ドキュメント総武線 発進せづ!「労働者は団結すれば絶対に勝てる」  動労千葉 国鉄分割民営化闘争の記録

どのストライキも、ほんとうの主人は資本家ではなくて、ますます声たかく自分の権利を主張している労働者であるということを、そのつど資本家におもいださせる。

どのストライキも、労働者の状態は絶望的ではなく、彼らはひとりぽっちではないということを、そのつど労働者におもいださせる。

ストライキが、ストライキ参加者にも、また隣近所の工場や同じ産業部門に属するいろいろの工場の労働者にも、どんなに巨大な影響をあたえるかを、考えてみたまえ。

……あらゆるストライキは労働者に多くの艱難をもたらす。

しかもそれは、戦争の惨苦とだけ比較できるような恐しい艱難-家族は飢え、賃金は取れず、しばしば逮捕され、自分の職をもっている住みなれた町から追放される一である。

そして、これらすべての惨苦にもかかわらず、労働者は、同僚全体にそむいて雇い主と取引するものを軽蔑する。ストライキにもかかわらず、近隣の工場の労働者は、自分たちの同僚が闘争をはじめたのを見ると、いつも士気の高まりを感じる。
……一つの工場で罷業がおこりさずれば、たちまち非常に多数の工場で、一連のストライキがはじまるという場合が、しばしばおこる。

ストライキの精神的影響はそれほど偉大であり、一時的にも奴隷たることをやめて、大金持と平等の権利をもった人間となっている自分たちの同僚の姿は、それほど労働者に伝染的に作用するのだ。あらゆるストライキは、巨大な力で労働者を社会主義の思想に、資本の圧制から自分自身を解放するための全労働者階級の闘争という思想に導く。

(レーニン「ストライキについて」より)

 

●「破防法研究」№53 1986年2月発行

動労千葉(国鉄千葉動力車労働組合、11〇〇名、中野洋委員長)は、1985年2月28日正午から翌日正午まで、千葉と東京を結ぶ総武線を対象に、「国鉄分割・民営化阻止、一〇万人首切り粉砕」を真正面から掲げた二日間にわたる24時間ストに決起した。
中曽根内閣、国鉄当局はストを不発に終らせようと全国から一万の機動隊を動員して一種異様な弾圧体制を敷き、「スト参加者は全員解雇」という恫喝、さらには動労、国労を使っての空前のスト破り策動をくりかえしたが、動労千葉1100名の組合員はそれをはねのけて一人の脱落者もなくストライキを貫徹した。
スト第一日目は、正午から終電まで、スト対象の総武線で計143本の列車を運休に追い込み、ダイヤを大混乱にたたきこんだ。スト第2日目の29日た中核派の一連の「国鉄ゲリラ」で全国の鉄道網が寸断され、総武線も始発から全面運休となるなかで、動労千葉はスト体制を堅持し正午までのストライキを敢然とうちぬいた。
国鉄分割・民営化に対する国鉄労組の初めての本格的実力反撃、ストライキ闘争として、動労千葉のたたかいは勝利的にうちぬかれ、そして衝撃的に全国を駆け抜けた。

第二臨調のもと、マスコミを総動員してくりひろげられた八二年はじめの「ヤミカラ」キャンペジからすでに四年たった。この四年間、全国の国鉄職場では、「職場規律の確立」の名において、あるいは出向、退職の強要という形で、まさに言語を絶する攻撃が吹き荒れてきた。職場における労働者のあらゆる既得権を奪い、組合をつぶし、一人ひとりの国鉄労働者をいっさいの誇りを失った奴隷につくりかえるための攻撃があくことなくくりかえされてきた。そしてこの攻撃は、「戦後政治の総決算」を呼号する中曽根の下で、八五年六月の国鉄杉浦新体制の登場、同七月の国鉄再建監理委答申をもって、いよいよ、八七年四月の分割民営化10万人の首切りというゴールにむかっての最終的攻防局面に突入したのである。

にもかかわらず国鉄労働運動は、これになにひとつ有効な反撃を組織しえぬまま後退を重ねてきた。動労本部はいまや鉄労顔まけの御用組合、ファシスト組合として、中曽根・国鉄当局の忠実な走狗にまでなりさがっている。国労もまた敵のかってない規模と質をもつ攻撃にうちのめされ、苦渋にみちた果しない屈服と逃亡の道を歩んでいる。こうして何十万という国鉄労働者が激しい怒りを胸にいだきながら、しかしまったくバラバラに孤立させられ、無防備な状況の中で、当局・職制のもっとも非道な、非人間的な攻撃にさらされてきたのだ。その結果何が起きているか。八五年二月の国労本部の調査によると、同年1月から10月までのわずか10ヵ月の間に、実に全国で三四名もの国鉄職員が自殺しているという。10ヵ月で三四名なら、過去四年間で総計何人が自殺したのか。いや、国鉄労働者に対する攻撃がいよいよ本格化し、熾烈化する八七年四月までのこれから一年余りの間に、中曽根、杉浦はさらに何人の国鉄労働者を殺せば気がすむというのか。
動労千葉は、国鉄と国鉄労働者をめぐるこのような状況の中で、まさに不退転の闘いに決起したのである。動労千葉はわずか1200人の組合員を擁する小さな労働組合である。だがそのストライキが投げかけた衝撃は極めて大きかった。中曽根は千余名の組合のストに対して異例の談話(「違法ストを許さない」)を出し、杉浦は、スト参加職員への「断固たる処分」をわめきちらした。さらには金丸が、後藤田が、山下が口々に動労千葉をヒステリックにののしり、そして動労本部の松崎が顔をひきつらせながらこの反動的大合唱に加わった。
だがこのような金切声が大きく広がれば広がるほど、それは動労千葉の決起の大きさを知らせるだけなのだ。
彼らは知っている。動労千葉の決起の背後に三〇万国鉄労働者の怒りがあることを。彼らは、動労千葉のストライキが、さらには中核派のゲリラが、充満する怒りに火をつけることを何よりも恐れているのだ。だから、彼らは、一万人もの機動隊を動員していっさいを封じ込めようとした。もともと国鉄分割・民営化は・そのあまりのデタラメざと反人民性ゆえに、今日においても「場合によっては当初方針の八七年四月スタートができなくなる可能性もある」(東京新聞85・12.19)といわれている難題である。ここに動労千葉の英雄的決起がかちとられ、国鉄労働者の反撃が開始されたのである。動労千葉のストライキは、まさに独特の政治手法によっていっさいの反対意見を封殺しつつ、クーデター的に国鉄分割・民営化を強行し、さらにはそれを基軸として戦後政治の総決算をなしとげようとする中曽根政治そのものに深刻な風穴をあけたのである。
問題はこの動労千葉の第一波ストを、第二波スト、第三波ストにつなげ、さらには国鉄ゼネストヘの道をきりひらきうるか否かにかかっている。敵権力・国鉄当局は、それを阻止するために、第一波ストに対する大量報復処分をふくむ全体重をかけた動労千葉破壊策動を強めている。この動労千葉を全人民の力で支え、守り、なんとしても動労千葉の闘いを切り口とする三〇万国鉄労働者の総決起を実現しなくてはならない。国鉄分割・民営化を中曽根ペースでこのまま認めるのか、それとも真に階級決戦的な対決点にまでおしあげることができるのか、ここに、中曽根の戦後総決算攻撃、改憲と戦争国家化をめざす中曽根反動政治との闘いの最も重要な戦略的かつ、今日的環がある。三里塚二期決戦とならぶ決戦的課題がある。
そして、攻撃の急ピッチな進展にもかかわらず、動労の反革命化、国労の屈服と無力化にもかかわらず、この国鉄をめぐる闘いが、今後の一年数カ月を展望するとき、そこにいかに巨大な可能性を有しているかを示したのが、まさに動労千葉の第一波ストライキであったのだ。動労千葉のストとこれに呼応して決起した国労千葉、とりわけ国労津田沼の労働者の闘いだったのである。”闘っても負けるだけ・・闘っても犠牲を大きくするだけ”という、国鉄労働者の頭上に重くのしかかる敗北主義の暗雲をはらいのけ、“犠牲をおそれず闘えば必ず勝てる。闘えば、さらに次の闘いの展望も出てくる”ことを示したのが動労千葉の闘いだったのである。
以下の記録は、この動労千葉の第一波ストライキの全過程を、主に動労千葉組合員への取材を柱にして構成したドキュメントである。
その豊かな、ダイナミックな展開、くめどもつきぬ教訓を、さらに多くの国鉄労働者の中にもち込み、勝利の確信、勝利の展望をすべての闘う国鉄労働者のものとすることによって、われわれは全人民の力を結集した動労千葉の第二波、第三波ストを、さらに国鉄分割・民営化を爆砕し、中曽根政権を打倒する三〇万国鉄労働者のゼネストヘの道を準備しなくてはならない。
一、決戦の構造
●九月定期大会でスト方針

動労千葉が85年11月のストライキ方針を決定したのは、同年九月九日から三日間、九十九里浜で有名な千葉県匝差郡野栄町で開かれた第10回定期大会においてであった。
「第10回」という数字でも分るように、動労千葉は組織としては若い。もともとは動労(国鉄動力車労働組合)の千葉地方本部であったが、七八年の動労津山大会で、革マル系に牛耳られている動労中央が提案した「貨物安定宣言」と「三里塚絶縁宣言」をめぐって本部と鋭く対立、とくに三里塚問題では、千葉地本(当時)が「労農連帯」の旗をかかげて反対同盟との共闘関係を強めようとするのに対し、本部が除名を含む統制処分の暴挙をくりかえす中で、ついに七九年三月、「闘う路線と組織を守るために」動労から分離・独立し、ここに独立した組合としての動労千葉が誕生した。動労千葉は以降、八一年三月の成田空港へのジェット燃料輸送の延長に反対する5日間にわたるストライキを頂点として、国鉄労働運動全体をおおう逆流に抗して幾多の政治闘争、経済闘争を闘いぬいてきた。
動労千葉は、現在1100名の組合員を擁し、国鉄の労働組合としては、国労(18万六〇〇〇人)、動労(三万四〇〇〇人)、鉄労(三万1000人)、全施労(2000人)、全動労(2500人)に次ぐ大きさだが、千葉鉄道管理局管内(七四〇〇人)では国労の4800人に次ぐ組合。とくに運転・検修部門でみれば945人で、国労の651人を大きく上回る。千葉局の運転士の70%を組織している。新小岩、津田沼、幕張、千葉、木更津、館山、勝浦、銚子、佐倉、成田の10支部から成り、千葉県内を走る内房線、外房線、総武本線、成田線などの重要路線はもとより首都圏を貫く総武線の緩行、快速を握っている。

 大会冒頭、あいさつに立った中野洋委員長(45)は、代議員、傍聴者を前に、まず七月二六日の国鉄再建監理委員会の最終答申にふれ、「この答申の中身を綿密に分析するならば、われわれはもはやこれ以上引くことのできないドタン場に立ぞいる。分割民営化のねらいは『国鉄の再建』などではありません。それは中曽根内閣の戦争を遂行できる国家づくりの環であり、そのための国鉄労働運動圧殺攻撃なのです。そして、自民党・財界が一体となって国鉄の財産をくいものにしようとするものです。いまや国鉄労働者は自らの全人格、全人生が暴力的に破壊されようとしています。30万のうち10万という大量の首切りによっておびやかされています。そういう状況に入っていることを見たくないけれども、リアルに見なければなりません」と国鉄労働者のおかれている厳しい状況を指摘、さらに声を高くして、11月スト方針を訴えた。
「来年(86のダイヤ改定合理化、二月のダイヤ改定合理化で一切合財が決着します。それに向けて断固としたストライキに決起しなくてはならない。このたたかいによって初めて答申粉砕の展望がひらけます。1100名の組合員そして家族の暮らしと生命をまもるために労働者の本来のたたかいであるストライキで起ち上がろうではありませんか」
中野委員長の発言が終わるや、代議員・傍聴者は強い拍手で応えた。

大会は、第一日目に西森巌執行委員(45)から「一般経過報告」、第二日目に布施宇一書記長(43)の「運動方針案」の提起をうけ、熱烈な討論をたたかわせたあと、最終日に「国鉄分割・民営化、10万人首切り粉砕へ数波にわたるストライキを軸にあらゆる戦術を駆使してたたかう」という運動方針を満場一致で確認した。そして、たたかいのメインスローガンとして、次の三つを採択した。

①自らの闘いで国鉄労働者の明日をきりひらこう!
②未曽有の国鉄労働運動解体攻撃粉砕!
③反動・中曽根内閣打倒へ、「国鉄」と「三里塚」を基軸に全労働者の怒りを結集し、総反撃に打って出よう!

