T/世界と日本をのみこむ動乱の一六年
国鉄分割・民営化から一六年たちました。この間、世界も日本も大きく変わりました。日本の政治、日本の階級闘争という点でも、総評がなくなり、社会党がなくなり、五五年体制が崩壊した。その出発点となったのが、一九八七年の国鉄分割・民営化ですが、しかしこれをめぐる闘いは、一〇四七名の国鉄闘争として今日まで連綿と闘いつがれている。これが、この一六年間の日本の階級闘争、労働運動のごく大まかな骨格だと言えます。
ここでは、この一六年間の国鉄闘争の意義を、動労千葉の闘いを軸に見ていきますが、その前提として、まず一六年間の世界と日本の動きについて簡単におさえておきます。
1.ソ連の崩壊と戦争と恐慌の時代
一言で言えばそれは「動乱の一六年間」とも言える、非常に激しい歴史的転換の時代でした。一番大きいのは、やはりソ連の崩壊です。すでに一九八九年に、ベルリンの壁が崩壊し東欧諸国が軒並み崩壊する。また中国の天安門で大きな民主化運動が起こり、中国の人民解放軍がそれを弾圧するということが起こった。そして一九九一年、ついにソ連邦が崩壊した。一九一七年にロシア革命が起こり、世界で初めて労働者が権力を握って以来七〇年たち、ついに崩壊した、これは大変な世界史的な出来事でした。
そもそも二〇世紀でもっとも大きな出来事は、一九一七年のロシア革命だと僕は思っています。そのソ連がその後、スターリン主義体制になり、腐敗・堕落し、ついに崩壊を遂げました。これによって米ソの「冷戦構造」が崩壊し、アメリカが唯一の超大国になった。
そのとたんに九一年、いわゆる「湾岸戦争」、イラク・中東侵略戦争が、アメリカを中心とする多国籍軍によって開始されました。九四年には、朝鮮半島をめぐる戦争が一触即発の情勢に入りました。九八年にはユーゴスラビアにアメリカとNATO軍が戦争をしかけました。そして二〇〇一年、九・一一反米ゲリラ事件が起こり、アメリカはアフガニスタンへの戦争を起こし、〇三年三月には米英軍がイラク侵略戦争に突入しました。
一方、全世界で経済危機が非常に深刻になっています。分割・民営化が強行された一九八七年の一〇月、いわゆる「ブラック・マンデー」、ニューヨークで株式の大暴落が起きました。それ以降、アメリカでは「経済のグローバル化」とか言って全世界の富を集め、バブル経済を一〇年近く維持してきましたが、今や「IT革命」も崩壊した。当時は、「マルクスが言っていたことはもう古い。資本主義は永遠に成長していく」と言われました。しかしそれもまったくペテンで、今やアメリカ経済も大変な危機に陥っています。
この過程で全世界で失業者がどんどん増えています。一九九四年に「ILO世界報告」が、「全世界の失業者は八億二千万人、全就業人員の三〇%にあたる」と報告しました。この後、OECDも同じような報告をしています。今や失業者や半失業者、例えば一日一ドル以下で生活をしている人が、全世界で半分近くになっています。国鉄分割・民営化政策の考え方でもある「新自由主義」は、「資本主義の原理どおりに市場原理に全部まかせて、弱肉強食の世界にしよう」ということです。強いやつは生き残るし、弱いやつは死んでもしょうがない、という論理がむき出しで強調されました。
このような、一方におけるソ連の崩壊、他方におけるまったく新たな質を持った資本攻勢の中で、日本でも、アメリカでも、イギリスでも、労働運動は大きな後退を強いられました。日本では中曽根が国鉄労働運動に襲いかかり、アメリカではレーガンが航空管制官の組合をたたきつぶし、サッチャーは炭鉱労働者の一年間にわたる闘いを圧殺した。しかし、九〇年代後半からようやくこの逆流に抗して闘う労働運動の新しい台頭が見え始めてきたことは、すでにアメリカにおける労働運動の動きとして紹介してきました。イラク開戦前夜における全世界二〇〇〇万人と言われるかつて例のない国際的反戦闘争のうねりは、これらの動きの上に初めて実現されたものです。
2.日本経済の長期不況と戦争国家化攻撃
日本でも、この一六年間は大変な出来事が起こりました。
まず経済的には、「世界第二位の経済大国」と言われた日本経済が危機に突入した。八〇年代後半に日本ではバブルが起こった。実はこれを大きく促進したのが国鉄解体をはじめとする三公社改革で、国鉄の土地と電電の株の放出が一役買っています。一九八九年の東証株価の最高値は三万八九一六円でした。当時の大蔵省、日銀や銀行、証券会社などが仕組んで、株価や地価をつり上げて、バブルを推進していった。しかし八九年をピークにバブルの崩壊が始まります。最近では株価は八五〇〇円ぐらいまで下がりましたから、ざっと三万円も株価が下がったということです。銀行や大手企業、生命保険会社などは、保有株の株価が三万円も落ちて、資産喪失総額はだいたい四五〇兆円ぐらいです。不良債権の最大の原因はこれです。九〇年代の日本経済は、「失われた一〇年」と言われるような長期不況と、底知れぬデフレの一〇年でした。
その中で、政府は人為的な景気刺激策として大量の国債を発行し続けました。国債残高は、分割・民営化攻撃が始まった八二年度末には九六兆円でしたが、国鉄が分割・民営化された八七年四月には一三〇兆円。そして二〇〇一年度末の国債残高は四四八兆円です。一六年間で三倍以上になった。さらに地方自治体の借金を加えると、六〇〇兆円とも七〇〇兆円とも言われている。いずれ一〇〇〇兆円になるでしょう。
そして失業率は、一九八七年には三・二%で「過去最高」と言われたんですが、今はもう五・六%で、一六年間で二ポイント以上も上がったわけです。
アメリカの戦争政策との関係では、日本の安保・防衛政策が戦後的な制約を大きく突破して、まさに戦争国家に飛躍してきたのがこの一六年です。「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄分割・民営化を強行した中曽根は、同時に日本の軍事大国化を強力に推し進めましたが、まだこの時点では「専守防衛」とか「海外派兵せず」などの枠内のものだった。しかし、ソ連崩壊と湾岸戦争を決定的転機として、まず「国際貢献」の旗のもとに九二年自衛隊PKO派兵が始まり、九四年朝鮮危機を経て九六年日米安保再定義、そして九七年新ガイドライン、九九年周辺事態法と続き、いよいよ〇三年に有事三法が制定された。この間、〇一年九・一一情勢下で、〇一年一〇月の対テロ特措法、〇三年七月のイラク新法を成立させ、自衛隊の海外派兵と日本の戦争国家化はいよいよ本格化してきました。
まさに日本においても、この一六年間をとおして、戦争と恐慌と大失業の時代が到来したと言えます。
3.総評・社会党の解体と五五年体制の崩壊
まさにここで最大の問題は、このような労働者人民の生活と平和を破壊する激しい攻撃の嵐に対して、これと対決すべき階級闘争、労働運動が後退につぐ後退を強いられてきたことです。
日本の政治をめぐってこの一六年間に起こったことで一番大きいのは、言うまでもなく五五年体制が崩壊したことです。一九九三年に自民党が分裂し、自民党単独政権が崩壊して細川内閣が成立しました。自民党は単独で政権を維持する力がなくなった。これをもって「五五年体制は崩壊した」と言われました。確かに戦後政治の中で一貫して野党第一党であり続けた社会党は解体しました。九三年の細川内閣に与党として参加したのが「終わりの始まり」で、翌九四年には自民党と組んだ村山内閣で政権党になる。この過程で小選挙区制に賛成し、安保・防衛政策で従来の立場をことごとく投げ捨て、転向したことの当然の結果として、九六年になると社会党は、社民党、民主党、新社会党に三分解します。
ところが五五年体制の一方の軸であった自民党は、九三年政変で一度は野に下るものの、一年後には社会党を取り込んで政権に復帰します。だから五五年体制の崩壊というのは、世界的規模での冷戦崩壊がソ連の崩壊とアメリカの一極超大国化であったように、結局戦後日本の政治における保守対革新の対立において、革新の主座を占めていた社会党が一方的な解体・消滅に追い込まれたということです。
しかし、このような日本の政治地図の一変の基底にあるのは、やはりなんと言っても、八九年の総評の解体であり、それに代わる連合(と全労連)の出発です。このことの不可避的で必然的な結論として、九〇年代中葉における社会党の解体もあったと言えます。この総評解体にいたるいわゆる右翼労戦統一の動きは遠く六〇年代にさかのぼることができますが、その最後的仕上げが八七年の国鉄分割・民営化であり、それをとおした国鉄労働運動解体の攻撃だったということです。
そこでこの総評解体・連合結成の歴史的・階級的意義という点について見ていきます。
U/総評解散・連合結成の歴史的意味
1.民間先行の右翼労戦統一運動
一九八七年四月一日にJRが発足しましたが、国労はこの当時、清算事業団に送り込まれた約七六〇〇人を含めて約四万四〇〇〇人です。動労千葉が約八〇〇人でした。動労、全施労、鉄労等々は全部解散大会をやって、鉄道労連、後のJR総連になりました。こうして、戦後の日本の労働運動を牽引してきた国鉄労働運動において、国鉄分割・民営化の先兵の役割を果たしたJR総連が主流派を占めたわけです。
その結果として、総評が一九八九年一一月に解散しました。戦後労働運動の主軸を担った総評が幕を引き、連合が発足しました。そして共産党系の労働組合は、全労連という組織を結成しました。それはまさに、右の労働組合がどんどん台頭し、総評の左派と言われた官公労の労働組合がどんどん屈服していく過程でした。
