●俺たちは鉄路に生きる2─動労千葉の歴史と教訓

●俺たちは鉄路に生きる2─動労千葉の歴史と教訓 目次

 

序 章 戦争を阻む労働者の国際連帯を 5

Ⅰ/有事体制下の日本階級闘争

Ⅱ/動労千葉がアメリカに行った

Ⅲ/国鉄闘争の新展開と一一月労働者集会

 

第一章 階級的労働組合への変革・飛躍 26

Ⅰ/五五年体制下の労働運動

Ⅱ/動労千葉の六〇年代一〇年間の闘い(その1)

Ⅲ/動労千葉の六〇年代一〇年間の闘い(その2)

 

第二章 反合・運転保安闘争と三里塚ジェット闘争 61

Ⅰ/七〇年代情勢の特徴

Ⅱ/国鉄の戦後史

Ⅲ/反合・運転保安闘争の歴史的教訓

Ⅳ/スト権奪還闘争

Ⅴ/三里塚ジェット燃料輸送阻止闘争

 

 

第三章 動労革マルとの対決から分離・独立へ 96

Ⅰ/動労革マルとの闘いの経緯

Ⅱ/分離・独立闘争の背景と教訓

 

第四章 国鉄分割・民営化反対闘争 122

Ⅰ/中曽根「戦後政治の総決算」攻撃と国鉄分割・民営化

Ⅱ/第二臨時行政調査会(第二臨調)

Ⅲ/国鉄分割・民営化までの経緯

Ⅳ/動労千葉の二波のストライキ

Ⅴ/動労千葉はなぜ闘うことができたのか

Ⅵ/動労千葉の総括と教訓

 

第五章 国鉄一〇四七名闘争の意義と背景 173

Ⅰ/世界と日本をのみこむ動乱の一六年

Ⅱ/総評解散・連合結成の歴史的意味

Ⅲ/国鉄一〇四七名闘争の一六年

Ⅳ/動労千葉の一六年の闘い

Ⅴ/転換期を迎えた国鉄闘争

 

本書序章は、二〇〇三年七月のインタビューをもとに構成し第一章から第五章までは二〇〇二年六月から二〇〇三年二月までの間に行われた労働者学習センターの第Ⅱ期労働学校・実践講座をまとめたものです。

 

●序章 戦争を阻む労働者の国際連帯を

 

動労千葉という労働組合は、もともとは国鉄動力車労働組合の千葉地方本部でしたが、七九年に国鉄千葉動力車労働組合として分離・独立して今日にいたっています。ここではその約四〇年の歴史を、主に青年部長、支部長、書記長、委員長などの役職を担ってきた私の経験を軸に、いくつかの実践的教訓をまじえてお話ししたいと思います。これから労働運動の第一線に立たれる人たちの参考にしていただきたいと思います。

運動の教訓と言っても、運動は当然その時々の国内外の大きな情勢の動きの中で進展し、またそれ自身歴史の大きなうねりの一環を形成しています。したがって必要に応じて、運動を取り巻く情勢にも言及しながら話を進めていきますが、まず初めに、二〇〇三年半ばという時点でわれわれ動労千葉が直面している情勢の特徴、運動の現実、課題と展望といった点について、簡単におさえておきたいと思います。

 

◆Ⅰ/有事体制下の日本階級闘争

 

◇1.国際階級闘争の転機となった九・一一

全世界的な情勢という点では、なんと言っても二〇〇一年の九・一一事件が歴史の決定的な転換点になっています。九・一一は、アメリカ帝国主義の経済的・軍事的中枢にたたきつけられたアラブ・イスラム人民の積年の怒りと憎しみをこめたゲリラ戦闘ですが、これによって国際階級闘争全体は決定的な転換をとげた。

アメリカはこれ以降、「テロ根絶」を口実に新たな戦争に踏み切り、〇一年秋からのアフガニスタンへの侵略戦争、そして〇三年春からのイラクへの侵略戦争を強行、いずれも泥沼化を深める中で、さらに北朝鮮、イランなどへの戦争衝動をつのらせています。この恐るべき世界戦争計画を推進するアメリカの新たな世界軍事戦略として登場したのが、先制攻撃主義や単独行動主義を掲げるブッシュ・ドクトリンです。これは「アメリカの利益のためなら核戦争も辞さない」というもので、まさに第三次世界戦争の発動と言って過言ではありません。そしてこうした米帝の動向と連動する形でイスラエル・シャロン政権によるパレスチナ人民への残虐な殺戮攻撃がこの間エスカレートしてきた。

しかしこのようなアメリカ・ブッシュ政権の戦争政策は、その安定した中東・石油支配という目論見を完全に裏切って、すでにいたるところで破綻を深め、それがいっそう危険な戦争政策へブッシュ政権を駆り立てるという悪循環に陥っています。アフガニスタンでも、イラクでも、パレスチナでも、米帝とその同盟軍に対する人民の怒りはとどまるところを知らぬ勢いで火を噴き、中東全域をおおう動乱のるつぼにアメリカ帝国主義は日一日と確実に引きずり込まれ、それはまた中東地域にとどまらない全世界のイスラム人民の決起を呼び起こしています。

いやイスラム人民だけではない。今年二月一五日、イラク開戦前夜において、日を同じくして全世界各地で二〇〇〇万人とも言われる巨大な反戦デモがかちとられましたが、これはブッシュの世界戦争政策と真っ向から対決する史上空前の反戦闘争が始まったということです。九・一一を画期として、全世界的規模で労働者人民・被抑圧民族の反乱が、燎原を焼きつくすような勢いで広がり始めたのです。

 

◇2.資本主義が労働者を食わせていけなくなった

この背景には、戦争とともに、アメリカを先頭とする世界資本主義経済の危機が、もはや労働者人民を食わせていくことができないところまで深まってきたという現実があります。九〇年代のアメリカは、「経済のグローバル化」の名のもとに全世界的規模でかつてない貧富の拡大をつくりだしながらも、世界中の富をアメリカに集中することで、束の間のバブル経済を謳歌してきた。しかし二一世紀への突入とともに、ITバブル崩壊から始まり、株価・ドル暴落の危機、企業の粉飾決算表面化、そして双子の赤字への再突入等々へと、資本主義の中の資本主義国アメリカの経済危機はまさに末期症状を深めています。

アメリカでのバブル崩壊の大きさは、日本の比ではありません。アメリカでは個人がみんな株を買っている。日本人のように貯蓄していない。家も何もみんなローンで買っている。膨大な借金の上に膨大な消費が成り立っている。いったんバブルが崩壊したら、日本のように国や自治体の財政が悪化するだけでなく、何より借金漬けの生活を送ってきた個人が直撃されます。しかしこのアメリカの巨大な消費があったからこそ、少なくともこの間の日本を含む世界の貿易と経済は決定的な破局をまぬがれてきた。その世界経済がまさにその根幹から大きく崩壊し始めてきたということです。

そしてこのような経済危機、資本主義が労働者を食わせていけなくなりつつある危機の中で、アメリカでも、ヨーロッパでも、レーガンやサッチャー以来の反動を打ち破る労働運動の新たな攻勢が始まっています。アメリカでも、九五年には、アメリカのナショナルセンターであるAFL・CIO(アメリカ労働総同盟・産別会議)の会長に、スウィニーという、日本で言えば中小合同労組の出身のような人が選ばれるということが起きている。さらに後で述べるように動労千葉も交流を始めているアメリカ西海岸の戦闘的労働運動の存在を注目しなければならない。アメリカやヨーロッパのイラク反戦闘争の場合、こうした戦闘的・階級的労働運動の新たな潮流がその中心を担っている。まさに戦争と大失業が、国際階級闘争を新たな発展段階に急速に押し上げつつあると言えます。

 

◇3.有事法制の制定と連合の犯罪的役割

日本では、何よりもこの六月の国会で小泉内閣が民主党の賛成を得て、有事三法案を圧倒的多数で可決・成立させたことが重要です。有事法制は、「日本有事に備えた法制」などと言っているけれど、実際は、九九年に制定された周辺事態法と一体のものとして、明白に照準を朝鮮半島に定めた、第二の朝鮮戦争を準備する戦争法です。戦後長く懸案でありながら労働者人民の強い反対でなかなか日の目を見なかった有事法制が、今回これほどあっけなく成立した背景には、やはりまず九・一一があります。いわゆる「悪の枢軸」論に代表されるアメリカ・ブッシュ政権の世界戦争政策、朝鮮戦争政策が、小泉政権を大きく後押しした。同時に昨年九月の小泉訪朝以降のいわゆる拉致問題などをめぐる日本のマスコミのすさまじい対北朝鮮排外主義の嵐が、有事法制制定の流れを決定的に促進したことも明白です。

この中で、最も悪質な役割を果たしたのが連合です。連合は一方では民主党を尻押しして、有事法制の翼賛的成立に手を貸し、他方では、〇二年五月の有事法制に賛成する連合見解などをとおして、ナショナルセンターの枠を越えて有事法制反対闘争を闘う陸・海・空・港湾労組二〇団体の陣形への制動に血眼になってきた。連合はまさに侵略戦争に労働者を駆り立てる、「現代の産業報国会」としての正体をむき出しにしてきています。

だがこれも連合の強さの表れではなく、その危機の露呈であり、その破綻をさらに促進するものでしかありません。有事法制という改憲と朝鮮戦争に直結する戦争法が通った第一五六通常国会では、同時に共謀罪という治安法制や、首切り自由法というべき労働基準法などの労働法制改悪が目白押しに登場した。侵略戦争と治安弾圧と強労働・強搾取はいつでも一体となって襲いかかってきます。

国会の場でこのように進行した事態を日本のブルジョアジーの意思として表明したのが、〇三年一月の日本経団連の「活力と魅力溢れる日本をめざして」と題した「奥田ビジョン」です。それは、労働者保護法制の徹底的解体をうたい、社会保障制度の解体と消費税一六%をぶちあげ、「東アジア自由経済圏」構想という新「大東亜共栄圏」を提唱し、それらのためにも何よりも、労働組合に対して「要求する組合から、企業・国家のことを考える組合へ」と転換することを求めています。

九五年日経連「新時代の『日本的経営』」プロジェクト報告以来の、終身雇用制・年功序列賃金制・企業内組合という「三種の神器」解体の攻撃がいよいよ本格化する中で、それに率先協力してきた連合はそれによって解体的危機と空洞化を深めている。そして奥田はそこにつけいって、連合を侵略戦争に向けた国家総動員体制にさらに深々と組み込もうとしている。

今こそ、五五年体制下の総評労働運動の限界をのりこえた階級的労働運動の再生が求められています。その萌芽は、陸・海・空・港湾労組二〇団体の闘いや、全日本建設運輸連帯労働組合・関西地区生コン支部(全日建関生支部)と全国金属機械労働組合・港合同(港合同)、そしてわれわれ動労千葉の三組合共闘の中に形成されている。また新展開をとげる国鉄一〇四七名闘争の重要性はさらに大きくなっている。そして何よりも全世界的な規模での労働運動の新たな展開の中で、日本における反転攻勢の条件も急速に成熟しつつあると言えます。

 

◇4.総選挙をめぐる新たな政治再編の動き

今年の秋の情勢でさらに注目しなければならないのは総選挙です。やはり核心は六月六日、有事関連三法が成立したことです。しかも民主党が修正案を出して、それに応じて九割もの賛成という翼賛国会的な様相の中で通るということが起きたわけです。そういうことにすべて規定されて、その後、戦争下のイラクに自衛隊を派遣するという法案も通ってしまった。そういう状況の中で、否応なしに九〇年代の一時期に起こって、ある意味では貫徹されずに終わった五五年体制の崩壊、いわば戦後の日本の政治のあり方を一変するような政治的激動が、いよいよ有事体制下において再び起こり始めているということではないかと思います。

民主党と自由党の合併問題がある。連合がこれをバックアップしている。しかし、では民主党、自由党というのが労働者や労働組合に依拠した政党かというと、そうではなくて、本質的にはブルジョア政党ですよね。そういうブルジョア政党が、自民党、そして自公保に対抗してひとつの極をつくらないと、自らが解体しかねないという状況の中で、民主党も自由党もいろいろ党内に問題を抱えながら、一気に、ある種の瀬戸際政策的な合併に走った。自由党はそもそも自民党より右の極右の政党です。それが全部民主党のもとに、いわば吸収・合併された。なりふり構わず、総選挙を前にそうしないともうもたないということで踏み切った。

もうひとつは社民党の解体攻撃です。五五年体制の一極にあった社会党の匂いを少し残している社民党も、一気にこの際たたいちゃうということで、辻元清美の逮捕事件なんかが起こる。辻元事件も非常に異様です。本人も事実関係を認めていて、事情聴取にも何回も応じていて、全部カネも返して、その上で逮捕したわけだから。だからそうとう意識的、意図的なことが起こっている。そういう点では、アメリカの共和党と民主党による二大政党制みたいな状態にこの際一気に日本の政治をもっていこうということではないかと見ています。アメリカでは、民主党をAFL・CIOをはじめ多くの労働組合が支持しているわけです。日本でも統合された民主党に連合がくっつくというようなことを考えているのではないか。

かつての細川政権、新進党の発足の時も、明らかに当時の連合の山岸会長が動いていました。小沢一郎が自民党を飛び出した背景は、連合が一方の極にいて、これが当時、約八〇〇万人。もう一方で公明党が新進党に入っていて、創価学会が約一〇〇〇万人。これがバックにいて、小沢がボンと自民党を飛び出した。今回は公明党、創価学会が自民党の権力サイドに入っているという状況が違うけれど、やはりもう一回、大きな政治再編、政局再編が起こる可能性が強い。その場合は自民党も含めた再編になる可能性もある。総選挙がらみで、一挙に噴き出してくるということがありえますね。

◇5.連合の危機と「奥田ビジョン」

こういう中で、連合の動向が重要です。日本経団連が〇二年一二月、経営労働政策委員会報告を出しました。これをふまえて、今年一月の「奥田ビジョン」が出たけれど、その中でこう言っています。「今日、組合員の組合活動への参加の意識が低下し、労働組合運動が内部から自壊する危機に瀕している」と。

さらに連合は昨年三月、「連合評価委員会」をつくった。委員には、中坊公平(元日弁連会長)などが並んでいる。その連合評価委員会が、六月二六日に開かれた連合の中央委員会に、「このままでは社会的存在意義がますます希薄化し、労働運動は足元から崩壊してしまいかねない切迫した事態に直面している」という中間報告を提出している。これが連合の現状です。

本質的に言うと、終身雇用制・年功序列型賃金・企業内組合という「三種の神器」を前提として成り立っていた日本の労働組合が今、終身雇用制の解体攻撃が深まる中で成り立たなくなったということです。組合員の企業に対するロイヤリティというのは、企業内組合たる労働組合に対するそれにも通じるところがあるわけだけれど、それが全体として成り立たなくなっている。終身雇用制の解体攻撃が、特に〇二春闘から本格化したわけです。そういう中で、連合は、組織人員が七〇〇万人を割ったけれどまだ一定の数を維持している。しかし内実は、例えば動員指令を出しても人は集まらなくなっている。組合費はチェックオフしているから集まっているものの、組合員が労働組合から完全に離反している。それを日本経団連からも指摘されている。

そういう中で、連合自身が生き残りをかけて、今度の連合大会で、現在の会長の笹森(電力総連出身)に対抗して、UIゼンセン同盟の高木が会長選挙に立候補するという事態が生まれています。連合会長人事をめぐる本格的選挙は初めてです。

われわれは「終身雇用制解体攻撃は、明らかに連合を足元から切り崩す」と前から主張していたけれど、それがいよいよ現実のものになった。こうした動きを底流としながら、民主党と自由党の統合も動き出した。大規模な流動や再編が置きかねない大きな動きが深部で進行している。自民党総裁選では、小泉が再選必至だというのが大方の読みのようだけれど、これもまた何が起こるかわからない様相を深めています。

安保・防衛政策だけはどんどん進めているけれど、経済問題はますます危機を深めているし、国家財政の危機は、天井知らずになっている。そういう状況がこの秋から冬にかけて、一気に爆発する。ここにイラク自衛隊派兵という問題がつながるということを、きちっと見きわめておく必要があると思います。

 

◇6.全労連を直撃する日本共産党綱領改定

もうひとつ、この秋注目しなければならないのが、一一月の日本共産党大会での綱領改定問題です。今度の綱領改定のヘゲモニーは、委員長の志位ではなくて議長の不破が握っているんじゃないか。不破というのは、今残っている共産党の幹部の中では、戦後の三大フレームアップ事件から産別会議が解体され、共産党が非合法化に追い込まれ、総評が結成されて朝鮮戦争に突入するという過程を知っている唯一の幹部ですよね。彼はこの恐怖感を持っているから、綱領を改定して、右に寄って、基本的な腹としては政権の一角に入りたがっている。そのことによって朝鮮侵略戦争下での弾圧から身をかわそうということでしょう。

しかし今度の綱領改定というのは、すべてを議会内の闘争、選挙で議員をどう増やすかに収斂し、それ以外は一切切り捨てている。労働運動をはじめとして、大衆運動という領域をすべて綱領からはずしています。単に天皇制や自衛隊を容認したというレベルじゃなくて、労働者の闘いをそれなりに位置づけてやっていくという領域を全部はずしちゃっている。だから労働者階級という言葉が一言しか出ていない。これだけ資本主義が危機に瀕している中で改良路線をもっと深化させるということになるわけだから、全労連傘下の労働組合に対しては、要するに資本主義を擁護しろ、リストラ攻撃を全部受け入れろということにならざるをえない。

だから特に、現場労働者を組織している労働組合から、それに対して公然と反発が起こるのは当たり前だし、もうすでに二〇労組の集会に参加している全労連傘下の労働組合は、ほとんど反代々木派だと言われているわけでしょう。今のところ、全教や自治労連はあまり来ないけれど、ここも否応なしに教育基本法改悪や公務員制度改悪などを中心にしてターゲットになっているわけだから、全労連はそうとう大変な状況に追い込まれることは必至です。

しかも新聞では「共産党は中途半端だ」なんて言われている。「そこまで言うんだったら、共産党という名前を変えろよ」ということです。ほかの帝国主義国の共産党は、フランスもイタリアもみんな名前を変えたんだから、そこまでいったら名前を変えろと言われているけれど、まだそこまでは踏み切れない。このままでは、いくら右に寄っても、権力は共産党の存在を認めるはずはない。

われわれにとって見れば、一五〇万と言われている全労連傘下の労働者をいかに獲得して、一一月労働者集会や闘う労働組合の全国ネットワークをつくろうという運動に参画させるかということがひとつの大きな柱になっていくと思います。すでに動労千葉とも接触し始めている人もいるけれど、非常にまじめな組合の活動家で、それなりの能力を持っている。要するに共産党を、地域や職場で支えてきた人たちです。彼らを獲得するための働きかけをもっともっと強めていく必要があります。

 

◆Ⅱ/動労千葉がアメリカに行った

 

◇1.ILWUローカル10からの正式要請

こうした内外情勢の中で、先日動労千葉にとって非常に重要なことが起こりました。動労千葉の川崎昌浩執行委員が七月九日から一五日までアメリカに行き、アメリカの戦闘的労働組合と連帯・交流を深めてきました。

国鉄労働者はほとんど井の中の蛙で、内弁慶が多いんですね。だいたい機関車や電車に乗っている労働者はそういう傾向が強い。外に出るのはあまり好きじゃないんです。動労千葉もこの二〇年間くらい、特にジェット燃料闘争や分割・民営化のストライキで四〇人以上の労働者が首を切られて、必要に迫られて全国を回り始めたというレベルですから、海の外という発想はないんですね。アメリカに行くなんて、清水の舞台から飛び降りるくらいの決意をしなければいけなかった。

川崎君は、アメリカ西海岸のサンフランシスコ労働者評議会(七万人、アメリカ最強の地区労)の中心組合であるILWU(国際港湾倉庫労働組合)ローカル10などから正式に招請されて訪米しました。ローカルというと田舎の組合みたいですけど、これは第一〇支部という意味です。支部のことをローカルと言う。ILWUの最強の支部です。また昨年一〇月のタフトハートレイ法の発動を受けて、それに反対する広範な運動体が昨年一二月に立ち上げられた。「タフトハートレイ・抑圧・民営化に反対するキャンペーン運動」と言います。その双方の運動に積極的に参加しているILWUと、その中軸を担うローカル10から、動労千葉に「七月にレイバーフェスタ一〇周年を約一ヶ月間やっているから、そこに来て話をしてくれ」という話が来たわけです。

経過から言うと、二〇〇二年一〇月に亀戸中央公園で行われた「一〇四七名闘争勝利団結まつり」に動労千葉が初めて参加した。その時に国労闘争団の招請でサンフランシスコからレイバーフェスタの中心を担っているスティーブ・ゼルツァーさんという人が来ていて、ゼルツァーさんと初めて動労千葉の田中委員長がいろいろ話をするということから始まった。それから動労千葉を支援する会の山本事務局長がメールを交換するようになって、動労千葉の闘いの状況を英訳してメールで送り始めました。

当初はおそらくよくわからなかったんじゃないかと思うけれど、だんだん、国労がどういうことを今やっているのかとか、国労闘争団がどういう闘いをやっているのかとか、その中で動労千葉というのがどういう存在なのかということについて、わかるようになってきた。もちろん、彼らは国労闘争団を知っているんですよ。だけど「動労千葉にぜひ来てくれ」と。ここが核心なんです。なぜかと言うと、イラク戦争が始まったのが三月二〇日です。それで動労千葉が数日後に七二時間ストライキをぶち抜いた。これが決定的だったんです。

 

◇2.サンフランシスコ労働者評議会で動労千葉・一〇四七名闘争支援、国労臨大弾圧粉砕の決議

川崎君はいろんなことを聞かれました。サンフランシスコの労働者は『人らしく生きよう~国労冬物語』のビデオも見ていたから、なんで分割・民営化の時に二〇〇人も自殺したのか、それがよくわからない。国労の解雇された闘争団と国労本部の側はどうも意見が違っていて対立しているが、これもよくわからない。労働組合というのは、首切り攻撃に対して闘うのは当たり前じゃないかと。首切り攻撃に対して労働組合が闘わないなんて、それはちょっと信じられない。そういうことについて、説明を求められるということがあって、非常に四苦八苦したそうことです。