執行部の提起は大会において圧倒的に支持され、ストライキ方針が正式に確認されたのである。大会で採択された『運動方針案』は次のように11月ストライキをたたかいぬく決意を述べている。
少し長いが、動労千葉がどのような決意を固めたかを知るために重要なので引用する。
「われわれは、1985年7月26日、国鉄再建監理委員会最終答申を期して、死活をかけた決戦に突入しました。
われわれの生きる基盤である国鉄を体制側から解体しようとする攻撃に対して、われわれは、組織も生活も、国鉄労働者の全てをかけて『1987年4月1日、分割・民営化』阻止をかちとらなければなりません。
いま、われわれに、何よりも求められていることは、
第一に、国鉄労働者に死を強制するに等しい未曽有の反動攻撃に対して、決然と立ち、原則を守って闘い抜く決意であり、
第二に、日帝・中曽根体制が追い詰められているが故に凶暴化し、体制的生き残りをかけて強めてくる攻撃の凄しさに圧倒されない階級的確信に裏打ちされた気迫であり、
第三に、この決意と気迫に立脚した闘う路線と組織体制の確立です。
われわれは、労働者階級自身の主体的決起と闘いの貫徹の中に歴史を切り拓く無限の可能性が秘められていることに確信を持つと同時に、労働者は闘いの実践を通してのみ向上するのであり、闘わない労働者(労働組合)は腐敗・堕落するという真理を、今こそかみしめなければなりません。
情勢が厳しいことは言うまでもないことであり、今後一年間、一九八五年一一月雇用安定協約破棄攻撃から1986年11月1日『18万3千人体制ダイ改』を経て、1987年4月1日の分割・民営化に至る文字通りの修羅場の中を、われわれ国鉄労働者は、何が何でも、まなじりを決して闘い抜かなければなりません。
情勢が厳しければ厳しいほど力を発揮し、『勝てるはずのない』闘いを勝利してきた動労千葉の底力を今こそ発揮し、ひとりのクビ切りも許さない闘いとして、国鉄分割・民営化阻止、国鉄労働運動解体攻撃粉砕の闘いを全力で闘い抜くこととします」
こうして、動労千葉は11月ストライキ方針を正式に決定し、その実現に向かって全支部が一丸となって取り組みを開始した。

●雇用安定協約の期限切れ
動労千葉が第一波ストを85年11月末に設定したのはもちろん理由がある。11月末日は国鉄が国鉄内各労組と結んでいた雇用安定協約の期限切れにあたっていた。雇用安定協約は国鉄が一九六二年に関係労組と締結したもので、動労千葉とは一九七九年一〇月に当時の高木文雄国鉄総裁と関川宰委員長の間で交わされ、その後期間の延長を重ねてきた。それは「合理化などに際し、本人の意思に反した免職、降職は行わない」と規定したもので、雇用安定の重要な支えとなっている。つまり、当局の一方的な都合で国鉄労働者の首を切らないということだ。当局とすれば、従来は合理化への組合の協力をひき出すテコとしてこれを位置づけていた。
ところが、臨調攻撃のなかで状況は一変した。国鉄当局はこの間、分割・民営化攻撃の本格化とともに、いわゆる余剰人員対策として①勧奨退職②一時帰休③他企業への出向の三本柱を推進してきた。
それはまさに国労もいう通り、首切りへの片道キップ以外のなにものでもなかった。ところが周知のように動労は、この国鉄当局の余剰人員対策にとびつき、その尖兵として、三本柱クリアー運動なるものをくりひろげてきた。組合役員が率先して労働者の肩をたたき、あるいは退職を、あるいは出向を強要する役割を担ってきたのだ。
一方国労は、当然にもこの余剰人員対策にあくまで反対し、「辞めない、休まない、行かない」のいわゆる「三ない運動」を続けてた。
 これに対し国鉄当局は、八五年一一月末に期限の切れる雇用安定協約を、三本柱に協力する動労、鉄労、全施労とは再締結するが、これに反対する国労、全動労、動労千葉とは再締結しないという極めて悪らつな不当労働行為に訴えてきたのだ。雇用安定協約をテコに国鉄労働者の総屈服を迫ってきたのである。ところがこの卑劣な攻撃を前に国労の山崎委員長は、八五年一一月中旬に開かれた中央委員会で当局の恫喝に屈し、「三ない運動」の中止をうち出したのである。国労は、雇用安定協約を再締結してもらうためにさらに一歩大きく後退し、恥ずべき屈服を強いられたのだ。
動労千葉の第一波ストは、この雇用安定協約の期限切れをとらえ、国労の屈服路線とはまったく逆の方向で、すなわち、労働者の階級的団結の力によって、あくまでその再締結を当局に要求する闘いとしてうちぬかれたのである。雇用安定協約の期限が切れる一一月三〇日、当局はもとより動労千葉との再締結に応じなかったが、国労に対しても、たとえ本部が「三ない運動」中止を決めても、まだ多くの地本が反対を続けているという理由で再締結を拒否した。これは、分割・民営化にむけた今日の攻撃が、国労を中心とする国鉄労働運動の徹底的解体を狙っていることをあらためて示したのであり、その中で三〇万国鉄労働者の生きる道は、ただ死力をつくした動労千葉のような闘いの中にしかないことを、いっそう鮮明につき出したのである。

●次々と支部大会でスト決議

九月定期大会にもとづき、一〇月以降動労千葉各支部は次々と支部大会を開催していった。

10月11日 成田支部定期大会
14日  木更津〃
15日   津田沼〃
19日    千葉運転区〃
26日   幕張〃
〃    新小岩〃
〃    館山〃
11月 9日 銚子〃
11日 勝浦〃
22日 佐倉〃
これらすべての支部大会において、第一〇回大会決定はいずれも満場一致で支持され、熱烈な討論をとおして一一月ストに決起することが確認された。すさまじい反動の嵐の中で、うちぬけば必ず大量報復処分が予想されるという、文字通り組織の存亡をかけたストライキ方針が、こうしてすべての支部大会において満場一致で支持されたことじたい驚くべきことであろう。もちろんここには、動労千葉の労働者が、動労本部からの分離・独立以前からつちかってきた戦闘的伝統、とりわけ三里塚の農民との連帯の中でうちきたえてきた不屈の労働者魂が脈々と波うっている。
 だが動労千葉は決してあらかじめ活動的な労働者を集めてつくられた組合ではない。千葉鉄管理局の運転・検修部門の過半の労働者を組織した、全国のどこの国鉄職場にでもいるごくあたりまえの国鉄労働者を組織した組合なのである。だから当然、一一月スト方針が全支部を通して決定されてゆく過程では、あらゆる悩みがあり、迷いがあり、ためらいがあった。

「答申が出た直後は職場でも『“三人に一人”の“一人”にオレだけはなりたくない』の意識が心の底にあり、『こんなことを言うと“一人”に入っちゃうんじゃないか』と個々の労働者が思うような状況も生れた」(永田千葉転支部長)という。ある集会では、演壇を降りた中野委員長のところに組合員の家族が駆けより「今度だけは、うちのとうちゃんをストから外してもらえないだろうか」と相談にきたという話もある。ある組合員は普段使ったこともない六法全書をめくって、日本国有鉄道法と公労法のストライキによる解雇の項を何度も何度も読んだという。さらにストが近づいてくると夜眠れなかったり、メシがのどを通らないと言う人が何人も出てきた。
これに対し動労千葉の執行部は、むしろ組合員のもつ不安や悩みを積極的に聞き出しながら、しかし、いま自分だけ助かろうと思ってもどうにもならないこと、どんな困難があろうと、分割・民営化を阻止するために、すべての国鉄労働者が団結して起ちあがる以外に道がないことを訴えていった。執行部はこれを国鉄再建監理委の七・二六答申に対する全面的な批判と暴露を通してくりかえし説いていった。中野委員長はこのことを次のような簡潔な言葉で説明した。
「新しい会社にいけば何とかなるみたいな雰囲気があります。全くそうではないのです。
新会社に残る者は約二〇万人になります。旅客会社は本州三会社で一四兆二〇〇〇億円も借金を負わされ、むこう三〇年間、年間ほぼ一兆円に近い借金を支払わなければならない状況に追いこまれます。ですから新会社に残ったとしても、大合理化、殺人的労働強化、賃金引き下げ、年金や退職金の引き下げなど恐るべき攻撃がかかってくることはまちがいありません。それと同時にわれわれは人を輸送する仕事をしているわけですから、大変な運転保安の危機に直面することになります。
さらに赤字の元凶である貨物部門を単独の独立した民間会社にして、どうして採算がとれますか。数年を経ずして倒産の危機に直面するでしょう。
こう見てくると、われわれ国鉄労働者のすべてがまさに『去るも地獄、残るも地獄』の状況に追い込まれるのは必至ではないでしょうか」

 ある支部大会で、中野委員長のあいさつのあと一人の代議員が立って、「委員長の話を聞いていると、お先真暗の気がする」と発言した。 それに対し、中野委員長が「そうなんだ、われわれはお先真暗なんだ。たたかわなければ闇、たたかっても負ければ闇、たたかって勝って初めて開けるんだ」と答え、全参加者が自分たちの置かれている状況をはっきりつかんだという。
こうして、中野委員長を先頭とする執行部の強力な働きかけによって一一月スト方針が全支部のものとなっていった。だがその基底にはやはりこの間の人べらし合理化、職場規律攻撃の中で荒廃の一途をたどっている国鉄職場の現状に対する、すべての国鉄労働者の中に蓄積している共通の怒りがあった。一一〇〇名の動労千葉組合員は、なによりも自分が毎日働いている職場の状況の中から、執行部の方針を理解し、支持し、そして自らその方針の下で首を覚悟して起ちあがる決意をかためていったのだ。

その具体的中味をいくつかみてみよう。
この間の急激な人員合理化によって職場環境は激しく破壊されてきた。たとえば、とくに動労千葉のような運転関係職場の組合にとってば死活的な運転保安の問題も大きくおびやかされてきた。これまでは年一回行われてきた台車検査(車輪、モーターなど車両の検査)は八五年三月に廃止され(三年に一回)、事故防止に欠かせない保線や各種の検査の間隔も大幅に延長された。三鷹電車区の場合、昨春の合理化で二二〇人いた検査修理部門がいまでは八〇人になってしまった。その結果、線路は荒れ、電車は故障を抱え、きわめて危険な状態にあるという。「営利追求・人べらし合理化・安全手抜き」の結果起きた日航ジャンボ機墜落と同じ過程がいま国鉄においても進行しているのだ。
「普通の人は電車に乗ってもよく分らないと思うけど、ポクら運転しているとこわいぐらいですよ。フラット(車両のすりへり)がすごく、ガタンガタンですよ。台検が廃止されて車両はゴトゴトとすごいですよ。車両故障は多いしね。どんどん悪くなっています。千葉でも七月二日ですか、内房線でレール張り出し事故がおこりましたね、重大事故につながりかねないものです。“第二の日航”というのはけっして大げさじゃないですよ」(千葉運転区、Kさん)
また、乗務員の勤務は、昨年三月のダイヤ改定以降超過勤務を前提にした勤務体制となり、目茶苦茶にきつくなっている。乗務員が運転中倒れる、あるいは体調を著しく崩し運転できなくなるという事態が多発している。それなのに、当局は体調が悪くて休もうとすると診断書が必要だとして無理に乗務させたり、病気で休むと「出向しろ」「勤務成績が悪い」と言ってくるという。そればかりか電車の一分の遅れでもチェックし乗務停止処分にするということさえ起きている。「ともかくつまらないところで細いことを言うようになりましたね。たとえば錦糸町で乗務が終って千葉まで帰る時も、所定便乗でなく最初に来た電車に乗って帰ると、一本違っても文句言うんです。ホームの停止目標線から少し外れてもチェックされ、乗務停止になつちゃうわけです」(千葉運転区、Hさん)
さらに、「過員対策」をテコに職場規律攻撃を強め、当局への屈服をどこまでも要求する攻撃も激化している。千葉局管内では約七四〇〇人のうち六〇〇人の「余剰人員」が発生するとされている。
当局は昨年八月一日「過員活用の一環」と称し「業務開発センター」を設置した。所要員と「過員」を区分けしたうえで「過員」をセンターにぶち込み「有効活用」と称して当局の都合のいいようにこき使おうとするものである。これは勤務地、業務の変更等、労働条件の変更を伴うにもかかわらず、当局は「団交事案ではない」と交渉を拒否し.一方的に職員を配置した。
九月から本格的に始まったセンターは船橋駅から歩いて三分のところにあり、動労千葉八人、国労二五人、全動労一人の計三四人が「過員」として集められた。仕事は「開発」とは名ばかりで、レールをカットしたものを文鎮にしたり、ロッカー・机・イスの再生、行先字幕をパネル化するなど、場あたり的、ものまね的で採算にもあわない内容である。センターといっても、部屋のみでまともな設備・備品もないタコ部屋そのものである。それでいて、助役は、朝の体操、作業などについて逐一チェックし監視体制のみ異常に強めている。当局の狙いは、一〇万人首切りの準備として「要員」と「過員」を選別し、その恫喝をテコに国鉄労働者に屈辱を与え屈服させ飼いならそうとするところにあるのだ。
分割・民営化攻撃の本格化の中で進むこのような職場の荒廃、そして労働者を虫けらのようにあつかう当局・職制に対するうっ積する怒り、これこそ動労千葉一一〇〇人の組合員が、執行部の方針の下で、最初はためらいながら、しかし長く激しい討論を通して一丸となってストライキに起ちあがっていった、その最も基底的なエネルギーを形成していたのである。