それ以来の日本の労働運動は、春闘になっても赤旗の一本も立たない。資本の言うことを忠実に実践し、それを組合員に強制する御用組合が、日本の労働組合の主流を占めるという状況になりました。その原因はいろいろありますが、国鉄分割・民営化で、中軸となる労働組合がたたきつぶされたことが大きなきっかけであることは間違いありません。
連合というのは、戦後長く日本労働運動のナショナルセンターが総評、同盟、中立労連、新産別の四つにわかれていたのを一本化して誕生したものです。六〇年代からこの労働戦線統一の動きは始まりますが、一貫して「民間先行」と言われたように、それをリードしたのは一九六四年にできたIMF・JCなどに参加したビッグ・ビジネスのビッグ・ユニオン、つまり鉄、電機、自動車など日本の高度経済成長を牽引した大企業の労働組合でした。これと全繊同盟をはじめとする同盟傘下の組合が手を組んで進めたのが労戦統一運動です。したがってそれは総評に代表される階級的労働運動を右から解体し、吸収・合併しようという志向を一貫して持っていました。
これに対して当然ながら総評、特に官公労系は強い警戒感を持ち続け、民間労働運動の右傾化・御用組合化が進む一方で、官公労、特に国鉄労働運動の戦闘化が進みました。例えば七〇年代初めに国鉄反マル生闘争が勝利すると、右翼労戦統一運動は一時大きく後退するという事態も生まれます。
しかし総評労働運動の最後のアダ花と言うべき七五年スト権ストが敗北するとともに、いよいよその動きは本格化します。総評民間の中でも最後まで抵抗していた全金(高野派の伝統を引き継ぐ)も八〇年代に入ると取り込まれ、さらに私鉄総連ものみ込まれ、連合結成の二年前の八七年一一月には、民間だけの労戦統一としていわゆる全民労連(民間連合)が生まれます。
2.国鉄労働運動が残ったことの戦略的大きさ
ここに官公労系を吸収して八九年連合結成が実現されますが、これはそういう意味を込めて「全的統一」と呼ばれました。しかしこのような表現とは裏腹に、すでに見たような流れからも想像できるように、その実態は徹底的な差別・選別でした。だから、共産党系や新左翼系など、「階級的労働運動」を標榜する勢力は徹底的に排除されました。
その中で、全逓や全電通(現在のNTT労組)は七〇年代以降急速に右展開を深め、このころはむしろ右翼労戦統一の旗ふり役を演じていました。また自治労や日教組も「バスに乗り遅れるな」「国労のようになったら大変だ」ということを合言葉にして連合に合流します。もっともこの二労組は、共産党系の一部分が自治労連と全教という形で分裂しました。
最大の問題は国労をはじめとする国鉄労働運動です。ここでは権力がむき出しの力で運動を壊滅する、特に動労革マルの裏切りと先兵化をテコに国労を解体し、JR総連というまったく新たなファシスト組合をつくることで連合に結集するということが起こりました。これを眼前にして、震え上がって、自治労や日教組の動向も決まったと見て間違いないでしょう。
だから、連合結成にいたる右翼労戦統一と第二臨調のもとでの国鉄労働運動解体攻撃は、あざなえる縄のような関係で一体的に進行しました。後者の成就なしに前者の完成はあり得なかった。国鉄労働運動の解体は、連合にとっても一産別の動向という次元にとどまらない、その成否を決する大きさを持っていたということです。
しかし連合の結成の時点で、敵はいまだ国労も動労千葉もつぶしきれなかった。そして連合結成の直後から国鉄分割・民営化反対の闘いは、国鉄清算事業団から首を切られた一〇四七名の国鉄闘争として出発し、今日まで続いている。当時僕は、「国労が入らない連合なんて、クリープの入っていないコーヒーみたいなもんだ」と言った記憶がありますが、国鉄闘争の存在は今なお連合の喉元に深く突き刺さったトゲのような位置を持っているということです。
3.ルビコン河を渡った連合
この連合の初代会長となったのが、全電通出身の山岸章です。山岸は徹底して政治志向を貫き、九〇年代に入って起こる五五年体制崩壊を前後する政治再編劇にうつつを抜かした人間です。そしてこの過程で連合の階級的性格も完全に明らかになっていきます。一言で言えば、総評も同盟も、左か右かの違いはあれ、社会党や民社党という労働者を基盤とする政党を支持してきました。しかし連合が支持するのは歴然たるブルジョア政党になります。ブルジョア政党を支持して、テンとして恥じるところがなかった。
もちろん労働組合にとっては、常に自分たちの利益を代表する政党が必要です。政権政党がいかなる政党であるのか、自分たちの支持する政党が議会でどれだけの位置を占められるかは大きな問題です。旧総評においては、選挙において社会党支持一本を打ち出す本部に対して、「政党支持の自由」という右翼的スローガンを掲げて、共産党系の労組が共産党支持を訴えるというのが年中行事になっていました。これに対して一般に右翼労戦統一の出発点になったと言われる六七年一月に『月刊労働問題』に掲載された宝樹論文(宝樹は当時全逓委員長)は、七〇年に向かって自民党政権に代わる政権を打ち立てるために、社会党と民社党の連立、さらに総評と同盟の統一を呼びかけたものでした。共産党はそこから排除されていました。
このように当初から政治志向の強い右翼労戦統一の動きは、七〇年代半ばに高度経済成長が終わり、職場や地域の闘いで要求を獲得することが困難になってくるとともに強まり、いわゆる「制度・政策要求」闘争と呼応しながら進んでいきます。労働者大衆を組織し、職場闘争やストライキで要求を実現するのではなく、「経営参加」や「国政参加」をとおして、そこでの交渉によって要求を実現しようとする。しかしそもそもこの「制度・政策要求」闘争という言葉を最初に使ったのは共産党で、総評も七四年の「国民春闘」以来こうした主張を始めます。だからこれ以降、この言葉がもっぱら右翼労戦統一運動と一体のものとして語られるようになった。そして、「そのためにも、共産党は排除し、万年野党の社会党を変革し、自民党政権に代わる政権をめざそう」と主張されても、総評はこれに抗することができなくなったわけです。
八九年に連合が結成された時も、旗印は「自民党政権に代わる政権の樹立」であり、「二大政党制の確立」でした。しかしこの時の非自民とは、従来言われていたような単なる社公民ではありませんでした。同じ八九年に土井社会党が、消費税・リクルート問題の参議院選で大勝し、これを決定的な契機として当時の自民党幹事長小沢一郎の主導で「政治改革」運動が始まり、九二年末には自民党の最大派閥・竹下派が真っ二つに割れ、翌年小沢の率いる新生党が生まれます。これが九三年総選挙での新党ブームと自民党敗退、五五年体制崩壊の引き金になりますが、この時、小沢と手を組んで「政治改革」に突っ込み、社会党の解体に血道をあげ、小沢の新生党を公然と支持したのが、連合の会長山岸だったんです。連合はこの時、ルビコン河を渡ったわけです。
4.激しく進む連合の危機と空洞化
しかし、この山岸路線は無残に破産します。小沢の新生党はその後、公明党、日本新党、新党さきがけなどとともに新進党を結成します。ところがひとたび野党となった自民党は、これに対して社会党と手を組み、社会党党首村山を首班とする内閣をつくる(九四年)という離れ業を演じて、与党に復帰しました。自民党と対抗してできた新進党といえども、しょせん利権が命綱のブルジョア政党で、野党になったとたんにたちまち空中分解した。こうなると連合の支持政党はバラバラになり、連合の存在そのもののかなえの軽重が問われることになります。山岸以降の連合はいったい何なんだ、という話になる。
ちょうどそのころ、九五年に日経連プロジェクト報告「新時代の『日本的経営』」が出されます。終身雇用制や年功序列賃金制を切り捨てるというこの日本ブルジョアジーの大方針は、当然にもそれと一体のものとしてあった企業別組合を直撃し、その上に存在していた連合を直撃します。これによって連合は以後急ピッチで空洞化を深め、前に見たように、今日では日本経団連からさえ危機感をもたれる、つまり「御用組合として、産業報国会としてこれでは有効に機能しない」と心配されるというところまで落ちぶれます。
そもそも連合には、かつての同盟のような労働組合主義もない。右は右なりに、例えば旧総同盟の流れを組むゼンセン同盟などの場合は、労働者と資本家の対立という考え方はある。彼らは戦前は「三反主義」といって、反資本主義・反共産主義・反ファシズムの旗を掲げていました。戦後は総評が強かっただけ反共が前面に出ていたけれど、資本家もあまりひどいことをやったら闘うという姿勢はある。こういう姿勢は、ゼンセン同盟や海員組合などの旧総同盟系には今もあります。しかし連合の中でも、中軸をなしているJCの流れを組む自動車や電機などは、もうまったく資本の労務担当以上でも以下でもなくなっている。それは労資協調主義でさえない。
その結果どうなるか。連合結成とともに、地域的には、総評時代の地区労は次々解体されて、地域連合がつくられていきました。しかしこれによって地域の運動体はことごとく解体されてきた。そもそも職場闘争がない。組合員教育をやらない。だから活動家が育たない。地域の労働運動を支えられなくなっています。総評時代には、例えば千葉の全逓出身の赤桐操は、別に全逓本部の役員をやっていたわけではないけれど、千葉県労連の役員をやっただけで国会議員になっていた。今の連合では考えられないことです。
