三里塚労農連帯・ジェット燃料輸送阻止の闘い  77~78年

1977年1月動労千葉定期地本委員会 三里塚ージェット闘争取組を決定

12月ジェット燃料輸送阻止100日間闘争に突入 12月3~5日強力順法闘争

78年1月~2月第二波強力順法闘争 2月7日12時間スト 3月1日スト

1970年代前半における千葉地本と本部との対立は、70年代後半の三里塚・ジェット燃料貨車輸送阻止闘争の渦中で、いっそう非和解的な関係になっていった

動労千葉地本は、当初から三里塚空港反対闘争に深くかかわってきた。
71年9月の第二次強制代執行をへて開港がスケジュール化するなかで、空港へのジェット燃料輸送問題が大きな難関として浮上した。空港公団は当初千葉港 からのパイプラインによる輸送を計画するが、沿線住民、自治体の反対で難航し、76年までに一部を暫定的に貨車輸送で運ぶという計画をたてて攻撃を開始し た。それは動労千葉にとっては、組合員一人ひとりに、これまでどおり空港に反対する農民の側に立つのか、それともこれを裏切り、権力に加担して、燃料輸送 のハンドルを握るのかという厳しい選択をつきつけるものであった。

77年8月12日千葉市民体育館 6000名が結集

●「四つの視点」でたたかいへ
 76年12月、動労中央委員会は、千葉地本が提出した「三里塚開港粉砕、ジェット燃料貨車輸送阻止」の決議を満場一致で採択した。千葉地本は、このたたかいに決起するにあたって、四つの視点を確立した。
①三里塚空港反対・労農連帯の視点
②「危険なものは運ばない」運転保安確立の視点
③労働強化は許さない、反合理化の視点
④組織破壊を許さない
という視点である。
77年3月、福田政権は翌78年3月30日、三里塚開港を決定。これを受けて国鉄当局は、ジェット燃料貨車輸送計画を提案した。動労千葉は直ちに12月冒頭から78年3月にいたる100日間闘争に突入した。

たたかいは、計画の撤回を求めて、12月3日から5日までの強力順法闘争で火蓋がきられた。総武線はわが手にあり。ハンドルを握 る組合員一人ひとりの決意は、法相が「順法闘争に刑事罰を」と叫び、マスコミが「労働組合にあるまじき行為」と大合唱するほどの影響を生みだし、総武線沿 線各駅には「」上尾」寸前的状態が現出した。この反動に抗して順法闘争をたたかいぬくうえで大きな力になったのが、三里塚農民との連帯という大義であり、 また動労ジェット闘争支援共闘会議(代表世話人・浅田光輝、北原鉱治)の駅頭・ホームでの支援行動であった。

農民は農地を武器に闘い、動労は鉄路を武器に闘う

●第二波・第三波闘争へ
 78年1月10日からは第二波闘争に突入。輸送に伴う設備工事着工の2月7日には、佐倉、成田両支部を拠点に12時間ストがうちぬかれた。3月1日の備 蓄輸送開始を前にあせる当局は、2月14日から急拠助役機関士を投入、線見訓練を強行する。第三波闘争はこれを阻止する連日の決起としてたたかわれ、さら に輸送開始日の3月1日には、備蓄一番列車を完全に阻止する佐倉、成田両支部のストライキがうちぬかれた。
この100日問闘争の結果、われわれはジェット燃料輸送のハンドルを握ることを拒否し、全国から集められた助役機関士がハンドルを握るという力関係が形 成されたが、われわれが真の意味で問われたのは、この状況のなかから、さらにたたかいを前進させていくためにはどうすればいいのかということであった。
討議のすえ、4月6日の地本臨時大会で打ちだした新たな方針が、「輸送拒否から輸送阻止へ」という戦術転換であった。それは敵に職場を明け渡すのではな く、われわれ白身がハンドルをとり、敵の弱点を握ることを通して、自在のたたかいをつづけていこうという方針である。この戦術転換は、直接貨車輸送のハン ドルを握らなければならない職場では当然にも激しい議論を呼んだ。しかし、さらなるたたかいの継続・発展を追求する場合、これ以外に選択の道はないと判断 した。
反対同盟戸村委員長の「農民は土地を武器に闘い、動労は鉄路を武器に闘う」という激励などにも支えられ、執行部・現場をあげた真正面からの議論の結果、全体の意思として新方針が確認されたのである。

sanriduka daiichi kouen

●新たな地平
三里塚・ジェット闘争はその後、分離・独立後の79年と81年のたたかいに受けつがれてゆくが、この77~78年の100日間闘争は、次の点において労働運動の新たな地平を切りひらくたたかいであった。
第一にそれは、75年スト権スト敗北以降、春闘が連戦連敗を重ね、国労は「正すべきは正す」=民主的規制路線に転換し、動労本部は、手のひらを返すよう に「合理化推進」論を主張し始めるなかで、唯一、職場の力に依拠した実力闘争としてたたかわれたことである。
第二に100日問闘争が、労農連帯という政治課題を真正面から掲げてたたかわれたことである。組合員は「ゼニカネの問題じゃない」を合言葉に決起した。
この順法闘争では、数年前では考えられないことも起きた。支援共闘の仲間の精力的な駅頭宣伝で実に100万円のカンパが集まったのだ。マスコミがあおる 「乗客の怒り」の向こうで、多くの人々がこのたたかいが何のためのたたかいであるかを見ていた。動労千葉もそれを誇りとして困難な順法闘争をたたかいぬい た。
労働者は、ニンジンをぶら下げないと立ち上がらないというのが戦後民同労働運動の常識であったが、動労千葉はそれを打ち破ったのだ。
第三にこの闘争は、激しいたたかいに登りつめれば組合は分裂するという民同労働運動のもう一つの神話をも打ち砕いた。
このたたかいを通して当時1400名であった動労千葉地本の団結は格段に強化された。これは「タテマエと本音」を排し、とことん労働者を信頼し、全ての 問題を洗いざらい全組合員の討議にかけて決めてゆくという路線と指導のもとで実現されたことをあらためて明記したい。
だがたたかいの高揚は、すでに権力・資本の前に膝を屈し、そのことで延命をはかろうとしていた動労本部革マルの激しい反動を呼び起こさずにはおかなかった。
また動労千葉は、この激闘の渦中で、77年3月、全組合員の団結の結晶として新たな動力車会館の建設を実現した。新会館は、後の分離・独立闘争の激しい攻防のなかで、たたかいの砦として決定的な意味をもつことになった。

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