●けん引車となった青年部

九月から一〇、一一月にかけて各支部が支部大会を開きスト態勢を構築していく過程で、その先頭に立ち、重要な働きをしたのは青年部(三〇〇名)である。
今回のストライキにおける青年部の突出した役割は、親組合員の注目も集め、「青年部の革命」といわれるほどめざましいものだったが、その前提には、動労千葉の青年部がはじめて経験したひとつの闘いがあった。駅助勤闘争である。たとえば「『うちの青年部はだらしがない』と、いつも永田支部長にしかられてばかり」(千葉運転区支部青年部H君)という千葉運転区支部青年部も、屈指の戦闘的な青年部に自己脱皮していくのである。今日の国鉄職場でどのような日常的攻防がくりひろげられているかを知るうえでも重要なので、ここでこの駅助勤闘争の経過を述べておこう。
駅助勤とは、国鉄当局が「余剰人員活用策」と称して乗務員・検修員を駅の「通勤対策業務」に一定期間配置するものである。当局の狙いは、「過員活用」を口実に国鉄労働者を屈服させ、労働組合の団結を破壊することにあった。動労千葉の場合、昨年五月ごろから、若い人から順番に交代で三ヵ月ないし六ヵ月間、浅草橋、両国、飾糸町、市川、船橋、西船橋、津田沼、千葉などの各駅で、朝のラッシュ時の“尻押し”特別改札、旅行センター補助業務などの仕事怜就くことになった。
 これは、個々の若い動労千葉青年部員にとっては、自分たちの運転職場(区)から初めて離れて当局・職制と自力でぶつかる全く新しい経験であった。しかも、駅職場は運転職場と異なり国労、鉄労の組合員がほとんどで、動労千葉がかちとっているような当局との間の刀関係は存在しない。「駅の国労職員があまりにおとなしく、駅長や駅助役の指示に素直にハイハイと従っているのにはビックリしました。たたかわないとああなるのかと、ゾッとしました」(津田沼支部青年部K君)という状況だった。
しかも、千葉局は、意図的に動労千葉組合員を各駅にバラバラに配置し、孤立無援状態で屈服を迫ろうとした。「ネクタイ、名札着用、組合ワッペン不着用」を強要する職場規律攻撃である。とくに名札を着けていないと、毎朝の点呼で駅管理者(駅長、助役)がさんざん嫌みを言って重圧をかけるばかりか、一日中何の仕事にも就けず駅の一室に閉じ込めておくということさえした。しかし、六月二日から駅現場に配置された第一陣の四〇名は国労千葉の四三名と共闘し、八三名全員で名札着用を拒否しぬいた。二週間にわたるたたかいに追いつめられた当局は六月一七日突然全員の駅助動を解除して元区へ戻し一切の業務につけないという暴挙に出た。
八三名の怒りは爆発した。連日、各区において抗議・追及のたたかいが繰り広げられた。そして、七月二日、外周区(内房線、外房線沿線)における無人駅の特改が始まり、名札拒否闘争は全職場に拡大していった。七月八日には動労千葉青年部が千葉局玄関前で怒りの総決起集会をたたきつけた。ついに、当局は七月一四日以降全員を無条件で各駅に戻さざるをえなかった。若い労働者のがんばりが勝利をかちとったのだ。
ところが、駅助勤開始後三ヵ月経って九月以降の要員さしかえが始まるなかで、国労指導部は「名札着用は本人の自由な判断に任せる」という方針に転換した。これは、実際上は当局の攻撃の前に個々の労働者を無方針“無防備”で放り出すこと以外のなにものも意味しない。若い下部労働者が必死でがんばっているのになにが国労指導部をこのような方針に走らせたのか?それは、九月一一日国鉄当局が発表した、ワッペン闘争史上初めての五万五〇〇〇人の大量不当処分攻撃である。さらに、つづけて加えられた一〇月五日の六万四〇〇〇人に及ぶ大量不当処分である。国鉄当局は、処分の恫喝をもって労働者を屈服させ、無力感をひき出し、いいなりになる労働者をつくりだそうとしたのである。
国労指導部の後退の中で、国労組合員は、あくまで名札着用を拒否する戦闘的労働者が個々にがんばる一方で、当局の圧力の前に一人また一人と名札を着け始めた。しかし、動労千葉青年部は一人の例外もなく頑として着用を拒否した。毎日毎朝の恫喝、警告書、処分のおどし、所属区の職制の導入……。当局の攻撃の矛先は動労千葉の若い青年労働者に集中した。所定の期間が過ぎても動労千葉組合員だけは元の区に帰さず不安感を与えるというようなことまでしてきた。だが、動労千葉の若い組合員は全員、一致団結してがんばり、逆に不当な差別をすすめる駅当局を激しく追及するたたかいに決起していった。
これに対し当局は一一月七日、動労千葉組合員四三名のみに差別的不当処分を強行してきた。しかも、これを追及された千葉局・松田人事課長は「(動労千葉の組合員は)商品価値からいえば不良品だ」「全くできが悪い」「賃金を払っているんだからどう使おうが当局の勝手だ」という暴言を吐いた。そればかりか「不良品を使うわけにはいかない、過員として区に帰ってもらう」と言い、一一月一八日若い組合員八名を「余剰人員」として一切の仕事に就けない「区日勤」扱いにするという卑劣きわまりない挙に出た。当局に屈服しない労働者をみせしめにしようというのだ。
千葉運転区支部青年部I君は、もともと組合の活動家でもなく、鉄道が好きで国鉄に入った青年だったが、この八人のうちの一人にされてしまった。
「駅助勤には10月に行ったんですが、初めのうちは早く区に帰って運転したいという気持がありました。でもともかく向うのやり方が汚なくてね。髪とか靴とかワイシャツとかネクタイとか、細かいことをあれこれ言うわけですよ。警告書も沢山出ました。でも面倒だから取りになんか行きません。
一一月一八日ですか、突然八人だけ区に戻されたんです。私たちの職は運転士ですから、駅助勤解除で区に戻されたんですから運転の仕事に戻すのはあたり前でしょうよ。ところが、今、私は八時四〇分に区に出てきても仕事がないわけです。仕事がないというのはつらいですよ。なぜそんなことをするのかと追及しても、区長は『総合的判断』ということで理由は何も言えないわけです。
ともかく話にならないですよ。頭に来ましたよ。「不良品」とは何ですか。私たちは品物じゃあないんですよ。やっぱりどんどんたたかわなけりゃあダメですよ」
こうして、毎日毎日の神経のすり減るような当局・職制との一対一の攻防をたたかいぬきたくましくなって区に戻ってきた青年部の若い戦士の目には、職場支配権を握り当局との一定の力関係のうえに立っている動労千葉の職場の現状さえ「ぬるま湯」につかっているように映った。
自力でたたかいぬく経験を積み自信を持った青年部は「動労千葉は腹をくくってたたかおう。中曽根と対決し、ひとあばれしよう」(成田支部大野青年部長)を合言葉とするようになった。そして、一一月ストライキ方針にまつ先に賛成し、支部は年輩者を「つきあげ」スト実現の力強いけん引車となった。
「オレたち青年部はこれまで支部にいて、やっぱり組合役員にられていたわけです。『当局にこんなことを言われた』とか役員に言えばことが済んでいたわけです。ところが、駅に行って自分一人しか居ないわけです。それで、お前なんで名札着けないんだとか、二時間も三時間もコリコリいわれるわけです。そんなこと許せないというので、現場で一人一人ががんばるという状況が初めて生まれたわけです。“.親”も『青年部どこまでがんばるか』と見ていたと思うんですが、最後までつっぱっちゃって、“親”の信頼も得たわけです。駅助勤に行ったある青年部員が『このままいっちゃったらオレは活動家になつちゃう。組合はオレを活動家にするために駅に行かしたんじゃないか』(笑)というような状況が生まれたわけです」(青年部役員、Sさん)
駅助勤闘争の最中、動労千葉青年部は、もうひとつの衝撃的な体験をした。一〇月二〇日、全学連(鎌田雅志委員長)がたたかった三里塚交差点における三里塚軍事空港粉砕・機動隊せん滅の大衆的武装闘争の爆発である。
全学連の二〇歳前後の若い学生たちが鉄パイプ・火炎ビン・石で武装し、次々と三里塚第一公園からくり出し警視庁機動隊の壁をぶち破っていく勇姿は、おなじ集会場の隣あわせに坐っていた動労千葉青年部の組合員たちに強烈な印象を与えた。敵権力の暴力を何ら恐れぬ全学連の果敢な戦闘は、それを目のあたりにした若い青年労働者二〇〇名の血をたぎらせるのに充分だったのだ。その日夜の総括集会では、発言に立った青年部員は口々に感動と興奮を語り、「今度はオレたちがストで決起する番だ」とこぶしを握りしめて宣言した。電撃的な一〇・二〇全学連武装決起と戦闘における勝利一機動隊の敗走は「やればできる。敵権力は打ち倒せる。恐れることはない。たたかうことだ」という確信を強烈に植えつけたのだ。

●家族ぐるみ・地域ぐるみ

一一月に入るや、動労千葉は各支部大会と併行して「国鉄分割・民営化阻止、五〇〇〇万署名貫徹地域集会」を県内各地で開催した。かってなかった試みである。一一月ストライキ成功のためには、ひとり動労千葉組合員のみならず、家族ぐるみ・地域ぐるみのたたかう体制が不可欠だとの判断によってである。
地域集会は、一一月九日の木更津を皮切りに、一一月一三日千葉、一九日銚子.二一日津田沼、二二日勝浦、二四日成田、二五日館山、一二月一四日新小岩と、いずれも動労千葉組合員とその家族さらには国労、教組、自治労、民間の働く仲間一〇〇名ないし二〇〇名を結集し、中野委員長の二時間をこえる講演を中心に盛大にかちとられた。七・二六答申一分割・民営化の暴露と、今をおいて起ちあがるときはないという訴えは、まさにしみとおるように組合員全体のものになっていった。地区労、地区交運、地区社会党のあいさつは、動労千葉の決起に対する地域の強い関心と期待を示していた。それはまた、動労千葉の組合員の確信と決意をさらに強固なものにしていった。
「うちの親は、「今度ストすつから』というとすぐ賛成してくれましたよ。『職員が働かないから国鉄は赤字だ、赤字だというけど、とんでもねえ。国鉄はお前が入るずっと前から赤字だったんだ。お前に責任はねえ、クビ切られるいわれはねえ』ってね」(千葉運転区、Fさん)
「もうみんな、クビは覚悟してやっています。でも、それを決意するとおっかないものはないんだよね。女房にも、『もうここでおわりだから……』って言ってあるの。女房も、『それはそれでいい、でも捕まるのだけはやめて、子供もいるから」って言ってね。
誰 だって残りたいだろうけど、今頃ジタバタして助平根性おこしても仕方ないもん。ストに入る前に、支部の執行委員会を本部に行ってやって、その時中野委員長から支部の役員は決意を固めるよう言われましたね。そりゃそうですよ。役員が残ろうなんて思ってる組合はどうしょうもないからね。たたかえるはずがないよ」へ津田沼支部執行委員、Tさん)