連合は結成時八〇〇万人で、早急に一〇〇〇万人連合をめざすと豪語していたんです。しかしその後、組織人員は減る一方で、今では七〇〇万人を割っています。しかしこれはまだいい。問題はその内実の激しい空洞化です。一昨年の参議院選挙では、連合の組織内候補に集めた票は全国あわせて一七〇万票弱です。組織の内部崩壊的現実が、選挙において隠しようもなく表れていると言えます。連合はまさに崩壊的危機に立っており、その中で、〇三年の会長選挙が初めて組織を二分する選挙になるということが起こっている。
しかしこの危機はいずれにせよ連合をいっそう反動的な方向へ導いていくでしょう。九〇年代前半、例えば安保・防衛政策について連合は、傘下単産・単組の意見の食い違いで意見をまとめられなかった。しかし連合は〇二年五月には、有事法制を支持する見解を出し、〇三年三月には北朝鮮問題で排外主義的な立場を表明しています。労働法制改悪問題などでも結局権力・資本の手先の役割を担っていることは明白です。
5.連合の対抗基軸としての国鉄闘争
この連合結成に対抗して共産党系の全労連がつくられますが、これはまったく連合の対抗基軸になりませんでした。そもそも共産党にまじめに労働運動を指導するなどという考え方がない。共産党の選挙のためにどちらが有利かという基準だけで全労連結成に踏み切ったのでしょう。この連合に対する対抗基軸となったのは、あくまで国労を中心とする国鉄労働運動であり、この周りに集まった「(連合に)行かない、行けない」労働組合の結集体としての全労協でした。
連合も全労連も、労働者大衆に顔を向けていないという点ではまったく同じです。職場や地域で労働者を組織し、闘いを巻き起こし、その力で要求を闘いとるという考え方はほとんどなくなっていました。彼らの顔はどこに向いていたのか。それはもっぱら経営と行政に向けられ、そこでなんとか若干のおこぼれにあずかり(制度・政策要求闘争)、それによって労働者大衆を支配し、つなぎ止めておくというのが彼らのすべてでした。特に連合の場合は、こういうことになれば、支持政党も野党よりも与党の方が話が早い、新進党がダメなら自民党に接近しようとなるのは当然の結論でした。
これに対して国鉄労働運動は、この総評解体以降の日本労働運動の右翼化と無力化の流れからいわばはみ出した存在でした。はっきり言って国鉄労働運動の中でも、国鉄分割・民営化を強行した国家権力とその結果生まれたJR資本に対して、組合員の力を総結集して、職場生産点からの死力をつくした闘いを挑んだのは、動労千葉だけだったと断言できます。国労は八六年の修善寺大会で屈服を拒否した(これはもちろん極めて重要で、これがあったからその後の国労も存在できたのですが)ことを除いて、闘いらしい闘いを何ひとつ組まないまま、今日まで来ています。
にもかかわらず、国労という総評労働運動の最有力単産が、総評がなくなって一四年間も連合に加わらず存在し続けているのは、一にも二にも、一九八七年四月時点で七千数百人がJR不採用になり、さらに九〇年四月時点で一〇四七人が国鉄清算事業団から解雇され、これに対する「解雇撤回・地元JR復帰」の闘いが続いてきたことにあります。国労本部はこれに対して、労働委員会闘争以外にこれといった指導をしてこなかった。いや当初から一日も早く国鉄闘争を終わらせたいという姿勢を露骨に示していたんです。しかし国労闘争団や動労千葉争議団、全動労争議団の不屈の闘いがこれを許さなかった。そしてこの闘いは、国労組合員だけでなく、連合傘下で呻吟する多くの労働者の共感と結集を組織しました。「この仲間たちを見捨ててよいのか」という広範な労働者の意識が連合内外に沸き上がり、それに支えられて一〇四七名の一六年間の闘いという、文字どおり史上最大・最長の争議団闘争が、国鉄分割・民営化を強行した国家権力と真っ向から対決するものとして今日まで継続してきたのです。ここにこそ、まさに連合に対する鋭い対抗基軸があったわけです。
V/国鉄一〇四七名闘争の一六年
一言で一六年と言っても、それは極めてダイナミックな攻防の一六年でした。一九八七年四月一日に国鉄が解体され、JRが発足してから今日までの間に、大きな節目・関門が三回ありました。
第一は九〇年四月一日で、国鉄清算事業団から解雇された一〇四七名の国鉄闘争が始まった日です。権力とJRとJR総連がまったく予測していなかった事態が発生したわけです。
第二は九四年一二月二四日で、村山自社さきがけ政権の亀井静香運輸大臣が国労に対する二〇二億円損賠訴訟を取り下げた日です。権力の姿勢が、「力による国労解体」から「取り込み」に変わった。
第三は九八年五月二八日で、東京地裁が一〇四七名問題に関する労働委員会命令を全面的に覆す極反動判決を出した日です。権力の姿勢が再び力ずくの国労解体路線に変わった。これは〇〇年五月三〇日の「四党合意」まで続きます。
1.国鉄清算事業団の三年間
八七年四月一日、JRに不採用になった(所属組合ゆえに採用差別された)国鉄労働者は、正確には七六二八人で、大半が北海道と九州の国労組合員でした。彼らは各地につくられた国鉄清算事業団雇用対策支所に送り込まれ、三年間の期限つきで「再就職をあっせんする」という触れ込みで、実は毎日狭い部屋に座らされました。そしてまったくアリバイ的で劣悪な再就職先を紹介されるだけで放置され、結局自ら仕事先を見つけて去っていくにまかされた。権力・国鉄清算事業団の予定では、三年間もたてば全員が嫌気がさして辞めていくに違いない、そうすれば国鉄分割・民営化時の「余剰人員」問題は、形式的には一人の首切りもしないで解決できるという計算でした。
確かに多くの労働者が生活上の止むを得ない理由から、JR以外の再就職を決断し、あるいは北海道、九州から本州のJRへの広域採用に応じるなどしました。しかしそれでも九〇年三月が近づく中で何千人という規模の労働者があくまで「解雇撤回・地元JR復帰」を求めて清算事業団に踏みとどまった。この背景には、国労がこの問題で唯一取り組んだ闘いと言ってよい労働委員会闘争で、八八年ぐらいから各都道府県地労委で次々と組合側完全勝利の命令が出たことがあります。
採用差別が国家的不当労働行為であることを認め、原地原職奪還を求めた国労側の申し立てに対して、JRは、「たとえ不当労働行為があったとしても、それは国鉄がやったことで、別法人の新会社JRに責任はない」という傲慢な態度に終始し、労働委員会そのものに出席しませんでした。こうして地労委の審理では、組合側の主張だけが一方的に述べられ、反対意見もない中で、ある意味では当然ですが、組合側が完勝しました。しかしこれが清算事業団に送られた労働者を大きく激励したことは事実です。
国労本部の対応は、あくまで九〇年三月までに清算事業団の労働者を再就職させようというもので、革同や協会派などは八八年ごろから、「このままでは(つまり清算事業団にまだ何千人も労働者が残っているようでは)、間もなく最終的な首切りが来る」と危機感をあおり、特に革同の活動家などを北海道、九州から本州への広域採用に応じる方針に血道をあげたんです。それでも家庭の事情などでどうしても地元を離れられない労働者が多く残ったわけです。
そういう中で国労本部が打ち出したのが、八九年六月の臨時大会における「全面一括解決要求」路線です。今日まで国労をしばりつけている和解路線の出発点がここにあります。それはせっかく地労委で完勝しているという有利な情勢だったのに、あくまで国家的不当労働行為との闘いにシロクロをつけようとするのではなく、「採用差別問題からスト権スト時の二〇二億円損賠問題までを一緒に中労委の場で和解解決しよう」という路線でした。
さらに九〇年四月が目前になると、社会党の田辺書記長と自民党、労働大臣、運輸大臣は、「いったんJRに復職させて、同日付で退職する」という、炭労三池闘争の時の「藤林あっせん案」と同じようなもので和解決着することを策動しました。当時のJR東日本の担当者は「国労はこれを飲むんじゃないか」と言っていました。
しかしこうした和解交渉を完全に吹き飛ばしたのが、九〇年三月の動労千葉の八四時間前倒しストライキです。その結果として、四月一日付で清算事業団から一〇四七人が解雇され、ここから一〇四七名闘争が始まったわけです。
2.国鉄闘争の開始とJR総連の大分解
一〇四七名が九〇年四月一日の関門を突破したことは、JR体制、国鉄分割・民営化体制の根幹を揺るがす事態でした。もっとも激甚に反応したのがJR総連です。自民党や社会党などではこの間、四桁の労働者の首切りという事態を何度目かの広域採用などで解消しようという動きが強まりますが、これに対してJR総連は「政治介入は許さない」「ゴネ得は許さない」などとわめきながら、労働者の首切りを要求する「総決起集会」を日比谷野音で開きます。さらに松崎は「もし清算事業団の労働者を少しでも再雇用するなら、ストライキで闘う」などと血迷ったことまで言い始めます。
このことを契機に、翌九一年初めにはJR西日本労組委員長がJR総連に対して「絶縁宣言」を出し、西日本、東海、九州、四国と箱根以西のJR総連傘下の単組が次々とJR総連を脱退、九二年五月にはJR連合が結成された。ここにJR労働運動は、依然として東日本、北海道、貨物を握るJR総連と、箱根以西を制したJR連合、そして闘争団を抱えた国労が鼎立するという状況に突入します。
国鉄分割・民営化というのは、結局国労を中心とする国鉄労働運動を根絶やしにする攻撃でした。それにとって代わるものとして当初は自民党とも太いパイプを持って登場したのが、旧動労革マルを中心とするJR総連でした。国家権力も、自民党も、JR資本も、JR発足後に望んでいたのは、「一企業一組合」としてのJR総連の全一支配でした。しかし国労修善寺大会に続いて、九〇年四月における一〇四七名闘争の出発は、このJR総連を文字どおり空中分解させ、権力が描いてきた労務政策の根本的見直しを強いたのです。