もうひとつおもしろかったのは、JR総連の中執の四茂野が直前にサンフランシスコに行っていて、例の浦和電車区事件に対して支援を要請していたわけです。アメリカ側から「四茂野という人を知っていますか」と聞かれたので、「彼らはカンパニー・ユニオンだ」と説明した。御用組合のことをカンパニー・ユニオンと言うんだけれど、会社と一体となって自らの組合員をいじめて退職に追いこんだ組合なんだ、分割・民営化に賛成した組合なんだということを話したら、一発で彼らは理解した。「ああ、それでよくわかりました」というふうになったというんだね。

ゼルツァーさんたちは、浦和事件も一応七人も逮捕されて、長期勾留されているから、それだけ表面的にとらえれば、これも反対というふうになる。だから迷っていたんだけれど、国労五・二七臨大闘争弾圧事件の八人と浦和電車区事件の七人はどこが違うのかということも一発で了解したらしい。要するに、民営化攻撃に対していかなる態度をとるかが、労働運動にとってリトマス試験紙だという認識なんです。

そして日本の国鉄分割・民営化攻撃に対して唯一闘った労働組合がどうもあるらしい、それが動労千葉という組合らしいということが、この一年間のインターネットを通じた交流の中でわかってきた。それで今回出かけたら、結局とうとうサンフランシスコ労働者評議会の代表者会議で報告しろという話になったんですね。そこで動労千葉支援、国鉄一〇四七名闘争支援、国労五・二七臨大闘争弾圧粉砕の決議が上げられた。だから当初の予想をはるかに上回る大変な歓待を受けたというのが感想ですね。この決議を決めた時は全員総立ちで拍手、「ソリダリティー(団結)!」と叫んで、川崎君は「鳥肌がたった」と言っています。

 

◇3.ブッシュのタフトハートレイ法攻撃と対決

ILWUローカル10の昨年の闘争というのは、要するに一九三四年に結んだ協約をめぐる攻防です。一九二九年にアメリカでウォール街の株価大暴落が起こって、それで大恐慌が世界中を席巻して第二次世界大戦に突入していった。アメリカではルーズベルト大統領が登場してニューディール政策をやりました。当然のことながら大恐慌ですから、労働者に対する首切り、リストラ、賃下げという攻撃が吹き荒れたわけです。それに対してILWUを中心としたサンフランシスコの労働者がゼネストに立ち上がった。そうするとアメリカは州兵を動員します。この過程で二人の港湾労働者が殺されている。これにひるまず、サンフランシスコ・コミューンみたいのを形成する中で協約を獲得しているんです。この三四年につくった協約が今も生きている。ちょっと日本では考えられませんね。その核心は、労働組合を介さないと会社側、資本の側は労働者を雇えないという協約なんです。その協約が今日に至るまで残っている。資本の側はこれをつぶそうとしたけど、労働組合が頑強に抵抗して、それを拒否している。

それで〇二年、ブッシュが拠点的な労働組合を徹底的にたたきつぶすという攻撃をかけてきた。その時も、ストライキに対してタフトハートレイ法を適用したわけじゃないんです。タフトハートレイ法とは、労働組合がストライキに突入して、連邦政府が中止と言ったら、八〇日間ストライキをやれないという法律なんです。この法律をちらつかせますから、アメリカの労働者は事実上スト権がなくなっているんですね。

それで、日本で言えば順法闘争みたいな闘いをやっているわけです。組合を経由しないと労働者を雇用できないわけですから、徹底的にやると、これ自身が実質的にストライキになる。だから小出しにしたり、いろんな形で、頑強で柔軟かつ緻密な戦術をとっている。写真を見ると、「PATCO(連邦航空管制官組合)の二の舞を踏まないぞ」というプラカードを掲げてデモをやっているんです。レーガンの時に管制官組合がストライキをやって徹底的につぶされたでしょう。この管制官組合はレーガン支持の組合だったけれど、ストをやった途端につぶしちゃったわけだ。それで今、「おまえら、うちの組合をつぶそうと思っても、そんなに簡単につぶされないぞ」「俺たちは頑強だぞ」ということをプラカードで表している。

そこで業を煮やした資本、会社の側がロックアウトしちゃった。ロックアウトしたから、サンフランシスコというアメリカの西海岸最大の港に船が入れなくなる。サンフランシスコというのは、湾が内側に入っていて、東側がサンフランシスコ、西側がオークランドです。そこに世界中から来る貨物船が止まった。それで、資本のロックアウトに対して連邦政府がタフトハートレイ法を適用したんです。

そういう闘いをとおして、一応協約は基本的に守ったとILWUは言っている。どういうふうに妥結したかというと、新しい業種については、組合を介さなくても労働者を雇うことができるということで譲歩した。新しい業種とはコンピューター関係と言われている。取って代わられる「古い」業種に就いていた労働者については、ちゃんと職場は確保されたんですが。これをめぐっては賛否の議論があったそうですけど、そういう闘いをやっているのがILWUです。

 

◇4.抑圧との闘い―パトリオット・アクト2

もうひとつ、抑圧が起こっている。パトリオット・アクト2。パトリオットとは愛国者という意味です。パトリオット・ミサイルというのがある。あれは迎撃ミサイルで、ミサイルが飛んできた時にこれを撃ち落とす。だから愛国者。で、パトリオット・アクト2という法律が今、連邦議会に上程されるような状況にある。パトリオット・アクト1というのは、九・一一の直後に制定された。アメリカは多民族国家ですから、いたるところから「不法入国」がある。そういう民衆に対してパトリオット・アクト1を適用して、特にイスラム、アラブ系の人たちを何千人も国外追放にしたり、殺したり、あるいは拘禁している。連邦議会にはまだ正確な数を報告しておりません。

パトリオット・アクト2というのは、「この団体はテロ集団に近い」と認定した途端に、そこに所属している構成員はすべて財産の剥奪、国外追放、例えば年金をもらっている人たちは、年金も打ち切っちゃうとか、むちゃくちゃな法律です。そのパトリオット・アクト2の制定反対ということを、サンフランシスコ労働者評議会は今、最大の闘いの焦点にしている。レーバーフェスタでも中心的なテーマだったそうです。こういう状況の中で、アメリカの労働者は日々ブッシュの労働組合破壊攻撃と果敢に闘っています。

ILWUローカル10は、また今年四月にはオークランド港で、イラクの軍需物資を運ばせないために七〇〇人でピケを張って、警察が解散命令を出し、いきなり木製弾、ゴム弾を一斉に撃つという大弾圧を受けています。「対テロ戦争に反対する者はテロリストだ」というブッシュの攻撃に一歩も引かずに実力で対決しているのが彼らです。

 

◇5.国防総省まで民営化するアメリカの末期症状

もうひとつの問題は、民営化問題です。アメリカは度はずれた国です。日本では例えば警察を民営化するとか、防衛庁を民営化するとか言わない。ところがアメリカはペンタゴン(国防総省)を民営化しちゃうというんですよ。ホワイトハウス(連邦政府)も民営化すると。連邦政府の職員が全体で約一八〇万人、ペンタゴンだけで七五万人の労働者が働いている。そのうち、約八五万人を民営化するというんです。すでにアメリカの刑務所は民営ですからね。考えていることが度はずれている。特にラムズフェルド国防長官は徹底した効率主義です。ネオコン(新保守主義)に近い人物ですけれど。

今、イラク戦争で、二五万人の米軍がイラクを占領していますけれど、この戦争には民間人が動員されているんです。今は電子戦争だからコンピューターを操ってボタンを押す。そうするとダーッとトマホークなんかが飛んでいく。兵隊にそういう能力を徹底的に仕込むためには、そうとうの時間とカネを要する。面倒くさいから、派遣会社からコンピューター技術を持った労働者を動員して、軍服を着せて、彼らがやっているんです。

湾岸戦争の時は軍隊が五〇万人でした。今回は二五万人だけど、航空母艦とかに乗っているのもいるわけだから、実際上は地上軍は一五万人と言われています。で、民間人が五万から一〇万人。これはみんな電子機器を操作しているんです。彼らの間では、もし敵が攻めてきて逃げた場合には、敵前逃亡罪になるから、「俺は軍法会議にかけられるんじゃないか」とか、「もし捕虜になった時に、俺は兵隊じゃないけれど、ジュネーブ協定が適用されるか」とか、そういうことが問題になっているそうですよ。

イラク戦争には約半分、アメリカの国籍のない兵隊が行っている。ベトナム戦争以降、アメリカは徴兵制がなくなりましたから、みんな志願兵なんですね。白人の貧しい人たちとか、有色人種です。彼らは、アメリカ市民権を獲得するために兵役を希望する。もちろん賃金をもらえるし、市民権を獲得する時に優遇される。だから行っているんです。それが今のアメリカの実態です。

 

◇6.組合民主化闘争を進めるアメリカ労働者

ILWUという組織は、一九三七年にILA(国際港湾労働者協会)という全米を統一した組織から分離・独立して、アメリカの西海岸だけがILWUという形で組織された組合です。一九二九年の世界恐慌に突入する過程で、労働者に大変な首切り、賃下げ攻撃が吹き荒れるという中で、サンフランシスコでは労働者の猛烈な闘いが起こる。そこで今の労働協約を獲得している。マーロン・ブランドが主演した『波止場』という映画がある。ILAという組合にはまだ一部にマフィアなんかが巣くっていた。そういう状況の中で、西海岸の労働者はそれに反発して、闘いを開始する。それでわれわれの言葉で言えば分離・独立闘争をやって、ILWUが結成されたわけです。

だから、動労千葉がかつて動労本部に巣くう革マルと対決して、いわば動労の戦闘的伝統を継承する闘いとして、分離・独立闘争をやったということについては、「俺たちと同じじゃないか」というふうにすぐ理解してくれたそうです。

今、アメリカの労働運動では民主化闘争が現場の労働組合の中心軸を占めている。日本では民主化闘争という言葉は右が使う。産別反共民同から発祥して民同(民主化同盟)という言葉があるようにね。だからわれわれは民主化闘争という言葉は使わないけれど、アメリカでは民主化闘争を左が担っている。ローカル10なんかが中心的に取り組んでいる。

どういうことかというと、組合幹部が職場の労働者の意識や要求から非常に乖離している。これに対して現場の労働者の要求とか意欲をどう反映させるか。簡単に言うと組合幹部に対する、ダラ幹に対する闘いみたいなものですね。

だから動労千葉が国鉄分割・民営化と唯一闘った労働組合であるということと、それから何よりも〇三年にイラク開戦情勢下で七二時間のストライキを打ちぬいた労働組合であるということで、「似通った闘いをやってきた労働組合同士だ」という共感を得て、すぐに「ブラザー(兄弟)」になっちゃったわけです。

 

◇7.国際反戦闘争の中軸を担う労働運動の新潮流

彼らは頑強にイラク戦争に反対しています。スローガンもはっきりしていて、「The War At Home & The War Abroad」、われわれの言葉で言うと「内なる階級戦争と外への侵略戦争に反対する」ということですよ。これはローカル10の反戦行動委員会のスローガンです。非常にラディカルですよね。

それと、彼らは、今世界で一番戦闘的な労働組合運動をやっているのは韓国であるということをわかっている。その上で、「重要なのはアメリカとか日本とかイギリス、フランス、ドイツという、そういう国の労働者が、今こそ国際的に連帯しなければ侵略戦争を止められない」と、熱っぽく語る。そういうインターナショナリズムを持っているということです。イラク侵略戦争をひとつの大きなきっかけにして、われわれの言う「闘う労働運動の新潮流運動」みたいなものが、イギリスでもアメリカでも起こってきている。

特にアメリカとイギリスというのは戦争をやっている当事国だけれど、ここで新しい労働運動が台頭してきている。これに対してもちろん大変な治安弾圧がかけられているけれど、それとも真っ向から対決しながら闘いぬいている。そういう闘いを土台にして、彼らが中心になって全世界で二〇〇〇万人と言われるような空前のイラク戦争反対の大闘争が起こった。だから動労千葉の闘いについても、日本国内より、むしろインターネットを媒介にして、イギリスやアメリカのレイバーネットのトップで報道されて、それがいたるところで関心を呼んでいる。インターネットで「DORO―CHIBA」と検索すると、例えばトルコ語のホームページなどでも動労千葉のストが取り上げられていることがわかります。

動労千葉の場合、こういう形で本格的なインターナショナルな国際連帯の闘いが始まったわけです。五〇〇人の少数組合だけど、日本の労働組合の中でアメリカの労働者から信頼されたわけだから、それは受けて立たなければいけない。一方では全日建連帯関生支部も、韓国の民主労総との連帯、共同行動をどんどん推し進めている。

だから一一月労働者集会のひとつのメインは、間違いなく国際連帯になりますね。やっぱり国際的に励まし、励まされ、闘いを継続していく、あるいはそれを拡大していくということが今、非常に問われていると思います。

 

◆Ⅲ/国鉄闘争の新展開と一一月労働者集会

 

◇1.有事体制下の治安攻勢との闘い

日本の階級闘争に話を戻すと、前に言ったような政治の大きな流動といっそうの翼賛化が進む一方で、労働運動をはじめあらゆる大衆運動を治安対象化するということが激しく進んでいます。

九〇年代後半から組対法(組織的犯罪対策法)や盗聴法、住基ネット(住民基本台帳ネットワーク)、個人情報保護法など、戦争と大失業下での一切の抵抗運動の芽をつみとり、一億総監視体制の完成をめざす治安弾圧法制、言論抑圧法制が積み重ねられてきました。しかし有事三法の成立を受けて「国民保護法制」という名のもとに、今後さらに全労働者人民を国家総動員体制に駆り立てるための攻撃が強まることは不可避です。こうした流れの中で当面最も重要なのが、共謀罪の新設です。

有事体制下の労働運動というのは、一般論としても、まず治安弾圧との攻防になると思うんですね。特に今年の第一五六通常国会というのは、労働基準法まで手をつけて、要するに資本の側の解雇権を認め、それだけでなくて労働者派遣法の改悪だとか、社会保障制度の解体まで進んでいるわけです。だから労働者の権利を剥奪するのとあわせて、治安弾圧の強化が当然不可避になってきます。これは全世界、どこでも同じです。アメリカのパトリオット・アクト2もそうだし、日本における共謀罪もそうです。

共謀罪は、国際組織犯罪防止条約の批准とそれに伴う国内法の整備という形で、刑法の中にある、四年以上の刑罰を定めている条項五百数十本を全部改悪して、これに関しては「実行行為を伴わなくても共謀だけで処罰する」という条項を付け加えるというものです。これは戦後刑法、近代刑法の根本原則を引っ繰り返すものです。九・一一以降のブッシュの世界戦争計画の進展と並行して、こうした国内におけるまさに上からの階級戦争が、「反テロ」の名のもとに激化の一途をたどっているわけです。

昨年一〇月に起きた、国労五・二七臨大闘争弾圧事件では、八人の仲間(うち七人が国労組合員)がおよそ刑罰の対象などになりえない労働組合内でのビラまき・説得活動を口実に逮捕・起訴され、すでに一〇ヶ月も勾留されています。同様の弾圧は、港合同や全金本山、さらに部落解放同盟全国連寝屋川支部や九州大学学生自治会などにも連続的に襲いかかっています。これらは、国家権力が有事体制下ではどんなささいな大衆運動の発展も認めないという凶暴な姿勢をむき出しにしてきたことを示しています。治安弾圧との闘いは、アメリカの労働運動にとってもそうであるように日本の労働運動にとってもいよいよ死活的な課題になっていると思います。

 

◇2.新たな再編・流動過程に入った国鉄闘争

もうひとつの柱は、やはり国鉄闘争がまだ終わっていないというところにあると思います。つまり国鉄分割・民営化攻撃が完成していないということです。国鉄分割・民営化攻撃というのは国鉄労働運動を完膚無きまでに解体しつくすという攻撃だったはずでしょう。しかしながら実際の問題としては、国労が一戦も交えなかったとはいえ、修善寺大会を経て、一応四万人前後の組織を残してしまう。それが清算事業団闘争から一〇四七名闘争という形で、闘いを継続している。そしてわれわれ動労千葉が残っている。ここで敵はいまだ決着をつけることができていないということです。

もう一方、国鉄分割・民営化攻撃を動労革マルの手を借りてやったということ。これは日本のブルジョアジーにとってみれば大きな負の問題であって、これも決着をつけなければいけない。もうすでに箱根以西では、一応手を切ったけれど、肝心のJR東日本の中ではまだそれが続いている。

国労五・二七臨大闘争弾圧というのは、確かに「四党合意」粉砕の闘いをその最先端で闘った国労共闘のメンバーを、警視庁と国労東京地本と国労本部が一体となって弾圧を加えるという、戦後あまり例のない特殊な事件です。しかしこれは、国労闘争団の解体の問題とも関連してくるけれど、結局こういうやり方をとらないと国労という労働組合を解体できない、国鉄分割・民営化が完成しないと権力が判断しているということだと思います。

それとあわせて、国鉄分割・民営化の論功行賞として与えられたJR総連の権力を握ってJR東日本の中に残存している革マルを、この際、切り捨てるという攻撃が、軌を一にして進められている。

これらは直接的にはもちろん大変な攻撃だけれど、われわれの立場から言うと、この攻撃をめぐって、国労内外、あるいはJR総連内外で、大変な混乱と流動が起こっているわけで、大きなチャンスの到来でもある。分割・民営化以降、もう一回国鉄・JR労働運動をめぐる大再編の過程に突入したということじゃないか。

これに勝利しぬく核心は、国労五・二七臨大闘争弾圧との闘争を本当に全労働者的課題にするということと、この過程でわれわれが国鉄・JR労働運動の主導権を獲得していく闘いを一体のものとして進めるということです。この闘いの成否が一一月労働者集会のもうひとつの重要なファクターになると強く感じています。

 

◇3.求められている国労の「解体的再生」

こういう中で、国労の持っている五五年体制的な思想やあり方というものが今、全部問われている。結局、今日の危機の中で、国労闘争団も含めて国労内の「四党合意」反対派勢力が有効な闘いを展開できないということが、はっきり暴露されてしまった。そのことをわれわれはきちんと批判し、彼らを獲得していかなければいけない状況に入ったと思います。

国労闘争団は解雇者集団だから、彼らにいろんなことを要求するのは酷だという要素はあるけれど、「四党合意」が破産したんだから、本当はこれで「四党合意」を推進した連中に引導を渡して、「おまえら、責任を取って辞めろ。われわれがやってやる」というふうにならないといけない。しかし実際はそうなっていない。これはなぜかというと、結局「四党合意」賛成派も反対派も両方とも和解路線であり、政治解決路線だからです。これは一九八九年の国労臨時大会の「全面一括解決要求」路線に根っこがあるわけで、もっと言えば国鉄分割・民営化に国労として修善寺大会以外は何ひとつ闘いらしい闘いをしていないという問題としてある。

国労の最大の弱点は、解雇撤回闘争を闘っているにもかかわらず、JR資本とまったく闘わないというところにあります。この十数年間、資本とまったく闘っていない。この過程、JR東日本などでものすごい合理化、リストラ攻撃をかけられてきているのに、それと何ひとつ闘わないから、JRの中で国鉄労働組合という組織がどんどん衰退の道を歩んでいる。やはりJRの中で力関係を変えていく運動をやらない限り、JR復帰や解雇撤回が成り立つわけがない。しかしそういう路線という次元では、国労内の「四党合意」反対派も、闘う闘争団も、考え方は賛成派と基本的に同じなんです。ただ「四党合意」ではちょっとひどすぎるんじゃないかという程度のことだったということが、この間はっきりしてきた。そのことによって今、闘争団は悪戦苦闘しているわけでしょう。

だから闘う闘争団も、運動方針は鉄建公団訴訟一本やり。しかも鉄建公団訴訟は、本来清算事業団から九〇年四月一日に整理解雇されたことを無効とする地位保全存在確認訴訟なのに、しかし彼らが考えていることは、この裁判の過程でなんとか和解しようということでしかない。だから「年金問題だけ引き出せればいい」なんて話も出てきている。そうなると、「四党合意」の時の「八〇万円の解決金と数十人のJR採用」というような噂と、どこがどう違うんだという話にもなりかねない。

だから、国労の「四党合意」推進派は自らの路線の破産も省みず、国労を解体する方向で一気に進んでいる。国労は明白に自己解体過程に突入している。そういう点では〇三年九月の国労大会というのは、国労が再生するのか否かという闘いにとって、極めて重要な大会になります。下手をすると本当に最後の大会になりかねない。

僕は最近そういう言葉を使っているんだけれど、今こそ国労の「解体的再生」と言わなければダメです。五〇〇〇人でも一万人でもいいから、国労の旗を守る労働者を結集して闘っていくというふうに腹を固めないと大変なことになると思います。

 

◇4.今こそJR総連解体・青年労働者獲得へ

動労千葉は最近、特にJR東日本やJR貨物の「平成採」(年号が「平成」になってからJRに新規採用された労働者を指す)の青年労働者に対して、精力的にアタックをかけています。最近の特徴は明らかに意識が変わったということですね。これは単にJR東労組内における松崎派と嶋田派の対決に嫌気がさしたというレベルじゃない。それがひとつのきっかけになったことは事実なんだけれど、彼らの対立はある意味では利権をめぐる抗争でしょう。松崎が「嶋田みたいなガキに、俺が血と汗を流して、悩み苦しんでやってきたことを奪われてたまるか。俺がまだキャップだ」と言っているわけだ。

しかしこういう構造というのは、現場の組合員は何も知らされていない。合理化や諸制度の改悪などの問題も、ほとんど知らされていない。今までも動労千葉が職場討議資料を発行すると、うちの組合員よりも他労組の組合員がそれをもらいに来るという構造があったけれど、最近、ますます増えている。やはり平成採の意識が変わってきている。