二、前哨戦

●11・17全国鉄労働者総決起集会
 一一月一七日、東京・日比谷野外音楽室で「全国鉄労働者総決起集
会」が開かれた。演壇には「国鉄分割・民営化阻止、一〇万人首切り反対、二月ストライキ貫徹、中曽根打倒」と掲げられている。動労千葉の主催である。次々と集まって来る参加者は誰しも、まず会場入口で警備にあたっている動労千葉青年部の若々しい姿を目にした。一〇〇を越える若い青年労働者が全員白ヘルメット、ナッパ服に身を包み林立する鉄輪旗をなびかせて。“ヤル気”を全身で発散させていた。
集会には、全力動員の動労千葉組合員・家族五〇〇名を先頭に、国労の労働者をはじめ全国から駆けつけた労働者・学生・市民三四〇〇名が結集。動労千葉支援共闘会議の浅田光輝氏(立正大教授)、三里塚芝山連合空港反対同盟の北原鉱治事務局長、動労千葉スト支援一億円基金の呼びかけ人を代表し鎌倉孝夫埼玉大教授、全造船機械石川島分会の佐藤芳夫委員長ら、共闘団体の多くの人が立って動労千葉を激励し、動労千葉と連帯して闘うことを誓った。それを受け、主催者を代表して基調報告を行った動労千葉の中野委員長は、その最後に、初めてスト決行日を発表した。
 「第一波ストは一一月二九日。総武線緩行線快速線を中心に二四時間ストに突入する」
会場は一瞬静まりかえり、次の瞬間どよめきとともに歓声と拍手が湧きおこった。
「一一・一七集会は決定的でした。組合のなかだって、『ストといっても時限ストぐらいじゃないか』と思っていた人もいると思うんです。でも、動労千葉がわざわざ東京まで行って二四時間ストライキを宣言したことで、本気であることがはっきりしたと思うんです。ストやると言えばすぐ「いつやるんだ」『どれぐらいやるんだ』という話になるのですが、中野委員長の提起でみんな猛然とヤル気になりましたね」(津田沼支部青年部、K君)
集会は、この方針をうけ、さらに、拠点となる津田沼支部の山下幸支部長(44)、千葉転支部の永田雅章支部長(41)、新藤雄一青年部長(28)らが次々と決意表明。最後に、布施書記長が動労千葉本部の決意を明らかにした。
こうして、動労千葉はみずからの決意をきっぱりと宣言した。

●二つの拠点、固まる団結
 ストの組織化は最終段階に入った。スト拠点の千葉運転区は国鉄千葉駅のすぐ側にあり、総武線快速、内房線、外房線、成田線などに乗務する運転士が所属している。今回ストに入るのは千葉駅と東京駅を結ぶ総武線快速である。同支部は現在一一五名で構成され、永田雅章支部長のもと強力な団結を誇っている。他方津田沼電車区は千葉駅と三鷹駅の間を走る黄色の電車、首都圏の人民にはおなじみの総武線緩行の車庫となっている。それに付随する検査・修理などの機能も有している。国電津田沼駅とつながっており、その西側に位置している。支部員は一二七人。信望厚い山下幸支部長が支部のまとめ役の重責を果している。
千葉転支部では二月中旬から連続五日間にわたって国鉄分割・民営化の学習を行い、徹底的に討論、これにはすべての支部員が参加した。永田支部長は学習会のすべてを準備し、全支部員との討論で全支部員の怒りの気持と悩みをしっかりとっかんだ。津田沼支部では、山下支部長を先頭に三次にわたるローラー・オルグを行い、徹底的に話し込んだ。ストに向かう組合の「団結署名」は短期間で一〇〇%達成された。
 ストライキ準備の過程は、これまでにも増して組合員の団結を強くし、仲間への信頼を深くした。「これからクビをかけてストライキをやろうとしているのに、どうしてネクタイを締めたり、カーテンを開けたりすることができるか」ということで、ただ一人の例外もなく、ネクタイ着用拒否、カーテン遮閉を貫徹するようになった。
ここでいうカーテンとは、運転席と客席をへだてるカーテンのことで数年前まではどの運転士も当然のこととして、運転中はこのカーテンを閉めていた。ところが臨調攻撃の中で、当局は運転士の勤務態度を職制が後ろから監視するためということでカーテンを開けるよう圧力をかけてきた。まず動労が屈服した。カーテンは三枚ある。今日動労はこの三枚をすべて開けている。国労は長くこれと抵抗してきたが、この間後退し、組合員によって違いはあるがいまでは多くが三枚のうち二枚をあけている。しかし動労千葉の乗務員は誰も、一枚もカーテンを開けないで運転席についた。
「ストライキの前までは青年部がたしかに相当がんばりました。しかし、ストライキ過程に入ってからは三〇代、四〇代の人たちが本当にがんばりました。この支部役員クラスの人がスト対象者とか組合員一人一人をゴリゴリオルグしていきました。そういう時になると、ふつうは「オレは家族があるから:…らと逃げる人が多いのに、家族も子供も持つ人が『オレが責任とる』と先頭に立ってストを準備しました。すると、若い私たちよりもすごい重みと説得力を持つわけです。支部三役なんかの迫力と決意、その辺が動労千葉の強さでしょうね」(津田沼支部青年部、S君)
このころまで、中曽根内閣、治安当局、国鉄当局は、動労千葉はスト方針は掲げているものの実際にはスト突入はできないのではないかと読んでいたふしがある。動労はすでに第二鉄労と化して久しく、あの大国労も中央本部の屈服的無方針の下で一歩また一歩と後退を重ねている。その中で「たかが二〇〇名の組合に何ができる」「ストは空叫びだろう」と当局がたかをくくっても、たしかに不思議ではないような状況が国鉄労働運動全体をおおっていた。だが一一月一七日の集会は、動労千葉が、いかなる困難をものりこえてストライキに決起する決意であること、すでにその万全の態勢が整っていることを満天下に明らかにしたのだ。

●ストライキ禁止令
一一月二一日夜、千葉局は管内の全職場に一斉に一つの掲示を張り出した。『区員各位へ 違法ストライキ等について』と題した草木局長名の文書は次のように言っていた。
「いうまでもなく、公労法第一七条により、国鉄職員のストライキ参加は禁止されており、同法第一八条により参加者は解雇されるものと定められております。
まさに国鉄再建の瀬戸際にあるこの時期に、違法な行動に参加されることに対しては、従来の例によらない、厳しい処置を講ぜざるを得ず、万一参加された場合、職員及びご家族の生活基盤の確立において、極めて不幸な事態を招来することは火を見るより明らかであります」
これは、「ご家族の生活基盤」とか「極めて不幸な事態」などというごう慢不遜な言葉を用いて「ストに参加すれば全員解雇」を恫喝するという前代未聞の『スト禁止令』である。しかも千葉局はこの文書を組合員全員の家庭に送付するということまでやった。組合員の家族の中に泥靴でおし入り、これをおどし、引き裂いて、ここからストを切り崩そうという卑劣な手段だ。だがこの、居丈高な、労働者を愚ろうしたスト破壊行為は、労働者を屈服させるどころか、逆にその怒りに油を注ぐ役割しか果さなかった。「全員解雇」の恫喝は、首を覚悟でストに起とうとする組合員の結束をいっそう固めさせるだけだった。
「あれは当局の失敗ですよ。遅すぎますよ。もうみんな腹が固まってから、あんなものが出たってどうしょうもないですよ。けっさくなのは、あの文書のなかに、『家族が不幸な事態になるのは火を見るよりも明らかである』なんて局長名で書いてあるんですが、もうその前に局長の自分の家が(中核派のゲリラで)火を見ちゃっているんですよ(笑)。やっと切り崩しに出てきたか、というような感じでしたね。あれで、組合員がビビルというようなことはなかったですよ。むしろ、ストにおびえているのはどっちかということですよ、ハッキリしたのは」(青年部役員、S君)

●機動隊九五〇〇人体制
中曽根・治安当局にとって、動労千葉の決起は、動労千葉のストそのものとともに、いまひとつの深刻な治安問題をつきつけていた。
ストの前日、一一月二八日から翌二九日にかけて、中核派を中心と
する動労千葉を支援する勢力は、拠点津田沼へ全国から総結集する方針をうち出し、夜を徹しての波状的な集会・デモの申請を出していた。国家権力は、動労千葉のストとともに、このスト支援の部隊の動きに神経をとがらせ、そのすべてを封じ込めるために異常な弾圧態勢をしいた。この背後には、一ヵ月前の一〇月二〇日、三里塚交差点における全学連と機動隊の激突、そこにおける機動隊の潰走が治安当局に与えた深刻な衝撃があった。
一一月二一二日午後、千葉県印旛郡富里村の県道を歩いていたM子さんは、東京方面から機動隊を乗せた装甲車が多数接近してくるのを目撃した。灰色のバスの車体のナンバーから関西方面から来たものと分った。不気味な装甲車の列は一〇〇台近くまでも続いていた。M子さんは戦争でも始まったのかと疑ったという。
三里塚ではすでに一昨年以来、二期着工攻撃があらゆる方向から強まってきたが、この非常に重要な一環として、騒音下菱田地区における成田用水着工が、この二月一.五日から強行されようとしていた。二期が完成された場合、騒音直下に入り廃村の運命にさらされる菱田地区はもともと空港反対運動のもっとも強力な拠点だった。成田用水は、この反対同盟の拠点を二期にむけて解体することを狙った攻撃で、すでにその一部は八四年秋の時点で着工されていたが、八五年秋には、菱田地区の中でもとくに重要な辺田、中郷部落での着工が準備されていた。反対同盟農民の不屈の闘い、さらには一連のゲリラ戦で遅れに遅れていた着工を、国家権力・空港公団はいよいよ一一月二五日から強行する態勢を固めたのだ。そしてまずこの警備のために、全国からなんと九五〇〇人の機動隊を動員したのである。わずか数十戸の小さな農村での用水工事に、北海道、九州をふくむ全国からかき集められた一万人という驚くべき数の機動隊が襲いかかる一ここに中曽根内閣の三里塚二期工事にかける意気ごみ、その中でこの成田用水着工のもつ意味の大きさが示されていた。
関西ナンバーの一〇〇台近い装甲車の列はその一部だった。一〇月二〇日、三里塚芝山連合空港反対同盟が主催する現地集会が三里塚第一公園に全国から一万五千人の労働者、学生、市民を総結集して開かれた。集会では反対同盟農民をはじめ各支援団体から激しい決意表明があいついだが、その最中に、周囲の厳戒態勢を破って数台のトラックが警笛を鳴らして会場内に突入してきた。会場は総立ちになった。同時に集会場中央にいた中核系の全学連学生は直ちに行動を開始、トラックに満載していた石、鉄ハイプ、火炎ビンそして丸太で武装、そのまま会場をとび出し、三里塚交差点からまっすぐ空港第二ゲートにむけた突撃に移った。三里塚交差点に阻止線を張る警視庁機動隊との激突は二時間半におよんだ。その激しさをマスコミは「市街戦」と呼んだ。機動隊はここでかろうじて全学連の進撃をくい止めるが、しかし壊滅的ともいえる打撃を受けた。七〇年闘争以来はじめてともいえる街頭での致命的な敗北だった。七〇年以来、重装備の機動隊を大量にくり出して街頭におけるいっさいのデモを封じ込め、無力化するという警備方針そのものがまさに決定的にうち破られたのである。機動隊神話が崩壊したのだ。
これは治安当局に対して、さらには中曽根内閣そのものに強烈なインパクトを与えた。そしてまさにこの一〇月二〇日の事態を二度と許してはならないという中曽根-後藤田の政治意志に基づいて、警察庁は、一一月二五日から始めようとしていた成田用水工事に一万の機動隊を動員したのである。そしてこの一万を一一月二七日まで三里塚にはりつけ、さらに同じ理由からそれをそのまま二八、二九日の両日、動労千葉のストとその支援行動圧殺のための大警備体制にふりむけたのだ。
ここで彼らは、津田沼に総結集の方針を出している支援の動きを封じ、さらに中核派のゲリラ防止を口実として一万の機動隊で総武線を十重二十重にとりかこみ、その圧力の下で動労千葉のストそのものをも圧殺しようとしたのである。

