青年に訴える①動労千葉書記長 長田敏之 「労働組合の目線 誇り高き労働者として」

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 労働組合の目線

誇り高き労働者として

労働組合がなぜ必要なのか、改めて考えよう。今多くの労働者が労働組合の存在意義を見失っている。というより必要性自体が否定され、労働組合の組織率は低下の一途をたどってきた。しかし労働組合は、それほど必要性のないものなのか、頼りないものなのか、決してそうではない。日本の労働運動は輝かしい歴史をもっている。戦後、日本の労働者は混乱の中、すぐさま闘いに立ち上がり、吉田内閣打倒に向けて、1947年2・1ゼネストへと高揚していった。残念ながらGHQ(米占領軍)の銃剣によって不発に終ったが、この闘いが『国民主権・基本的人権・戦争放棄』を基調とした平和憲法を生む原動力となったのである。
その後、労働組合は、経済の急速な発展にともない、そこそこの権利を労働者にあたえる日本的経営(終身雇用・定期昇給・企業内組合)によって組合幹部が資本に取り込まれ、階級性を見失い、日常的な職場での闘いが衰退し、団結が失われ、御用化・体制内化していった。

国鉄労働運動解体攻撃

こうした状況の中でも官公労、特に国鉄の労働組合は日本の労働運動の先頭にたち、闘いを牽引する。しかし、経済成長の終焉と「グローバル化」の中で、自民党政権は国家の生き残りをかけて国鉄労働運動解体攻撃を仕掛ける。それが国鉄の分割・民営化だ。分割・民営化は、表向き国鉄の赤字を理由として強行されたが、実際は改憲に向けた官公労解体攻撃だった。このことは、当時首相だった中曽根が明言している。この激しい攻撃の前に屈伏し、手先になったのが当時の動労革マル、今のJR総連だ。彼らは突然立場を豹変させ、政府や当局と手を結んで、国労や動労千葉に対する組織破壊攻撃を仕掛けた。
この犯罪的攻撃によって、わずか6年間のうちに20万人の国鉄労働者が職場を追われ、200人が自殺に追いこまれた。今日あるJRという会社は、この国鉄労働者の血と涙の上に成り立っていることを忘れてはならない。

動労千葉の反撃!

動労千葉は唯一反撃に起ち上がった。少数とはいえ、攻撃の真の狙いを訴えて二波のストライキを構え、多くの解雇者を出しながら今も、仲間を守り、団結を守って闘いを継続している。このストライキは全国に大きなインパクトをあたえ、闘う国鉄労働運動の根絶という政府の意図を打ち砕き、今も1047名闘争を軸として、分割・民営化を今だに決着させていない。さらに自らの飛躍をかけて全国の労働者に闘いを呼びかけ、労働運動の復権をめざしている。
特にJR東日本では2001年以降始まった業務の外注化に対し、職場からの反対闘争を展開し、千葉支社だけが検修・構内の外注化が進まない状況を創り出し、外注化のツケとして起こったレール破断や、尼崎・羽越線・白備線事故に対して安全運転闘争を闘い抜き会社にレール交換を強制させ、事故を起こした組合員を守りぬき、基地廃止攻撃にも地域と一体となった闘いを組織して組合員の不当な配転を阻止し、新たな団結を固めている。JRという大組織の中で、動労千葉のような小さな組合が、何故勝利的な展望を切り開けるのか考えてほしい。それは、民営化のもとで利益を追求するあまり無謀な合理化を行い、その矛盾が噴出しているからに他ならない。この間のわれわれの闘いの最大の特徴は、利用者や市民からの支持・支援の声が無数に寄せられていることだ。市場原理主義が蔓延し、社会の基盤が目に見えて崩壊するなかで、多くの市民が危険を感じているのだ。

労働者の置かれた現実

今、多くの労働者がワーキングプアやロストジェネレイションなどと言われ生きるすべを奪われている。とくに青年が将来の展望すら見いだせない社会の中で、悶え苦しんでいる。この現実は別の世界のことでは決してない。資本主義が行きづまり、その打開に向けて改憲が政治日程に上り、社会の在り方を根幹から覆して労働者を再び戦争へと駆り立てようとしている情勢の中で、JRの労働者が将来にわたって安泰などということはありえない。現実に乗務中の携帯メールで解雇され、事故を起こせば解雇攻撃にさらされる。「ワーキングプア」はいつ現実のものとなってもおかしくない。

労組は労働者のために

そこで労働組合だ。労働組合はあればいいというものではない。労働組合の目線がどこに向けられているかが重要だ。目線が常に組合員に向けられ、それによって団結し、資本と闘わなければ労働組合を組織する意味がない。東労組のように役員が資本の手先になり、資本にかわって労働者を支配し、怒りを封じ込めるような組合にいれば、いずれ自らの首をしめることになる。『自分だけは大丈夫』『おとなしくしていれば安泰』はもはや通用しない時代が来た。動労千葉に結集しともに労働者の未来を切り開こう。

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