彼らはJRに就職して、自動的にJR総連に入っている。それで労働組合員としての教育も何も受けていない。だから例えばストライキということについても全然わからないわけだけれど、やはり大きいのはこの間の世の中全体の動きですよね。明らかに日本経団連の方針だとか、今の政府・自民党の戦争政策だとか、巷にあふれている様々な現象を、彼らだって見ているし、自分の親、兄弟、親戚がその渦中に全部巻き込まれている。だから、「いったい世の中、どうなっちゃうんだ」という問題意識がそうとう生まれてきている。

だからわれわれとの討論も、明らかに今までと違って、踏み込んだ関係になってきています。東労組と決別して、動労千葉に結集するということは、ある種の党派選択的要素があって、労働者としてどう生きるべきかということが問われる。そういうことを問わないと、簡単にはいかない。しかしそうとう可能性が出てきたことも事実で、彼らを獲得する闘いをこの間、動労千葉の総力をあげて展開していて、もう学習会をやるところまで行っています。

つまり学習会をやって、労働者のあり方など、彼らの意識を変革しないと、動労千葉には来ない。今までは、「組合と会社側に両方からうるさいことばかり言われて、おもしろくないや」というような感じで、われわれと酒を飲みながら付き合うことも多かったけれど、今、ちょっと進んでいる。手ごたえを感じている。

だからそれを見ると、国労がこんな体たらくというのは、本当に何を考えているんだと言いたくなります。JR総連を解体して組織を拡大する絶好のチャンスを迎えながら、国労自身が自ら解散に近い道を選択するところに入っちゃっている。あれじゃあJR総連の青年労働者は来ないよね。

 

◇5.数は力――今年の一一月労働者集会が勝負だ

今年の一一月労働者集会は、もうアメリカの労働者が「一一月労働者集会に行く」と言っています。アメリカ労働運動の最強の拠点のサンフランシスコの代表が来る時に、日比谷野音がちょぼちょぼでは困ります。満杯にして迎えようではありませんか。もしかしたら韓国民主労総も来ますよ。韓国鉄道労組が今、分割・民営化反対闘争をやっている。法案を通さないためにストライキをやっている。これからも縦横無尽の闘いをやると思いますよ。地下鉄労組もストライキをやりながら、一票投票で上部加盟団体を変えることを決定し、民主労総に結集しました。そういう労働組合が一一月労働者集会に来るんじゃないか。

世の中ではいろんなことを言う人間がいる。「動労千葉とは付き合わない方がいいですよ。あそこは過激派ですよ」。いいじゃないの。アメリカのローカル10はアメリカでは過激派なんだよ。アメリカの最も過激な労働組合と日本の最も過激な労働組合が一緒になっちゃった。今度は韓国民主労総が来るかもしれない。こういう状況の中でわれわれは今年の一一月労働者集会を迎えることになります。

だから、動労千葉、そして動労千葉を支えてくれる多くの労働組合、動労千葉とともに闘ってくれる労働組合のすそ野が広がっていく、そういう力を強化していかないといけない。労働者は力のないところには来ないですよ。労働運動にはもちろん路線や理論が重要ですが、しかし理屈だけではダメです。動労千葉と一緒にやっていると弾圧ばかりくらって損をするとなると、あまり来ないんですよ。動労千葉と一緒にやったら得することがひとつでもないとダメです。ひとつはできた。国際的権威ができた。もうひとつぐらいつくらなければならないですね。もうちょっと数がほしい。その勝負が〇三年一一月労働者集会です。

今までは「インターナショナリズムなんて言っても、どうするんだ」というくらいイメージが貧困な中で、「国際連帯」なんて理屈だけ掲げていたけれど、今年はイメージが豊かになった。まず動労千葉が先鞭をつけた。今こそ日本の労働者に全世界でどういう闘いが起こっているのか、同じような攻撃がどういうふうに加えられているのか、全部を知らせて、そこに勇気づけられたり、学んだりしながら闘っていこう。〇一年「九・一一」と〇三年「三・二〇」情勢下の労働者階級の側のキーワードは、「国際連帯」です。一一月労働者集会への多くの労働者のみなさんの総結集を強く呼びかけます。

●第一章 階級的労働組合への変革・飛躍

 

動労千葉の歴史について、まずその前史からお話しします。前史というのは、非常に主観的で申し訳ありませんが、一九六三年から七三年までとします。一九六三年は僕が当時の動労千葉地本青年部長に就任した年で、一九七三年は僕が動労千葉地方本部の専従の書記長に就任した年です。自分のことを言っていて申し訳ないですけれど、そういうことで勝手に年表をつくりました。つまり僕を中心とする動労千葉の青年労働者が、一〇年間の闘いを経て、当時の労働組合の権力を奪取したということです。

七三年当時の千葉地本執行部はダラ幹連中が握っていました。しかし彼らは、僕に対立する書記長の候補者を持たなかった。この当時、すでに大会代議員の約九割は中野派でしたから。そこで、僕が選挙管理委員会に書記長に立候補するという届け出をしても、委員長、副委員長、書記長の三役に、誰も立候補しなかったんです。大会はどんどん進行していくのに、大会そっちのけで人事工作ばかりやっていました。大会の会場だった国民宿舎からは「お昼で終わりです。次のお客さんが来ますから、早く出ていってください」と言われて、とうとうしょうがなくて青空大会をやりました。勝浦の国民宿舎の前にあった広場に会場を移して、最終的に僕が、難産の末に書記長に就任したという経過でした。

その七三年までの一〇年間、当時の青年部を中心として、どういう闘いをやってきたのかということをまずお話ししたいと思います。

 

◆Ⅰ/五五年体制下の労働運動

 

◇1.五五年体制とは

まず第一番目に、五五年体制下の労働運動ということです。五五年体制とは何か。一九五五年は戦後の日本史のエポックをなす年です。この時にいくつかのことが起こっています。

◎保守合同

まず、それまでは保守政党がいくつかに割れていて、自由党や民主党、国協党など、いろいろあったんですけれど、これが合同して、今の自由民主党が結成されたのがこの年です。

◎社会党統一

他方、それに対する反対勢力である社会党も、五二年の日米安保条約やサンフランシスコ条約をめぐって分裂していて、左派社会党、右派社会党と言われていました。選挙も別個にやっていたんですね。それが統一して、日本社会党になりました。

◎総評太田・岩井体制と春闘

それから総評は、国労出身の岩井章が事務局長になり、太田-岩井ラインが成立した(太田薫はこの時は副議長だが、五八年に議長になる)。それまでは高野実が総評事務局長で、いわゆる高野時代と言われたんです。

この高野という人はプロパーで、全金出身で総評の事務局長をやっていた人です。当時の民間を中心とした多くの産別に高野派の活動家がいて、総評の中に大きな勢力を持っていた。彼が、「地域ぐるみ闘争」というのを提唱して、日鋼室蘭闘争など、さまざまな闘いを指導した。しかしそれに対して「政治主義的すぎる」という批判が起きた。当時は、高野も太田も岩井もみな社会党員で、労働者同志会、いわゆる民同左派グループをつくっていました。高野実は、この当時共産党員だったかどうかはわからないけれど、後に共産党員になりました。いずれにしてもこの五五年に、総評の中で高野派が敗れて、太田-岩井体制ができました。

それで「地域ぐるみ闘争」に対抗して「産業別闘争」というのが提唱されて、その象徴的な闘いとして、春闘がこの五五年に、八単産共闘というところから始まりました。これを主導したのが太田です。春闘の持っている階級的性格をここでちゃんと押さえる必要があると思います。

◎日共六全協

同じく五五年、日本共産党が第六回全国協議会(六全協)を開きました。ここで、それまでの火炎瓶闘争などの武装闘争路線を清算した。「もう暴力的なことはやめます。これからは愛される共産党になります」と言って、いわゆる「平和革命路線」になります。火炎瓶闘争などを自己批判し、あるいは「徳田球一が悪いんだ」等々と当時の幹部に責任を転嫁して、日本共産党は戦後一〇年の歴史を総括した。それが六全協です。

◎日本生産性本部

日本の資本主義の総本山と言われた日本生産性本部が発足したのも五五年です。これから一挙に全産別的に生産性向上運動が始まりました。これは、「労働者が一生懸命に働いて生産性を上げ、会社の利益が上がれば、それが還元されて労働者も幸せになる」という論理です。後の国鉄のマル生攻撃も、全部根っこはこの生産性本部から出ています。だいたいこれくらいのことが起きています。

 

◇2.戦後革命の敗北と戦後日本資本主義の本格的復興

日本では敗戦後、戦後革命期と言われますが、二・一ゼネストなどさまざまな激しい労働者の闘いがありました。それに対してアメリカおよび復活・復興しつつあった日本資本主義の側から激しい攻撃があったわけです。例えば官公労では定員法攻撃で、国鉄労働者は一〇万人首を切られました。レッドパージです。

それでも足りず、さらに全産別に攻撃が吹き荒れました。下山、三鷹、松川という三大フレームアップ事件も起きた。そういう攻撃の中で、当時の産別会議が事実上の解体を余儀なくされて、総評が結成されました。総評は、当時のアメリカ軍と資本の肝いりでできたナショナルセンターでした。しかし一年を経ずして、「ニワトリがアヒルに変わった」という有名な言葉があるとおり、従順なものとしてつくったはずの総評が牙をむくようになった。そして、日本共産党が非合法化され、朝鮮戦争が始まります。

それくらい激しい攻防の中で、いよいよこの五五年を期して、戦後の崩壊した日本資本主義体制を発展させる、いわゆる高度経済成長が始まります。僕らの世代は、高度経済成長の申し子です。ちなみに五五年というのは僕が中学校を卒業して高校に入った年です。だから僕らの世代より五年くらい若い人たちも、高度経済成長の申し子です。あのころ、中卒の青年労働者を「金の卵」と呼んでいました。「金の卵」がどんどん東京に持ってこられて、安い賃金でいろんな仕事に就職する。そしていよいよ高度経済成長が始まりますが、それは戦後の一〇年にわたる大変な激しい階級闘争の敗北の上に成り立ったものだったという総括が絶対に必要です。

 

◇3.六〇年安保・三池闘争にいたる激闘

では全部敗北してしまったのかと言えば、まったくそうではない。これからもいろいろな闘いが続きます。

五五年に一方で自民党・日本生産性本部、他方では社会党・総評という対抗軸ができましたが、この五五年体制というのは、総評のいわゆる「階級的労働運動」を容認しながら始まったものなんです。

だから僕らが若い時の総評傘下の労働組合は、全部「階級的労働運動」です。動労も国労も自治労も全電通も全逓も全部そうで、組合のやる学習会は全部マルクス主義。そういうことも容認して五五年体制は出発したということですね。

ですから日本の労働運動は、五五年体制が成立して、すべての労働組合が壊滅的につぶされたのかというと必ずしもそうではなかった。ただ官公労はそうとう激しくやられていました。特に国鉄と全逓は大変なダメージを受けましたから、復興してくるのは六〇年代くらいになります。だけど民間は、まだそうとう闘う力を持っていました。

◎原水禁第一回大会(五五年)

一九五五年でもうひとつ特徴的なのは、日本の反戦闘争のひとつの柱である原水禁第一回大会が開かれたということです。原水爆禁止運動というのは、この前年の五四年から始まったんですね。杉並の市民が始めたと言われていますけれども、署名運動から始まります。

◎砂川基地反対闘争(五五~五六年)

それから砂川基地闘争です。米軍立川基地の一角に砂川というところがあって、基地拡張のための土地収用問題で、現地の農民を中心に激しい闘いが起こります。「流血の砂川」と呼ばれる闘いで、五五年は第一次、五六年は第二次と言われます。全学連や戦闘的な労働組合が全部砂川現地に結集して、機動隊と激突して、血と汗を流して闘う。この過程で有名な伊達判決という、日米安保違憲の判決も出ます。

◎全電通千代田丸闘争(五六年)

全電通では、千代田丸闘争というのが起こっています。朝鮮戦争下で、日本海にケーブルを敷設することを拒否して、全電通の中央支部(本社支部)の三役が首を切られた。これは全員、日本共産党員です。これをめぐって千代田丸闘争が始まりました。これは後ほど裁判で勝ちまして、この過程で日本共産党系の活動家が一気に、全電通中央委員会の中に四〇%以上の勢力を持つところまでいった闘争です。

◎日教組勤評闘争(五六~五九年)

戦後労働運動のひとつの柱である日教組も、「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンを掲げて、勤評闘争を五六年から五九年にかけて全国各地で展開します。その闘いは愛媛から始まったので、愛媛では闘いに対する報復で日教組はほとんどつぶされました。勤評とは学校の先生を勤務評定することです。今はもうやりたい放題に進んでいるけれど、その走りです。根本問題は平和教育です。今もそうですが、「日の丸」を掲げない、「君が代」を歌わないということが学校で公然とまだ行われている。そういう教育労働者の現状を突破することなくして、戦争もへったくれもありません。

◎国鉄新潟闘争(五七年)

五七年に国鉄新潟闘争が起こります。これは春闘に対する不当処分をめぐる反対闘争です。当時の国鉄新潟鉄道管理局傘下、国労で言えば国労新潟地本、これはいわゆる革同の諸君が権力を握っていました。当時、国労の中は共産党、革同、民同と三つに分かれていました。民同は簡単に言ってしまえば社会党系です。これと共産党が激しく対立していたことに対して、「これはまずいんじゃないか」と言って、革新同志会というのができたんですね。この略称が革同です。

この後、六〇年安保闘争を経て、共産党が革同を乗っ取ります。ですから今の国労で革同というと共産党を指しますが、この当時は革同というのは共産党とは一線を画していた。簡単に言うと「組合運動をまじめにやろう。戦闘的にやろう」という主旨で、全国に二〇〇〇人の活動家を擁すると言われた、国労の中でもきわめて重要な学校・派閥ですね。新潟地本はその革同が押さえていて、処分反対闘争を激しく闘うわけです。数ヶ月間にわたって闘って、列車がどんどん止まっていくところにまで発展しました。この闘いは最終的に国労中央が乗り込んで、中止させられます。

五〇年過程で定員法によって一〇万人が首を切られ、レッドパージで共産党系を中心とする当時の国労の活動家が一掃される中で、国労は組織の骨格を奪われ、弱体化されました。しかしそれから数年を経て、再び闘う勢力が新潟を中心として台頭したことの意味は非常に大きいと思います。この国鉄新潟闘争それ自体は敗北しましたけれど、それ以降、六〇年代、国労が反マル生闘争に向かう、そして日本の労働運動の中心となっていく、その大きなさきがけとなったのが国鉄新潟闘争です。国鉄新潟闘争を見て、それに刺激を受け、当時の多くの青年労働者たちが労働組合運動に身を投じていきます。

◎鉄鋼労連ゼロ回答打破の一一波統一ストライキ(五七~五八年)

それから、今では闘わない組合の代表みたいな存在である鉄鋼労連。この鉄鋼労連の賃上げ闘争で、当局がゼロ回答を出した。当時は「鉄は国家」であり、鉄が日本の労働者の賃金相場を形成すると言われていた。このゼロ回答に対して、当時の八幡製鉄、川崎製鉄、日本鋼管、神戸製鋼、住友金属などの大手をはじめとして、中小も含めて鉄鋼労連が、一一波にわたる統一ストライキを組みました。しかし鉄鋼資本は頑として譲らなくて、ゼロ回答を打破できないまま終わる。それ以降、宮田という有名な男が、鉄鋼労連を労資協調路線で牛耳っていくことになります。

◎王子製紙闘争(五八年)

それから王子製紙闘争。紙パルプの会社ですね。国鉄分割・民営化の時に調べたら、日本で一番の地主は王子製紙で、その次が国鉄だった。つまり紙は木からつくりますから、山をいっぱい持っているんです。その周辺に工場もあった。これも激しい闘争です。現場で警察権力の介入と激しく闘って、この王子製紙闘争は組合側が勝ちました。

しかし後ほど王子製紙に第二組合がつくられ、多数を握られてしまいます。「第一組合の組合員のせがれは王子製紙に採用しない」という形で切り崩したんです。今のJRも同じで、国鉄分割・民営化以降、動労千葉の組合員の子どもは、JRに採用されません。親父が動労千葉を脱退しなければダメです。国労も同じだと思います。しかも、この当時製紙会社というのは、地方の山の中などに工場があって、だいたい町ぐるみ、子どもも王子製紙に入った。「自分はともかく、せがれまで就職できないのはたまらない」ということで、闘争には勝ったにもかかわらず、第一組合が一気に崩されたんです。この闘いは後で非常に教訓にしました。

◎警職法反対闘争(五八年)

この王子製紙闘争がきっかけとなって、警職法の改悪案が提示されるわけです。これは、警察官に職務質問などなんでもできる権限を与える法律で、広範な反対闘争が起こります。「『オイコラ警官』の復活を許すな」というスローガンがこの時にできたんですけど、この警職法反対闘争の高揚が、六〇年の安保闘争に引き継がれていくんですね。

◎安保・三池闘争(五九~六〇年)

そして何よりも五九年から六〇年にかけて、一方では安保闘争、他方では九州の三井三池闘争。三池闘争は、個別の闘争としては史上まれに見る激しい闘争で、二年間にわたり労働組合と資本が激しく衝突しました。

五五年体制ができた後も、このように多くの民間の基幹産業で、労働者と資本の激しい攻防が続いた。しかし三池闘争の敗北をもって、大きくは民間の大手の組合が資本にからめとられていきます。組合の幹部の主流が全部労資協調派になっていくということが、六〇年代をとおして進みました。

◎ハンガリア事件と新左翼の登場

この過程は、日本だけでなく、世界的にも矛盾が爆発しています。何よりも一九五六年、ソ連スターリン主義体制の矛盾がハンガリアで爆発しました。ハンガリアの労働者が立ち上がったことに対して、ソ連がハンガリアに戦車を投入して、弾圧を加える。一般的には「ハンガリア暴動」と言われますが、われわれは「ハンガリア革命」と言った。つまり、「労働者の国であるソ連が、なぜ労働者に対して銃口を向けて殺すんだ」と、これが世界中のマルクス主義者、社会主義者、共産主義者に大変な衝撃を与えたんです。

これに対してソ連をはじめ世界中の共産党の公式見解は、「ハンガリアで立ち上がった労働者は反革命だから、ソ連が弾圧するのは当たり前」というものだった。それに対して、「そうじゃないんじゃないか。立ち上がったのは労働者じゃないか。それを弾圧するソ連の『共産主義』とはいったい何なんだ」という疑問が、世界中に生まれました。

日本でも、これを契機にして、いわゆる新左翼運動が生まれます。つまり新左翼運動というのは、「社会党や共産党の言っているマルクス主義やレーニン主義はおかしいんじゃないか」という疑問に始まったわけです。「あいつらの言っているマルクス主義は偽物だ。本物のマルクス主義を復権しなくちゃいけない」、実践的な闘いとしては「社会党や共産党に代わる新しい労働者党をつくらなければいけない」ということになる。これが、五五年体制下の五年間の多くの激しい労働者の闘いや、学生運動の底辺を突き動かしていた。

僕は、その過程で国鉄に入りました。だけど残念ながら、その当時の千葉の国鉄職場は、そういうこととはまったく無縁な、大変厳しい状況にありました。しかしやっぱりそういう全体の雰囲気は感じていたんですね。僕は階級闘争ってそういうものだと思います。その当時、別に自覚していたわけではありませんが、後になって「あぁそうか。俺たちの闘いは、こういう時代の中にあったんだな」ということがわかりました。

 

◇4.IMF・JC(国際金属労連日本協議会)発足

◎国労の分裂、新国労結成(五九~六〇年)

三池闘争が敗北して以降は、大きくは民間の労働運動が資本に取り込まれていく過程です。六〇年安保闘争や三池闘争の渦中の六〇年に、国労の中から、大阪を中心に新国労が分裂しました。新国労は、その後に鉄労になって、動労革マルと一緒にJR総連になり、革マルにもたたき出されるという運命をたどった組合ですけれども、国鉄の中の反共民同を源流とする右派・労資協調派が、新国労という形で旗揚げをします。

この前に、五七年の新潟闘争の過程で、国労新潟地本の大多数が分裂した。これは新地労、国鉄新潟地方労働組合を結成しました。これは、当時の国労の主流派の人たちが、新潟地方本部を握っていた革同に対抗して、国労を分裂させてつくったものです。それで六〇年に、大阪を中心とした新国労が旗揚げすると、新潟も新国労に合流します。あとは仙台。だから鉄労運動の拠点は、一貫して大阪と新潟、仙台でした。

◎社会党分裂、民社党の結成(五九~六〇年)

六〇年初めに、大阪総評でも動きが起こります。総評の地方組織は県評ですけれども、大阪では大阪総評と言っていました。この大阪総評傘下で約七〇〇〇人の、いわゆる右派勢力が一気に脱退するんですね。その中心が国労内の反共民同でした。

この時期は、六〇年安保の最盛期、それから三池闘争がホッパー決戦をやる時です。それに対する労働者の中の右からの分裂策動で、これはきわめて意図的な運動です。これで社会党からも、大阪出身の西尾末広を委員長とする民社党が分裂しました。

◎同盟とIMF・JCの発足(六四年)

こうした五九年から六〇年にかけての労働組合や社会党の分裂を経て、六四年には同盟(全日本労働総同盟)が発足しました。その中軸は全労会議です。全労会議というのは総評ができた後、全日本海員組合、全繊同盟などが総評指導部の方針を批判した「四単産声明」を経て、五四年に結成されました。この全労会議と、総同盟の右派系列でずっと総評にも行かないで残っていたグループ。それと、国労では新国労、全逓では全郵政など、官公労系の中の右派グループが六〇年につくった全官公。この三者が一体になって同盟をつくりました。