●ストライキ戦術を決定
一一月二一日、千葉市要町にある動力車会館で、第三回支部代表者会議が開催され、ストライキ戦術の意志統一がはかられ、次のことが決定された。
具体的戦術・方針
一,闘いの目標
①国鉄分割・民営化阻止
②一〇万人首切り合理化粉砕
一〇・九『今後の要員体制のあり方について」撤回
③雇用安定協約完全締結
④運転保安確立、検修合理化阻止、国鉄を.第二の日航”にするな
⑤団交拒否・形骸化と不当差別・選別の強権的労務政策糾弾、不当処分撤回
二、戦術の基本

①一一月二九日、始発時より総武線千葉以西の全列車を対象とする二四時間ストライキとする。(但し、貨物列車を除く)
②前項にかかわらず、次の事態が発生した場合は、スト突入時間の繰り上げ・スト対象区の拡大(千葉駅に乗り入れる全列車)をもって対応する。
1、構内・庁舎から組合員の強制排除・官憲の導入
2、スト破り行為

③従って、一一月二八日以降、全支部・全組合員によるスト突入体制を確立する。
④国鉄労働組合に対し、従前の通りB変仕業の拒否を申し入れる。
⑤一一月二八日、一七時三〇分より、津田沼電車区・千葉運転区においてスト前夜総決起集会を開催する。
三,ストライキ前段の取り組み

①全組合員が「業務命令」「保護願い」を絶対に受け取らず拒否する体制の確立
②全支部籠城体制・常時連絡体制確立
③当局の動向把握、現場長交渉の追求
④国労共闘の強化
ここに出てくるB変仕業について簡単に説明しておこう。一般的にB変仕業というのはダイヤを構成する車両運用=A、乗務員運用=Bのうち、乗務員運用で本仕業と異なる変仕業を組むことである。
したがって、ストの際のB変仕業とは、スト破り行為を意味する。
列車運行には乗務員と列車が必要だが、A変仕業は交番(ダイヤ)で決められたある乗務員が所定の列車とは異なる別の列車を使って運行することで、B変仕業はある列車に所定の乗務員とは異なる乗務員が乗って運行することである。したがって、当局がストに入った甲労組の乗務員が降りたあと、新たにスト破りダイヤを組み乙労組の乗務員が乗って運転すればストは無意味になるわけで、これがB変仕業=スト破りにあたる。
一一月一二日に決定された戦術のポイントは、①一一月二九日始発時より総武線緩行(千葉一三鷹)、快速(千葉一東京)を対象に二四時間ストに突入する、②国鉄当局・権力のスト破壊があった場合はスト時間の繰り上げ、スト対象の拡大を行う、③国労に当局のスト破り行為の要求には応じないよう求める、というところにある。とくに重要なのは国労との関係であった。

 もともと中曽根の国鉄分割・民営化攻撃を阻止することができるか否かは、国鉄労働者の過半を制する国労の動向が決定的な位置を占めている。動労千葉という一一〇〇人の組合があえて首をかけて一一月ストに決起するのは、必ず国労傘下の、あるいは動労傘下をふくむ、何万、何十万の国鉄労働者がそれに続いて決起することを期待し、確信したからに他ならない。動労千葉はそこに一切をかけて決起したのだ。
それだけではなく、この動労千葉の第一波ストじしんにとっても、国労の動向は決定的な意味をもっていた。今回スト対象となった総武線快速と緩行はすべて動労千葉組合員が運転しているわけではない。快速の方はすべて千葉運転区の乗務員が動かしているが、その内訳は動労千葉が約五割で残りは国労。緩行の方は津田沼電車区の動労千葉が三割で残りは津田沼の国労が三割、さらに中野電車区の国労が三割、動労が一割となっている。したがって、動労千葉が単独ストを行なった場合、快速が五割、緩行が三割ストップすることになる。しかしこれだけの電車がストップした場合、ホームにあふれる大量の乗客を、安全に輸送することは至難の業となる。そこで、国鉄当局はこれまでの例では初めからすべての電車を運休し混乱を避ける方法をとってきた。ところが、当局は今回は、国労、動労をスト破りに動員することであくまでも運行を強行しようとしたのだ。
「ストをやっても電車はく」「ストは無力」という重圧を加え、動労千葉ストの影響をゼロにしょうとしたのである。

●当局の狙い、国労の動き
 動労千葉は、ストライキに入るにあたって、国鉄分割・民営化攻撃に対しともにたたかって国鉄労働者の生活と権利を守るという立場から、一一月一二日国労千葉地方本部(本吉好夫委員長)に「共闘強化に関する申し入れ」を行った。これにもとづいて二二日には動労千葉と国労千葉の話し合いがもたれ、国労側は「お互いの立場を尊重しつつ、要求で一致した内容について、共闘の話し合いを進める」と提起。動労千葉は名札・ワッペン・カーテン問題等の共闘についての前提条件が確保された点を評価、一一・二九ストについて「スト破りにわたるようなことはしないで協力してほしい」旨、申し入れた。国労は「本部と相談して回答する」と答えた。
その後、さまざまな折衝のなかで、国労本部、千葉地本、東京地本
の各指導部は「スト破りはしない」「原則的に対処する」と言明していた。にもかかわらず、一一月二五日国労千葉地本は、国労本部方針が「①動労千葉とは共闘しない②ストの妨害はしない③業務命令の扱いは従来どおり」であることを明らかにした。③は「当局の業務命令が出されたらそれに従う」というものであり、実際はスト破り以外のなにものでもない。しかも、国労本部は二月二八日(スト前日)に予定されていた動労千葉青年部と国労千葉青年部の共闘集会は中止するという指示をおろしてきた。
 スト破りはいうまでもなく労働者にとって最も恥ずべき裏切り行為である。国労がこのように他の組合のストライキに対しスト破りを行うなどということは、結成以来一度もないことである。この国
労中央の方針に対し、国労千葉地本の津田沼、千葉転の両分会においては、後述するように激しい反対意見が噴出、激論がたたかわされ、最終的には二九日未明の段階でこれがくつがえされることにな
る。だがそれまで国労本部は、あくまでも「業務命令には従う」という実質的なスト破りの方針をおし貫こうとしていた。だがこれは動労千葉の組合員にとっては、たとえ動労千葉の組合員が二四時間ストに入っても、その穴が業務命令に従う国労、動労の組合員によってうめられ、総武線は通常通り動くということを意味した。これは「全員解雇」の恫喝よりもさらに重く動労千葉の労働者の上にのしかかった。まさに国鉄労働運動史上これまで例を見たことのない悪質なスト破り策動が組織されたのである。もちろんこのような国労中央の動きの背後には動労・松崎の暗躍があり、またなによりも中曽根、国鉄当局の圧力があった。「業務命令に従わなければ国労組合員も解雇する」という恫喝に、国労中央は屈したのである。
スト決行日が迫るにつれて、動労千葉を重包囲し絞殺せんとする密集した反動の嵐はさらに常軌を逸したものになっていった。
一一月二六日午後六時、広大な津田沼電車区のかたわらに一台のクレーン車、三台のトレーラーが停まった。そして、ごうごうたるライトのなかで時ならぬ突貫工事が始まった。電車区の外周沿いに三〇〇メートルにわたって高さ一〇メートルのコンクリート柱が何十本も立てられ、それに金属製の網が張られた。巨大な防石ネット
である。さらに翌二七日、今度は電車区構内の入口付近から組合事務所前、電車区庁舎一帯にかけてレール道床を覆う黒のネットがこれまた突貫工事で敷かれた。採石・投石防止ネットである。
国労、動労を使ったスト破りは二九日のスト破りダイヤを作成し、これに国労組合員で「過員」として「業務開発センター」に押し込んでいた要員をひきあげたり、ふだんは運転乗務しない指導員や予備乗務員をひっぱり出して業務命令を出しスト破り要員として動員する作業が着々と進められていた。
当局の狙いはもはや明らかであった。一方で津田沼電車区の防石ネット、レール道床ネットに示されるように、権力・機動隊を導入して動労千葉組合員を構内から暴力的に排除し、他方でその戒厳的な制圧体制のもとで国労などの乗務員に威嚇を加え乗務を強制して電車を動かし、動労千葉のストライキを完全に不発に終らせようとしているのだ。
ここにおいて、動労千葉執行部は、当初の警告どおり、スト繰り上げ戦術を決断した。一一月二七日午後一時、動労千葉執行委員会が開かれ、当局の不法不当なスト破り行為からストライキを守り貫徹するために、二九日実施の予定を二八日に繰り上げ、「二八日正から二四時間ストに突入(二九日正午まで)」することが決定された。労働者の権利を否定し団結を破壊する当局の攻撃からストライキを防衛するための当然の措置である。かくして、決戦の火ぶたは切って落とされた。

二七日午後四時、中野委員長と吉岡一教宣部長(34)が記者会見を行い、スト繰り上げ戦術を発表。マスコミ各社は一斉に「動労千葉がスト繰り上げ」のニュースを報じた。
午後五時ごろ、国鉄当局、千葉局は、千葉駅、船橋駅など沿線各駅で「二九日のストで電車の運休、遅延が予想されるので旅行などは見合わせるよう」呼びかける立て看板を掲示し、同趣旨のチラシをまいていたが、動労千葉の戦術転換に不意をうたれ、右往左往の混乱。あわてて看板を撤去、ストが繰り上がったことを構内アナウンスで繰り返す。
国鉄当局は自らのスト破壊行為が招き寄せたものでありながら、スト繰り上げ戦術に不意を打たれ、大きなショックをうけた。これで、事前に準備を進めていた二九日の「スト破りダイヤ」はふっとんでしまった。
だが中曽根・国鉄当局は、弱気になる千葉局を恫喝しながら、国鉄首都圏本部とその下にある東京南、北、西三局の鉄道公安官、白腕章を千葉局に総動員する一方、三里塚での成田用水工事にはりつ
いていた一万の機動隊を予定をくりあげ千葉と津田沼に向わせた。動労千葉は、ストライキ指導のため、本部から、千葉運転区支部に山口敏雄副委員長、西森厳総務部長を、津田沼電車区支部に水野正美副委員長、片岡一博企画部長を配置、東千葉の組合本部には中野委員長、布施宇一書記長らが詰めた。両拠点支部の組合事務所には、永田、山下両支部長ら三役をはじめ支部役員が全員徹夜体制。青年部、ストライキ行動隊が支部役員の指示に従ってテキパキ動き、深夜まで最後の準備にたち働いた。

三、ストライキ

●ついにストに突入
 一九八五年一一月二八日、いよいよ偉大なストライキの日を迎えた。
午前四時、津田沼支部では泊り込んでいた組合員五〇人全員が起床。執行部はほとんど眠っていない。外はまだ暗く、寒い。構内に長く伸びる何十本ものレールが、闇の中に点在するライトで鈍く光る。青年部の連中がころがっていたドラムカンを持って来て、事務所前でたき火を始め、暖をとる。輪になって火を囲みながら、ついに迎えたたたかいの日への話がはずむ。
同じころ、千葉転支部では、庁舎五階にある乗務員詰所で徹夜した執行部が、一番乗務の乗務員を送り出していた。
午前五時.津田沼、千葉転とも、スト突入乗務員の激励送り出し行動が始まった。今回は「正午を期してスト突入」というこれまでとったことのない戦術で、一二時以降の交番の電車に乗務しないということだ。一二時以後の乗務になっている組合員ははじめから電車に乗らないわけだが、それ以前から乗務している組合員は途中で電車を降りてしまうわけである。したがって正午からスト突入という戦術は、ダイヤの混乱という点では、午前0時からストに突入する場合にくらべはるかに効果の大きい戦術である。国鉄では前例がないという。そこで、一二時段階で乗務していることになる乗務員を激励して送り出すわけである。
千葉転では、最初にそれにあたるA組合員が当直室に入り仕業の点呼をうけた。
当直助役「今日、全行程乗って頂けますね」
A組合員「組合の指示に従います」
当直はもう一度恫喝的に大声でくり返した。
「今日、全行程乗って頂けますね」

