労働学校通信

第X期No.10

次回講座のお知らせ

2006年1月21日(土) 各13:00〜
 国家について
 講師 藤村 一行(社会問題研究家)
 「国を守れ」という宣伝が吹きあれるなかで、労働者の立場から国家とは何かを提起する
DC会館(総武線東千葉駅前)
*親睦会にも積極的に参加しましょう!(会費千円)

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労働学校通信 第10号 (2006.01.10発行)
がんばろう労働者!たたかおう労働組合!ひろげようインターナショナル

大きなテーマ

最近の小泉や奥田のやっていることを見ると、大企業のために日本の国があるんじゃないかと。だいたいその感覚は正しい。だけどそれだけじゃダメで、故郷を愛せとか、そんなことも全部動員されて、愛国という言葉がどんどん使われる。
だから憲法だとか法律に愛国なんて言葉が出てきた時に、これは危険なんだね。法律で決めるということは強制力があるということだから。国を愛する、故郷を愛する、家族を愛するなんてことは、それこそ教育労働者がよく言う「内心の自由」であって、強制されることじゃない。
それを強制する時はおかしい時なんだよね。それ(愛国心)を利用する奴が出てくるから法律で言うんですよ。あんなものは法律に書いちゃいけない。愛し方違うんだから、それぞれ。嫌な人だっている、故郷のない人だっている。「国家について」、今非常に大きなテーマになっていると思います。
(代表あいさつから)

ひとりは万人のために 万人はひとりのために

交流の広場−闘いの輪(受講生の声)を随時発行しています

感想文紹介

回の「国家とは何か」を聞いて、自分が今まで思っていたものと違っていました。あたしは国家があって、政府があって、資本家がいるんだと思っていました。だけど、今日の講演で、資本家(奥田)は「国家」を道具として考えていると聞いて、ビックリしました。"現実の国家権力とたたかった時に、「国家」なんていらないという考えが、確信に変わる"と、先生はおっしゃいましたが、その意味はどういうものなのでしょうか?

回、テーマが国家についてということで、かなり難解な講義になるんじゃないかと思われましたが、先生のかみ砕いた話でわかりやすかったです。特に今の小泉がボナパルティズムの性格を備えていると説明されましたが、なるほどなと感じました。核心的に言うと、ボナパルティズムとは、支配体制の危機であり、本質的には脆弱な体制だと思います。中野さんのあいさつにもあったとおり、今、話題になっている耐震偽造問題なんか、資本主義の腐敗がここまで来ているといった感じです。まさに階級決戦の前夜情勢です。職場で青年労働者と話をしていても、将来の不安など、切実な問題としてあらゆる労働者を今後まきこんでいく事は間違いありません。

じめにテーマを見て「国家」について自分なりに考えてみたが、普段使っている言葉なのによく分からなかった。先生の話を聞いて、自分なりに「国家」、労働者としての「国家」について考えながら、話を聞いていると、内容がわかるようになった。まさに、今の動労千葉の闘いが社会を変え、労働者のための社会をつくる闘いの先頭に立っていると思う。

家とは何か、労働者にとって何なんだということから、国家の問題を社会変革の問題から切り離し、自立化させてはいけない。「国家と革命」の問題として捉える、国家→国家権力は古い社会をうち破って登場した。国家とは階級関係がある中で、資本家の道具としての役割を果たしている。国家というものは、労働者を弾圧する弾圧者、暴力組織である。労働者階級として、やはり労働者自己解放にむけ、団結をして労働者から搾取し支配するブルジョア階級、ならびに国家権力を打倒しなければならない。階級のない社会を労働者自身でつくらなければならない。
 質問としまして、例外国家としてのボナパルティズムという言葉の意味をもう一度教えて下さい。

主共和制で、差別なく自由・平等が建前としてあり、今の日本でもそれを建前としているが、不平等が多いです。完全に平等というのはないと思うが、階級関係がなくなれば、そういうのはなくなるのか? 階級関係がなくなれば(共産主義社会となれば)とありましたが、自分などが知っている旧ソビエト、中国などをさしているのですか? それとも違う形か? 今の日本にマッチした形なのか? あまり共産主義と聞くと、深くは理解できてませんが、自分としてもいい印象はあまりありません。そして、今の日本でもイメージ的に受け入れられない感じもあるもので。

の「国家とは何か」という講義は、基礎編1年間の重要な位置を占めていると思います。「自分が見ている」ものが、実は「見せられている」ものであって、「本当」のものでない、とわかるからです。「国家」は階級分裂の産物で、抑圧されている側からの反乱がなくとも常に力が働いている、ということをもっと意識する必要があると感じました。
 と同時に、本質的に人は闘いを好まない、平和的なものだ(議論にはなるでしょうが)という前提に立つと、人間の幸せとか平和とは何かと考えると、単に社会的な抑圧に対抗するだけでは幸せになれないとも思います。「差別」がすべて「社会的な産物」とは思えないからですね。(あるいはすべて社会的な産物であるなら、「ブルジョアvsプロレタリアート」の問題と同時に、他の差別や抑圧関係も同時に意識すべきですね)。既存の左翼勢力に感じる強い違和感はここにあります。(=日共はもとより新左翼も)私がタバコの問題にこだわるのもそこにあります。天下国家のことが優先で、自分のまわりの人たちとの関係はあとまわし? 本来はあらゆる「差別」、つまり支配−被支配をめぐる抑圧関係に敏感にならないかぎり、プロレタリア独裁後の本当の意味での共同体なんかできっこないと思います。
 タバコのけむり。これは吸わされる側からすると避けることのできないもので、「力」なんですね。これを、労働者が吸っているのだからいいじゃないかと言えてしまうことこそ、「理想的な社会は、支配−被支配が消滅する」と言われても、今の自分のまわりの力関係に鈍い以上、これでは私は幸せになれないと思います。
 補:高校生の頃、どんなにまわりに誰もいなくても、車も一切来なくても、じーっと信号を守っている子どもでした。何となく誰もいなくても、神様(?)が上から見ているみたいな感覚で。ところがある時突然、これって意味ないのでは?と感じ、無視するようになりました。そして今では「赤信号、みんなでわたれば恐くない」を重要な行動原理にしています。=法律なんてくそくらえ! 自分の責任でやるよ! ということです。

族社会の話は、興味深かった。「家族」が社会生活の中心単位ではないというところ。「家族」というところから、家父長制とか、女性は家事をしていればいいみたいな、女性差別的なところが、生まれてきたのではないかと感じた。
 講義の始めの方で、オリンピックで日の丸掲揚に感動して涙する話が出ましたが、職場でも先日、天皇家の話が出て、紀宮が結婚したり、皇太子の娘が○才になったとか、話が出た時、祝い事については、どういうふうに話をしていくかはむずかしい問題だと思います。一般人にはうまーく浸透させられているんだとつくづく思ったりして。
 普通選挙のところで、たたかう労働者の国会議員がいればという話が出ましたが、一人でも出たら、必ず国会の状況は変わると思います。無関心な労働者の意識も変わるのではないでしょうか。

学習センターブックレット「国家について」、発刊されました!なんでも、どんどん議論しよう!

労働者学習センター事務局
千葉市中央区要町2−8 DC会館 電話 043-222-7207 FAX 043-224-7197

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