割れた。とくに動労本部は最悪の組合破壊の手先となっ た。(民営化推進派の組合は、後に解散−統合して現在のJR総連となった)
 また、国鉄分割・民営化に反対した国労も、1986年の大会で、民営化に妥協する方針を提起・決定し、組合員の激しい怒りの声によって、3ヵ月後の臨時大会でこの妥協方針が覆される等の動揺のなかで、ぼう大な脱退者が続出し、組織が分裂して闘いを構えることができなかった。

 われわれは国鉄分割・民営化攻撃との闘いは、全ての労働者の未来と労働運動の存亡をかけた闘いであることを訴え、家族を含めた討論を重ねるなかから、1985年11月第一波スト、1986年2月第二波ストを中心とした組織をあげた闘いに起ちあがった。
 この闘いは、全国に大きな波紋を広げた。われわれは、意図的な政府発表やマスコミの報道によって隠されてきた国鉄分割・民営化攻撃の本質を、この闘いによって初めて社会問題化することができたと考えている。また攻撃は当初から妥協の余地のないものであったが、そうである以上犠牲を恐れずに闘いぬくことによってしか組合員の団結を守ることができないということが、われわれの基本的な立場であった。
 警察権力はスト拠点職場を1万名の機動隊員で包囲するという弾圧体制をとり、一方 国鉄当局は、第一波ストで20名、第二波ストで8名の組合員を解雇し、さらにこのストライキに対し約300,000ドルの損害賠償訴訟を起こすなど、これまでに前例のない激しい 攻撃をしかけた。また、1987年の国鉄の民営化の時点でも、このストライキ時に停職処分を受けたことを理由にさらに12名の組合員が、民営化された新会社=JRへの採用を拒否された。しかしわれわれは、組合員が毅然とした闘いを貫いたがゆえに、団結を維持したまま民営化されたJRにのり込んで、さらに闘いを継続することに成功した。なお、このストライキは、国鉄分割・民営化に反対した国鉄労働者の唯一のストライキであった。

  JRでの新たな闘いの始まり

1989年4月13日
長期波状ストライキ
4・13幕張拠点スト

 1987年に、国鉄は民営化され、六つのJR旅客地域会社と一つのJR貨物会社に分割された。
JRでの新たな闘いは、次の4つの課題をもって開始された。
@ 国鉄分割・民営化によって解雇された仲間たちの解雇撤回の闘い
A 多くの組合員の強制配転、拠点職場の廃止等、激しい組合破壊攻撃との闘い
B 極限的な人員削減によって荒廃した職場での反合理化・列車の安全運行確立の闘い
C 国鉄の民営化と平行して進んだ政治反動、軍事大国化に反対し、労働運動の再生をめざす闘い

 JRでの闘いは、1988年5月、組合破壊のために運転士から駅売店やファーストフード店などへ強制配転された組合員の職場復帰を求める断続的なストライキをもって開始された。組合破壊攻撃粉砕の闘いは、1995年のわれわれの拠点であった勝浦運転区廃止攻撃に対する72時間スト、組合破壊攻撃を未然に封じ込めるための、1996年以降の恒常的スト体制の確立、1997年の佐倉機関区廃止攻撃粉砕闘争、2003年12月の習志野電車区廃止反対ストなどを焦点として、永続的に闘いぬかれている。
 特にわれわれは、定年に近い組合員の強制配転攻撃をきっかけとして突入した2004年2月の無期限ストによって、国鉄分割・民営化以来の組合破壊攻撃により強制配転され続けていた組合員の職場復帰を実現した。

 反合理化・列車の安全運行確立の闘いは、1988年12月に起きた列車衝突による運転士の死亡事故(JRが輸送混乱を防ぐために停止信号を無視しろという違法な指示を行なったために発生した)一周年を期した抗議ストを皮切りに、1991年の運転士の労働強化反対闘争、毎年のダイヤ改正での労働強化反対闘争、車両検査修繕業務の全面的な外注化を阻止している2002〜2004年のストライキ、非協力闘争等を今日まで闘いぬいている。
 今JRでは線路破断の続発など、民営化、外注化、規制緩和の結果として、「安全崩壊」は危機的水準に達しており、われわれは、安全運転闘争への突入など、運転保安闘争を強化・再構築する方針を2004年5月20日の第51回定期委員会で決定した。

1997年3月27日
公労法解雇28名全員の解雇撤回勝ち取る
第24回動労千葉臨時大会

 解雇撤回に向けた闘いは、1990年1月-3月のストライキを出発点として、ほぼ毎年のストライキ、大衆的抗議行動、労働委員会や裁判闘争等を闘いぬくなかで、1997年に、国鉄の分割・民営化に反対した第一波スト、第二波ストに対する報復とし解雇された28名全員の解雇を撤回させる大きな勝利をかちとった。
 しかしJR東日本は、この過程でも、1990年3月18日から21日に渡って闘われたストライキに対して、事前に組合事務所を封鎖するなどの攻撃を加え、われわれがこれに対抗してスト突入時間を当初の予定より繰り上げたところ、それを「違法スト」だとして、組合に対して180,000ドル余りの損害賠償訴訟を起こすなどの攻撃を行なっている。
 現在は、国鉄の民営化が強行された際に新会社JRへの採用を拒否されて解雇された組合員(動労千葉、国労、全動労)1047名の解雇撤回の闘いが今もなお継続している。