この年にIMF・JC(国際金属労連日本協議会)が発足します。IMF・JCというのは、総評加盟の労働組合、同盟加盟の労働組合、どちらにも入っていない中立系の金属関係の労働組合が全部一緒になったんです。つまり、当時の総評労働運動から言えば同盟は第二組合だから、本当はこれはおかしいんですよ。しかし六四年に発足し、総評がこれを容認したんですね。総評が本気になってこれをつぶそうと考えて、総評系の組合を全部参加させなければ、結成できなかったでしょう。だけど総評系の組合も、鉄鋼労連を先頭にJCグループになります。総評は容認せざるを得なかった。

かつて、当時の総評事務局長で、今は亡くなった岩井章さんと対談した時に、僕が「なぜ総評は、後の連合の芽になるような分裂組織であるJCをたたきつぶさなかったんですか」と聞いた時に、彼は言葉を濁していましたけれども、いずれにせよ総評はこれを認めます。

 

◇5.国鉄労働運動(官公労)の戦闘的胎動

◎六〇年六・四国労・動労スト

六〇年というのは、国鉄労働運動を中心とする官公労働運動が、ようやく定員法、レッド・パージ攻撃から一〇年を経て、一応傷をいやして、少しずつ戦闘化し始めてきた時代です。そして六〇年安保で国労と動労が、有名な六・四ストを打ちました。動労は、それまで機関車労働組合と名乗っていたのが、五九年に動力車労働組合と名前を変えます。六・四ストは、明確に安保反対の政治ストライキです。支援の労働者や学生が品川、田端、そして動労が拠点とした尾久に入って、駅の構内も線路もすべて、もう人の山。品川駅はあの広い構内がすべて人で埋まるほどの大動員で、全員が座り込んでストライキを貫徹しました。

◎六三年動労運転保安闘争

この六・四ストなどを経て、動労も戦闘化し、六一年に青年部を結成します。そして六二年五月に三河島事故が起きます。常磐線の三河島で一五五人の死者を出した大事故です。僕も当時SLの機関助士でしたが、大変な衝撃を受けました。貨物列車がぶつかって脱線し、そこへ電車が衝突する。また衝突した電車から乗客が降りて線路上を歩いていたところに別の電車が突っ込むという、悲惨な事故でした。

この時の貨物列車の乗務員が田端機関区の所属で、動労の組合員だったわけです。田端から坂を上がっていくところは、常磐線がカーブしていて、機関士は左側に座っていますから、右側が見えない。その場合には普通は、機関助士が信号機を見て、機関士に「閉塞信号機が進行だ」「注意だ」と教えるわけです。だけどそこは坂だから、機関助士は石炭をくべないと機関車が走らない。この場所は事故の前から、田端機関区の動労田端支部の乗務員会が「信号機が見えないから」と改善要求を出していたところなんです。事故の時も、機関助士は石炭をくべっぱなしで、信号機を見てる暇がなかったんです。

ただ朝早いと、普段は信号がずっと青だから、そのまま走っちゃう。それでそれまでは何も起こらなかったのが、たまたまその日、いろんなアクシデントが重なって、大事故になった。これはすごい衝撃で、これを契機に動労の中に安全闘争という思想がつくられ始めたんです。

そして六三年一二月一三日、反合理化闘争をやりました。この闘いはすごかったですよ。尾久・田端が一緒にされるという基地統廃合に反対する闘争です。僕は千葉地本青年部長になったばかりでしたけれど、応援に行きました。尾久・田端の構内を警察機動隊が三〇〇〇人ぐらいで囲んでいて、僕たちは中に入れませんでした。そこで尾久駅から線路に飛び降りて、田端の構内まで入ったんですけれど、そうとう弾圧を受けて、警棒でぶん殴られるという中で、大変な闘争をやりました。

こうした闘いを経て、初めて国鉄当局は、ATS(列車自動制御装置)をつけることを決めたんです。

◎六四年四・一七公労協スト

そういう中で、六四年の春闘に公労協が初めて、賃上げを要求する四・一七統一ストライキを提起しました。僕はこの時、品川機関区に動員で行ったことを今でも覚えています。特徴はいくつかあって、まず、公労協がストライキという言葉を初めて公然と使ったということです。

公労協は、公労法(公共企業体等労働関係法)に基づいてストライキが禁止されていましたから、それまで、ストライキと言えなかったんです。公労法ができる前までは、二・一ゼネストの時もそうですが、国鉄もどこもみんなストライキ権を持っていたんです。ところが定員法攻撃の時にストライキを禁止されて、それ以降の闘いはすべて順法闘争でした。あくまで法にのっとった闘争です。

例えば年休闘争です。「年休何割休暇闘争」と言って、五割だったら組合員に対して「半分年休をとれ。年休をやれないと言われても休んじゃえ」と、あくまで年休をとったという建前にする。そのうちに一〇割年休闘争というむちゃくちゃな方針もやりましたけれど。

それから時間内職場集会という言葉を使いました。職場集会をやって、そのまま勤務時間に入っても職場集会を継続して、実際上列車を止める。しかしこれをストライキと言わずに、「時間内に食い込む職場集会」と言うんです。だからよく「時間内に二九分食い込む職場集会」なんて指令が下りたんですよ。六〇年六・四ストの時も、指令文書ではストライキと書かないんです。ストライキと言った場合には、直ちに公労法で解雇や処分が出ますから。

それが、この六四年に初めて、組合が発行したポスターにも「公労協統一ストライキ」という言葉が公然と出て、非常に新鮮に感じました。逆に言うとストライキという言葉を言える、ストライキで処分が出てもやっていけるという力が出てきたということです。

◎日共四・八声明

日本共産党はこの時、ストライキ直前の四月八日に「このストライキは、政府と資本家の謀略だ。断固ストライキに反対する」という声明を出しました。「四・八声明」と呼ばれます。官公労に対する攻撃は激しかったから、共産党としては「今ここでストライキと言うのは、まったくおかしい」と考えたんでしょう。レッドパージ、定員法で共産党が大打撃を受けて、そこからようやく回復してきたのにまたやられちゃうという被害者意識です。

だから日本共産党中央は、「四・一七ストライキはやめるべきだ」という声明を出した。そして現場の共産党員は、党中央の方針に基づいて、国労、全電通、全逓を中心に、軒並み分会レベルで反対決議を上げて、スト破りを始めました。全電通では、千代田丸闘争で共産党の分厚いシンパ層ができていたのに、このスト破りで全電通中央から全部パージされました。千代田丸闘争の時は支持した組合員が、スト破りをやった共産党員は支持しなかったんですね。だから全部パージされた。

全逓も、共産党員はみんなパージされました。当たり前ですね、スト破りをやったんだから。

国労だけは、当時、国労・革同のキャップだった細井宗一が国労本部の企画担当中執をしていて、国労全国大会で革同を代表して自己批判演説をして、国労はそれで「マル」にしちゃったんです。国鉄ではマルという言葉を日常的に使います。不問に付すという意味です。それでこの時にパージされなかったから、国労だけは今でも革同が残っています。

これは、日本共産党の労働運動指導の本質を表す有名な事件です。大衆運動が高揚してくると必ず妨害する。労働組合をまじめにやろう、一生懸命にやろうという共産党員は、必ず共産党中央と対立して屈服するか、党を出るか、どちらかになる。

◎太田・池田会談

その上で、このストライキは不発に終わりました。四月一七日の前段で、総評議長である太田薫と、内閣総理大臣の池田勇人が、太田・池田会談を行い、ストライキを収拾します。収拾した条件として、「これからの公労協の賃金は民間準拠、つまり民間労働者の賃金に準拠して決めていく」ということがこの時から定着したんです。ある意味で春闘路線がここで定着する。われわれは反対しましたよ。「民間がダメな時はわれわれも低賃金でいいのか」という話になるわけですから、「おかしい」と批判しました。しかし、当時は高度経済成長だから、リアリティはある。民間は賃金がどんどん上がっていくのに、国鉄と郵便局、市役所は、賃金が安い御三家だった。学校の先生もそうです。公務員・官公労系の労働者の賃金は安い。六〇年代はみんな、民間の方がよかったんですよ。

これが池田内閣の「寛容と忍耐」という路線です。六〇年安保闘争であれだけの闘争が闘われ、三池闘争では本当にホッパー決戦に突っ込んでいたら何十人もの労働者が死んだかもしれないような大変な争議が起こった。そういう中で池田内閣が、岸内閣に代わって「寛容と忍耐」という路線を出し、高度経済成長にのって「所得倍増論」を打ち出して、公労協のストライキを総評議長と池田勇人、つまり労働者の親分とブルジョアジーの親分が話をつけてまとめたわけです。

これ自体に対しては、当時われわれは「裏切り行為だ」と批判していたけれど、逆に言うと労働組合がそれくらい力があったということです。総評という、せいぜい四五〇万人の労働組合のトップと、内閣総理大臣が差しで話をつけるというのは、それだけ労働組合の力がなかったらできませんよ。当時は、「昔軍隊、今総評」と言われていました。昔は軍隊が一番強くて、軍隊の言うことは誰もが聞かなきゃいけなくて、陸軍や海軍はやりたい放題をしていた。それが今は総評だという意味です。

労働組合は、それくらいでなければダメですよね。労働組合運動がそれほど力があった。民同的で、限界はあるし、いろんな問題を起こして裏切りもいっぱいしているけれど、労働組合総体の力は、時の内閣総理大臣と差しで話をつけるぐらいの力があった。これは非常に重要なことです。やったことがナンセンスだったということよりも、労働者や労働組合はそういう力を持っているし、資本家はそれを恐れているんだ、そういう感性、感覚を持たなければいけないと思います。

もうひとつ、この六四年は東京オリンピックの年で、東海道新幹線が開業しました。東名高速道路や首都高速道路ができ、公団住宅も初めてできて、高度経済成長に本格的に突入した年です。

 

◆Ⅱ/動労千葉の六〇年代一〇年間の闘い (その1)

 

◇1.時代的特徴

僕らが青年労働者として登場した時代はいったいどういう時代だったのか。

ひとつは高度経済成長です。廃墟と化した日本資本主義がいよいよ五五年体制下で高度経済成長に入っていく。

それから民間大手、基幹労働運動がほとんど体制内化し、資本にからめとられていく一方で、「眠れる象」と言われていた官公労働運動がいよいよ眠りから覚めて、国鉄を中心に官公労働運動が日本の労働運動の中心になっていく時代です。

もうひとつの特徴は、新左翼運動の台頭です。六〇年安保闘争の前に、日本共産党の学生細胞の中心的な部分が全部脱党、あるいは除名されて、共産主義者同盟(ブント)をつくりました。一方では五六年のハンガリア革命以降、革命的共産主義者同盟(革共同)が結成された。結成は革共同の方が早いですけれども、大衆的基盤を持ったのはブントで、六〇年安保の全学連を指導したのはブントです。

僕が青年労働者のころは、社会主義や共産主義というものがいったん色あせる状況の中で、「もう一回マルクス主義・レーニン主義を復権させよう」という動きが高まった。そして「社会党・共産党に代わる、もっとちゃんとした労働者の党をつくろう」という運動が非常に新鮮な光彩を放っていた。そういう壮大な事業の一角を、一介の労働者である自分が占めるんだという誇りとか、血沸き肉躍る感覚みたいなものがあった。

 

◇2.反合理化闘争

◎反合理化闘争の始まり

この一〇年間に、国鉄ではどういう課題が軸になって闘われたか。

ひとつは反合理化闘争です。国鉄の合理化は、その前から始まりました。一番最初に合理化されたのは、九州にあった志免鉱山です。当時の国鉄は、新潟の信濃川に水力発電所を持っていたし、川崎に行けば火力発電所もあり、炭坑も持っていました。石炭を自前で掘って、蒸気機関車で使っていたんですね。だから炭坑労働者も国労の組合員でした。しかし「採算に合わない」と言って廃止された志免鉱山が、僕の知るかぎりでは合理化の始まりです。

国鉄労働者が着ている制服、作業服も全部国鉄で自前でつくっていました。被服工場があって、そこに多くの女工さんがいたわけです。当時、約五〇万人いた国鉄労働者の作業服、制服をつくる。この被服工場も後ほど廃止されます。そういう合理化が、ちょうどSL主力から電化・ディーゼル化という輸送力の近代化とともに進みます。

そして機関車労働組合は五九年に、動力車労働組合という名前に変わりました。機関車というのは、文字どおり蒸気機関車の機関車、英語で言うとロコモーティブです。しかし動力の近代化で電車、気動車、つまりカーが入ってくるわけです。だからいつまでも機関車労働組合では済まないから、動力車労働組合と名前を変えました。

そして六四年に新幹線が開業しました。そのために膨大なカネが投資されて、翌年に初めて国鉄が赤字になります。減価償却後の赤字ですから、本当の赤字ではなかったんですが、そういう中で本格的な合理化攻撃が始まり、これに対する反対闘争が起こる。

さらに、六二年の三河島事故、その翌年に鶴見事故が起こります。事故に対して非常に敏感な労働組合ですので、いわゆる安全闘争、後ほど運転保安闘争と名前を変えますけれども、そういう闘いが始まりました。これは当時、青年部運動に大変強烈なインパクトを与えました。

◎五万人反合闘争(六七~六九年)

この中で、五万人反合理化闘争が起こります。六七年、いわゆる長期計画が破綻して、あらためて五ヶ年計画が始まり、五万人の要員削減計画を打ち出した。その中心は機関助士の廃止です。蒸気機関車では機関士と機関助士がいないと仕事になりませんから、電気機関車になってもディーゼル機関車になっても二人乗務をやっていたわけです。その蒸気機関車が圧倒的に少なくなる中で、機関助士を廃止しようとしたわけです。

当時、機関助士は、動労の組織人員の約三〇%、約一万数千人いました。その職種がなくなるということで、大変な闘争になる。特に機関助士はほとんど青年労働者、青年部です。高校を卒業して鉄道に入って二年ぐらいたって、だいたい二〇歳前後で機関助士になるわけです。この機関助士廃止反対闘争は六七年から始まり、六九年に国鉄労働運動としては史上最大規模のストライキをやりますけれど、結局は敗北します。

 

◇3.反戦闘争-反戦青年委員会結成(六五年)

◎日韓・原潜・ベトナム反戦闘争

もうひとつは反戦闘争です。朝鮮半島が南北に分断されていましたけれど、南の韓国とだけ、六五年に日韓条約が結ばれます。それと同時にベトナム戦争が激化してくるという過程です。

その中で、反戦青年委員会が六五年に結成されます。これは社会党の青少年局と総評の青対部、社青同が一体となって結成されました。社青同というのは日本共産党の民青に対抗するために、社会党系の青年組織として、六〇年安保の後に結成されたものです。反戦青年委員会はその後、全国各地でつくられました。千葉でもつくって、動労千葉青年部はその中心に座りました。それでアメリカの原子力潜水艦寄港阻止の横須賀闘争や、日韓条約反対闘争、ベトナム反戦闘争などに立ち上がっていったわけです。

六七年一〇月八日、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の羽田闘争で、京大生の山崎博昭君が殺されますが、それを契機にして一気にベトナム反戦闘争が燃え広がります。総評も六八年一〇月二一日にストライキをやり、この日を国際反戦デーと名づけて、以来、一〇月二一日は国際反戦闘争の日となった。それくらい、ベトナム反戦闘争が飛躍的に盛り上がります。

当時、沖縄は米軍の統治下にあって、日米安保条約の範疇外でしたから、沖縄を拠点にしてベトナム戦争が遂行されました。日本は明確な兵站・出撃基地だったわけですね。だからベトナムで死んだアメリカ軍兵士が日本に持ってこられて、その死体を洗うアルバイトなどもありました。死体を洗うと一日一万円くれたという話を聞いたこともあります。壊れた戦車を持ってきて修繕することなどもあって、後ほど相模原の米タン阻止闘争も起きます。それほど、日本はベトナム戦争に深く加担していたわけです。

◎七〇年安保・沖縄闘争へ

特に沖縄がその最前線基地になっていたわけですが、沖縄では六〇年代後半から、「祖国復帰協議会」を中心として、「米軍の軍政支配から脱して、日本に復帰しよう」という運動が全島的な高まりを見せました。これとベトナム反戦闘争が結びついて、七〇年に向かう全国の闘いを大きく牽引します。

それから六六年に、三里塚の地に成田空港を建設することをめぐって、三里塚闘争が始まります。東大・日大をはじめとする大学闘争も、六八年ごろから激化します。

これらの闘いを経て、七〇年安保・沖縄闘争になります。時の佐藤政権はアメリカと「七二年に沖縄が日本に復帰する」という協定を結びますが、それをめぐって、「これは本土並み復帰じゃない。施政権は日本に戻るが、基地の実態は何も変わらない」と、「ペテン的返還」という批判が出てきます。この闘いが七〇年安保闘争の中心テーマでした。

当時は、東京で毎日のようにデモがありました。総評のデモ、社会党系のデモ、反戦青年委員会の独自デモ、各党派の集会・デモ、もう毎日のように動員、動員、動員の連続でしたね。みんな、東京でデモをやって、もちろん千葉でもやりますけれど、帰ってくるともう電車がないから職場に泊まって、それで翌日またデモに行くという繰り返しでした。デモに行って毎日機動隊とドンパチやるわけですから、青年労働者たちはおもしろくてしょうがない。どんどんデモの参加者が増えていく。おもしろいということは大事なんですよ。これが共産党みたいにお焼香デモでだらだらやっているんではしょうがないんです。

 

◇4.生産性向上運動反対闘争(マル生闘争)

◎動労千葉青年部への攻撃

もうひとつは生産性向上運動反対闘争、いわゆるマル生闘争です。生産性の「生」という字をマルで囲んでいましたから、「マル生」と呼んだんですね。全逓にもこれはありました。

この背景には、国鉄労働運動の中に青年労働者を中心に大きな闘いの渦、戦闘的な雰囲気が出てきたということがあります。これに対して、当時の権力や国鉄当局は、反戦闘争と結合して国鉄闘争が爆発したら大変なことになると、大変な危機感を持ったわけです。千葉では、千葉の動労全体がまだまだ戦闘化したわけじゃないけれども、少なくとも青年部は戦闘化して、活発な闘いを展開していた。当時、「動労千葉の反戦派一五〇人」と新聞に書かれました。

マル生は、公式には六九年に国鉄総裁に磯崎が就任して以降踏み切るんですが、千葉では六八年から始まっています。この時、新小岩支部青年部長だった滝口誠君が、三つの事件をデッチあげられて、懲戒免職処分を受けたわけです。

◎滝口誠不当解雇撤回闘争(六八年)

この時に動労千葉では、新興勢力としての青年部運動と、今までの守旧派勢力が激突しました。滝口君に対する処分を「労働組合運動と活動家に対する攻撃だ」と認識するのか、滝口君のやったことが組合運動の範疇外なのか、これをめぐって激しく争いました。

解雇の理由ははっきりしていました。乗務中にビールを一杯飲んだ、これは事実です。だいたい、昔の機関区というのはそういうところだったんですよ。正月なんて、機関区に出勤すると、一升瓶が置いてある。それで助役が「おめでとうございます。はい、どうぞ」と一杯くんで、機関士はそれをぱっと飲んで乗務してたんだから。これが当たり前だったんですよ。列車は二四時間動いているんだから、飯を食いながらビール一杯ぐらい飲むということは、常識だったんです。この滝口君の時は、実際はどうだったのか。ビール一本のうちの三分の二は機関士が飲んで、滝口君はコップに一杯ぐらいしか飲んでない。その機関士が戒告なんです。それで機関助士である滝口君が解雇。仕事の責任者は機関士であるにもかかわらず、機関士が戒告で、機関助士が首っていうのはなんだという話になった。

それだけじゃありません。診断書を改ざんしたと、これも理由にならない理由です。風邪をひいて休んだ。当時の組合活動家は、年休を組合活動に全部使っちゃってるから、病欠をとるわけですよ。で、風邪をひいて動けないから、翌日医者に行って診断書をもらってきた。それで診断書を提出したら、「これは日付が違う。おまえが休んだのは前日じゃないか」と言われたから、滝口君が前日の日付に書き換えたわけです。それを「診断書の改ざん」と言われた。そういうたぐいのことで首になったわけです。

この時に、労働組合としての動労千葉地本の姿勢が問われた。労働組合にとって、労働者が首を切られたことに対してどういう立場をとるのかは決定的なんですよ。それで動労千葉地本が、青年部だけでなく親組合も含めて二分したわけです。「滝口君を守れ」という勢力は青年部が中心でしたが、親組合の中にも「青年部の言うとおりだ。滝口に対する攻撃は明らかに活動家パージだ。こういうことを組合が容認したら、組合活動なんかやる人間はいなくなる。だからこれは絶対に守らなくちゃいけない」という人たちが出てきて、当時の千葉地本の大会や機関会議を二分したわけです。

不当弾圧だととらえると、犠牲者救済規則が適用され、組合から賃金が支払われるわけです。この犠牲者救済規則を適用するか否かをめぐって、地本委員会で一票差で負けたんです。だけど逆に言えば、一票差というところまで行ったということです。それで結局、「滝口君を守る会」をつくって、一人一〇〇円の会費を集めて、滝口君にもちゃんと生活費を与えて、裁判闘争を闘い、裁判は七〇年に勝ちました。

◎動労革マルの敵対の始まり

もうひとつは、動労内におけるいわゆる革マルとの対立です。当時も、「革マル派と中核派のけんかが労働組合運動に波及した」とか、「党派の闘いを労働運動の中に持ち込んではいけない」とか、いろんな意見がありました。しかし実際には、対立する理由は組合の中にあったんですね。

一番最初の対立は滝口君解雇問題です。千葉で、当局の激しい弾圧を一手に引き受けて闘っていたのが青年部です。その青年部の中心的な活動家であった滝口君が解雇された。これに対して当時の動労内の革マルは、「弾圧されるようなことをやっているおまえらが悪いんだ」と言ったんです。逆に言えば、国鉄当局の解雇は正しいということです。だから、解雇した当局と闘うんじゃなくて、「滝口君を守る会」に結集して首切り反対闘争を闘っている千葉の組合員を攻撃してきた。これはもう理屈抜きで許せない。労働運動を進める立場に立てば、これは非和解的な対立になる。

