6・29サミット闘争に向けて⑤『蟹工船』ブームが示すもの

6657

闘う労働組合を時代の最前線に

小林多喜二の小説、「蟹工船」がものすごいブームになっている。130万部を突破したというのだからすごい数だ。なぜ、80年も前の小説が今?。
小林多喜二は日本を代表するプロレタリア文学の作家で、「蟹工船」が書かれたのは1929年。その4年後に特高警察に逮捕され、その日のうちに拷問によって築地署で虐殺された。
若者たちが圧倒的な共感を寄せているという。派遣などで酷い境遇に置かれている若者が「俺たちの職場の現実と同じだ」と言い始めたことからブームに火がついた。「仲間が団結して立ち上がれたことがうらやましい」とも言う。
そして、秋葉原事件。未来も希望も打ち砕かれた現実の中から、怒りの声が巨大なマグマとなって吹き出そうとしている。今、問われているのは労働組合だ。

「蟹工船」はこんな本だ

「おい、地獄さ行ぐんだで!」…函館や秋田、青森、岩手から集められた400人の漁夫や火夫、年若い雑夫たちが「くそ壷」と呼ばれる蟹工船・博光丸の船底に詰め込まれて、ソ連領・カムチャッカに向けて4ヵ月の漁に出航する。蟹工船団は帝国海軍の駆逐船が護衛している。
蟹工船は「工場」であって航海法は適用されなかった。かといって工場法の適用にもならなかった。苛酷な労働条件と粗末な食事。横暴で卑劣な監督・浅川。
監督は作業の遅い漁夫や雑夫をかたっぱしから殴りたおす。同じ蟹工船団からのSOSも無視して見殺しにする。「もったないほどの保険がかけてあるんだ。 ボロ船だ。沈んだらかえって得するんだ」。嵐の中、川崎船(母船に積んである小舟)を出すことを命じ、行方不明になった川崎船を見捨てる。脚気にかかった 漁夫を放置して死なせ、汚れた麻袋に入れて海に捨てる。「カムサッカのしゃっこい水さ入りたくねえ」「麻袋の中で、行くのはイヤだってしているようで な……」。殺されてたまるか!・・バラバラだった怒りの声がひとつに団結していくのには、もう時間はかからなかった。
それに、見捨てられた川崎船は、実はカムチャッカの岸に打ち上げられ、ロシア人の家族の家で二日間を過ごし、片言の日本語で伝えられた素晴らしい希望を もって帰ってきた。「プロレタリア、いつでも、これ(首をしめられる格好)これ、駄目! あなた方、一人、二人……百人、千人、五万人、十万人、みんな、 みんな、これ(手をつないだ真似をしてみせる)強くなる。大丈夫。負けない、誰にも。分かる?」。…労働者は団結して闘えば勝利できることを教えられ、 「やるよ。キットやるよ!」と約束して帰ってきたのだ。
そしてついにストライキが決行された。だが、そこにやってきたのは駆逐艦だった。多くの者は「我帝国の軍艦だ。俺達国民の味方だろう」と思い込んでい た。ドヤドヤと出てきた漁夫たちは「帝国軍艦万歳!」を叫ぶ。だが、乗り込んできた水兵たちは着剣し、あごひもをかけている。「しまった!」首謀者7名は 有無を云わせずに連行された ……。

団結した力は決して打ち砕かれない

「蟹工船」のストーリーはだいたいこんな感じだ。そして「蟹工船」は、新たな希望と展望を照らして終わる。少し省略してあるが、最後は次のように結ばれる。

 「俺達には俺達しか味方がねえんだ」
それは今では、皆の心の底の方へ、底の方へ、と深く入り込んで行った。…「今に見ろ!」…ストライキが惨めに破れてから、仕事は「畜生、思い知ったか」 とばかりに、苛酷になった。限度というものの一番極端を越えていた。今ではもう仕事は堪え難いところまで行っていた。… そして、彼らは、立ち上がった。…もう一度。
この後のことについて、二、三つけ加えておこう。二度目も完全な「サボ」(サボタージュ)はマンマと成功したということ。…「サボ」をやったりストライ キをやった船は、博光丸だけではなかったということ。二、三の船から「赤化宣伝」のパンフレットが出たこと。… そして、「組織」「闘争」…この初めて知った偉大な経験を担って、漁夫、年若い雑夫等が警察の門から色々な労働者の層へ、それぞれ入り込んで行ったという こと。

時代は変わろうとしている。怒りの声は社会の隅々まで満ちている。今こそ、闘う労働組合を時代の最前線に登場させよう!

タイトルとURLをコピーしました