3.二〇二億円訴訟問題と国労取り込み策動
この中で次の大きな転機となったのが、九四年一二月、亀井静香による二〇二億円損賠訴訟の取り下げです。
九〇年代に入ると、一〇四七名の攻防の舞台は中央労働委員会に移ります。国労は地労委での完全勝利の上に、当然中労委での早期の勝利命令を求めるべきでした。しかし国労はあくまで八九年の「全面一括解決要求」路線にそって、中労委での和解を求めたのです。中労委はズルズルと引き延ばしますが、九三年一二月になるとこれ以上引き延ばせなくなり、北海道と大阪の採用差別事件に関する命令を出します。それは、JRの当事者責任があることは認めたものの(JR側の、「国鉄とJRは別法人だから不当労働行為があってもJRは無関係」という主張は退けたものの)、不当労働行為の成立そのものについては、大阪の二人については否定。北海道は一七〇〇人余という膨大な申し立て人のうち一部に不当労働行為が成立することは認めたものの、その範囲はJRの「公正な選考」に委ねるというふざけたものでした。そしてこの後、国労本部は政治和解路線にカジを切り、その延長で九四年一二月の事態が起こります。
二〇二億円損賠訴訟というのは、七五年スト権ストに対する報復として自民党の圧力で国鉄当局が国労と動労を相手取って起こしたものですが、動労に対しては八六年八月の時点で、動労が国鉄分割・民営化の先兵になったことのご褒美として取り下げられました。そしてその分も含め全額が国労にかぶさってきた。長期の裁判が続きましたが、九五年春には判決が予定され、ほぼ国労側の敗訴は確実とされ、その場合は二〇年間の利子を含めると四〇〇億円の損害賠償の支払いが国労に義務づけられると言われていました。そうなれば国労会館を含め、国労の全財産に赤紙が張られることは確実で、国労にとっては存亡にかかわる問題でした。
このような二〇二億円問題での亀井の動きの意味するところは明白で、要するにそれまでのJR総連を使った力で国労を解体する方針から、国労を取り込もうということだった。二〇二億円損賠訴訟を取り下ろすのと引き換えに、国鉄一〇四七名闘争を一定の水準で解決させて終わりにしちゃおうということです。実際、当時は何百人かをJRに採用するという噂もあったんですよ。
箱根を境に東西で大分裂したJR総連は、この過程で革マル的ファシスト性をむき出しにしてあがきにあがいた。こうしてJR総連は箱根以西のJR資本に見捨てられるだけでなく、権力中枢の目にもさすがに容認できない存在と映っていく。二〇二億円問題は、結局権力中枢がJR総連に見切りをつけ、その代わりに国労をからめとり、内部から変質させていこうとする方針への転換だったわけです。
4.和解決着策動に対するJR各社の拒絶
当然これに対してJR総連は激しく反発し、「国労による亀井への秘密献金」などのデマキャンペーンを大々的に張ったり、国労を「カメイ組合」などと呼んで、組織のタガはめに必死になりますが、これは逆にJR総連内、とりわけその最大の拠点JR東労組内における非革マル分子の動揺と離反の動きを促進し、九五年末までに新潟を中心とした旧鉄労系の分裂が起こります。そして九六年に入ると、当時のJR東労組の委員長が実は反松崎・反革マルの首謀者であることが明らかになるなどの騒ぎの中で、革マルは一連の列車妨害などによって「権力の謀略」論を振りまくなど、ますます墓穴を深めていくようになりました。
しかし、亀井という政府・自民党中枢の二〇二億円損賠訴訟取り下げをテコとした国鉄一〇四七名闘争の和解決着の策動は、別にこのようなJR総連・革マルの悪あがきによって粉砕されたのではありません。最大の問題はJR各社の対応でした。亀井はこの時、JR各社社長に会っていますが、この問題では、西も東もなく、すべてのJR会社社長が、亀井の言う和解決着(一〇四七名のうちの一定数のJR採用を含む)を一致して拒否しています。亀井は激怒して、JR東日本の松田社長に「おまえは革マルか」と言ったら、松田が「いや、革マルではありません」と答え、それに対して「革マルと仲良くしている連中はみんな革マルだ」と言ったとか言わないとかいう話も伝わっています。いずれにせよ、この時点での権力側の国労取り込み(その裏側でのJR総連切り捨て)路線による一〇四七名問題解決という思惑は、何よりもJR資本が拒絶したことによって挫折しました。★
この中で国労本部は、「このチャンスを逃したら大変だ」とばかりどんどん屈服を深めていきます。八六年八月三〇日に国労が行ったJR各社への申し入れは、「国鉄改革法に基づいて推移している現状を承認」という表現で、国鉄分割・民営化を正式に認めました。明白な路線転換であり、亀井の二〇二億円訴訟取り下げに対する国労側の回答でした。同時に中労委命令以降、採用差別事件がかかっている東京地裁も、九七年五月には結審し、この時点でJR、国労、中労委、清算事業団の関係者に和解勧告を出すにいたります。しかしここでもJR各社が一貫して拒否の姿勢を貫くことでこの政治和解策動は挫折します。
5.九八年五・二八東京地裁反動判決
九八年五月二八日の採用差別事件に関する東京地裁判決は、このような国鉄問題をめぐる身動きとれないすくみあい状態を反動的に突破するものでした。判決は二つの部から出され、若干の違いはあったけれど、ともに労働委命令を全面否定する極反動判決であることに変わりはなく、特に片方はJRの当事者責任性を完全否定するものだった。それは事前の和解勧告でJRをも関係者とあつかってきた裁判所の姿勢とも矛盾する判決で、一言で言って、労働三権を保障した憲法二八条よりも国鉄改革法の方を高位に置いた判決でした。
「すばらしい判決が出ることは間違いない」という幻想をあおってきた国労本部も、国労弁護団も、協会派も、革同も、これで骨が折れます。国労はこの反動判決に怒りを燃やして反撃に移るのではなく、九六年八・三〇路線転換の延長で、全面屈服の道をひた走ります。九八年八月の国労大会には、突如、宮坂書記長が「補強五項目」を出した。その内容は、国鉄改革法承認、不当労働行為提訴の取り下げから国労の名称・組織のあり方の「検討」まで含むもので、さすがにこの大会一回だけでは通らなかったけれど、翌年三月の臨時大会では、国鉄改革法承認だけが強行採決されます。
そしてさらに翌二〇〇〇年五月三〇日に登場するのが「四党合意」です。四党合意とは、与党三党(自民・公明・保守)プラス社民党の合意です。その核心は、「国労がJRに法的責任がないことを認め、それを大会で承認しろ」ということで、結局九八年五・二八東京地裁判決を全面的に受け入れろというものでした。さすがにこの直後に開かれた七・一国労臨時大会では、闘争団とその家族の怒りが爆発して、演壇占拠によって議事が中断し、四党合意受け入れは阻まれますが、国労本部は引き続き、八月、一〇月と大会を重ね、〇一年一月二七日の臨時大会で機動隊によって大会会場を包囲する異常事態の中で強行採決しました。
しかし、四党合意は「JRに法的責任がないことを大会で認めれば」「人道的観点から」「雇用の確保等の検討」とうたっていたにもかかわらず、敵はさらにハードルを高め、今度は「まだ国労内に四党合意反対派がいるからダメだ」などと言い出し、これに押される形で、国労本部は〇二年に入ると、「四党合意」にあくまで反対する闘争団員を除名処分するための査問委員会を設置します。そして五月二七日の国労臨時大会では、闘う闘争団の査問委送致を決定した。そしてこの五・二七臨大の暴挙に反対して宿舎でビラまき・説得活動にあたった国労組合員ら一〇人を一〇月になって警視庁が逮捕し、八人の仲間を起訴するという暴挙が発生しました。八人は逮捕から一〇ヶ月たっても、まだ勾留されています。
四党合意そのものは、〇二年一二月に、結局国労内に根強い反対勢力が存在することを理由にして、自民党、公明党、保守党の与党三党が離脱を表明、完全に破産します。しかしこれによって権力はいっそう凶暴化し、まさに有事体制下の労働運動対策という名にふさわしい、警察権力のむき出しの暴力によって国鉄闘争をつぶす方向に突き進んでいます。国鉄闘争は、分割・民営化から一六年を経て、新たな転換期を迎えています。
W/動労千葉の一六年間の闘い
動労千葉は現在約五〇〇人の小さな労働組合です。しかし動労千葉は分割・民営化時に二波のストライキをうち抜き、JR体制下でも闘いにつぐ闘いで組織の団結を維持してきました。だから、僕たちは誇りを持っていますよ。でも国労では、四党合意が粉砕された今、本当なら四党合意反対派が組織のヘゲモニーを奪わなければならないのに、まったくそうなっていないんです。四党合意がなくなって、賛成派も反対派も展望を失い、九月定期大会を前にまさに国労は存亡の危機に立っています。国労を今日まで国労たらしめてきた闘争団も例外ではありません。「お父さんは何も悪いことをしていないのに、こんなひどい目にあった」と訴えるだけでは、はっきり言ってダメです。
国労にないのは、JR資本との闘いであり、国家権力との闘いです。労働組合である限り、資本との和解はいくらでもありえます。しかし和解路線はダメです。闘いと闘いによる職場、地域、産別、そして全国的な階級的力関係を変えることなしに、われわれ労働者は前進できないし、なんの成果を獲得することもできない。この当たり前のことを、今こそはっきりさせるべきだと思います。