当時の国家権力、資本にとっては、せっかく二〇年前に定員法、レッドパージでたたきつぶしたはずの国鉄労働運動が、二〇年たって復権してきて、しかもそれがさまざまな政治闘争と結合している。こういう中で、マル生攻撃で運動をたたきつぶすことが、国家権力、資本の総意だったわけです。

もちろん労働者階級の中の問題としては、階級的警戒心が足りないというレベルはあります。しかしそういう労働者一人ひとりの過ちとか、ちょっと警戒心が欠落していたという問題は、労働者の中で解決することであって、敵が攻撃をかけてきている時には、敵に対して闘わなきゃいけない。こういうことは非常に原則的なことなんですよね。

後の動労革マルとの激しい闘い、つまり動労千葉が分離・独立するにいたる過程の始まりは、この問題です。僕もこの時、「こいつらは絶対に許せない」と本当に思った。解雇されて、大変な攻撃と必死になって闘っている時に、同じ労働組合で同じ青年部運動をやってきた中から、その闘いに敵対するなんて動きが出てくるというのは、これは断じて許せない。これが始まりなんです。

後に船橋事故が起こって、それに対する運転保安闘争をやった時にも起きました。高石君の裁判闘争を支援する署名運動を革マルが拒否して、東京地本は一筆も集めなかった。動労における千葉地本と革マルとの闘いはここから始まっているんです。

◎六九春闘四・一七「バリケード」スト

六九年春闘で、四・一七第一波闘争の指令が出て、僕の所属していた千葉気動車区支部がストライキに入りました。この時、千葉気動車区の周りは機動隊に囲まれ、関東の鉄道公安官と職制が全部投入されて、ストライキをつぶそうという体制が敷かれました。そういう中で、全組合員が職場に籠城してスト終了時点まで闘ったんです。

この時、毎日新聞の記者が、大雨の中を取材に来ていたんですが、翌日の新聞に「素顔を見せた反戦青年委員会」という記事を書いた。それでこの時の闘いが「バリケードストライキ」と全国的に有名になった。しかしやっている労働者はそんなつもりはなくて、当局から退去命令が出て、それに抗して職場を死守して断固頑張るということだったんです。ちょうどこの年の一月に東大の安田講堂の攻防戦があって、労働者はみんな見ていましたから、「東大なんかつぶしちゃえ」と言って拍手喝采。テレビの前は満杯で、今のサッカーどころの騒ぎじゃない。そういうのを見ていましたから、現場の労働者がバリケードを築いちゃった。これも当時「反戦派の拠点」と言われていた千葉気動車区の闘いを暴力的にたたきつぶそうという攻撃をはねのけた闘いでした。

◎マル生闘争(六九~七三年)

マル生攻撃では、当局が、国労や動労の組織を破壊するために職場の労働者を教育して、マル生分子をつくるわけです。二泊三日とか、長いと一週間とか、泊まり込みで徹底的に教育するんですよ。これはもう新興宗教並みですね。真っ暗闇の真ん中にロウソクの火を置いて、その周りに五人とか一〇人を集めてディスカッションをやる。「おまえはこういうところが間違っている」なんてことを、泣くまでやる。思想改造ですね。

そういうことを徹底的にやった人間を現場に戻して、その人間を軸にして、国労と動労の中にマル生グループをつくらせる。今までは職場集会にも出てこなかった組合員が、マル生分子になって急に職場集会に出てきて、組合批判を始める。それである一定のところまで来たら脱退させ、鉄労を増やすということです。

それまで、動労が五万人、国労が三〇万人以上、鉄労が四~五万人だったのが、このマル生攻撃を経て鉄労が一〇万人まで増えました。国労、動労から脱退して鉄労に入ったということです。

千葉気動車区という職場は、当時「三大無法区」と言われました。あと二つは、東京の田町電車区と京都の向日町運転所です。国鉄当局が「この三つはひどい。ここはつぶさなくちゃいけない」と言った。それで千葉気動車区は、区長から助役まで、現場職制は全員交代しましたからね。「今までの連中はすぐに中野と癒着して、当局の言うことを聞かない」と飛ばされて、学卒の連中を東京から配属して、それで始まったんですよ。

大変な苦闘でしたね。僕は支部長だったから、ほとんど毎日、うちにも帰らずに職場にいました。しかし職場にいると「勤務が終了した人間はもう出ていけ」と言われる。

そういう中で闘いぬいて、結局マル生闘争は、七三年に勝ちました。七二年に当時の磯崎という国鉄総裁が自己批判した。あの時は、まだ当局もけっこうかわいいところがありました。不当労働行為がばれたんですよ。静岡や水戸の総務部長が現場の管理者を集めて、「国労をつぶせ」「動労をつぶせ」と演説しているのが録音テープにとられて、それが公労委に持ち込まれて不当労働行為が明確になった。今のJRは違いますよ。各地方労働委員会が不当労働行為救済の命令を出しても、「労働委員会なんて、左翼崩れがいっぱいいて、ろくなところじゃない。あんなの信用できるか」と無視している。JR東日本の松田社長は「労働委員会命令なんか屁でもない。地方労働委員会、中央労働委員会、さらに裁判は三審まである。とことんまでやろうじゃないか」と言う。しかし当時の国鉄当局はまだかわいげがあって、不当労働行為を国会で追及されたら、謝罪しちゃったんです。

この国鉄マル生闘争は大変な攻防戦でした。そして勝利をおさめます。日本の労働運動の中で、生産性向上運動反対闘争、いわゆるマル生闘争に勝利をおさめたのは国鉄だけだと思います。

◎マル生の敗北を徹底総括した当局

問題なのは、このマル生闘争の勝利で、国労や動労がいい気になっちゃったことです。組合側はマル生闘争に勝ったけれど、まったく正しく総括していない。負けた国鉄当局側、権力側は、このマル生攻撃を徹底的に教訓化し、総括した結果、国鉄分割・民営化にいたるわけです。

国労も動労も企業内組合ですから、会社をよくして会社の利益を上げ、生産性を上げるという生産性向上運動に対して、当初は「ナンセンスだ!」と言い切るのはなかなか難しかったんです。だいたい民間の基幹産業の労働組合は、この生産性向上運動で全部弱体化されました。しかし国鉄では、生産性を上げるなどと言っても、自民党の代議士が生産性など関係なく「ここに線路をつくろう」「ここを電化しよう」「ここを複線化しよう」なんて勝手に決める。いくら国鉄の合理化に協力して生産性を上げようとしてもどうにもならないことを現場も知っている。それだけに国労、動労をつぶして鉄労を増やすという向こうのやり方は非常に暴力的だったけれど、それは成功しなかった。

だから分割・民営化の時は、国労も動労も鉄労も全部つぶすという攻撃になります。既存の労働組合を全部つぶして、新しい労働組合をつくる。だから今、JR総連、JR連合という新しい労働組合になっているでしょう。

国鉄当局がマル生闘争に敗北した結果、日本の資本主義のさまざまな仕組み、日本のさまざまな政治の仕組みは一〇年遅れたと言われている。総評を解体して、労働運動全体を今の連合みたいな労資協調の労働組合にして、右傾化・体制内化するという計画も、この結果一〇年遅れたと言われているぐらい、マル生闘争は大きな成果を挙げたんです。

そしてここから、国鉄当局は「労使正常化路線派」が増えるわけです。国労・動労を問わず、組合幹部を徹底的な酒づけ、ゴルフづけにするという運動です。当局側は、マル生闘争の敗北の教訓をふまえて、例えばマスコミをどう扱うか、労働委員会の不当労働行為事件にどう対応するのかというようなことも非常に教訓化した。他方で組合に対しては土下座するぐらい組合の役員・活動家に頭を下げて、すぐに酒を飲みに行くなんてことばかりやる。当時、オイルショックで景気が悪くて、銀座はもう灯が消えちゃうと言われていたけれど、国鉄だけはカネを使っていたというのは有名な話です。

 

◇5.すべての闘いを担い、飛躍的に成長した青年部運動

こうした闘いを千葉地本で担いきったのは青年部でした。千葉の場合には国労も動労も親組合をだいたい労資協調派の右派が仕切っていましたから、マル生攻撃も全職場でやるわけではないんですね。新小岩や千葉気動車区など、動労千葉地本青年部が中心になっているところに集中的にマル生攻撃がかけられた。

だから否応なしに青年部がこれと真っ向から闘わざるを得なくて、その中で青年部も飛躍をとげたわけです。この闘いの中で、当時の動労千葉の青年活動家たちはいろいろ学び、そして教訓化しました。

 

◆Ⅲ/動労千葉の六〇年代一〇年間の闘い (その2)

 

◇1.動労千葉地方本部を闘う労働組合に変革する闘いの一〇年

この一〇年間の闘いとは、一言で言えば動労千葉地方本部を闘う労働組合に変革していく闘いでした。当時の青年部の活動家たちが、動労千葉地方本部の権力を自らの手に奪取する闘いであったと言って間違いないと思います。そういう目的意識性を強烈に持って闘いました。

 

◇2.当時の動労千葉地方本部の現状

◎典型的民同右派労資協調組合

当時の千葉の組合は、典型的な民同右派、労資協調組合でした。千葉の国鉄労働運動は伝統的に、いわゆる右派が強かったんです。例えば、定員法攻撃とレッドパージの後の四九年八月、国労が「ゼロ号指令」を出しました。成田で国労中央委員会をやって、首を切られた活動家たちを全員組合からパージすることを決めた。この時の中央執行委員長が加藤閲男という両国駅の助役です。つまり国労千葉地本選出ですね。それから国鉄出身ではないが片岡文重、これは後ほど民社党から代議士になる人ですけれど、いずれも民同右派です。そういうふうに千葉は国労も動労も、非常に右よりの組合だったんですね。

◎威張り散らす職制-卑屈な組合員

そういう組合ですから、組合の権威はまったくありません。現場に行くと職制、区長、助役が威張り散らしていた。組合の支部長などが卑屈きわまりなくて、職制にぺこぺこ頭を下げ、三拝九拝している。それで支部長が区長(運転区関係は駅長と言わないで、区長と言います)に対して「区長さん」、あるいは助役に対して「助役さん」と言うんですね。

◎組合不信のるつぼ-役員は職制の登竜門

そういう労資協調組合だから、ある意味では筋の通った骨のある、ある程度仕事に熟達した労働者は組合の役員にならない。そういう実権のある人は、当局の職制の階段を上り、現場長や現場の助役になっていました。だから組合の役員は一歩ランクが低くて、卑屈になっている。

組合の支部長を一期やると、だいたいすぐに指導員や助役になっていく、いわば職制の登竜門みたいな雰囲気だったんです。当局の助役の言うことも、支部の組合幹部の言うことも、あまり変わりがなかった。だから組合員は、組合に対して不信を持っていました。日常的に職場でさまざまな問題が発生して、組合員が要求を突きつけても、組合は取り上げないわけだから。不信感のるつぼでした。

◎根深く残る封建的徒弟関係

もうひとつ、色濃く封建的徒弟制度みたいなのが残っていました。特に機関区はそうです。まだ蒸気機関車が主流のころですから、国鉄に就職したばかりの労働者は仕事が大変なんです。整備掛と言って、蒸気機関車が火を落としたばかりのまだ高熱の釜の中にぶちこまれて、そこで石炭で詰まったチューブという配管をつかされたり、そういう大変な仕事でした。整備掛は、地元の親が昼の弁当を持ってきても、自分のせがれが誰かわからないぐらい、頭の先から爪の先まで真っ黒け。そういう仕事をやらされていたけれど、組合も当局も、「新入職員は底辺でこき使われるのは当たり前」という意識でした。

しかも新入職員は臨時雇用員です。正式な職員になるまでは臨時雇いで、一日の日当が二二〇円です。当時、日雇い労働者が二四〇円。ニコヨンという言葉がはやったんですが、「ニコヨンより悪い」と言われていました。そういうところで朝から晩まで労資からこき使われます。

◎処分に対する恐怖(定員法・レッドパージ)

もうひとつは、千葉では定員法とレッドパージで、共産党員だった労働者が若い順から首を切られて、「闘うと報復を受ける」と知っていた人たちがみんな残っていました。組合運動をやると、公労法で戒告や減給など、必ず処分が出ます。そういう処分に対するものすごい恐怖がまだ抜けてなかったんですね。僕が青年部長の時、三河島事故の翌年、六三年の闘いに青年部を動員していきました。それに対して、僕を先頭にみんな戒告処分を受けたんですけれども、その時には戒告処分だけで、「俺はもう首だ」と泣き出した組合員がいましたからね。それぐらい処分に対する恐怖感があった。

これは何回か続けて、免疫にしないと治らない。「処分なんてどうってことないや」と思うまでには、時間がかかるんです。処分と言っても所詮一号俸カット、「たかがしれてるじゃないか」と思うようには、われわれが権力を握るまでならなかった。それくらい処分に対するものすごい恐怖があったんです。

だからストライキ指令が下りると、恐怖を感じた組合員を説得して、ストライキから脱落するのを防いで隊列に入れるために非常に苦労しました。僕は二九歳の時に支部長をやっていましたけれど、ストの前の一週間は、うちに帰らないでオルグしていました。そういう大変な闘争をやったんです。

◎列車遅延に対するアレルギー

職人気質と言えばそれまでだけど、列車を遅らせることに対するものすごいアレルギーとの闘いです。僕は職場闘争を列車を遅らせるまで何回もやりましたけれど、中堅の先輩たちの激しいアレルギーに何回も譲歩しました。これ以上やったら全部列車は止まる、あるいは一時間遅れ、二時間遅れになる。それはプロだからわかるわけです。だけどそうなると、激しい拒否反応です。ATSが鳴ったら電車を止めちゃうというATS闘争をやったんですけど、これをやると間違いなく遅れるんです。これをやらせるのに非常に苦労しました。その後、順法闘争でうちの津田沼支部の組合員は東京-中野間を、半分の速度で二倍の時間で走るなんてことを平気でやっていましたけれど、そこまでいくには大変でした。

それはそうです。「安全に、定時に走らせるのが俺たちの使命だ」と思っているわけですから。そういうことを本気になってやっている労働者じゃないと、本格的な労働運動もできません。しかし、そういう傾向との激しい闘い、これは「この野郎、ナンセンスだ。おまえ、当局派だ」というだけじゃ済みません。労働組合の闘いをちゃんと理解してもらい、列車を遅らせることがどういう意義を持っているのか理解してもらわないといけない。そういう状況でした。

 

◇3.青年部(六一年結成)を軸とする闘い

◎青年部のスローガン

動労千葉の青年部は、「①組合の体質改善! ②封建制の打破! ③まじめに組合活動を!」の三本のスローガンを掲げて闘いました。

◎大スコ闘争(職場闘争その1)

どういう職場闘争をやっていたのかと言いますと、まず大スコ闘争です。蒸気機関車というのは、一行路でだいたい五トンの石炭をくべる。これを片手のスコップでくべるわけですね。これは大変な仕事です。それを大きなスコップでくべると楽なんですよね。仕事が二分の一か三分の一で済みますから。そうすると当局は「大スコを使うな、小さなスコップを使って正規にやれ」と監視するわけです。それに対して青年部を中心にして、「何を言っているんだ。五トンも石炭をくべるのにそんなことやれるか」と。それでみんな、途中は誰も見てませんから大スコを使って、それで駅につくと、あたかも小スコを使っているような形をとる。

それを「公然と大スコを使う闘争をやろう」と言いだしたら、これも組合内に封建的な感覚があって、「おまえらは腕が悪いから、小スコでできないんだ」と、先輩の組合幹部が言い出してくる。「そんなのは時代遅れだ、ナンセンスだ」と言って闘争に仕上げるまで大変な苦労をしましたけれど、一番重要なことは、当時の機関助士、青年部で、この運動が猛烈に受けたということです。

職場闘争は、現場の労働者に受けるということが大事ですよ。受けなきゃ、「よし、やろう」というふうにならないんです。

それで最後は、当局と団体交渉をした時に、蒸気機関車の火口にある蓋を開けて石炭をくべるわけですけれど、「大スコだったら蓋を開けるのが一回で済む。小スコだったら三回くべなきゃいけない。そうすると熱効率が下がる」なんていう屁理屈を団体交渉で並べて、当局を屈服させました。

◎カーテン闘争(職場闘争その2)

それから、運転士の後ろにカーテンがありますね。遮光幕と言います。夜になると車内が明るくて、外が見えなから、夜になったら閉めることになっている。でも、昼間はカーテンを開けておくと乗客から監視されるんですよ。それから当局が乗務中に後ろにこっそり乗って、運転士の勤務態度を監視する「背面監査」ということが起こった。これに対して「カーテンを閉めちゃえ」という闘争をやったんです。後ろからじろじろ見られながら仕事をするの、嫌でしょ、みんな。それである日突然、「カーテンを閉める闘争をやろう」と言ったら、これも受けた。これもある意味では内部規則に反する闘争だから、処分になりかねないんだけれど、処分されなかった。これは勝って、ずっとやってきました。

◎職制を「さん」づけで呼ばない(職場闘争その3)

もうひとつは、職制に対して「さん」をつけるのをやめようという運動。例えば、組合の委員長に対しても「委員長さん」とは言いませんよね。委員長は役職だから、「委員長さん」じゃなくて「委員長」でいいんですよ。それと同じように国鉄の中でも、駅長や区長、助役は職名なんだから、これに「さん」をつけるのはおかしい。それを現場では「区長さん」「助役さん」。区長交渉をやっていて、組合の代表がそう言うわけだから、「これは冗談じゃない」と。僕はまだ二四~五歳のガキです。当時、機関区の中では職歴二〇年、三〇年の機関士と言ったら、口も聞けないような存在だった。そういう中で僕らが、もっと偉い区長に対して「区長」と呼ぶ。区長や助役に「さん」つけるのをやめよう、少なくとも対等が原則じゃないか、と言って、闘争をやりました。

これはけっこう困難だったけれど、青年部には非常に受けました。青年部の多くが機関助士で、現場ではあまり地位は高くないけれど、青年部が先頭に立って「区長、おまえら、こっちに出てこい」なんてやるわけです。ずっと年上の職歴二〇年、三〇年の機関士が「区長さん」「助役さん」では、現場の若い連中にしめしがつかなくなりますからね。

◎冠婚葬祭(職場闘争その4)

それから冠婚葬祭です。冠婚葬祭を全部組合側が仕切る。例えば受付も組合が全部出す。当局にはいっさいやらせない。これは「婚」の方はけっこう大変でした。マル生闘争の当時結婚した組合員は、だいたい当局を絶対に呼ばない。呼ぶのは組合の幹部だけ。そうすると、親は「なんだ、うちのせがれが結婚するのに、現場の偉いさんが来ない。いったいなんだ」なんてことになるわけですよ。嫁さんの親も「なんだ、うちの婿さん、国鉄の偉い人が誰も来ないじゃないか」って。それを呼ばないのは大変なことで、よほど意識的な活動家じゃないとなかなかできない。これは大変だったけれど、この闘いもやりました。成功しましたよね。

◎職制と一線を画する運動(職場闘争その5)

それから、当時は飲み会やレクリエーション、旅行会など、全部職制が一緒なんですよ。そうすると、だいたい中心に助役がいて、でかい面をする。飲み会になると上座に座る。「旅行に行ってまで、職場の延長じゃおもしろくないじゃないか」という意識があった。それで「あいつらを入れないで、われわれだけでやろう」というのも、すぐにできたわけじゃないけれど、これもけっこう受けたんです。それはそうだよ。飲みに行ってまで、「俺は助役だ」「俺は区長だ」なんて偉そうな顔をされるの、みんな嫌だから。酒を飲む時は、当局、職制の悪口を言うというのは、労働者のならわしですから。

運転職場では新年に、成田山に祈願に行くんですよ。向こう一年間、安全に過ごせますようにと言って、ごま焚きに行く。これも、労資で行っていたわけです。それを、「なんでおまえらと一緒なんだ。安全というのはそんなもんじゃない。労働組合が闘わないかぎり、安全は確立できないんだ」なんて屁理屈をこねて、「もうおまえらとは行かない」と言って、僕が支部長になってからやめました。

そういうことを全部当局と一線を画して、労働者は労働者だけでやる。レクリエーションもいっさい一緒にやらない。例えば野球が好きな労働者は、当局とつながると予算が下りますから、つながるわけですよ。当局はそういうことも使って、レクリエーションや趣味の世界でつながっている組合員をマル生分子にするということもあって、マル生攻撃の過程でいっさいこれを拒否した。これはそれ以降、ずっと続けました。

今のJRはひどいですよ。JR千葉支社とJR東労組千葉地本が共催で野球大会などをやるわけです。そうすると、動労千葉の組合員は参加しませんけれど、鉄産労や国労の組合員が参加したいと言っても、向こうが拒否しますからね。JR千葉支社が主催したレクリエーション活動に、国労や鉄産労の組合員は入れないと言う。おかしな話ですよ。

◎順法闘争(職場闘争その6)

そういうことがだんだんできてくると、順法闘争を始めたわけです。ストライキ指令は下りないけれど、現場で働いているのは労働者ですから、労働者は仕事をよく知っているわけですよね。法規や規則、いろんな仕組みの弱点をついて、実際上列車を遅らせていくという闘いが順法闘争です。

千葉地本は動労の中でも順法闘争のあらゆる戦術をつくり上げたところです。検修ジグザグ行動と言って、交番検査というのがあるんですけれど、その検査の時に部品を全部はがしちゃって、付けない。それで四時半ごろになったら仕事をやめちゃう。そうすると気動車は部品が付いていないから、動けない。気動車の連結器は重いんですよ。それが放置されたままなわけだから、もう手に負えない。

列車に、車両と車両の間をつなぐホロがありますよね。これはどちらに付けるか決まってるんです。両方からつながっているわけじゃなくて、片方に付いている。東京方につけるとか千葉方につけるとか決まっている。それを間違ったふりをして、反対に付けちゃうんですね。そうするとホロが二つ一緒になっちゃう。片っ方をはずして運ばないと仕事にならない。あれは重いから、はずして逆の方に持っていくのは大変で、だいたい一時間は遅れます。そういう「悪巧み」も含めて、いろいろ考えました。