かし、答えは同じであった。当局はさらにもう一度同じことを声高に言ったが、「ストをやるな」という威嚇をものともしないA組合員の毅然たる態度にそれ以上は諦めた。
総武線快速を運転するA組合員は、錦糸町駅でスト突入となり、その電車はそこで立往生することになる。点呼を終えたA組合員は本部役員、支部執行部、同僚の組合員の「がんばれよ!」の声に見送られて出ていった。すぐ近くの千葉駅に向かうのだ。こうして、乗務中にストに突入する組合員計一四名が仲間たちの激励のなかを次々と運転区をあとにしていった。
同じころ、津田沼電車区では、組合事務所前で、引き込み線から出てくる、一二時からストに入る乗務員の乗った総武線緩行の黄色電車への激励行動が行われていた。津田沼支部青年部約一〇名が電車が出庫し通過するたびにハンドマイク・旗ザオ・拍手で激励するのだ。乗務する組合員は、それに少し照れながら手をふって応えた。
一五分おきぐらいに通過する列車のすべてに、ナッパ服に白ヘルの
青年部ストライキ行動隊がシュプレヒコールで激励した。一段落して、再びたき火を囲んでいる時、誰かが「今日は皆、電車を動かすためにではなく、止めるために乗って出ていくんだっぺ」と言った。
午前七時すぎ、津田沼駅前では動労千葉支援共闘会議に結集する全学連・反戦青年委員会の部隊四〇名が通勤客にストヘの理解を求めるビラ配りを始めた。錦糸町駅から千葉駅まで全駅で連日行われている支援のビラ配りは沿線住民の理解を高めるのに大きな力を発揮した。動労千葉激励の声がよくかけられる。
午前七時五〇分、津田沼電車区。地上検査・修理などの地上勤務者や公休だが今日は出てきた組合員が次々と組合事務所に顔を出す。「おはよっす」「ごくろうさまです」「今日はがんばろうぜ」の声がとびかう。誰かが買ってきた朝刊に泊り込みの青年部がむらがる。
「総武線きょう繰り上げスト千葉動労正午から二四時間」と大きく報じられている。
「今朝起きたら、かあちゃんが『明日はいよいよストだと思うとタベは眠れんかったよ。とうちゃん、クビになったらどうすつかねえ』としみじみ言ってね、ちょっとかわいそうだったよ」
「うちは、小さい方の子供がよ「おとうさん、今日ストなんでしょう。かあちゃんから聞いた。ボク、もうおもちや買ってくれなくてもいいからね』と言ってきてね。すると大きい方のが『おとうさん、ポク大学諦めなけりゃあいけない?』と訊いたので、『いいや、止めなくたっていいよ。とうちゃん、ちゃんとがんばっていかしてやっから」と言ってやったよ」
こうした会話が悲愴感に満ちてではなく明るくかわされる。
そんなところに、出勤してきたばかりのある中年組合員が、レールを覆う防石ネットを見て怒った。「なんだいこれは?こんなもん、いらねえや。金魚ばちのフタにすれば猫が金魚とらなくて丁度いいや。もらって帰るよ」と言ってバリバリ引っぱがし始めた。
それを見て別の年輩組合員も「寒冷紗のかわりにいいんじゃないか」と言って手伝い始めた。あっという間に組合事務所の近くははがされてしまった。
午前九時、津田沼電車区。着替えをつめこんだバッグを持った白腕章(局の課員)、鉄道公安官ら三~四〇人がゾロゾロと構内に入ってくる。スト破り要員の第一陣だ。当局側はこの時間を期して津田沼電車区区長室に現地対策本部を設置。管理職ら二〇〇人を配置した。いよいよ、戦闘開始だ。
午前九時半、千葉転に、外周区の勝浦、銚子支部などから青年部を先頭に続々組合員が集まってきた。乗務員詰所は動労千葉組合員でいっぱいになり、さらに活気にあふれた。こちらも津田沼に負けぬ明るい雰囲気だ。同じころ、津田沼でも、幕張、新小岩支部青年部が到着。青年部ストライキ行動隊は総勢五〇名近くに。全員白ヘル・ナッパ服の戦闘スタイル。
午前一〇時、警察機動隊が千葉駅、津田沼駅周辺に一斉に配置に就いた。国鉄千葉駅から千葉運転区にかけておびただしい数の機動隊員。同駅わきの千葉鉄道管理局ビルの駐車場には放水車も含めアリの子一匹入れないほどのものものしい警戒ぶり。他方津田沼駅から津田沼電車区までは何重もの検問体制。とりわけ電車区入口は放水車、装甲車、指揮官車がビッシリで異様な緊張状態。電車区は文字どおり包囲された。
午前一〇時すぎ、千葉転の庁舎入口を東京南局の白腕章三〇人が封鎖しようとする。これは青年部の抗議で阻止されるが、一一時二五分には川名運転区長を先頭とする白腕数名が千葉転の乗務員詰所に来て、動労千葉組合員の退去を通告する。激しい怒声がむかえうつ。津田沼では、電車区周囲をジュラルミンの盾をもった何千という機動隊がぐるりととりかこむなか、午前一一時一〇分、おびただしい数の白腕章、公安官、職制が隊をなして構内に入ってきた。その数およそ五〇〇。

●息づまる攻防
 午前一一時五五分、動力車会館で指揮をとっていた布施書記長が一〇の支部に次々と電話で「スト突入」を指令した。午前一一時五七分、動労千葉・津田沼支部執行部が津田沼電車区に「スト突入」を通告。一気に緊張が高まる。
 津田沼支部は組合事務所前で「スト突入総決起集会」を開く。集会前面に青年部の持つ「スト突入集会」の横断幕。集会横には「二八日第一波スト突入我々は奴隷の道を拒否する全国鉄労働者よ! 団結せよ動労千葉」の立看板。マスコ、ミ各社のテレビカメラが、斉に回り始めるなか、約一〇〇名の組合員を前に水野副委員長、山下支部長が「分割・民営化阻止するため、断固たたかいぬこう」
とあいさつ。
一二時、ついにストライキに突入。千葉転では時報を告げるチャイムが鳴るや、若い青年部員が思わず「ストライキをやるぞっ」と詰所の窓をあけて外に向かって叫んだ。午後一二時一五分、千葉転。
一二時を期してストに突入し千葉駅で電車を降りて来た組合員が詰所に姿を現わす。皆、一斉に拍手と歓声で迎えた。
午後一二時二四分、津田沼支部。中野駅に向かった収容班から「ストに突入し、無事乗務員を確保した」との電話が入る。津田沼駅では、中野発千葉行き普通電車が到着。交代の乗務員がいないため、運転を打ち切る。ストの影響が出始める。午後一時一五分津田沼電車区に運転不能と当局が判断し運休となった電車が入庫してくる。ストに押された当局は間引き運転を始めたのだ。
こうして動労千葉の二四時間ストは敵権力・当局の重包囲の中でスタートを切った。だがそれと同時に、国鉄当局による国労、動労組合員を動員したスト破り策動もまた全力で開始された。一二時五〇分、津田沼で国労の乗務員が、ストに入った動労千葉乗務員の降りた電車に乗って運転していることが判明した。さらに午後一時三〇分には、驚くべきことに国労津田沼分会の組合役員がスト破りを働いていたことも判明。さらに午後二時三〇分、千葉運転区でも国労一部組合員がスト破りをしていることが判明した。永田支部長が国労千葉運転区分会にただちに怒りの抗議。「分会長は国労が乗るスジ以外には乗らないと言っていたが、乗っている。どうなっているんだ」。
国労と動労千葉という所属組合の違いはあるにせよ、ふだんは同じ職場で働く顔みしりの仲間同士である。その仲間の中からスト破りに走る者が出たのだ。ストに突入し.電車を降りて詰所にもどってきた動労千葉の組合員が、国労のスト破りの報を聞いて「なんだ、オレの電車は動いてるのか。誰が運転しているんだ」とけわしい顔で叫ぶ。詰所にはあらゆるところに「国労のみなさん、ともに起ちあがろう動労千葉」というステッカーが張りめぐらされている。
当局がカサにかかって圧力を強めてきた。千葉転詰所では、一二時三〇分、同時六分と再三にわたって退去通告が行われ、報道陣のカメラのライトの中で総立ちの組合員との激しいやりとりが続いた。
ぎりぎりの息づまる攻防の中で時間が過ぎていった。
動労千葉は正午を期してストに突入した。一人の脱落者もいない。ストは百パーセント貫徹されている。だがこれで総武線にどれだけの影響が出るかは国労の動きにかかっている。もし国労が当局の指示に従って全面的なスト破りに走るなら、総武線はほとんど影響を受けない。そうなれば動労千葉のストライキは、ただ動労千葉の組合員に無力感と絶望感だけを残すことになるだろう。そんなはずはない。正午のスト突入以降、動労千葉一一〇〇名の誰もがかたずをのんで国労の動きを注視していた。その中で一人また二人と、国労組合員が当局の圧力に屈してスト破りを行っているという報せが入ってきた。千葉転でも津田沼でも、明らかに動労千葉組合員の中にいらだちが広がっていった。「どうなっているんだ」「国労の連中は何を考えているんだ」。
スト破りはとくに千葉転で激しかった。午後三時、当局が乗務点を正規の運転区庁舎内ではなく千葉駅ホーム上の統合詰所で行い、ス卜破り乗務を強制していることが判明した。本来点呼を行う庁舎詰め所には動労千葉の組合員が大勢いるため、国労のスト破り要員をコソコソ、ホームに集めていたのだ。青年部を先頭に抗議に行く。そこでは恐るべき光景が展開されていた。
「本来乗務員が休み待機している部屋なのに、本社とか西局の白腕章が鉄道公安官に守られて二〇人ぐらいで大きな顔をしてのさばっているわけ。中には寝そべっている奴もいてね。それだけでオレなんかムカッときたね。それで、国労の運転手が隅っこの畳の部屋でえらく小さくなっているわけ。そこに、運転を終えて疲れ切って国労の運転手が一人で戻って来ると、待ち構えていた白腕章が紙を渡してまた乗れと言ってるわけ。組合が方針を出してないもんだから、疲れきっているのに半ベソかきながらまた乗ってましたよ。『もう自分の乗務時間は済んでいるんだから帰んな』と言ったんだけど、おびえちゃってね、乗るわけですよ。むしろかわいそうでしたよ。当局の前に一人ひとり裸で投げ出されてるわけですから。
オレは頭に来てね。本社の白腕章に分割・民営化についてどう思うのか責任あることを言ってくれ、というと、何も言えずに下を向くわけ。何十年も国鉄で働いてクビ切られることに抗議してストやるのはいいことか悪いのか答えてくれっていってもうなだれるだけなのね。あんたの明日の身だって分んないんだよ、と言ってやったら、そいつは出て行ったよ」(千葉転支部執行委員、Sさん)

●国労津田沼分会の苦闘
 だがこのころ、国労千葉地本、とりわけ国労津田沼分会の中では、ある意味では動労千葉の労働者がおかれているよりさらに厳しい状況の中で激烈な論議がたたかわされ、攻防がくりひろげられていた。国労本部が一一月二五日の段階で、「業務命令が出た場合はそれに従う」どいう実質的なスト破り方針をうち出したことはすでに触れた。国労千葉地本はこの方針にそって分会指導をすすめ、たとえば二八日に計画されていた青年部段階での動労千葉と国労千葉の共闘集会も中止させた。だがこのような方針を、国労千葉の労働者は決して黙って受け入れてはいなかった。ここですこし時間を逆のぼって国労千葉の動きをあとづけることにしよう。