今国鉄・JR労働運動は、JR東労組の分裂騒動も含め、再び戦国乱世的な様相を深めています。そしてこの戦争と大失業の時代において、今こそ全国の無数の労働者が、総評労働運動をのりこえる階級的労働運動の再構築を求めています。国際階級闘争の新たな高揚が日本の労働者人民の階級的覚醒を急速に促進しています。そういう立場から以下、動労千葉の一六年の闘いとその教訓について若干述べます。
1.JR体制下での新たな闘いの柱
動労千葉は分割・民営化に反対して二波のストライキを闘い、二八人が解雇されました。そして一二人が採用差別で清算事業団に送り込まれました。本部や現場の中心的な活動家が全部首を切られて、四〇人の被解雇者を抱えたわけです。特に津田沼や千葉運転区というストライキの拠点支部は活動家が一掃されましたから、それは大変なダメージだった。財政的な問題だけじゃない。労働組合とは、本部があり支部があり、そこで活動家や役員が日常的な活動を展開し、組合員に多くの情報を提供し、組合員の要求を吸い上げ、組合のさまざまな諸行動に参加するという体制があって、初めて成り立つ。そういうことを担ってきた活動家が四〇人解雇されたわけですから、それは大変でした。
被解雇者四〇人は、それぞれアルバイトに出たり、物販活動に出たりしたから、基本的に現場から四〇人の活動家がいなくなっちゃったわけです。その後、新しい執行体制を組むと、それがまた配転で飛ばされる。一番極端な例は津田沼支部で、支部の執行部三役が全員千葉運転区にボンと転勤させられるなんてことまで起きた。役員をつくると、それがまた配転される。こういう中で、本部は被解雇者が役員になっていたから大丈夫でしたが、支部の執行体制をどうつくるのか、大変苦労してやってきた。とにかく各支部の組合員がよくこたえてくれて、各支部の体制を一生懸命つくってくれた。これが動労千葉がこの大きな難局を乗り切れることができた最大の力でした。
そういう中で八七年四月、JRが出発した。これだけの傷を受けていますから、本来ならば傷をいやす時間が多少必要で、当時、組合員とも「しばらく温泉にでもつかってゆっくりしようか」なんて話をしていたんだよね。だけど敵の攻撃はそれを待ってくれなくて、結局ただちに闘いに突入したんです。
そこでその時、動労千葉はどういう闘いをやろうかと考えて、いくつかの柱を立てました。
◎分割・民営化反対闘争による二八人の公労法解 雇と国鉄改革法による一二人の採用差別との闘 い
ひとつは分割・民営化反対闘争で公労法解雇された二八人、そして採用差別により国鉄改革法で不当労働行為を受けて首を切られた一二人、この解雇撤回闘争をまず何よりも第一におきました。解雇撤回闘争を闘うということは、裁判や労働委員会闘争などの闘いもあるけれど、財政的な基盤をつくることが必要ですから、全国で物販闘争を展開することを含めて、組合員が一丸となってやり抜こうということを、大きな柱に据えた。
公労法解雇の二八人は解雇された時点で裁判闘争に入り、清算事業団に送られた一二人についてもただちに裁判を始めました。当初は、「労働委員会で勝利命令をとっても、どうせJRは従わないんだから」という判断で、まず裁判を始めたんですが、労働委員会闘争も並行してやろうと決めて、一年後に始めました。それでも千葉地労委では、九〇年三月闘争を前にして、二月には勝利命令が出ました。
◎JR発足後の新たな組織破壊、強制配転、出向、士職登用差別、昇進・昇格差別、業務移管、基地廃止攻撃などとの闘い
JR発足後も、分割・民営化に抵抗した唯一の組合である動労千葉に対して、組織破壊攻撃が執拗に続きました。例えば、分割・民営化を前後して、成田、勝浦、佐倉という伝統ある動労千葉の三つの拠点職場が廃止された。それぞれ、資本にとっても合理的な理由で廃止されたのではない。効率から言えば、成田に運転区があった方がいいわけですが、いまだに成田は運転区を廃止したままで、成田車掌区だけがある。かつては二〇〇人の運転士がいた総武線の拠点の津田沼電車区も、ものすごい数の車両を抱えながら、乗務員は数十人しか配置しないで、いまだに無理な運行を続けています。JR資本にとっても非効率的な運行を続けているのは、すべて、動労千葉の拠点つぶしだけを目的としているからなんです。
労働組合にとって、三つの拠点職場を奪われるということは大変なことです。しかし動労千葉は、職場の廃止という大攻撃と闘いぬき、それをうち破って新たな団結を形成し、新たな支部を結成して闘ってきました。
また、分割・民営化から一六年間、一貫して、動労千葉の組合員は昇職や昇進で差別され続けています。JR移行の時点で、運転士の資格を持っていた当時二二〜三歳の組合員が、今はもう四〇歳になっているのに、★いまだに運転士に登用されない。この「士職登用」問題は、千葉地労委では勝ったけれど、中央労働委員会で塩漬けにされたままです。後から平成採で入ってきた若い労働者はみんな運転士になっているのに、動労千葉の組合員はまだ運転士に登用されない。運転から駅、営業業務に配転された組合員も、今でも四〇人以上、そのまま置かれています。
JRの運転士は、普通の運転士は指導職、その上に主任職があるんですが、動労千葉の組合員は主任職が圧倒的に少なくて、みんな指導職です。検査係も同じで、主任職はほんの数人しかいません。動労千葉の組合員については昇進、昇職もまったくできない。これらとの闘いが二番目の柱です。
◎JR発足以降も続く極限的人減らし、反合理化・運転保安確立の闘い
分割・民営化の過程で、一九八二年には約四〇万人いた国鉄労働者が一九八七年四月には約二〇万人、つまり半分に合理化されました。旅客の仕事は増えたのに半分の労働者で仕事をしているわけだから、それ自体が大変な合理化と労働強化ですよ。しかしそれに加えてこの一六年間、さらに合理化攻撃が続いています。だから当然にも、列車の安全の危機が深刻です。これに対して、動労千葉の伝統である運転保安闘争、運転保安闘争というのは動労千葉用語なんだけれど、列車の安全を守る闘い、これを三番目の大きな柱に据えました。
◎激化する反動と侵略戦争と対峙する反戦・政治闘争
四番目に、この過程で、日本政府は日米安保を再定義し、アメリカが戦争をやる時には日本も一緒にやる体制に変えたわけです。九六年に日米安保共同宣言が出され、九九年には周辺事態法をはじめとする新ガイドライン関連法がつくられた。そして〇三年、いよいよ戦争をやるための法律である有事法制も制定された。労働関係その他、大変な反動的な治安弾圧の法律がどんどん出てくる中で、これに反対する反戦闘争、政治闘争をしっかりと闘うことを、もうひとつの柱にしました。
◎総評崩壊後の闘う労働運動の新潮流運動を創造 する闘い
五番目は、総評がなくなった後、労働組合が全体として弱体化していく中で、「たたかう労働組合の新しい潮流をつくろう。闘う労働組合の共闘関係をつくり、労働運動全体が闘う体制をつくっていこう」という取り組みです。
一九九八年からは、関生支部、港合同と動労千葉の三組合が呼びかけて、「闘う労働組合の全国ネットワークをつくろう! 一一・八全国労働者総決起集会」を開催しました。闘う仲間たちの賛同と協力によって、毎年一一月に集会を積み重ね、二〇〇二年の一一・一〇集会で第五回を数えるにいたっています。
これまでのさまざまな問題をのりこえて、今こそ闘う労働組合が大同団結することが求められているという思いを込めて、「全国ネットワークをつくろう」と呼びかけたのです。
◎総じてJR―JR総連革マル結託体制をうち破り、組織拡大をかちとる闘い
その全体をトータルして、JR東日本におけるJR資本とJR総連革マルの結託体制という異様な体制をうち破って、組織の強化・拡大をはかっていく闘いを、当初から動労千葉の基本的な方針に据えて闘ってきました。
2.動労千葉の主な闘い(その1)
JR体制下において動労千葉は以上のような六つの柱を立てて闘ってきましたが、ここではさらに具体的にいくつかの典型的な闘いを紹介してみましょう。
◎強制配転に対する初めてのスト
JR発足後、まず強制配転問題が起きました。駅の売店やうどん屋、ミルクスタンド等々に組合員が強制配転されましたから、これに対するストライキは八八年から始めました。八八年四月の第一四回臨時大会で、「長期波状ストで闘う」という方針を決定し、反撃を開始しました。
八八年五月には、千葉駅や亀戸駅、銚子駅などで次々とストに立ちました。JR発足後初めてのストライキです。しかし例えば、五月二〇日の亀戸駅ミルクスタンドでのストは、たった一人の組合員のわずか一時間のストに過ぎないのに、動労千葉の動員者一〇〇人に対して、機動隊、私服刑事、職制六〇〇人がホーム、コンコースをうずめ、応援に行った組合員を全員逮捕しかねないほどの常軌を逸した弾圧体制の中での闘いとなった。警視庁としては「動労千葉は千葉の片隅でやっていろ。江戸川を越えて東京まで出てきたのが許せない」ということだったのかもしれない。とにかく非常に憎悪に満ちた弾圧体制でした。
◎東中野事故糾弾・JR発足後初の乗務員スト
そして八九年一二月五日、満を持して、JR移行後、本線乗務員を初めてストライキに入れました。前年の八八年一二月に、中央線の東中野駅で追突事故が起こり、動労千葉の組合員ではありませんけれど運転士が死に、乗客も死んだんです。これをめぐってそうとう団体交渉をやったけれどらちがあかず、ちょうど一年後の一二月に、「東中野事故一周年・運転保安確立」を掲げてストに立ち、三五〇本の列車を運休に追い込みました。
この八八年ごろ、全国で貨物列車の追突や脱線・転覆事故が次々発生したんです。JR貨物は自分の線路は持っていませんから、東日本であればJR東日本の線路を借りて貨物列車を走らせているわけです。そうすると、列車を運行するための列車司令は東日本会社の労働者だから、他の会社の列車である貨物列車のことを忘れちゃって、それで貨物列車の事故が続発した。