やり始めておもしろくなると、労働者は知恵をいっぱい出します。これはもう心配しなくていい。労働者が一番よく知っているんです。そういう順法闘争も、千葉は動労の中で最先端でした。船橋市議をやっていた中江昌夫さんが当時、動労本部の組織部長をやっていて、彼がどんどん採用して全国化しました。

◎学習活動(へたくそでも自分でチューターをやる)

もうひとつの軸は学習活動です。このころの労働組合は、依然として社会党の影響が非常に強い。共産党の影響もあなどりがたい。こういう状況の中ですから、彼らは彼らなりに学習会をやりますけれど、僕たちにはそういう学習会がない。例えば、協会系の諸君がやっている労働大学とか、いろいろあった。それはそれで参考にしますけれど、中身まで参考にするつもりはない。

それでマルクス主義の原典、『賃労働と資本』や『共産党宣言』をテキストにして、学習会をやるわけです。今、労働学校でこうやってみなさんにお話していますが、本当は、講師にいろんなこと言われたってしょうがないんです。やはり自分たちがやるということが大事なんですね。みなさんの職場で自分たちが学習会を組織する。そうすると最初はうまくいかない。集まった労働者はおもしろくないから、寝ます。誰も聞いてくれません。

しかし重要なことは、自分がチューターをやるってことは、どんなに勉強の嫌いな労働者でも、本を読むのが嫌いな労働者でも、勉強せざるを得ないんですよ。人に話をする時に何もしゃべれないと困るじゃないですか。だから『共産党宣言』だとか、一応事前に読んで、それなりにしゃべろうと準備する。一知半解だから、聞いている方もすぐ眠くなって、寝ちゃうんですよ。労働者ですから。そういうのを何回も何回も繰り返しているうちに、だんだんと本物になっていく。

学習会をやって、最後まで貫徹するということは難しいですよ。僕も何百回とやりましたけれど、例えば『共産党宣言』を最後までやったのは数回ですね。三分の二いけばいい方です。いずれにせよ、みなさんが現場で、自分で学習会を組織する。これはおもしろかったと思ったら、自分が職場に帰ってやる、それが核心です。そういう活動家が出てきたら、これは強くなります。最初はうまくいかない。失敗する。労働者で勉強が好きそうな顔をしているのは一人もいない。だけど、やっぱり労働者を本当に組織して力をつけるためには、それをやらなきゃいけない。核心は、自分がやるということですね。どんなにへたくそでも、それなりに必死で勉強して一生懸命に訴えれば、労働者はわかります。

例を挙げると、マルクスは「疎外された労働」という言葉を使っている。つまり労働者は資本主義社会の中で疎外されている、と。その当時、僕は二四~五歳で、疎外された労働ということを説明できないんだよね。それで僕が「おまえ、仕事はおもしろくないだろう」って言ったら、「全然おもしろくない」と言う。「それは疎外された労働だからだ」って言うと、「あぁそうか」とわかって、翌日、その組合員は自分の菜っ葉服に「疎外された労働粉砕」って書いちゃうんだよな。そういうこともあった。

われわれは労働者だから、わかればいいんです。おもしろくないんだよ、疎外された労働ってのは。本来の労働はそうじゃないでしょう。「生命の発現」であり、世の中が進歩するのは労働によってじゃないですか。疎外されているはずがない。そこに生き甲斐を感じなくちゃいけない。それがなぜおもしろくないのか。自分の労働の成果が全部、資本に搾取されていくから、おもしろくないんですよね。

だから学習会活動をちゃんとやるということの核心は、自分でやるということです。失敗を恐れずやる。どんな人間だって五回失敗すれば、少しはましになります。

◎反戦闘争への積極的動員

それから反戦闘争に連日連夜動員したということですね。反戦闘争というのは戦争反対ですから、そこには日和見主義は発生しません。反戦闘争は、組合員の階級意識、反権力意識を著しく増大させます。そういう効果があるんですね。街頭で国家権力の姿を目の当たりにした時には、戦争に賛成か反対か、どっちかしかないじゃないですか。中間はない。こういうことが大事なんです。

 

◇4.職場闘争について

◎職場闘争は職場支配権をめぐる闘いであり、激しい党派闘争である

その上で、この一〇年間の闘いの中で、重要だと考えたことをいくつか挙げます。

まず、職場闘争というのは本質的に職場支配権をめぐる闘いだということです。職場支配を組合側が獲得する闘争である。したがって非常に大変な党派闘争であるということです。党派闘争というのは、何か社会党と共産党が対立するとか、革マル派と中核派が対立するとか、そういうことだけじゃありません。そういうことも含まれますけれど、一番の党派闘争は、資本との闘争です。資本・当局が日常不断にまきちらす思想、イデオロギー、あり方、これとどう闘うかということが一番の党派闘争です。それをめぐって労働者の中にさまざまな考え方が、日和見主義も含めて生まれてきます。それとの闘いをしなくちゃいけない。そういうことを土壌にして、動労千葉の場合には、共産党的な傾向を持っている人たちとの闘いとか、革マル派との闘いとかに本当に打ち勝つ力を持たないと、職場闘争もできないという状況にあった。

◎資本(当局)に対する怒り、組合ダラ幹に対する怒りと目的意識性(権力奪取)があればテーマはいくらでもある

職場闘争の核心は、資本に対する怒り、国鉄の場合は国鉄当局に対する怒りです。資本に対する怒りのない労働者に、職場闘争ができるはずがない。それから、こういう状況に追い込んでいる組合のダラ幹に対する怒りがなかったら職場闘争なんてできない。

もうひとつは、「よーし、見ていろ。いつか俺たちがこの組合の権力を握ってやる」という目的意識性です。激しい目的意識性がないかぎり、激しい職場闘争はできません。だって自分たちの所属している労働組合をわれわれの手に握る以外に、闘う労働組合になるはずがないんだから。他人がやってくれるわけじゃない。そういう意識性を抜きに職場闘争はありません。

だから職場闘争は、その渦中で多くの労働者の支持を集め、それを提起した活動家たちの権威を高めていきます。そういう闘いを日常不断に形成していかなかったら、権力なんてとれるはずがない。権力をとるということは、所属する組合員の圧倒的多くの支持を得るということでしょう。支持を得なかったら権力はとれないんだから。そういうものとして職場闘争は考えなければならない。

そうすればテーマはたくさんある。僕が登場するまでは、機関助士に大スコ闘争という発想はない。カーテンを降ろそうなんていう発想もない。僕は当局に対する怒りがあり、労働者が不当に扱われている状況に怒りがあり、労働者は誇りを持たなきゃいけないという気持ちもあって、こういう状況を当たり前だとしている組合幹部も許せなかった。だからこういう発想が、後から後からどんどん出てくるわけですよ。だけど、みんな「助役さん」「区長さん」と言っているわけで、誰も不思議に思わない。やはり労働者は誇りを持たなきゃいけないと思った途端に、「それはおかしいじゃないか」という発想が生まれるわけです。

だから僕は、「職場闘争ってどうやってやるんですか」と聞かれると、「それはおまえが考えろ」と答える。秘伝を明かすわけにはいかない。「そんなこと、おまえが自分で見つけろ」って。そんなの、産別によって、職場によって、全然違うわけで、医療職場で大スコ闘争なんて言ったって、全然見当もつかないじゃないですか。自分でとことん考えて自分で見つけだす、そういうスタンスを身につけるということだよね。

◎すべての職場闘争は、さしあたり少数(一人)から始まる。したがって最初から成功するはずがない。「失敗は成功の母」

もうひとつは、すべての運動はさしあたり少数から始まる、一人から始まるんですね。これは当たり前です。あらかじめ多数から始まる運動なんて聞いたことがない。一人で始める。その一人がだんだんと増えていくということですよ。だから最初からうまくいくはずがない。まして世の中、職場にいる同僚は他人さまでしょ。他人さまがそう簡単に言うことを聞いてくれるわけがない。それをやるためには、自分がそれなりに努力して、人一倍いろんなことをやらなかったら、周りの労働者は認めないですよ。うまくいくわけがない。

だから失敗を恐れるな、ということです。失敗に失敗を重ねて、その時に、なぜ失敗したのかということを考えるということだよね。「失敗は成功の母」で、僕だって失敗だらけです。まだ権力をとっていない時は、多少の失敗をしたっていい。権力をとってから失敗すると大変な影響が出るけれど。大いに失敗して結構です。大してダメージを受けないですよ。だから失敗を恐れるな。一人から始まる。正義はそもそも少数から始まる。多数派の正義なんて、世の中にあったためしがない。そのことは覚悟してもらいたい。

◎職場闘争とは、敵の弱点・矛盾をつき、味方の団結を強化・拡大する闘いである

これが原則なんです。大スコ闘争と言ったら、受けに受けた。周りがなんと言おうと受けた。カーテン闘争も受けた。これだったら受けるなってことは、一緒に働いている労働者だからわかるわけです。一緒に毎日石炭をくべていた。毎日、気動車の運転士をやっていた。そういう経験をしているから、何が問題なのか、わかるわけですよ。だからこういうことをやったら受けるなっていうのは、これは感性、感覚の問題としてもわかる。

職場闘争というのはテーマはたくさんあります。逆に言えば資本や当局のやることには全部反対。いいことなんてひとつもない。すべて、労働者をいかにこき使うかというためなんだから。と言って、全部がテーマになるはずもない。その中から「これならいけるな」という見極めが必要なんだよね。全部やっていたら体がもたないし、全部やる必要はない。ビラかなんかで「反対」と言っておいたらいいんです。その中で、一〇のうち一つくらいは必ず、「これは」というのがある。そこに狙いを定めてやる、ということです。

そして、これは敵の弱点を形成しているというところを見つけだすこと。僕らは運転職場ですから、運転職場で当局の最大の弱点は、安全ということなんですよ。つまり安全に列車を走らせるということは、何にも増して優先されなくちゃいけない。これは逆に弱点なわけです。敵のやってくることで安全を無視することがいっぱいある。これを逆手にとってやったのが、反合理化・運転保安闘争です。安全問題について、不安全でいいと言う人はいない。だからここは敵の最大の弱点です。

あらゆる企業で、建前というのはあるわけです。例えば医療の場合には、病気になった人たちを治さなきゃいけないわけですよ。それがどうでもいいなんて言う病院だったら、つぶれるんだよ。郵便局だって必ず建前はある。だけど効率化を進めていくと、そういう建前をすぐ忘れる。だからそこに弱点が生まれる。それを見抜く力が大切です。これは目を皿のようにして見るんですよ。「やつらに、一回は嫌というほど一泡くわせたい」という気持ちがなければダメです。それはそうだよ。「こんな低賃金でこき使いやがって、ふざけんじゃねぇ。人間扱いもしないで」と思っていたから、年中そういう目で見ていたんです。そうすると、テーマはたくさんあります。

もちろん組合はダメ組合であり、われわれは指令権もない。そういう中でなおかつ、核心は、多くの現場の労働者がその気になったら、指令もへったくれもないということなんです。

だから職場闘争というのは、やろうという活動家の主体の問題ですね。本気になって闘争をやろうというふうに常日頃考えたら、必ずテーマはある。「中野さん、ちょっと職場闘争のやり方を教えてください」なんて、冗談じゃない。この薬を飲めばうまくいきますよ、なんていう万能薬はないんです。

◎核心は献身的・意識的活動家集団の質と量によって決まる

そして重要なことは、意識的・献身的活動家集団をいかにつくるかということです。献身的ということは、もっと平たく言うとプライベートの時間を犠牲にするということですから。所帯者だったら家庭生活も犠牲にするということですよ。全部とは言わないけれど。そうじゃなかったら献身的にやれっこないですよ。

献身的・意識的活動家をどうやってつくり上げるか。最初からは無理ですよ。だんだんと労働者はそうなっていく。つまり、労働運動に人生を捧げる人たち。大なり小なり、そういうことも覚悟してやっている人もいるし、そういう過程に入りかけて、どうしようかと思っている人もいる。「やっぱりこれでやる以外ない」と思っている人もいるわけです。そういう人たちが何人いるかによって、職場の力関係は決まっちゃう。

もうひとつ重要なことは、自分たちが組合の権力を掌握した時、「何をしたらいいのかわからない」というのでは、権力を掌握する権利はない、ということです。職場闘争をやっている過程で、その職場の、例えば動労の場合には、電車がどういう構造になっているのか、電車はどういうシステムで走るのかとかいうことを知るわけです。そういうことに精通し、それをめぐって闘いをやるから。だから僕は運転士ですけれども、検修関係のこともよく知ってましたよ。職場闘争をやるために一生懸命に検修規程を読んで、それでいろいろ方針を出すわけです。「こういう規程があるから、この規程を利用して、こういう闘争をやろう」みたいなことばかり考えていましたから、熟達していくわけです。

それから国鉄のダイヤというのは、二分目盛りと言って、非常に短い幅で書いてあって、そのとおりに電車はみんな走っているんですよ。こういうものを書けるようになるには、一〇年かかるんですよ。一〇年かかっても一人前じゃない。あれをぱっと見てわかんなきゃダメ。職場の中で、職場闘争をやっているうちに、そういうことは全部熟達してくるわけです。それと同じように、組合員を団結させるためにはどうしたらいいのかということもわかる。敵の攻撃が何を意味するのかということも、職場闘争をやっていく過程でわかります。

僕は三三歳で動労千葉地方本部の書記長になりましたが、その時に一番困ったのは財政問題でした。財政だけは職場闘争の中で訓練されないんですね。書記長になるとカネを使う権利があるし、現場にも下ろさなくちゃいけない。しかし財政担当の書記の女性に、にべもなく、「書記長、こんなカネは落とせません」と言われましたよ。それからもう悔しくて悔しくて、一年間、組合の財政について、会計規則を一生懸命読んだり、過去のデータをさかのぼって調べたりして、一年後にはもう立派に文句を言わせないようにしました。

労働組合の指導部を握るというのは、あらゆることをやらなきゃいけない。だって当局との団体交渉も、向こうの攻撃がどういうことなのかを読み切れなかったら、交渉ができないでしょう。そういうことから始まって、教宣活動、組織活動、財政活動、総務部の活動、あるいは共闘の分野、全部やるわけですよ。そういう闘いをいきなり何も知らない活動家が、「はい、書記長をやりなさい」って言われても、できるわけがない。

僕は三三歳まで一〇年間、そういうことをやっていましたから、財政問題以外はあまり困らなかったですね。あとは、例えば指令文の書き方や、当局に対する申入書の書き方なんて、先例があるんだから、それをちゃんと見ればわかるわけです。

根本は、当局の動向と、こういう攻撃をかけられたらどういうふうになるのかということがつかめなかったらできないということです。現場の労働者は、こういう場合にはこういう反応をするとか、こういうことではものすごく団結を強めるとかということは、職場闘争の中でつかむことができるわけです。

 

◎職場闘争は将来、組合指導部になるための能力形成の戦場である

だから職場闘争は、組合の指導部としての能力を形成する場であると言えます。これをやっていないと、地方本部などの指導部、書記長、副委員長、委員長というポストは勤まらない。組合の権力を握ると、その時に何をやるかということが直ちに問われるんです。それによって器量が出ちゃう。「あの野郎、過激派みたいだけど、たいしたことないな」と言われちゃうわけです。どうせ過激派と言われているんだから。過激派は過激派らしく、ちゃんと真っ当にやる。「あの野郎、過激派だけど、真っ当だな」というふうに思われるようでなきゃいけないんですよ。日常的な職場闘争の過程で、否応なしにその能力は形成されます。

●第二章 反合・運転保安闘争と三里塚ジェット闘争

 

◆Ⅰ/七〇年代情勢の特徴

 

ここでは七〇年代、僕が動労千葉地本書記長になってから一〇年間ぐらいの主な闘い、船橋事故闘争を中心とした反合・運転保安闘争の領域と、労農連帯、三里塚空港へのジェット燃料貨車輸送阻止闘争を中心にお話ししていきたいと思います。

 

◇1.超大国アメリカの政治的・経済的・軍事的権威の失墜

◎ニクソン・ショック

まず一九七〇年代というのはどういう時代だったのか。七二年にいわゆるニクソン・ショックがあります。アメリカのニクソン大統領が、ドルと金の交換を止めるということを発表したんですね。それまでは、基軸通貨のドルは、一ドル持っていったら金何オンスかと交換することができた。つまり兌換通貨だったんですね。これが不兌換通貨になった。つまりこれで世界中のカネがすべて紙っぺら同然になったということです。これは大変なことですね。

これが七五年のサミットにつながります。七五年が第一回目なんです。最初は六ヶ国で始まっていますからG6ということになります。なぜサミットが始まったかというと、世界中の通貨がみんな紙くず同然になったわけで、後は信用でしか通貨が流通しないということでしょう。一万円持っていったらこれだけのものを買える。考えてみればおかしなもので、紙切れに一万円と書いてあるだけで、何か買えるわけだから、信用がないと成り立たないわけですね。そもそもサミットというのは、そういう経済問題に限って議論する場と位置づけられて、世界の主要国のトップが集まって、世界経済をしっかりやっていこうということを決める。そのことで世界の民衆に「ドルを使っても円を使ってもマルクを使っても大丈夫なんだぞ」という信用を与えるために、これから毎年やるようになります。

◎ベトナム失陥と中ソ対立

この一九七五年にベトナム戦争でアメリカ帝国主義が敗北します。いわゆるベトナム失陥です。南ベトナム民族解放戦線を中心とした激しい抵抗と、アメリカを先頭として日本、ヨーロッパでも激しいベトナム反戦闘争が起こり、アメリカ帝国主義が初めて敗北するということが起こった。

ところがこのベトナム戦争の最中、つまりアメリカ帝国主義がベトナム人民を虐殺し、それに対してベトナム人民が大変な苦闘を続けている最中に、中国とソ連の対立が激化する。これはベトナムが戦争で勝利をおさめた後、中越戦争になりますね。これが世界中の労働者の闘いに大変な悪い影響を与えました。

このように七〇年代というのは、世界を牽引していた超大国アメリカが、政治的にも経済的にも軍事的にも完全に失墜した時期です。

 

◇2.高度経済成長の失速・破綻と長期不況への突入

日本では、七二年に田中角栄が列島改造ブームで登場し、総理大臣になる。それでロッキード事件だとか、土地ブームが起こり、七六年に福田内閣が登場します。

経済的に重要なことは、金ドル交換停止に基づいて、七三年から円が変動相場制に入ります。それまでは一ドル=三六〇円、固定相場制で動かなかった。これ以降一ドル=二六四円になって、今一二〇円ぐらいですか。毎日、毎日、テレビで今日の為替相場は一ドルいくらと出るようになったのはこれからですね。

そして七四年に第一次オイルショックが起きます。それで一気に高度経済成長が終焉し、長期不況に突入します。日本の不況はここから始まって、ずっと続いているということですね。その間いろんな手練手管を使ってなんとか維持してきたけれど、もう術はなくなったというのが今の状況だと認識した方が正しいと思います。

七四~五年恐慌と言われましたけれど、ここで戦後初めてマイナス成長になります。高度経済成長の時は、だいたい年間二桁、一〇%以上ずっと経済成長が続きますが、ここでマイナス成長になります。そして日本の不況脱出政策は、膨大な赤字国債の発行、財政出動によるテコ入れと、アメリカに向けての洪水のような輸出攻勢になります。ここから日米経済摩擦が生まれてきます。

 

◇3.階級闘争の高揚と後退

日本の階級闘争がこの間どう展開したかですが、まず当時の賃上げ闘争の推移を見てもらいたいと思います。例えば一九七三年は賃上げが二〇・一%、平均で一万五一五九円上がっているんです。翌年の七四年、賃上げは実に三二・九%、額にして二万八九八一円。列島改造ブームで地価が高騰し、激しいインフレが起こったころです。この時、国鉄も四八時間ストだとか七二時間ストを春闘の最後の決戦局面で闘っていました。

七〇年安保・沖縄闘争で、本土では反戦青年委員会、全共闘の激しい街頭闘争が展開される。あるいは学園闘争が爆発する。同時に沖縄では七〇年ごろから全軍労を中心とした激しいストライキ闘争が起こるんですよ。そしてコザ暴動が起こる。このように沖縄における激しい闘いが、七二年のペテン的沖縄返還をめぐって起こり、一方では国鉄の五万人反合闘争を中心とする闘い、つまり官公労働運動の下部から闘いを要求する激しい力が生まれてくる。

当時の権力者たちは、これが全部合流したらどうなるかということを一番恐怖したわけですね。あの激しい街頭闘争と国鉄労働運動や全逓労働運動、あるいは沖縄の闘いが一緒になっちゃうということの激しいエネルギー、これに大変恐怖して、大変な弾圧をそれぞれにかけたということです。

例えば六九年からのマル生攻撃、国鉄における生産性向上運動というのも、そういう政治的な状況の中で行われたということです。こうなると、今まで左っぽいことを言っていたやつが、とたんにひっくり返って右になるということも起こってくる。この一番いい例が革マルですね。

七三年春闘というのは、ベースアップ二〇・一%を獲得する春闘ですから、激しい闘いが起きました。三月に高崎線の上尾で暴動が起こったんです。順法闘争をやって、電車が来ない、止まって動かないから乗客が全部降りちゃったんですね。それで石を投げたりいろんなことが起こった。その後、四月には、今度は首都圏暴動といって首都圏全体で同じことが起こる。これで動労革マルがビビって、それ以降、国鉄の順法闘争というのは動労千葉以外やったところはないですね。

そして大きくは七五年のスト権闘争とその敗北で、いわゆる民同労働運動が最終的に断を下される。「もうおまえさんたちの歴史的使命は終わった」という状況になる。

 

◆Ⅱ/国鉄の戦後史

 