動労千葉の一一月ストライキ方針は、国労千葉組合員に強い衝撃を与えた。とりわけスト拠点になる津田沼電車区と千葉運転区においては、動労千葉ストにどう対応すべきなのかが早くから、国労組合員の間で問題となった。それは、たんに動労千葉ストに国労はどう対応するのかという次元ではなく、国鉄分割・民営化攻撃に国労としてどうたたかうのか、という自分自身の問題としてあった。
一〇月三一日、国労津田沼電車区分会青年部は定期委員会において、「本来なら国労がストライキで闘うべきだけれども、国労はストの方針が出されていない」という状況を確認したうえで『動労千葉スト支援の特別決議』を満場一致で決めた。
「国鉄分割・民営化攻撃は、一〇万人首切りをもって国鉄労働運動の解体、ひいては日本の労働運動の背骨をたたきおり、『何も言えない労働者」「よく言う事をきく労働者」をつくりあげようとしている。三人に一人の首切り、運転職場においては、二人に一人の首切りである。しかし国労をたたきつぶす攻撃であるかぎり二人に一人も残れないのである。一年間に一〇万人にも及ぶ労働者の首を切る事、こんな事が許されてもいいのか。今こそ我々青年部を先頭に起ち上がらなければならない。
ストライキは労働者の最大の武器なのである。今、闘わずしていつ闘うのか。ストライキで闘う以外に勝利の道はないのである。国労一八万人が本当に決起した時に、首切り攻撃は粉砕されるのだ。
動労千葉の労働者は、首をかけ、生活をかけ一一月末ストライキに決起している。本当に分割・民営化に反対し、一〇万人首切りを許さないために、国鉄労働者として闘わなければならないのである。
青年部は、重大な決意をもって、動労千葉の一一月ストに対し『スト破りはしない』『B変仕業はやらない』等、できるすべてをもって支援しなければならない」
国労もともにストでたたかうべきではないのか、ましてスト破りは絶対嫌だ、という声は、津田沼電車区分会でも、千葉運転区分会でも乗務員を中心に大きくなり始めた。とりわけ、津田沼分会では動労千葉との共闘関係が歴史的に強かったこともあって、よりはつきりした形をとっていった。
一一月一九日、国労津田沼分会の執行委員会が開かれ、動労千葉ストを支援すべきだという意見が出された。協会派が「自分の組合がストに入っていなければ乗務してもスト破りではない」と言ったことをめぐって激論となり、「いややはりスト破りだ、同じ労働者として支援すべきだ」という意見が強く出され、スト破りはしないよう地本に要請することで集約された。二二日、分会三役によってその申し入れが地本に行われた。
一一月二五日、地本でストライキ対策関係分会長会議が開かれ、先に述べた三点の国労本部方針が伝えられた。スト破りを強制する国労本部方針に対する両分会組合員の怒りは激しかった。津田沼電車区分会ではただちに乗務員の非番者集会が開かれた。それは、二五、六、七日の三日間にも及んだ。
二五、六日の非番者集会には、スト破り列車乗務を強制させられることになる乗務員が強い関心を寄せ、乗務前や乗務後の組合員が双々と詰めかけた。分会役員が「みんなの気持はわかるが、本部方針なので業務命令が出たら乗務しなければならない」と説明したのに対し、組合員の怒りが噴出した。「スト破りは嫌だ」「オレは業務命令が出たら拒否するぞ」「同じ職場の仲間がクビをかけてたたか っているのに裏切れると思うのか」「スト破りで乗務したら安全は
どうなるのか」「オレは本線に出たら動労千葉に連帯して少しでも遅らせてやる」などの意見が相次いだ。そして、ついに「分会では話にならない、地本を呼べ」ということになった。二七日の非番者集会には、地本業務部長が出席した。しかし、本部方針をくり返すだけで「自分の判断では何も言えない」という業務部長に組合員の怒りがたたきつけられ、結局「分会の意見は地本に持って行く」こととなった。非番者集会終了後、分会執行委員会が開かれ、なおも「国労のスト指令が出されていないのだから、当局が乗れと言えば乗ってもよい」と言い張る協会派役員に「はっきりさせろ。あれはスト破り方針だ」「これではやっていけない」という主張が全体を制し、「①動労千葉の行路に国労は乗らない②業務命令は出させない③混乱が生じたら(運転を中断し)ハンドルを持って身の安全をはかる」ことを地本に上申することとなった。
ち ょうどそのとき、動労千葉のスト繰り上げの’ニースが入ったため、ただちに千葉運転区分会とともに分会役員は地本に向かった。
ところが地本書記長は「動労千葉の具体的戦術が分らなかったので何も準備していない」と言うのみ。「地本としてスト破りをやらない方針を出せ」という追及に対し「地本では対応できない。明日本部中開(中央闘争委員)が津田沼に行くから、言うことがあれば言えばいい」という有様であった。
すでにこの段階で、千葉運転区分会の方では、「国労方針では責任を持てない」として分会執行部の五名が辞職を申し出る事態が発生していた。
一一月二八日、動労千葉のスト突入を目前にした午前二時半、国労本部の渡辺和彦中闘、国労千葉地本副委員長ら役員が津田沼電車区構内にある分会の組合事務所に到着、ただちに執行委員会が開かれた。組合員も多数つめかけ息をつめて聴いている。渡辺本部中開は「本部方針でやってもらう。国労としては共闘しない。動労千葉の目的が主体的ではなく政治的なものだ。業務命令や予備の問題はケース・バイ・ケースで区当局とやる。たとえ業務命令を拒否しても国労としては面倒をみない。業務命令が出たら動労千葉の行路にも乗れ」と述べた。
渡辺中間発言に、つめかけていた分会組合員の不満が爆発した。
「ふざけるな。それはスト破りしろということだ」「なんで本部はたたかう方針をださねえんだ」「なんのためにオレたちは組合費を払ってきたんだ」……。怒りにふるえた組合員は本部役員のエリ首をつかまんばかりに詰めより、激しく追及した。「スト破りは絶対できないぞ」「業務命令拒否は本部扱いにしろ」。
 追及の最中、動労千葉がストに入り、国労の組合員がスト破りを行ったという報告が入った。もはや分会の方針でやるしかないと判断した分会役員は、駅ホームや国労乗務員への連絡を開始した。乗務員が交代する津田沼駅では国労組合員を国労の行路以外には乗せないよう必死になって手配し、スト列車は電車区に入区させるよう当局を追及した。
このような状況のなかで、国労組合員は多くの混乱と苦闘を強いられた。一方では国労分会役員と青年部の必死の奮闘で運休はどんどん増えていった。しかし、他方では役員の手が回らないところで当局の指示に従い所定以外の電車に乗る国労の乗務員が次々出てきた。ある組合員はスト破り乗務を拒否しようとしたが協会派役員に恫喝され泣く泣く乗ってしまった。また、ある国労組合員の場合は、点呼を終えて電車区の電車に乗ったあと急きょその電車が運休となったにもかかわらず、当局が運休を連絡し忘れたのを衝いて、実に七時間も電車のなかに立てこもっていた。真暗になってから姿をあらわしたこの組合員は「スト破りは嫌だ。少しでもストに協力したかった」といって、行方を心配していた仲間の大きな拍手で迎えられた。
こうして、動労干葉のストライキが、国労をもまき込みながら白熱した攻防をくりひろげている最中、午後二時四〇分、津田沼でひとつの重大な事件が発生した。この日午後の乗務を予定していた国労千葉地本津田沼分会のH(25)、S(26)の二名の組合員が「スト破りは絶対嫌だ」といって国労を脱退、動労千葉への加盟を申し込んできたのだ。動労千葉は、決して国労の個々の労働者を個別的にひきぬいて、動労干葉に獲得しようなどという組織方針をとっていない。むしろ国労組合員が国労の中で、国労の戦闘的再生をかけて起ちあがることを望んでいる。だがこの場合はそうもいっていられなかった。二人は「スト破りはやらない」「業務命令は拒否する」と固く決意していた。だが国労の方針に反して国労組合員がストに入れば、自動的に本人が解雇になる。動労千葉は二人の加盟を認めた。
二人はただちに午後三時台の乗務を拒否してストライキに入った。二人の国労組合員の決起の報はたちまちのうちに動労千葉一一〇〇名に伝えられた。ついに国労の中からの決起が始まったのだ。これはなによりも動労千葉を勇気づけた。しかもこの二人の決起は、決して国労の中の一握りの例外的分子の決起なのではない。二人の背後には国労津田沼分会乗務員の丸ごとの決起、総反乱が進行していた。そしてさらにその背後には国労千葉の闘いがあり、さらに国労一八万の闘いがあるのだ。決起ははじまったばかりである。
当局の攻撃と国労中央の屈服的方針をけってあえて茨の道を選んだSさんはこう語っている。
「オレとしてはね、国労がしっかりした方針を持ってれば乗務してたわけですよ。今まで国労で七年間やってきたわけですから、動労千葉に入ってストやるというのも並大抵じゃないからね。でも、あのままじゃあ納得いかなかったから。駅助勤の名札問題のころから組合の対応がしっかりしてないと組合に言ってきたんですよ。ストの日は出勤が一五時台だったんだけど朝一〇時に出て来て、組合の方針をきいたんですよ。スト破りというのはやっぱり労働者としてやるべきことじゃあないからね。昼ごろ分会、地本、本部の人の話しをきいて『業務命令が出たら乗るしかない。スト破りはやむをえない。この方針は変わらない』というのを聞いてね、このまま乗ればスト破りになってしまう、動労千葉の仲間を裏切ることはできないと、自分なりに考えて決めたわけですよ。最終的に決断したのは出勤一時間前です。そこで動労千葉に入ってストに入るしかないと思いました。国労に入ったとき「国労三〇年の歩み』をもらいましたが、それにスト破りはいけないと書いてありましたからね。動労千葉一一〇〇名がストに入るんですから、大きい組合である国労はバックアップしてやるのが本当でしょう。そうすれば分割・民営化反対のストは何倍にもなるでしょうよ」(津田沼電車区、Sさん)

四、展望

●闘う人民の激励と共感
 午後三時一五分、テレビ・ニュース「総武線数十分の遅れ、一〇〇万人の足に影響」と報道。このころ、関西実行委の山本善偉、加辺永吉さんや三里塚反対同盟の鈴木幸司、郡司とめさんらが動労千葉の津田沼、千葉転支部を訪れ、撒布、カンバ、おにぎり、とん汁、ピーナッツなどの差し入れを行う。
午後四時○○分、津田沼に、ストに突入した乗務員が収容班と一緒にまとまって帰ってくる。大きな歓声と拍手。午後四時半、千葉運転区に支援の労働者・学生の部隊一〇〇名が宣伝力ー、横断幕を先頭に姿を現わす。詰所の組合員は「支援が来たぞ」とドンと窓際へ。庁舎前入口で向かいあって激励集会を開く。同じころ津田沼電車区でも、津田沼公園から出発した支援共闘のデモの声が聞こえてきて、青年部はただちにシュプレヒコールで応えた。
午後五時半、千葉運転区庁舎前で「スト貫徹・千葉転支部激励集会」を二〇〇名で開く。他方、津田沼電車区では、幕張支部、新小岩支部組合員と合流し、午後六時から「スト貫徹総決起集会」を開くことになっていた。ところが、当局覚「部外者は一切構内に入れない。他支部の組合員を入れると津田沼支部組合員も全員排除する」と通告し出入口の全てを機動隊と公安官でふさいでしまった。
青年部は「構内でデモをすると全員排除する」という権力・当局の恫喝をはねのけて断固たる怒りの構内デモを行った。
午後六時五〇分、千葉市要町の千葉市民会館で「スト貫徹総決起集会」。津田沼、千葉転以外の動労千葉の組合員約四〇〇名を前に中野委員長が権力、当局のスト破壊攻撃を粉砕してスト第一日目のたたかいを圧倒的に貫徹したことを報告し第二日目への奮闘を訴えた。
午後七時、NHKテレビニュースは、動労千葉ストによって総武線緩行、快速とも大きく乱れていることを報じた。

●スト破りに労働者の怒り
 午後七時三〇分、津田沼電車区。当局は、電車区庁舎二階の乗員詰所で待機していた組合員に「退去通告」を告げ、「退去しないなら機動隊を入れる」と言ってきた。スト第一日目をたたかいぬいた組合員が、そのまま乗務員詰所で大挙ろう城・待機体制に入ることを阻止しようというのだ。同時にこれは、動労千葉組合員が、乗務員詰所内外で、スト破り列車を運転した国労乗務員に怒りを爆発させ責任を厳しく追及し始めたことへの恐怖でもあった。
「国労で乗った人間は追及されると、『済みません、ごめんなさい』でかわいそうな位でした。一人はオレの同期でね、カードになっている決められた自分の乗務が終ってから、さらにカードもう一枚分乗務してるんです。誰の判断かときいたら分会長だというんですから、本人は犠牲者みたいなもんですよ。でもスト破りはスト破りだから。もう一人オレの同期が国労にいて見習も一緒にやった仲のいいやつなんです。そいつも、乗っていたんです。オレは友達だったけど許さなかった。皆がいる前で、『手前だけいい子になって残ろうと思うんじゃない、この野郎』とどなったんです。そのあと夜なが家に電話がかかってきて『済みませんでした。あのときはどうしょうもなかった…』というんです。でも、もう口もききたくなかったから……。毎年忘年会やっている一番親しいやつだったんだけどね」(津田沼支部、Tさん)
同じことは千葉転支部でも起こっていた。乗務員詰所は一〇〇名余の動労干葉組合員で埋まり、国労組合員は詰所に姿を現わすことができなかった。だが、動労千葉組合員は国労のスト破り乗務員をいたるところで弾劾した。ここでも、国労乗務員はうなだれるばかりであった。
「千葉転では『業務命令』は出ていなかったのに、国労の役員が率先して乗せたという事実があるわけです。日共の役員なんか予備乗務員なのに、東京・千葉間を二往復もしているわけです。ボクの同期も国労にいたのですが、スト破りの意味すらよく分らないという有様でした。青年部は先頭で弾劾しました」(新藤青年部長)
午後一一時二〇分、千葉運転区当局は「業務に支障がある」という理由で退去通告を出した。組合側が従わないとみるや、当局は公安・白腕章多数を庁舎に導入し、暴力的排除に踏み切ったのだ。
津田沼、千葉転ともに組合員は詰所での第一日目の闘いの総括集会で第二日目の闘いの指示を受けた後、市内の宿泊施設に移った。
こうしてスト第一日目は、中曽根内閣、治安当局、国鉄当局の空前の弾圧体制を打ち破ってたたかいぬかれ、次のような影響をもたらした。
運休 特急 32本
快速 39本
緩行 72本