そういう中で、動労千葉が運転保安闘争としてストに立ったことは、多くのJR労働者に共感を持って受け止められて、この闘争は大成功しました。やはり労働者は闘うことをとおして団結を固める。そのことによって動労千葉は、分割・民営化をめぐる攻防で受けた大変な傷をいやすことに成功したと思っています。
◎一〇四七名闘争の出発を飾る九一年三月スト
九〇年四月の清算事業団労働者の首切りを目前にした三月一八日、動労千葉は「労働委員会の命令を守れ。動労千葉一二人の採用差別者をJRに復帰させろ。解雇は絶対に許さない」と八四時間のストライキを構えました。当初は国労にあわせて一九日から二一日の七二時間ストを予定していたんですが、本部役員を職場に入れなかったり、津田沼支部では組合事務所の周りをトタンで囲い込んだり、いろいろなスト妨害がやられて、「正当な労働組合の争議行為に対する明らかな介入だ」と抗議して、一二時間前倒しでストライキに突入しました。
当局はこの時、JR総連革マル系の運転士を全部スト破り要員に動員して、異様なまでのスト封殺体制を敷いた。三月一九日の始発からストをやる予定だったから、始発からスト破りダイヤを組んだわけです。それが半日前の一八日正午からストライキに入ったから、東京圏、東京―千葉が完全にガタガタになっちゃった。総武快速線もガタガタ、東京まで全部止まりましたよ。
JRになって唯一よかったことは、ストライキ権が合法化されたことです。国鉄時代は、ストライキをやるたびに首を切られたり、処分されたりしていたのが、JRになってからは、組合が団結してやる気になりさえすればストライキがいつでもできる。当局もそれには介入できないわけです。しかしその代わりに、当局がいろいろな制限をつけてきました。
そもそもJRになってから、労働協約が全面的に変わって、「労使関係に関する協定」という総合協約になりました。JR総連や国労は締結していますが、動労千葉は、会社側が圧倒的に有利で労働組合はその下僕という扱いの労働協約であるため、締結を拒否しています。そのため、例えば団交の時、普通なら団交の交渉員は勤務を解放して団交ができるけれど、動労千葉はそれができない。苦情処理委員会も動労千葉とJRの間にはないし、職場に組合の掲示板もない。今、被解雇者が多いから専従は置いていませんが、労働協約を結ばないと専従も置けないんですよね。
その「労使関係に関する協定」に、ストライキに関して「何日前に通告しろ」「どの範囲でストライキをやるのか。いつまでやるのか」などの通告義務がある。動労千葉は協約を結んでいないから、本来なら自由にできるわけです。しかし一応、「何日からストライキをやる」ということは今でも通告しています。そしてストライキの通告書には必ず、「もしストライキに不当な介入をした場合には、戦術を拡大して対抗する」と書いているんですよ。例えば一〇〇人をストライキに入れる予定だったのを二〇〇人にするのも戦術拡大だし、二四時間ストライキを四八時間にするのも戦術拡大です。「われわれにはいくらでも戦術を拡大する権利がある。当局にとやかく言われる筋合いはない」と主張して、この時は一二時間の前倒しストライキを行いました。
しかしこのストに対して、当局は「違法ストライキだ」と言って、二人の停職をはじめ、計一四一人に対して処分を出しました。さらに「違法ストライキによる損害は組合が払え」と、二一〇〇万円のスト損賠請求訴訟を起こされました。
しかし結果としては、この闘争が全国を席巻して、当時の国労本部や社会党、その他諸々の画策を全部吹き飛ばしたわけです。そのことにより、九〇年四月一日、国鉄清算事業団が一〇四七人の労働者を整理解雇して、一〇四七名闘争が始まったという、大きな意義を持った闘いになりました。動労千葉の威力を示し、国労闘争団の中にも動労千葉を見直すという動きがこのころから広がり始めます。
◎恒常的ストライキ体制の確立
それから、JR資本の日常的な不当労働行為やさまざまな差別に対してどう反撃していくのか。当局とJR総連革マルの結託体制で、問答無用でやってくることに対して反撃するために、九六年に恒常的ストライキ体制を確立しました。ずっと一方的にやられていたことに対して、どう反撃しようかと本部も支部も懸命に考えぬいた結果の戦術です。
恒常的ストライキ体制というのは、「職場で不当なことが起こった場合には、その職場だけ翌日から全部ストライキに入れる」ということです。恒常的だから、毎日ストライキをやってもいい。これを定期大会が終わると必ず、当局に通告しているんですよ。いくつかの項目あげて、「こういうことをやった場合には、その職場だけストライキに入れる」と。例えば千葉運転区で何かやってきた場合には、千葉運転区だけ入れる。春闘のように「何月何日から何時間ストライキ」と通告すると、彼らはスト破り体制をとる。だけど不当配転や不当労働行為をしてきた時に、翌日からストライキに入れるということだから、スト破り体制をとれない。この恒常的ストライキ体制を確立したことにより、動労千葉は、強制配転などをずいぶん阻止しました。当局もあまりえげつないことはできなくなった。これは今でも続けています。この戦術をとってから、現場でも反転攻勢が始まりました。
3.動労千葉の闘い(その2)
◎動労千葉と一〇四七名闘争
さらに清算事業団闘争、一〇四七名闘争です。いくつかの山場がありました。まず、一九九三年の中労委命令です。動労千葉は、地労委では一二人全員が勝訴しました。しかし中労委では「二人だけ救済、一〇人は地労委命令を却下する」という命令でした。なぜ一〇人はダメなのかという理由は何ひとつ説明しない。
国労に対してはもっとひどくて、北海道も何を命令したのかよくわからない。ただ「JRに法的責任はある」ことだけは認めて、不当労働行為の範囲についてはJRの判断に任せるというデタラメなものです。国労も裁判所に中央労働委員会の命令を取り消す裁判を起こしますが、九八年五月二八日、東京地裁で反動判決が出て、国労には、「もういくら闘ってもかなわない。負けるんだ」という雰囲気がつくられてきました。
五・二八反動判決は非常に重大です。労働組合法に「不当労働行為はやってはならない」と書いてあるにもかかわらず、国鉄改革法でこれを否定した判決で、労働委員会制度を解体していく大きな突破口にしようとしたわけです。民間では特に労働委員会闘争を闘っている争議組合は多いから関心は高かった。港合同や関生支部との付き合いが始まったのも、五・二八判決が大きなきっかけになったんです。国家総ぐるみの不当労働行為を開き直り、労組法―労働委員会制度を否定するこの判決に対し、「これは国鉄だけの問題じゃない。こんなものがまかり通ったら、不当労働行為=組合つぶしも首切りもやりたい放題だ」という危機感と怒りを強烈に持ったことが、三組合の「呼びかけ」の出発点になりました。
この裁判は今、国労は最高裁まで行っています。全動労も二〇〇二年に高裁で判決が出て、最高裁まで行きました。全動労の高裁判決もまたひどい判決です。国労の五・二八判決は「JRに法的責任がない」いう判決ですが、全動労判決は「JRにも責任がある」と言った上で、しかし「国是」、つまり国鉄分割・民営化という国策に反対した以上、「採用差別をされても不当労働行為とは言わない」という判決です。動労千葉にどういう判決が出るかわかりませんが、動労千葉は東京高裁で争っています。
中労委命令の後、村山内閣の亀井運輸大臣が、二〇二億円損賠訴訟取り下げを条件に国労に一定の和解条件を出したことはすでに述べました。しかしこの時は、国労側も腹を決めていなかったんでしょう。四党合意なんか飲むんだったらこの時にやればいいんですがね。そうすれば四〇〇人か五〇〇人は戻ったかもしれない。しかしこれは国労だけの責任じゃありません。JR会社サイドがそうとう激しく抵抗したことは事実です。JR総連革マルがものすごく激しく抵抗した。
ともかく僕は当時「国労は二〇二億円訴訟もなくなったんだから、あとは一〇四七名闘争をがんがん闘えばいい」と言ったけれど、国労はそうはならなかった。四党合意の時も自民党の甘利が「国労は信用できない」と言っていましたが、それはこの二〇二億円訴訟の取り下ろしの件を指しているんですよ。政府にとっては「二〇二億円訴訟を下ろしただけで、国労に食い逃げされた」ということなんです。だから政府も自民党指導部も、今でも「国労は信頼できない」と言っている。
この過程、特に中労委の反動命令が出た直後に国労内で、秋田などを中心にして、公然と「闘争団はお荷物だ」と称して、一〇四七名闘争の切り捨てを主張するグループが登場します。チャレンジグループです。この連中は九五年春にも二〇二億円損賠訴訟の判決を期して、反動的に蜂起して国労闘争団を切り捨てる方向で策動します。しかしこれは、当時の国労永田執行部と亀井運輸大臣の間での二〇二億円問題をめぐる手打ちでいったんは封じ込められます。だが、このグループはその後も生き続け、九八年五・二八判決を境に、当時の国労本部の宮坂書記長らを取り込み、国労内の主流として登場し、四党合意の受け入れまで突き進むことになります。
動労千葉は一貫して「国労闘争団は、国鉄労働運動が生み出した精華だ」という立場から、国労内のこのような傾向に強く反対してきました。僕は動労千葉こそ、国労の誰よりも国労闘争団の闘いを評価してきたと自負しています。
◎二八人の公労法解雇撤回をかちとる