◇1.国鉄の階級的本質

日本の国鉄というのは、一九世紀の終わりから二〇世紀の初めにかけての日清戦争、日露戦争の過程で、弱小国で資源もない日本が、全国に国鉄網を形成することをとおして、日本中の資源を一点に集中して、それで大国ロシアなどと戦争をするということの中で生まれたわけです。そういう点で国鉄というのは徹頭徹尾、帝国主義的な産物です。

国鉄は、明治、大正、昭和時代はいわゆる私鉄をどんどん吸収してつくられていくんです。当時はちょっと金持ちの人たちは鉄道をつくるのがけっこうなステータスで、千葉なんかでもいっぱいあったんです。例えば成田から三里塚の花見に行く鉄道は三里塚鉄道と言って、集会をよくやった三里塚第二公園が終着点です。東金から九十九里に向かっても鉄道が引かれていた。昔は九十九里はいわし文化だから、東金の駅から片貝に向かって鉄道をつくった。今でも九十九里鉄道バスというのがあります。そういうふうに日本国中いろんなところに鉄道が引かれて、必要なところを国が買収した。それで全国の鉄道網を形成して、北海道から九州までいたるところに、いろんな資源、人、その他を運んで集中するということを抜きに、戦争なんかできなかったんですね。そういうことが前史としてあります。

したがって鉄道というのは、いわば輸送部門の中で独占的な地位を占めていたわけです。飛行機も車も大したことない。対抗勢力はせいぜい船でしょう。

だから石炭や鉄を有している巨大独占資本に膨大な利益をもたらし、同時に労働者から運賃という形でカネを収奪し、そして国鉄労働者には大変な労働強化と搾取・収奪を強制しながら、世界に類例がないほどきわめて正確なダイヤを持つ国鉄として成長していく。

その国鉄を一九八七年に分割・民営化したわけです。その目標が国鉄労働運動の解体であったにしろ、今日の有事法制という体制から言うと、いかに平和的帝国主義であったのかなと、今でも思います。JRは有事法制での指定公共機関ですけれども、今のままでは北海道から九州までまともに軍需輸送できません。逆に言えば、その国鉄を分割・民営化したということは、いかに国鉄労働運動をつぶし、総評をつぶし、社会党もつぶすということを、当時の中曽根をはじめとする日本の国家権力は重要視したかということを物語っています。

 

◇2.公共企業体としての国鉄(一九四九年)

国鉄は国有鉄道から一九四九年に公共企業体(国鉄公社)になります。基本的に独立採算制になりますが、戦後の労働運動の中心を占めてきた国鉄労働組合、この当時はまだ国鉄労働組合一本ですから、その戦力を解体するということを主要な狙いにし、そのために組織形態を変えていくということがあります。

特徴は二つあります。ひとつは公共企業体になると、労働組合は公共企業体で働く職員によって構成するということになって、管理者は入れない。つまり現場の助役以上は自動的に組合員ではなくなる。

同時に、公共企業体の職員で構成することになっていますから、この過程でレッドパージによって解雇された、籍のない役員を組合からパージするという要素を持った。それに当時の国鉄労働組合の指導部は乗ったということです。そのことを利用して、当時の民同幹部は、共産党や共産党系、革同系の活動家をパージした。「おまえたちは職員じゃないんだから、役員になる資格はない」と。しかし、しばらくたつとまた解雇攻撃が始まります。そうすると民同系でも中央執行委員長がもうすでに籍のない被解雇者だった時に、国鉄当局は「おまえとは交渉はやらない」と言ってきた。逆手にとられたわけですね。それで委員長に被解雇者を据えないとか、籍のある人を委員長に据えるということで国労はそうとう四苦八苦し、全逓もそれでILOに提訴したりして、長期間にわたって協約は締結できないままになる。これが公共企業体です。この核心はスト権を剥奪するということですね。

 

◇3.第一次~第三次長期計画→国鉄財政再建計画

廃墟と化した戦後の日本帝国主義の復活に国鉄が果たした役割は、想像もつかないほど大きな面を持っています。それ以降、国鉄は一九五七年の第一次長期計画から始まって、いくつかの長期計画を行います。最初は老朽設備の更新だとか、あるいはSLから電化、ディーゼル化ということが中心にすわっています。

一九六四年、東海道新幹線が開業するまで国鉄は黒字です。一年ぐらい単年度赤字になることはありますけど、基本的に黒字経営です。それが六四年に新幹線を開業し、その建設費が全部国鉄に回る。あれだけ膨大な新幹線をつくりましたから、減価償却というのがあるんですよ。つまり東海道新幹線が三〇年なら三〇年もつとする。三〇年後につくり直すのにかかる費用を三〇分の一にして一年ずつ貯めておく。これを減価償却と言うんです。その減価償却が膨大にふくれあがってしまった。その結果、国鉄は赤字に転落するんですね。

国鉄は六九年当時、四一三七億円の累積債務を持つようになって、これから国鉄財政再建一〇ヶ年計画になります。この特徴は新幹線を中心とする長距離大都市間輸送、大都市の周辺の通勤輸送、それから大量貨物輸送の三つを軸にして、ローカル線その他はどんどん切り捨てていく。いわゆるスクラップアンドビルドです。

国鉄の損益勘定は、六四年が純損益三〇〇億円。これは東海道新幹線をつくった結果の初めての赤字ですが、この時は減価償却費一〇九七億円です。だからこの赤字を「償却後赤字」と言う。つまり正確な意味での赤字じゃない。減価償却しなかったらまだ七〇〇億円ぐらい儲けているということです。

減価償却は六九年には一三一六億円。七一年になると二〇一〇億円、しかしこの年の純損益は二三四二億円。だから一九七一年から償却前赤字と言うんですね。減価償却する前に赤字になっていたということです。いわゆる純粋赤字になった。

逆に言うと国鉄はあれだけの膨大な設備を持ち、膨大な要員を抱え、膨大な輸送をしていたにもかかわらず、それで「我田引鉄」と言われるように政治家に好き勝手にやられたにもかかわらず、七一年までは黒字で来たんです。だけど帳簿上はすでにこの段階で何千億円という累積債務が発生していた。

この過程で、大変なスクラップアンドビルドが進行します。志免鉱山や被服工場の廃止など、いろんな業務がどんどん切り捨てられていく。そしてSL(蒸気機関車)からDL(ディーゼル機関車)、EL(電気機関車)への転換に伴って機関助士がいらなくなる。それに対して機関助士廃止反対闘争が、六七年から六九年まで激しく闘われます。

 

◇4.国鉄分割・民営化過程での二〇万人合理化

国鉄職員数の推移ですけれど、一九四七年、敗戦の直後ですが、六一万五〇〇人。大変な数ですね。満州鉄道とか朝鮮鉄道、日本帝国主義が侵略した時に鉄道をつくり、そこに国鉄労働者の経験者が行きました。それが戻ってきて、六一万五〇〇人にふくれあがっちゃった。

五〇年になると、たった三年間で四七万三五〇〇人に減っている。いわゆる定員法による約一〇万人の首切りの結果です。それ以降ずっと減り続けますが、八〇年ごろまでは四〇万人以上います。それが分割・民営化攻撃が本格化する八一年にはマイナス要員が一万人台に乗って、八二年には二万二六〇〇減、その後八三年二万八〇〇〇減、八四年三万八〇〇〇減、八五年三万一〇〇〇減、八六年四万二五〇〇減、そして八七年の分割・民営化、JR発足時点では二万四〇〇〇減となりますから、だいたい八〇年ごろから全部合わせて約二〇万人減です。すさまじい数の労働者が合理化されていることがわかります。こういう激しい合理化攻勢の中で、国鉄労働者は苦闘を強いられてきました。

NTT、全逓、東交、いろんなところで今、資本の激しい攻勢、合理化リストラ攻撃、首切り、賃下げ、その他諸々の攻撃が一挙にかかっている時に、これと闘っていくためには、やはり闘うための理論、路線を構築しなければいけない。その路線はそれぞれの産別の歴史の中から生まれてくるわけですね。ぜひ皆さんがこれからいろんなところで闘う時に、こうした資料をつくってほしい。それぞれの本部に行けばありますから。こういうことをちゃんと分析して、それぞれの学習会のテーマにしていく。そうすると、「あいつ、ずいぶんいろんなことを知っているな」と、それだけで尊敬されて、言うことを聞くようになりますよ。

 

◆Ⅲ/反合・運転保安闘争の歴史的教訓

 

◇1.その前史

何よりも国鉄の合理化反対闘争の歴史を見てもらうことが必要だと思います。合理化というのは、国鉄の場合にはまず、SLからディーゼル化・電化という、いわば生産手段の近代化とそれに伴う合理化攻撃。それと別に、これは客体面の合理化と言われているけど、生産手段はそのままにして労働強化をしていくという、二つが同時並行でやられます。前者は、蒸気機関車が気動車や電気機関車に替わっていくわけです。これはマルクスも『共産党宣言』の中で言っていますけれど、生産手段の進歩に基づいて、生産的諸関係、社会的諸関係は変わらざるを得な。それで、人間関係も全部変わるわけですね。

SLは二人で乗務していたでしょう。機関士と機関助士が仲良くなるわけですね。仲が悪いやつもいるけれど。そこからいろんな人間関係が発生するわけですよ。今の電車を見てください。一人乗務で、孤独な乗務を強いられているわけですね。やはりSLからディーゼル、電気に変わっていくという生産手段の近代化、これが国鉄労働運動にも否応なしに大きく影響します。

例えば今は、改札口では切符をポンと入れれば出て来られる。昔は千葉駅なんか改札に労働者がいっぱいいて「あのやろう、国労だからただで入れるかな」とか、「今日は国労じゃなさそうだから無理だ」とか、あったんですよ。東交や京成の労働者が、鉄労の組合員に押さえられちゃって、運賃の三倍とられたなんて話があって、全交運の中で大騒ぎになった。昔は交運関係は全部フリーパス。私鉄労働者は国鉄がただ、国鉄労働者は私鉄がただ、全国どこでもただで乗れたんです。

 

◇2.三河島事故と動労第一二回全国大会(青森)

◎職能主義の壁

そういう中で、一九五一年に結成された機労(機関車労働組合)が五九年に動力車労働組合と名前を変えました。動力の近代化や激しい合理化攻勢の中で、否応なしに闘う労働組合として脱皮せざるを得なくなってきていた。そこで決定的なのは、三河島事故、鶴見事故という二つの大きな事故です。これに対して労働組合の中も、どう対応するのかをめぐって、激しい路線対立が起きました。やはり、闘うことを抜きにして安全を確保できないんだという勢力が勝って、それが後の動労の戦闘化、「総評の鬼」と言われるほどの主導勢力になっていきます。

動力車労働組合は職能別労働組合ですし、だいたい機関士ですね。乗務員が幅を利かせている。船橋市会議員をしていた中江昌夫さんが本部書記長になったのは一九七七~八年ごろなんですね。彼は検修あがりです。昔は技工と言ったんです。千葉機関区出身の技工さんなんだけど、技工はそれまでは動労三役になれなかったんですよ。乗務員でなくて動労本部の書記長になったのは、中江さんが初めてじゃないですか。

だから職能主義があって、例えば事故が起きても、「ミスを犯した乗務員の責任だ」「あの野郎、普段いい加減だから、ああいう事故を起こしたんだ」みたいな雰囲気が強くあった。だから三河島事故の時は、事故を起こした二人の機関士と機関助士が起訴されます。業務上過失致死罪とか往来妨害罪という罪名がつき、裁判になります。そうすると国鉄当局側がつけた弁護士と組合がつけた弁護士が一緒に弁護するわけですよ。

◎事故防止委員会への参加拒否

だから弁護のやり方は、情状酌量要求になるわけです。つまり、あの事故は常々乗務員が主張した保安要求を当局が無視して、合理化を強要するあまり何もやらなかったから起きたという主張はなかなかできない。当局の弁護士がついていますから。

青森大会は三河島事故が起こった時の大会です。それまでは事故防止委員会を労資で設置していたんです。だけど労働組合と当局が話し合っても事故はなくなるはずがない。根本的には労働組合が要求を出して、団体交渉をして、それで闘う以外に事故対策は成り立たないんだということで、参加を拒否します。国労は参加していましたけれど、動労は拒否したので、当局との関係は一気に先鋭化しました。

 

◇3.五万人合理化反対闘争

その上で、六七年から五万人反合闘争、機関助士廃止反対闘争が戦闘的に闘われます。

 

◇4.マル生粉砕闘争―六九年~七三年

◎国鉄赤字と七〇年闘争

五万人反合闘争は敗北します。その上で六九年からマル生攻撃が始まります。生産性向上運動です。この六九年に磯崎が総裁に就任するんです。磯崎は定員法(一九四九~五〇年)が強行された時の本社職員課長なんですね。この時、公共企業体になった国鉄の初代総裁の下山が常磐線で死ぬんです。下山総裁は動揺するわけですよ。一〇万人の首を切るわけだから。そういう状況の中で、当時は国労や共産党が殺したんじゃないかと宣伝されたりしたけれど、その当時の本社職員局職員課長、ほかの会社で言うと人事課長みたいなもんです。彼は後に、「自分の体中が一〇万人の返り血をあびている」と傲然とうそぶいた男です。これが六九年、国鉄総裁に就任して、七三年に退陣する。その間にマル生をめぐる攻防が激しく闘われます。

当時、国鉄が累積債務四一三二億円を抱えていて、国鉄監査委員会が「国鉄は破産寸前」と報告するという状況でした。したがって国鉄の赤字問題は体制的問題、日本の国家体制の問題になっていたということですね。

何よりも国鉄再建一〇ヶ年計画、一六万五〇〇〇人の合理化を完遂する。そのために国労、動労をはじめとした労働組合の解体を狙うことが至上命題だったし、あわせて七〇年安保・沖縄闘争と国鉄労働運動の結合、合流を恐れたということが、マル生攻撃に踏みきった背景にあると思います。

◎生産性向上運動を初めて撃退

いずれにしてもこれに対して、戦後初めて、労働者の側が生産性向上運動攻撃に勝ったんですね。民間の大手は全部やられてしまって、労働組合はだいたい右になっていく。国鉄は、日本生産性本部に相談に行ってやり方をいろいろ教授してもらって、一気に始めるわけです。しかしそれに勝ったということですね。

なぜ勝ったのかと言うと、青年労働者の闘いですね。つまり七〇年安保・沖縄闘争、反戦青年委員会運動の中で年中デモに参加していた。そういう若い労働者が、このマル生攻撃粉砕闘争の先頭に立ったということです。

当初は国労、動労もぐらぐら揺れていました。それで七一年八月に国労が函館大会を開くんですけれど、ここで当時の中川委員長が「ここまできたら座して死を待つより、立って闘おう」という、非常にかっこいい演説をするわけですよ。悲壮な演説をした。その当時まで国労は毎年毎年、ちょうど国鉄分割・民営化の時みたいに、国労から脱退者が出るわけですよ。鉄労がどんどん増えて、あっという間に一〇万人の組織になりましたからね。

攻防は日常不断に行われますけれど、激しい闘いは例えばストライキの指令をめぐって起こるわけですね。つまりストライキは「違法」ストライキでしょう。ストライキをやれば参加した労働者は、全部処分されます。処分はみんな恐い。できるだけされたくないと思う。そういう状況につけ込んで、マル生分子が介入するということです。

◎千葉気動車区の七一年五・一八スト

僕は当時、「東洋一の気動車の車庫」と言われた千葉気動車区の支部長をやっていましたけれど、これは大変でした。例えば二時間ぐらいのストライキだと、一〇人ぐらい運転士をマル生グループにとられちゃうと、列車は動いちゃう。だからストライキをやっても、列車は一本も止まらない。だけど実際にストライキをやるから処分だけは来る。「こんなストライキだったらやめよう。どうせやるんだったら二四時間やれ」というような雰囲気が充満していた。この過程、七一年春闘の五・一八ストの時には、千葉気動車区以外の拠点指定の支部は全部ストを返上しちゃったんです。残ったのは最大拠点の千葉気動車区だけです。それは組合員の中にも「もうこんなくだらないストライキなんかやめた方がいい。支部長、返上しろ」とそうとう広範な声が出てきて、こういう意見を言う組合員と寝ずに討論して、最終的に「わかった。やろう」となって、結局ストライキをやったんです。その結果、電車は一本も止まらなかった。だけど、やったことによって動労千葉はもったんですね。

当局は「結局は千葉気動車区の動労はつぶせなかった」というふうに後ほど総括しています。やらなかったらガタガタになっていた。やったからよかったんです。僕はその時、「どんな苦しい状況でも、八割の組合員は絶対についてきてくれる」という自信を持ったんです。一割や二割は崩れる時もある。だけど組合の執行部がしっかりしていれば、八割は必ずついてきてくれるという自信を持ちました。

僕は二〇〇一年に委員長を辞めたでしょう。この闘いの当時の仲間は、ほとんど僕と同期か年上の人ですから、みんなじいさんですけど、彼らが三〇人ぐらい集まって、激励会をやってくれたんですね。うれしかったですね。その時の話がこの闘争なんですよ。「ストライキを返上するくらいだったら、支部長も辞めるし鉄道も辞める」と僕は組合員に迫りましたからね。「おまえがそこまで言うんだったらやるべえ」という話に最終的になってくれたわけです。それが今になって、「あの時にストライキをやっていなかったら、今の動労千葉はないな」と、もう七〇歳ぐらいの人たちが言うんですよ。列車にも影響が出ない、来るのは処分だけという困難な時でも、労働者が団結して闘うことが、後々考えてみると、非常に重要だったと思います。

◎マル生分子に対する徹底追及

そういう状況を切り抜けちゃったから、あとはわれわれが大攻勢に入る。千葉気動車区の場合にはマル生分子が組合員に復帰する過程は大変だったですよ。だって職制に近い層がマル生に行きましたから、何百人という組合員の前で、一人ひとりに自己批判させたからね。「自分は心ならずも当局におだてられてマル生分子になっちゃいました。皆さんに申し訳ない。勘弁してください」と、全員にやらせました。僕が「ここまで大先輩が言うんだから、これで……」と言っても、組合員が言うことを聞かなかったね。「自己批判の仕方が足りない。もう一回やれ」と。それでマル生グループに行った組合員が全員戻ったわけです。みんな、苦しみも経てきたから断じて許さないという思いがあるから、「頭の下げ方が悪い」とか批判したり、それは大変だったですよ。

非常に困難な中でも五・一八ストを闘いぬいたということが、こういう力関係をつくりあげたと思っているし、それもこれも青年労働者の決起でした。この時代の特徴は、青年労働者が国労、動労、全逓、全電通など三公社五現業の労働運動の中心を担い、公労協が一気に労働運動の最前線に躍り出たということです。これが非常に重要なことでした。

◎職場の支配構造を変えたマル生

マル生攻撃に組合が勝っちゃったでしょう。その結果、非常に皮肉なことが起こったんです。マル生攻撃というのは労働組合をたたきつぶす攻撃だけど、例えば当時の動労千葉地本はどっちかというと労資協調の組合であって、マル生攻撃でガタガタにしなければいけない対象の組合ではないんですね。直接的には僕の職場と青年部が中心にやられましたけれど、それ以外は従来どおり、組合の役員をやって、職制に近い指導員をやって、助役になっていくみたいなことがまだまだあったわけですよ。しかしマル生攻撃によって、労働組合の役員をやって助役になるなんてやつは絶対に許さないというふうになったんです。

だからどっちかと言うと当局に近いような、「こういう連中は組合の中においておいた方が当局が得をするんじゃないかな」と思うようなやつらが、組合の役員をやらなくなった。僕の職場だって、管内随一の拠点だと言われたけれど、支部長をやる組合員が誰もいなくなるんです。それでしょうがなくて、僕みたいな若造に、「おい中野、おまえ、支部の役員をやってくれよ」と言ってくるようになった。

ですから昔からの職場の支配構造、労働組合の支配構造、特に国鉄だから古いものがいっぱい残っているわけですよ。これがマル生攻撃で解体されちゃった。それまで威張っていた連中の権威が失墜しちゃった。職制に対して文句も言えないやつは威張れない。それで一気にわれわれの世代が各支部の機関を牛耳っていく。だからマル生攻撃のおかげで僕は一〇年で書記長になれたと言っても過言ではない。マル生攻撃がなかったらもうしばらく時間がかかったんじゃないかと思うぐらい、このマル生攻撃は既存の労働組合組織を直撃しました。そういう皮肉もあるということですね。

言いたいことは、敵の攻撃の中でも、万全に見えれば見えるほど、必ずどこかに隙があり、矛盾があるんだということ。こういうことをよく見なければいけないと思います。

 

◇5.船橋事故闘争―七二年三月二八日発生

マル生闘争の渦中で起こったのが船橋事故闘争です。一九七二年三月二八日の朝七時に発生しました。つまりラッシュ時です。船橋駅の上りで、停車している電車に追突したという事故ですけれど、これで何百人という負傷者が出ました。当該運転士の高石正博君がただちにその場で逮捕されるという状況の中で、この事故に対してどう対応するのかが問われた。

◎「再建一〇ヶ年計画」下の国鉄

当時、再建一〇ヶ年計画下の国鉄で、徹底したスクラップアンドビルドと運転保安無視、労働強化が国鉄の職場を直撃している状況ですから、われわれは船橋事故は起こるべくして起こったというふうに見て、この事故の中身を精査しました。

これは信号停電が原因です。総武線には停電になった時の補助電源があるんだけど、これがついていなかった。あとは二分半間隔の過密ダイヤですから、ATSが作動しても、そのたびに止まっていたら電車が遅れてしょうがないから、「確認ボタンを押して消して、ゆっくり近づけ」という指導がされていた。そういういろんな要素を考えると、どう見ても乗務員の責任じゃない。明らかに国鉄当局の責任です。高石君が所属していた津田沼支部はできたてほやほやの支部で、全部青年部員です。僕は千葉気動車区の支部長でしたけど、これは一大闘争にしちゃおう、闘争にできるという感じを持って、ただちに千葉地本から本部に対して闘いの要求、つまり特認闘争を要求するということをやったわけです。

 