運転率 緩行線 74%
快速線 72%

列車遅れ 快速上下 330分
緩行上下 780分
千葉以東上下 180分

●国労方針を転換させる
そして、ちょうどこのころ、国労津田沼ではさらに激しい討論が続いていた。スト第一日目、国労は大きくゆれ動いた。しかもストライキはまだ一日目が終っただけである。当局はすでに一日目で要員を使い果しており、二日目は国労組合員に激しく業務命令を乱発し運行確保へ全力を注いでくることは明らかであった。もし、このままで二日目を迎えればどうなるのか。
この日の深夜、正確に言えば一一月二九日午前一時半から国労津田沼分会の執行委員会が開催され、二九日の対策が話し合われた。雰囲気はすでに一変していた。一〇名余の執行委員のほとんどが「業務命令を拒否してたたかうべきだ』と発言した。「スト破りはもう絶対したくない」「ハッキリした方針を出さなければ脱退者が続出する」「毎日顔をつき合わせている仲間を裏切ることはできない」「国労の誇りにかけても今日のようなことは繰り返すべきでない」「オレは処分されても業務命令を拒否する」という意見が続出した。分会長は「方針が間違っていたから脱退者が出てしまった。私の力が足りなかった。申し訳ない」と涙を流して討論の集約を行った。もはや大勢は決していた。
本部の渡辺中闘は、このような分会の意見を聞き、考えさせてくれと言って、別室で本部中開、地本、支部役員、分会三役で話し合いがもたれた。午前三時半、ついに結論が出された。

国労方針
①動労千葉のスト指定した行路は乗らない。
②業務命令は出させない。
③指導員の運用は認めない。
④カーテンは全部閉める。
言うまでもなく核心は②にある。「業務命令を拒否して処分になったら組合が責任を持つ」ということであり、一切のスト破りは行わないということである。国労津田沼分会の組合員の怒りとたたかいは、ついに国労中央を衝き動かし、国労方針そのものの転換をかちとったのである。四つの方針は大書きにして分会前に張り出され、初電出区乗務員のオルグが開始された。
こうして、たった一つの分会のたたかいが国労の方針を変更させた。『業務命令拒否』とは国労自身が当局とたたかうということであり、事実上国労そのもののストに等しい。当局は、前日の国労二名労働者の決起につづく国労(津田沼分会)の予想もしなかった決起に顔面蒼白となった。ストライキ第二日目、動労千葉のストライキは、ついに国労(千葉地本)との共闘関係を実現することによって総武線の朝のラッシュを大混乱に陥れるだろう。

●ストライキ第二日目
ストライキは二日目を迎えた。
午前三時、動労千葉津田沼支部は区長および千葉局の運転本部長に、正午までのストを行うことを通告した。スト体制は完壁だ。
午前四時一〇分、津田沼電車区で出庫電車の安全誘導の仕事をしている動労千葉組合員が、組合事務所にとびこんできた。西船橋で信号回線が切られたため、一番電車の出庫見合わせの指令がおろされたという。やがて、中央線、横須賀線、武蔵野線など各地でも一斉に通信ケーブルが切断されたようだという情報が入った。
同じころ、千葉運転区でも同じ情報が組合事務につめていた組合執行部にもたらされた。
午前五時、津田沼電車区。NHKテレビが異例の臨時ニュースをやっており、ゲリラは相当広範囲に及んでいることが判明した。組合員が次々と起きて来て、組合事務所のテレビに見いる。ゲリラに拍手する若い青年部組合員。誰かが「これで一番救われたのは国労(指導部)かもね」と皮肉。
午前五時三十五分、テレビニュースで「動労千葉の布施書記長が『ストとゲリラとは関係ない。動労千葉は予定どおり正午までストに突入する』と発表しました」と報じるや、皆一斉に拍手し、「そうだ、ストは貫徹だ」と誰かが叫んだ。
午前六時、津田沼電車区。夜が明け始めのすみ色の空の下で、「お茶の水」「中野」「千葉」「三鷹」などの行先ランプをつけた何十本もの黄色電車がとっくに出庫時間が過ぎているのに、一本も動くことができず、じっと停まっている。
午前七時、テレビニュースで、「国鉄ゲリラ」が日本全国で大規模に発生していることがわかった。運転不能は、首都圏と大阪地区を中心に、次の線区に及んでいた。総武線、成田線、常磐線、武蔵野線、京浜東北線、根岸線、山手線、中央線、埼京線、東北線、高崎線、川越線、八高線、青梅線、五日市線、南武線、横浜・相模線、東海道線、横須賀線、鶴見線、大阪環状線、関西本線。さらに、東海道・山陽新幹線も一時運転を見合わせた・ゲリラは中核派・革命軍によって敢行された。
ゲリラ事件としては空前の規模だ。それは、中曽根内閣の国鉄分割・民営化の強行に対する、そして動労千葉のストを破壊しようとする手段をえらばぬ策動に対する、人民の怒りを体現する最も衝撃的・効果的な戦いとして実行されたのである。この瞬間に、一万人の機動隊動員をはじめとする空前のスト圧殺体制はまったく無力化し、その反対物へと転化したのである。
午前七時すぎ、千葉運転区の乗務員詰所に顔をそろえた組合員に、
永田支部長が状況を報告し「オレたちはストライキを一二時まで断固たたかう」と提起。津田沼電車区でも、各宿泊施設から戻った組合員を前に、水野副委員長、山下支部長が「おそらく中曽根内閣の反動攻撃と国鉄分割・民営化に怒りを持つ者のゲリラ活動であろう」と事態説明を行い、スト体制継続の方針を明らかにした。
午前七時一五分、津田沼で、若い青年部員が「中核派がいま浅草橋駅を占拠し燃やしてるって……」と息せき切って組合事務所にかけ込む。一瞬どよめき、急いでチャンネルを回す。
午前九時、津田沼公園に支援の学生・労働者一二〇〇人が結集。中核派のゲリラに大きな拍手と歓声。
午前一〇時すぎ、国労山崎委員長が動労革マル松崎明とともに、ゲリラを批判する記者会見を行っていることが伝えられるや、「お前たちがストでたたかわないからだ」との声。松崎の動労千葉をののしる発言には激しい怒り。
午前一一時三〇分、国鉄総裁杉浦が「ゲリラを惹起せしめたのは動労千葉スト」「動労千葉には厳しい処分を考えている」という声明を発表するや、干葉転でも津田沼でも激しい怒りがまきおこった。
津田沼では、誰かが「ゲリラの原因は分割・民営化じゃあないか」
と言うと、別の組合員がアップに映しだされたテレビの杉浦に向かって「お前がゲリラを惹起させたんだ」と指弾。
中核派のゲリラによって総武線をはじめ首都圏の国電は全面運休となった。私鉄ターミナル、地下鉄入口、バス乗り場には人があふれ、一種の「国鉄ゼネスト」的状況が生まれた。中曽根首相は午前の参議院本会議で「陳謝」するとともに、閣議で「緊急対策本部」を運輸省内に設置することを決定した。国鉄当局も大敗北にうちひしがれながら独自の「緊急対策本部」を設置し、対応に必死となった。
午前一一時五〇分、動労千葉はスト終結指令を出した。一二時、千葉運転区、津田沼電車区とも、ストを終了し、組合員は午後からの仕業に向け点呼をうけに当直室に行った。
二日間にわたった二四時間ストライキはこうして、さまざまなドラマを生みながらひとまず終了した。スト集約集会は、津田沼では午前一一時四五分から、干葉転では午後一時から、それぞれの乗務員詰所で行われ、動労千葉は第一波ストを全員の力でうちぬいた、さらに第二波、第三波ストにつき進もうということが全員の拍手の中で確認された。

●反動を打ち破って前進
 動労千葉の歴史的な決起に対し、あるいはこれと連帯し、動労千葉に対するもっともあくらつなスト破壊策動を弾劾して炸裂したゲリラに対して、今日、中曽根、治安当局、国鉄当局、さらには動労革マル・松崎らによるけたたましい密集した反動がおしよせている。
なによりも動労千葉に対する大量報復処分が強行されようとしている。さらには六一・三ダイ改の一環として、千葉局の業務を大幅に東京三局に移管するなどというデタラメ極まることまで準備されている。だがこれらについて触れることは、一九八六年の年あけとともに始まっている動労千葉の第二波闘争を語ることになるのでここでは省略しよう。
しかしどうしても最後に強調しておかなければならないのは、どのような反動も、動労千葉の労働者の英雄的決起、そしてこれに呼応した国労千葉の労働者の英雄的決起、そして、まさにこうして、国鉄分割・民営化一一〇万人首切りに対する国鉄労働者の反撃がついに開始されたという事実を消し去ることはできないということである。どのような反動も、この闘いが、いま全国の三〇万国鉄労働者の中に呼びおこし、日々拡大しつつある感動と共感、そして階級的覚埋の渦をおしとどめることはできないということである。
ストライキの後、動労千葉には、様々な国鉄労働者からの共感と激励の声がとどいている。四国のある国労地本の分会役員からとどいた一通の手紙と、ストを闘いぬいた動労千葉組合員の何人かの言葉を最後に紹介して、このドキュメントのしめくくりとしよう。

「闘う動労干葉のみなさん。ぼくは国労愛媛支部00分会の00といいます。年は00歳ですが、分会の役員をしています。
今度のストにはとても感動しました。いっかはやるだろうと思っていました。本当に今やらないと、もうわれわれはだめになってしまうと思います。ストのできない組合なんて組合ではない。われわれ国労もあなたたちの闘いに続いて闘っていきたいと思います。
最後に、千葉と愛媛、遠く離れていても同じレールの上で働く仲間です。がんばりましょう」

津田沼支部、0さん
「昨日もおっかあから電話かかってきてね、『まだ大丈夫か?』って。『黙ってクビになるぐらいなら、なんでも好きなことやれ」ってね。七〇になるおばあちゃんだけどね、よく分ってますよ。皆、誰も黙ってやめていこうなんて思ってませんよ。ここまできたら、一つのストで終っちゃあいけないと思います。それで解決したわけじゃあないんだから。国労のスト決起が絶対に必要です。そのためにも第二波、第三波をやりますよ」
津田沼支部青年部、K君
「何のためにストをやったのかということです。国鉄のゼネストをめざしたストだったんです。結局、国労の決起の問題です。そこをつくりたいんです。全国各地の国労の仲間も反動の中で大変だと思うけれとも、今度国労津田沼分会の仲間は一分会でありながら国労中央の方針を転換させることができたわけですから、他の所でもできると思うんです。地方の現場でも、中央がダメだからというんでなく、下から運動をつくってもらいたいんです。分割・民営化を阻止するたたかいは体制変革のたたかいだと思う。国鉄は国家です。ここで勝って、日本の未来をつくりだしたい」

新藤青年部長
「すべては一波闘争にかかっています。一波だけで倒れるということは許されません。一波をやって国鉄ゼネストをつくりだすということです。今年一〇月末までに結着がつくわけですから、国労を起ち上がらせるためにやりぬきたいと思っています。一波の勝利に酔っている気持はないです」
◎千葉運転区支部、1さん
「サイは投げられた。あとにはひけないです。国鉄労働者一〇万人が放り出されるのに、羊のようにおとなしくクビを切られることはありえないと思う。ボクはそこにかける。名前も顔も分らない。組合も違うけれど、労働者というのは絶対にたたかう道を選ぶことは間違いないと思っているから……。とりあえず、われわれ動労千葉が口火を切ったわけだけどね。これからは、当局も必死、ボクらも必死だから、本当にひとつひとつ気を抜けないと思う」
◎千葉転支部青年部、Tさん
「たとえ一人でも一、人でもいい、どんな小さな火でもいいから、全国各地で動労千葉に続くたたかいが起って欲しい。そうでないと、ボクらは死んでも死にきれないですよ」

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