二八人の公労法解雇の撤回闘争については、九二年と九三年に千葉地裁で、第一波の被解雇者二〇人のうち七人、第二波は被解雇者八人のうち五人が解雇無効の判決を獲得しました。これもまた判決の前提は「国鉄分割・民営化に反対するという政治闘争をやった、不らちなストライキだ」ということです。「しかし解雇権の乱用だ。あまりにもひどい」という判決だった。初めての処分で首になった人がいっぱいいたわけですから。
それで東京高裁で争っている途中の九五年二月、東京高裁が裁判長の職権で和解を提案してきました。動労千葉は「和解の前提条件は、あくまでも全員の解雇撤回だ」と主張してきましたから、和解決着の可能性はほとんどあり得ない、解雇撤回に乗るわけがないと思っていた。ところが清算事業団は、われわれの予想を超えて追いつめられていたんだよね。九月になって、清算事業団が突然「組合側の条件について検討したい」と言い出したんです。そして結局九七年三月、国鉄労働運動の歴史の中でも前例のない、二八人全員の公労法解雇撤回という大きな勝利をかちとりました。
ただ、国鉄当時の解雇だから、争っている当事者はJRではなく国鉄清算事業団です。清算事業団には復帰する職場がないし、JRに復帰させるためにはまた裁判を始めなければいけない。被解雇者の年齢やいろんな問題を考えて、金銭和解をしました。和解時点で雇用関係の終了を確認し、この間の賃金未払い分を和解金として支払うとともに、第一波ストに対して国鉄当局が起こした三六〇〇万円のスト損賠訴訟も取り下げるということです。組合本部である動力車会館の土地も、国鉄当局から清算事業団の土地に承継されていて、立ち退きの請求の裁判が起こされていたけれど、その件も含めて、全部決着をつけました。動労千葉は二八人全員の解雇撤回をかちとったということを高く評価して、臨時大会を開いて、和解の受け入れを決定しました。
4.国労の政治解決路線の問題性
国労は一貫して政治解決路線、つまり和解路線です。膝を屈して「どんなことでも飲むから、少しでも返してくれ」という運動です。動労千葉は違いますよ。JRに復帰を求めているんだから、JRと闘う。しかもJRの中心会社はJR東日本なんだから、「JR東日本の中で闘って力関係をひっくり返さない限り、JR復帰など成り立たない」という立場で、JR体制との闘いを軸に据えた一〇四七名闘争を闘ってきました。だから労働委員会や裁判だけに依拠した闘いじゃありません。
だから動労千葉の一〇四七名闘争の主力は、JR本体の組合員です。もちろん一〇四七名で首を切られた九人の組合員も頑張っていますが、やはり本体の労働者が闘っています。例えば物販も、国労は、闘争団員がいろんなところを回って歩いています。動労千葉は被解雇者もやりますが、現場の組合員が物販のオルグに行く。内弁慶が多いから、「よその職場に行って口をきくのは嫌だ」「説明を求められたら困っちゃう」「何もしゃべんなくてもいいんだったら行く」等々、いろいろ言いながら、それでもオルグに回っています。この闘いを十数年やって、動労千葉の組合員も井の中の蛙ではなくなりました。
国鉄労働者というのは国鉄の中だけで生きてきたから、よそのことをあまり考えなくてよかったんだよね。その最たるものは国労です。だけど物販でいろんな職場に行って、いろんな労働者と会って、そういう人たちが自分たちの闘いをどう見ているのかということがよくわかる。これは本当に組合員の実地教育になったよね。一〇回の学習会より効果がある。だから動労千葉は、本体の組合員が解雇撤回闘争の中心です。「被解雇者が俺たちの指導者として首をかけて闘ったから、自分たちが今本体に残って仕事ができている」と考えているからです。組合の指導部であるわれわれも、組合員に常にそういうふうに訴えてきました。
国労の物販も、被解雇者のための物販であるにもかかわらず、例えば千葉で物販をやれば千葉地本が一割取って、残りが闘争団の財政になる。「そういうふうにしないと、組合員が取り組まない」と言う。こういう姿勢は問題だと思う。動労千葉は違う。今でも夏と冬になると、まず一人ひとりの組合員が二万円ずつ買います。自分たちが買って、それからほかの組合や労働者に協力を要請するのが筋だということです。基本的なスタンスが、国労とはまったく違うんだよね。
国労は、闘争団員一人あたり一月二万五千円の生活援助金だけは、組合員からカンパを集めて払ってきましたが、あとは闘争団員が自分たちの商売や物販で自活している。犠救(犠牲者救済規則)は適用されていません。これが全逓の四・二八処分と違う。全逓の四・二八は東京で六〇人ぐらい首を切られた後、みんな全逓の支部や本部の書記として賃金を払っていたんです。それで自民党の金丸と社会党の田辺の会談で、「郵政省の試験をもう一回受けたら、全員が合格するようにしてあるから」と言われて、全員が裁判を取り下ろして受験したら一人も受からなかった、というひどい話なんだけれど、それまでは賃金を払っていた。だけど国労は、組合が賃金を払ったりしてはいません。国労闘争団員は自活して、物販オルグで全国を行脚したり、それぞれの闘争団で会社をつくって仕事したりしながら、十数年間も闘っている。そこがまったく違う。
動労千葉は、本体の労働者の闘いが解雇撤回闘争の主体だという立場だから、争議団の九人に対する「お荷物」論はありません。国労のチャレンジグループは「一〇四七名闘争ばかりやっているから、本来のわれわれの労働条件をめぐる闘争ができない」などと言うけれど、こんなのはウソもいいところだよね。国労本部は、一〇四七名闘争など何もやっていない。国鉄改革法を承認したり、「四党合意」を認めたり、足を引っ張ることばかりやっている。解雇撤回闘争なんて、まったくやっていません。
動労千葉はこの一六年間に、職場における闘いを基軸にしながら、多くの裁判闘争、労働委員会闘争、選挙、それから三組合共闘に代表される闘う労働運動の新しい潮流運動づくり、そういう闘いを精一杯闘いながら、二一世紀を迎え、二〇〇一年九・一一の衝撃的な反米ゲリラに遭遇し、そして動労千葉も今の状況の中で一段と飛躍をしなければいけないという立場で頑張っています。
X/転換期を迎えた国鉄闘争
1.国鉄闘争をめぐる総決算攻防
今、国鉄闘争が大きな転換点を迎えています。そのことは、敵の出方を見ればわかる。たかが二万人ほどしかいない国労、ストライキをやっても列車が止まらない国労。にもかかわらず、なぜ国鉄闘争に対して、政府がこれほど「四党合意」などの攻撃を大がかりにやるのか。それはやはり国鉄闘争、特に国労の存在を敵の側がいかに重視しているかということの表れです。
確かに日本の労働組合は、大きく連合に収れんされて労資協調になった。しかし国労という日本の労働運動の老舗が入っていない労働戦線の統一や連合では、敵にとってもダメなんだよね。例えば、国労がもし今度の労働法制改悪に反対して旗を振ったら、五万人や一〇万人の労働者が集まりますよ。国労は有事法制に反対する陸・海・空・港湾二〇労組の闘いの一角を占めています。しかし海員組合や航空連などに比して、国労の存在は影が薄い。なんでもっと陸の王者として、こうした反戦闘争の先頭に立たないのかって思うよね。確かにストライキをやって列車を止めることも力ですが、それだけでなく、そういう闘いを展開することも政治的な力です。国労が闘えば闘うほど、敵にとっても「国労を野に放しておいたら大変だ」となるわけです。敵が国労をどう見ているのかということと、今の国労の幹部が自分たちの存在をどう見ているのかということに、ものすごいギャップがありますね。
一〇四七名闘争をめぐる四党合意もそうです。もし和解したいのであれば、和解してもいい。しかし「もっと高く売りつけてくれ」と言いたい。「和解金が一人あたり八〇万円」なんていうのは、まったくお話になりません。敵はどれほど国労の存在を階級的に見ているかということが、国労の幹部は全然わかっていない。それで、「一〇四七名闘争さえなくなれば、自分たちは連合に行く」なんてことばかり考えている。
いずれにしても四党合意が破産した。そしてこの過程で国労、全動労、動労千葉を横断した一〇四七名闘争陣形が確立された。それから国労五・二七臨大闘争をめぐって八人の仲間たちが逮捕された。そして東日本におけるJR総連と革マルの結託体制にくさびが打ち込まれた。
こういう状況を見ると、いよいよ国鉄分割・民営化をめぐる総決算攻撃が始まったことは間違いない。分割・民営化攻撃とは、国労や動労千葉を全部なくす攻撃だったにもかかわらず、それが生き残った。それから、革マルに協力してもらったから分割・民営化ができたということにも、早く決着をつけたい。箱根以西は切ったけれど、最大の東と貨物と北海道が残っている、これをなんとかしなければいけない。革マルとの癒着の問題が、あれほど国会でも騒がれているわけですから。そういうことも含めて、いよいよ決着をつけなければいけないという時期がきて、警察権力が介入してきた。
だから動労千葉は今、「この次は動労千葉だろう」と警戒しています。動労千葉は団結しているからまだ手を出せないだけで、動労千葉の団結がゆるんだら、いつでも向こうは突っ込んでくると自覚しながら、闘っています。
逆に言うと、革マルとJRの結託体制が崩壊し始めたわけだから、われわれにとって組織拡大の大きなチャンスが生まれたということです。平成採のJR総連の組合員にとって、JR総連にいることがプラスにならなくなってきた、目先の得にならなくなってきたということです。
2.国労のどこが問題なのか
国労がしっかりすることが、この闘いのためにも非常に重要な課題です。なぜ国労が今のように、誰が見ても間違っていることをしているのか、ということをはっきりさせなければいけない。