 さらにわれわれは、戦争と軍事大国化、雇用や賃金・権利・社会保障制度の破壊に反対し、労働運動の再生をめざす闘いに全力を傾注している。
 1989年に、総評が解体され、労働運動のナショナルセンターが政府や資本と一体化し、反動的組織に変質させられる状況のなかで、全国に呼びかけて労働運動の再生をめざす労組活動家組織を結成し、1991年には、湾岸戦争以降戦争の危機が現実化する情勢のなかで、反戦共同行動委員会を結成した。また、1998年には、全日建関西生コン、全国金属機械港合同という、現在も最も原則的かつ戦闘的な労働運動を闘いぬく二つの労働組合とともに、「闘う労働組合の全国ネットワーク」を呼びかけて、闘いを続けている。
 この取り組みは、2003年の11・9集会で、アメリカからILWUローカル34代表、「タフト・ハートレイ、抑圧と民営化反対キャンペーン」代表、UTU労働者、韓国から民主労総ソウル本部を招いた日・米・韓の国際連帯集会に発展し、労働運動全体に大きなインパクトを与えている。

2003年11月9日
動労千葉、関西生コン、港合同の3労組共闘の11・9国際連帯集会で日比谷野音からデモに起つ日米韓労組の代表

 とくに、2003年3月20のイラク開戦と、日本での有事立法制定の動きの急速な台頭は、われわれに大きな衝撃を与える事件であった。一方、この間のイラク反戦闘争の国際的な高揚はわれわれに大きな勇気を与えるものであった。
 動労千葉は、イラク開戦から1週間後の2003年3月27日、世界の労働者との連帯の思いを込めて、イラク戦争反対、有事立法制定阻止、労働法制改悪(全労働者を不安定雇用化し、解雇の自由を法制化するもの)阻止を掲げてストライキに突入、30日まで90時間にわたる闘いを貫徹した。
 また2004年春闘にも、三波にわたるストライキに起ちあがり、日本におけるこの間のイラク戦争反対―有事立法制定反対の闘いの最も中心的な役割を果たした陸・海・空・港湾労組20団体や、止めよう戦争への道百万人署名運動と共に、イラク開戦1年の国際反戦行動を、ナショナルセンター等の違いをこえた労働者の統一行動として実現することを全力で訴え、1989年に総評が解散に追い込まれ連合が結成されて以来、はじめての大統一行動が実現することができた。

 今われわれは、2003〜2004年の両国会で戦争遂行のための有事立法が成立し、2005年には憲法改悪を強行する動きが具体的な政治日程にのぼるという重大な事態に直面している。われわれはさらに闘いを強化する決意である。

  解雇撤回闘争をめぐる新たな状況

 この間、17年にわたって闘いつづけてきた解雇撤回闘争が、新たな困難な状況に直面している。ともに解雇撤回闘争を闘いぬいてきた仲間であった国労の本部役員らが、闘いの長期化と困難さに膝を屈して、急速に変質を深めているのである。

安全崩壊!
国鉄分割・民営化こそ、尼崎事故の真の原因だ
そして責任の半分はJR資本と闘わない労働組合にある

 事の発端は、政府・自民党を中心とした4党が、「国労がJRに解雇の法的責任がないことを認めるという大会決定を行い、裁判を取り下げれば、政府がJRに話し合いの場につくよう要請する」という案を国労につきつけたことに始まる。そして国労本部は、組合員の激しい反対の声をふみにじって、この受け入れを大会で決定したのである。
 しかも政府・自民党は、大会決定に従わずに解雇撤回闘争を継続する組合員の除名を要求するに至り、国労本部はそれも受け入れて、何と解雇された組合員を査問委員会にかけるところまで行き着いた。
 さらには、2002年5月27日の臨時大会で、闘いの継続を訴え、本部に抗議した組合員を警察にビデオを渡して売り渡した。不当逮捕された7名の国労組合員と1名の支援の労働者は実に13ヶ月間にわたって拘束され、警察権力による前代未聞のデッチあげ不当弾圧を許さない運動が全国に広がる状況の中で、ようやく2003年12月22日に釈放された。

 動労千葉は、こうした事態に対し、1047名の解雇撤回闘争は自らの解雇という問題のみならず、国労とJRにおける労働運動の解体か再生かをかけた正念場であることを見据え、現状を打開し勝利の展望を切り開くためには、1047名を構成する3労組(動労千葉、国労、全動労)の被解雇者が、立場の違いをのりこえて団結し、統一した闘いを全国に呼びかけることが何よりも必要であることを訴え続けている。
 2004年4月13日に開催された「国鉄闘争支援大集会」は、闘争が始まって以来はじめて3争議団が演壇に並ぶなかで、これまで解雇撤回闘争を支援し続けてくれた首都圏の労働組合が総結集する画期的な集会となった。われわれはこれを新たな出発点として、1047名の解雇撤回闘争を労働運動の再生に向けた結集軸として展開していく決意である。

(2004年7月ILWUローカル10に招待され、動労千葉がサンフランシスコ・インターナショナルレイバーパネルで報告報告を行った際の資料からの再録。詳しくはサンフランシスコ訪問報告集を)


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