◎国労は一戦も交えなかった分割・民営化闘争の 総括をいまだまったくしていない
国労は総評最強の組合と言われながら、分割・民営化に対して一発のストライキも闘わず、一戦も交えずに終わってしまった。一戦も交えなかったけれど、四万人も組合員が残ったところに、逆に国労のある種のすごさがありますが。執行部は何も方針を出さないけれど、組合員は四万人も、差別・選別の嵐にさらされながら、「だけど俺は国労だ」と残ったわけです。こんな組合はどこにもありません。それは本部が偉いんじゃなくて、現場が偉いんです。だけど一戦も交えなかった。
ではなぜ、戦後日本労働運動の重戦車と言われた国労が、分割・民営化攻撃に対して一戦も交えられなかったのか。このことについて国労本部は総括していません。国労を指導している協会派や革同・日共も総括していません。総括していないから、今も同じことをやっているわけです。
◎八六年修善寺大会(労使共同宣言をめぐり分裂)
以降も無方針
二つ目に、動労千葉が二波のストライキを闘った後、八六年一〇月に修善寺大会がありました。そして六本木委員長体制になりました。しかしこの執行部も、何ひとつ闘う方針は出しませんでした。唯一の方針は、採用差別事件の労働委員会闘争だけ。新たにJR資本に対してどう闘うのかという方針はまったくなかった。一応「分割・民営化反対の旗は降ろさない。労使共同宣言に入らない」となったけれど、それでも闘う方針は形成されないまま、鉄産労の分裂により一気に組合員が激減するという事態を拱手傍観することしかできなかった。
JRが発足して以降も、労働委員会に不当労働行為を申し立て、採用差別事件の労働委員会闘争を始めるというのが、唯一の方針でした。これに対してJR各社が労働委員会への出席を一切拒否した。労働委員会の審問は、組合側の主張だけで展開されたわけですから、申し立てから約二年間で、地労委はすべて組合に対する勝利命令を出した。
◎諸悪の根源は「全面一括解決要求」路線
そして八九年六月に臨時大会を開き、「全面一括解決要求」という方針を決定しました。中央労働委員会の場で、採用差別事件や二〇二億円損賠など、すべての問題を一括して解決しようという要求です。和解とは、お互いが譲歩するから和解というわけですが、その時の国労にとっては、和解の切り札は「労働委員会で勝利命令をかちとった」ということしかありません。だから当時の国労は、中央労働委員会での勝利命令を求めなかった。「中労委命令が出たら和解ができなくなってしまうから、命令を出されては困る」という立場だったんです。
この方針が、今にいたるも国労の諸悪の根源です。この方針があるから、闘争団も含めて全部和解路線、政治解決路線になっているわけです。中労委は命令を出しましたから、中労委の場での和解はできませんでした。そこで、次は政治解決路線。そして九八年五月二八日に東京地裁が反動判決を出して、負けた。そうなると、ますます政治解決路線に傾斜していったわけです。その路線上の根拠は、八九年六月の臨時全国大会の「全面一括解決要求」方針にある。このことをきちんと総括しなければいけないと思います。
労働組合は、伊達や酔狂で大会を開くわけではありません。どういう闘いの方針を確立するかということを、徹底的に議論して決めるわけです。そして労働組合である以上、そこで決められた方針に基づいて行動するわけです。その大会で決定された方針が和解路線、政治解決路線だから、肝心のJR資本と闘うという方針が出てこない。和解しようと思っていたら、和解の相手とケンカできるわけがありません。だからJR資本からどんな攻撃がかけられても、まったく闘わない。国労はこの間、JR資本にあらゆる攻撃をかけられているのに、まったく闘っていません。こういうことをきちんと総括すべき時期が来ているということを、特に国労の組合員に訴えたい。
JR資本と闘わないで解雇撤回・JR復帰をかちとることができるわけがありません。特にJR東日本では、資本が革マルとの結託体制ですから、この結託体制と闘わないJR復帰は成り立ちません。しかしこれがまったくやられていない。
国労が一六年間、動労千葉と同じ立場に立ってJRと執拗に闘ったら、もっと国労に平成採の労働者が入り、組織拡大だって実現できたでしょう。今は、組合の大会に機動隊を導入するなんてことばかりやっているから、良心的な国労組合員ほど嫌気がさしてしまって、脱退者が出ている。千葉では、国労組合員があきらめて動労千葉に来ています。そういう組合のあり方こそが問題です。
四党合意が破産した後、四党合意の反対派も、ある意味で茫然自失状態になってしまっています。彼らもやはり政治解決路線だからです。もちろん労働運動ですから政治解決も和解もあります。しかしそれは、組合が団結を強化して闘って、資本や政府が困った時に初めて出てくるものです。それを最初から方針化したら、際限なく屈服する以外にありません。それを国労は典型的にやった。国労以外の労働者は、こういうあり方を他山の石にしなければいけない。「こういうことをやったら本当に惨めになる」という典型です。
今、チャレンジグループは国労の財産をぶんどって、国労を解体して連合化する道をひた走っています。すでに一部で脱退の動きがあります。〇二年一一月の国労全国大会では、スト基金の取り崩しが議題となりました。スト基金とは、ストライキをやった時の賃金カット補填分として積み立てたもので、それ以外の用途に使ってはいけないと明記されています。にもかかわらず、それを各エリアに分配しようとしている。さすがに一回の大会では決めきれず、「一年間の職場討議にかける」となりましたけれど、今度の全国大会では決めようとしています。このスト基金を各エリアで分割したら、「はい、さようなら」と国労から逃げ出すという動きが間違いなく始まります。今年の大会は勝負どころです。
JR資本とJR総連革マルの結託体制に亀裂が生まれ、しかも革マルの中でも分裂が起こっています。JR東日本で資本は、革マルが握っているJR総連という五万人の組合を活用して労務政策をとっていたわけです。これで何でも合理化攻撃をできたわけです。しかしこの結託体制が崩れ始めている。国労にとってはチャンスが到来しているということです。国労が、今こそ原点に立ち返ってJR資本との闘いを基軸に据えて解雇撤回闘争に踏み出せば、非常に大きなチャンスが生まれる時が来ています。
国労東京地本と国労本部が国労組合員を警察に売り渡した国労五・二七臨大闘争弾圧事件の裁判が行われています。あっという間に佐藤昭夫弁護士をはじめとする著名な方たちが発起人になって、「国労五・二七臨大闘争弾圧を許さない会」が結成されました。この運動をどんどん国労内外に広げていくことをとおして、国労の解体をもくろんでいるチャレンジグループと共産党・革同の執行部を打倒して、闘う闘争団が中心となった新しい闘う執行部をつくるべき時です。闘争団はもう十何年間も闘っていろんなことを経験してきているわけです。今の本部は何もやっていません。あんな執行部はいない方がいい。僕は今の国労がそのまま残るとは思いません。今度の国労大会は、左派がしっかりすれば、分裂含みの大会になります。そういう立場に立って闘わなければならないと思います。
◎階級的力関係の転覆の先頭に立とう
必要なことは階級的力関係を全体として変えていくことです。その先頭に国労が立つことです。まずJR資本との闘いを強めなければ問題にもならない。労働者の権利を次々と踏みにじっていく攻撃との闘いの先頭に立たなければならない。戦争と戦争法案の激しい進展と真っ向から対決する闘いの先頭に国労の旗が立たなければならない。このような闘いにうって一丸となって挑み、要するに国鉄分割・民営化以降大きな後退を強いられてきた日本の労働運動、日本の階級闘争の反転攻勢をかちとること、その先頭に国労が立つこと、それと一体のものとしてのみ、国鉄一〇四七名闘争の勝利の展望もまた見えてくるということを肝に命じなければなりません。そして今待ったなしに求められているのは、四党合意にうつつを抜かしてきた本部執行部を打倒し、四党合意反対派をもおおっている展望喪失状態をのりこえて、国労の「解体的再生」を実現することです。国鉄・JR労働運動の新たな再編・流動状況の到来の中で、チャンスはいたるところに転がっている。
チャンスと危機は、常に裏表です。チャンスを正しく闘いに生かせればチャンスになるけれど、チャンスを生かしきれなければ危機に転化します。チャンスを本当に生かしきる闘いを、なんとしてもやらなければいけないと思います。
資本主義が労働者に飯を食わせていけない時代に入った。同時に戦争しなければ延命できない時代に入った。全世界で、怒っている労働者の反乱が起きています。数千万という規模でヨーロッパでもアメリカでも、アジアでも中東でも始まっている。この闘いと日本も無縁ではありません。日本でもそういう闘いを実現することはまったく可能です。その中心に国鉄闘争が座らなければならない。労働者が決起する条件がいたるところに噴出している。そういう状況を正しく認識して、これからも動労千葉は闘っていきたいと思っています。
分割・民営化以降一六年、さまざまなことを動労千葉も学び、教訓化しています。これを生かしながら、要は現場の団結にある、組織の強化拡大にあるということを据えて、日本の多くの労働組合の模範になる闘いを展開したいと思っています。
(5章終り)
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