◎組合内路線論争

その時に組合内でも大変な論争が起きました。つまり「事故問題は労働組合運動としては成り立たない」と言われたわけです。事故というのは大なり小なりそれだけとらえれば本人がミスしたということがある。当局は、普段は「規程を無視して走れ」と言っておきながら、実際に事故を起こすと、「規定を守らなかった、おまえが悪いんだ」と言う。当時の国鉄当局も今のJRも同じです。こういう状況の中で、規程を守らなかったと言えば守らなかった。信号が赤になったんじゃなくて、真っ暗になっていたわけだからね。止まっていればいいのになんで動いたんだという話になるわけですよ。

動労には乗務員分科会があって、事故を起こした乗務員のために乗務員救済制度をつくっていました。全国の乗務員がカネを出して、事故を起こした乗務員の裁判闘争費用を出すとか、いろんな救済の仕組みがありました。その対象にはできるけれど、それ以上はできないというのが、当時の考え方ですね。

そういう中で動労千葉だけは、「これは違う。反合理化闘争だ。反合理化・運転保安闘争だ」と。僕自身、激しく迫りくる合理化攻撃に対して、革マルみたいに「合理化絶対反対」と言っていればいいみたいな、こういうやり方ではとても通用しないと思っていました。やはり合理化反対闘争を具体的につくりあげなければいけない。その当時、年がら年中、そういうことばかり考えていまして、この事故が起きたとたんに、ある意味では「これだ」と思ったところがある。それでこの船橋事故闘争を労働組合運動の最大の闘いにしよう、あらゆる努力でやり抜こうと決意するわけです。

◎闘いの展開

大きな闘いになった最大の要因は、この事故が発生した三月二八日は、ちょうど春闘時期だったことです。七二年はまだまだマル生が全国的に猛威をふるっている時で、磯崎総裁が不当労働行為について陳謝はしたけれど、まだやっているころなんですね。そういう状況ですから、「船橋事故をめぐって運転保安闘争の闘いをやれ」という千葉の要求に対して、当時、中江昌夫さんが動労本部の組織部長をしていて、これとマル生闘争を結合する方針を出します。ちょうど四月二七日に公労協の統一ストライキが設定されていて、四月三日からそれまで一斉に二五日間、ダーッとやろうという全国指令を下ろしたんです。その先頭に千葉が立った。

革マルは後ほど、「日本列島を揺るがした二五日間」なんて大騒ぎしたけれど、実際は千葉地本が本部を突き上げて実現した闘争です。これが二五日間強力に展開される中で、船橋事故闘争が動労のひとつの大きな課題になったということなんです。

その後、高石君は九月二〇日に起訴されました。起訴された後も二五日から闘争をやるわけですよ。この時はさすがに本部はやると言わないで、千葉だけで特認闘争になったわけです。千葉鉄道管理局長の「たかだか反戦派五〇人、それに追従する連中は一〇〇人ぐらい。大したことはない」という話が読売新聞かなんかに載った。これは怒りの火に油を注いだ。「そこまで言うんだったら上等じゃないか」と言って、活動家でない組合員まで闘った。「言わずもがな」というけど、敵も言ってはならないことを言っちゃった。千葉鉄道管理局開設以来の運休本数が出ました。そして第一審不当判決が出るけれど、われわれの闘いの前に、当局側は刑事休職を断念したということです。

◎千葉地裁包囲闘争

この間、裁判の傍聴動員が毎月ありました。公判は何十回とやる。そのつど動員指令を出したんですよ。そうすると船橋闘争だけは、動員指令の約二倍、少なくとも一・五倍も現場から出てくるんですね。例えば○○支部一〇人と言ったら一五人か二〇人出てくるんです。これはすごかったですね。一番最後、結審の時に、僕はもう書記長になっていたけれど、千葉地裁包囲闘争という方針を出して動員指令を下ろしたんです。そうしたら本当に集まっちゃって、千葉県警が機動隊を配置して、千葉地裁の周りで機動隊と対峙したんですね。

それで千葉駅までデモをやったんだけど、その時に機動隊の指揮官が、「中野書記長、ただちに組合員を整理しなさい」なんてわめいている。僕は知らん顔をしていたけれど、そうしたら刑事が近くに寄ってきて、「今日来ている人は全員、乗務員ですか」と言うから「そうだ」と言ったんだよ。そうしたら「こんなに集まっちゃって、よく電車が動いていますね」と言うんだよね。「それはそうだ」と言った。今から三時、四時、五時に出勤する乗務員がみんな来ているんだから。乗務員は必ず朝から出勤ということではない。夕方出勤する人もいるし、夜出勤する人もいるわけですよ。明けの人もいるしね。この組合員が全部来ちゃったわけだから、「おまえ、ちょっと手を出したら、これから電車が全部止まっちゃうぞ」と、その刑事に言った。刑事は「そうですか」と。だからジグザグデモで千葉駅前に来たけど、誰もパクられなかったね。パクったら電車が止まっちゃうんだから。そのぐらい、人が集まる闘争になりました。

◎国鉄事故問題で初めての実力闘争

動労千葉もそれまで、乗務員が中心の労働組合でありながら、事故問題には一切触れなかった。事故は手前持ちという感じだった。それをこの時、大胆に労働組合の課題として取り上げて闘争をやった。ストライキをやったり、順法闘争もやっているわけですから、処分も出ます。処分をかけて闘うということが、乗務員に組合への大変な信頼感をつくりあげたんですね。「ここまでやる労働組合こそ、本物の俺たちの組合だ」と。

後に動労千葉が分離・独立した時に、本部革マルとの関係で佐倉と銚子が一番厳しかったんですよ。しかし銚子のある年配の組合員が、「俺は千葉につく。船橋闘争みたいなことをやる労働組合が本当の組合だ。動労本部は何をやっているんだ。ふざけんじゃない。俺は動労千葉と一緒にやる」と言って、彼の発言が決定的になって、全部本部に行きそうだったのが半分こっちに来ました。「ああ、やっぱり闘いというのはそういうもんだな」と思ったし、闘いをやりながら組合員の意識もどんどん変わってきているということを非常に感じました。

◎線路改善闘争

当時ちょうど線路が非常に悪くなっていた。線路の補修を合理化して、スピードの上がる新しい電車ばかりどんどん入れますから、線路がもたなくなる。それで非常に線路が悪くなって、これが乗務員会の大きな議題になりました。それに対して、この船橋闘争を教訓にして、「そうか、線路が悪かったらスピードを落とせばいいんだ」と、最高速度の規制闘争、スピードダウン闘争をやりました。ただしあまり遅れを出すととげとげしくなるからということで、管内でだいたい一日二〇〇〇分から三〇〇〇分。一列車に換算するとせいぜい五分くらい、これを全部積み重ねると三〇〇〇分ぐらいの遅れになる。これを毎日毎日少しずつ出していくという闘いをやって、それをダイヤに組み入れさせる。千葉から津田沼まで何分と決まっているでしょう。今まで二〇分だったとしたら、二五分のダイヤをつくらせる。こういう文字どおりの「ダイヤ改正」闘争をやったんです。

それまでわれわれ組合側はダイヤ改悪と言ったんです。つまりダイヤ「改正」のたびに労働条件が悪くなる。だからダイヤ改正と言わないで、改正という時も必ず正に「」をつけていたんです。でもこの時は、初めてダイヤ改正と呼びました。ダイヤ改正をやることによって労働条件がよくなったんです。

「合理化によって奪われた労働条件を奪い返す、防衛から攻撃の反合・運転保安闘争」なんて生意気なことを言って、それを組合の方針の中心に据えて、闘いぬいたんですね。その結果、千葉は全国トップクラスの労働条件を獲得しました。それまでは組合が弱かったから下位の方だったんですね。それを一気にトップクラスまで持っていったから。

これをねたんだのが東京の革マルです。その後、東京で乗務員の合理化が提案されたんです。すると革マルは、「千葉も同じようにやるんだったら認める」と言ったんです。それはそうでしょう。総武線は国電区間です。東京は山手線だとか京浜東北線だとか、みんな国電区間です。この国電区間の乗務員の合理化問題だから、「総武線を持っている千葉も同じようにやるんだったら俺たちはのむ」ということです。われわれはその時にもうトップクラスの労働条件で妥結していた。それで後で千葉鉄局の幹部が大騒ぎしたということもありました。

◎各個撃破の攻撃とどう闘うか

もうひとつは国労内のことです。国労には電車協議会という運転系統の協議会があります。保線区は施設協議会と言います。国労の電車協議会も乗務員が多いですから、やはり線路の改善を要求しています。彼らは保線の労働者に向かって「われわれが所定のスピードを出して走れるような線路にするのがおまえたちの仕事だ」と言うんですね。施設協議会の方は、合理化で要員が減らされているわけですからできないわけですよ。それで国労内で運転士と保線区の労働者が対立するわけです。当時、施設協議会は協会派の牙城だと言われていましたけれど、「動労千葉の方がよっぽど物事がわかる」と言っていました。動労千葉は保線区が働かないから線路が悪くなったとは言わない。「これは合理化の結果だ。したがって線路がきちっと整備されるまでスピードダウンをして、これ以上線路を悪くさせない」という立場でスピードダウン闘争を進め、合法性をかちとってきた。それで国労施設協議会は「動労千葉の方がはるかに物事がわかる」と、カンパ一〇万円を持ってきました。

合理化攻撃というのは、全部の職種に一緒には来ないですね。こっちの職種をやったら今度はあっちの職種。そうすると、該当している職種の労働者は非常に関心を持つけれど、ほかの職種の人は何も関心を持たない。同じ労働組合にいながら、統一的に闘うことができない。中には「あそこは普段大した仕事をやっていない。さぼってるんだから、あんなところ外注されたっていいんだ」とか、そういうことを言いかねない風潮があるでしょう。そうなったら、労働組合じゃない。労働組合である以上、「一人は万人のために、万人は一人のために」という大げさなことは言わないまでも、やはり全体で闘っていくことが絶対に必要だと思うけれど、かの国労の最盛期だってこういうことが起こっている。だから普段の学習活動、普段の闘いが、非常に重要だなということを感じました。

 

◇6.反合・運転保安闘争路線の確立

◎従来の反合闘争の壁を打ち破り、五万人反合・機関助士反対闘争の敗北をのりこえる地平を切り開く

いずれにしてもこの闘いをとおして反合・運転保安闘争路線の確立に成功し、このことが千葉が全国に比しても優位性を持ってそれ以降の闘いをやっていける基盤をつくったということですね。これは従来の国鉄の反合闘争の壁を打ち破って、機関助士廃止反対という反合闘争の敗北をのりこえた地平をつくったと言えます。

◎反合・運転保安闘争は「安全」という国鉄当局の最大の弱点を切り口に実践をとおして形成された

国鉄当局の最大のアキレス腱・矛盾は安全問題なんです。「安全は輸送業務の最大の使命である」と、国鉄安全綱領のトップにも掲げられていた。ですから安全問題はどうでもいいとは絶対にならないんですね。安全問題を切り口にして闘っていく。反合理化・運転保安確立闘争路線を形成していったということに最大の勝利のカギがあると思います。

闘いなくして安全はないけれど、安全を確保するということは利潤を生まないから、必ず資本は設備、要員の切り捨てを進めます。どこでも合理化というのは必ず保安部門から始めます。そういうことをきちっと見据えて、合理化反対闘争を運転保安確立、つまり列車の安全を守るということと結合してやったことが、この成功につながったと思います。

 

◆Ⅳ/スト権奪還闘争

 

◇1.ストライキ権の剥奪

スト権奪還闘争は戦後労働運動の中心的な課題になりました。戦後、一九四七年二・一ゼネストの挫折、それと食える賃金をよこせという激しい労働攻勢の中で、四八年四月に当時、日本を占領していたアメリカ軍の総司令官マッカーサーが書簡を出すわけです。これを「マ書簡」と言いますけれど、それに基づいて時の政府が政令二〇一号を出します。これは当時の労働大臣、加藤勘十が出します。社会党の出身です。この時は芦田内閣という連立内閣ですから、社会党の大臣もいました。この政令二〇一号で、官公労働運動から労働基本権が奪われます。同年一二月に国家公務員法が改悪されました。

同時に、公共企業体ができるわけですね。それまで国鉄は国営です。それが国鉄公社という公共企業体になる。それから専売公社。まずは二公社五現業だったんですね。その後すぐに郵政から分離して電電公社ができて、三公社五現業になります。これとともに公労法ができまして、名実ともに官公労働者がストライキ権を剥奪されることになります。日本国憲法で労働三権を認めているわけですけれど、官公労働運動については政令二〇一号以降、スト権を剥奪されていきます。

それ以降、官公労働者は、国鉄、全逓、その他で、このことによる解雇処分が重荷になっていきます。そして、スト権を回復するということが官公労働運動の悲願になるわけです。

 

◇2.スト権奪還の客観条件の成熟

そういう中で七〇年代に入り、いわゆるスト権奪還の客観条件が成熟する状況を迎えるわけです。

その要因は何なのか。それは七〇年安保・沖縄闘争の大きな高揚があります。それから国鉄のマル生闘争が勝利したということもあります。何よりも、ストライキをやっても処分を恐れない青年労働者が国鉄をはじめ、いろんなところに無数に出てきたということがあります。七〇年安保・沖縄闘争の渦中で「処分なんか恐れない」という青年労働者が大きく台頭したということが最大の原因だと、僕は非常に主観的ですけれど、総括しています。

現場の組合員は戒告処分にされると、その次の昇給の時に一号俸カットされるんですよ。当時、賃金は安いし、若いですから、だいたい一号俸が五〇〇円ぐらいで、一年に四号俸上がって二〇〇〇円ぐらいです。だから「せいぜい五〇〇円いいじゃねえか」という雰囲気で、青年労働者たちは処分をまったく恐れなくなりました。例えば列車へのビラ貼り闘争をやりました。僕が労働運動を始めた時には、商品にビラを貼って汚したなんて、見つかっただけで首になるという風潮があったけれど、みんなでやっているうちに平気になっちゃった。順法闘争をやっても、せいぜい支部長が減給ぐらいだというようになりました。

順法闘争で電車を遅らせると、電車というのは一本のレールの上を走っていますから、後の電車も全部遅れるんだよね。追い越せないから。だから、誰がやったかわからなくなっちゃう。一番最初に遅らせる運転士を「編隊長」と言うんですけど、それを見つけるのが大変なんです。航空ショーなんかで編隊をつくって飛行機が飛んでいる。その一番前にいて指示するのが編隊長です。その一番最初にやった編隊長が誰なのかわからない。いくら調べてもわけがわからなくて、処分もできない。

そういうことが労働運動の中でも非常に大きく力を発揮して、特に七二年春闘から七三年春闘の過程で、「敗戦直後を上回る」と当時の政府は言っておりましたけれど、大変なダメージを与える。

この中で当時、国鉄総裁を先頭に三公社五現業のトップクラスが、「スト権の条件付き付与」論、つまり、「スト権を与えた方がいいんじゃないか」ということを言い出した。こうした条件を背景にして、一九七五年の一一月二六日から八日間のストライキに突入します。

 

◇3.スト権奪還八日間スト

当時の総評指導部は、だいたい一日か二日やって、手を打つということを考えていたんでしょう。この中心的なメンバーは当時、国労書記長をやっていた富塚、それと全電通書記長の山岸(後に連合会長になった人物)、そして全逓書記長の保坂。この三人が指導したんです。当時は三木内閣だし、田中派とも大筋話がついているみたいな感じがあって、やったんですね。そうしたらいくらたってもダメ。やっているうちに政府自民党の方も開き直ってしまった。それはそうだよ、考えてみれば。スト権奪還というのは、正確に言うと公労法という法律を労働組合の実力闘争、つまりストライキで撤廃しちゃおうということでしょう。法治国家というのは、法律を国会でつくるわけだから、国会でなくさなければいけないわけでしょう。だけど、労働組合のストライキで圧力かけてそれをなくせという闘争だから、非常に「革命的」な闘いなんです。

問題は、「革命的」な闘いだったけれど、指導部が民同であるという、このアンバランスにあった。指導部の方はそういう「革命的」な闘いだという認識はまったくなくて、だいたい根回しは済んでいてなんとかうまくいくんじゃないかというレベルの指導しかしなかった。当時の三公社五現業の当局側と話はついているし、労働省も自民党サイドも話がついていると考えていたけれども、そうはいかない。

よくよく考えてみれば、もうこの時は、後に連合に集約される右翼的労働戦線統一の策動が、民間の労働組合の中で本格化しようというころです。こういう状況の中で政府が公労協にスト権を与えて、また勢いづけちゃうなんてことはやるはずがない。したがって当時の政府自民党のサイドからは、「議会制民主主義への挑戦である」と言われた。そのとおりだよね。三木内閣も、最後は「これは法治国家にあるまじき不法行為である。断固妥協するな」と言わざるを得なくなって、公労協の方も振り上げたこぶしを下ろすところがなくなって、ストは八日間続いた。結果としては壮大なゼロに終わるわけです。

その結果、追い打ちをかけるように国鉄当局が国労、動労に対して二〇二億円の損害賠償請求訴訟を起こします。これがそれ以降の分割・民営化過程からJRになって以降も引きずって、動労は分割・民営化に協力したから免除され、その結果二〇二億円は全部国労に移った。これが一九九四年の年末、村山内閣の時に亀井静香運輸大臣の手によって取り下げられる。ここまで、国鉄労働組合に対して大変な重荷になってのしかかります。

 

◇4.スト権ストの総括

このスト権ストライキをどう見るかということが、それ以降の闘いにとっても、あるいはわれわれがこれから闘いをやる上で非常に大事なことです。僕は民同労働運動の最後のあだ花だったと思っています。しかし、公労協傘下の多くの労働者が八日間にわたってストライキに立ち上がった、この意義を否定するものではまったくないし、問題はこのエネルギーを正しく指導しきれなかった指導部の問題だと思います。

当時、動労東京地本の委員長をやっていた松崎明が、後ほどNHKの報道番組に出て、「あれを見て、階級的労働運動、対決型労働運動はもうダメだと思った」なんてことを言っています。八日間のストライキをやったにもかかわらず、何ひとつ社会はマヒしないし、日本資本主義の生産はストップしなかった。これは事実です。しかしこれで、「もうダメだ」と思ったと総括するところが革マル松崎のダメなところです。核心は指導部の問題だというふうに総括できない。

あの時ストに入ったのは公労協だけなんです。私鉄はストライキに入っていません。トラック関係、運輸労連もストライキに入っていません。日通も入っていません。運輸一般みたいにトラックの運転手が集まっている組合も入っていません。陸上だけでもストライキに入っていないところがたくさんあるわけですよ。運輸関係は全交運という組織がありましたけれど、全交運傘下でストライキに入ったのは国鉄だけでしょう。ほかは入っていない。だから国鉄の貨物だけに頼っていた、例えば愛媛県のみかん業者は大変だった。それで損害賠償なんて大騒ぎになりましたけれど、それ以外の主要なところは、トラックだとか船で運んでいるわけですから、基本的にマヒしない。

だから、「今回は公労協だけだけど、これを第一波として、この次は私鉄総連も入れよう、運輸労連も入れよう。この次はもっと大規模に構えて、日本の社会をマヒ状況に追い込むような闘いをとおして、スト権を奪還しよう」と前向きに発想するのじゃなくて、「もうこれで終わり」という総括になるからどうしようもない。

七〇年安保・沖縄闘争の爆発、そして国鉄マル生闘争の勝利、そして打ち続く春闘での激しい労働者の闘いという上に立って、当時の総評指導部が悪のりしたという要素もあるんです。それが七五年にこのストをやって以降、闘争らしい闘争はない。春闘で一回か二回ストライキをやって処分が出ていますけれど、春闘もほとんどストライキがなくなっていきます。これ以降、ストライキをやるのは、官公労働運動関係では動労千葉だけです。スト権ストの敗北が、それ以降、右翼労線統一の動きに拍車をかけるし、国鉄分割・民営化攻撃にいたる力関係を形成するという形になった。そういうふうにスト権ストを見る必要があるんじゃないか。

千葉でも現にスト権闘争で八日間やり、闘争の指導をしましたけれど、やることがないんですね。だって当局は全然弾圧しないんだから。毎日毎日、やることがなくて学習会をやる。八日間もやるとみんな飽きちゃう。それでソフトボールなんかやって、サンケイ新聞に「列車を止めておいてソフトボールをやっている動労」なんて書かれて、大変だったですよ。この過程で松崎明は、国労の幹部と一緒にゴルフ場に行ったわけでしょう。週刊誌にスッパ抜かれました。だいたい当局が何も手を出さないし、電車が止まっているから、職場の中で何もやることがない。みんな泊まり込みで籠城ですから、朝飯をつくる、昼飯をつくる、夕飯をつくる、これだけが唯一の楽しみでした。こんなポケーっとした感じで、何が獲得できるのかと思っていたけれど、案の定こういう形になりました。

裏返しに考えてみると、富塚や山岸みたいなやつが指導部だったから、ある意味では権力・資本の側も許容したわけであって、もし中野洋が当時の指導部で、このストライキを指導したらどうなるか。権力・機動隊が出てきて大変なことになったでしょうね。僕が指導部だったら、もっともっと従前にさまざまな戦術を練って、ありとあらゆることを考えてやったと思います。民同みたいに無責任にストライキはやらない。こういうことをこれから考える必要があると思います。

 

◆Ⅴ/三里塚ジェット燃料輸送阻止闘争

 

よく動労千葉は、「労農連帯」を掲げて三里塚空港反対闘争にストライキで立ち上がったことが評価されます。動労千葉がこの闘いをどういう立場から闘いぬいたのかということを総括することが大事だと思います。

 

◇1.三里塚闘争の始まり

◎三里塚空港計画と社会党・共産党

三里塚闘争の前史、三里塚闘争はどういう経緯で始まったのかを押さえておく必要があります。

三里塚空港というのは、一九六六年、佐藤内閣の時、三里塚の地に国際空港を建設するという閣議決定をしたことに始まります。その前までは八街・富里、霞ヶ浦だとか、いろんな案が出るんです。八街・富里にいったん決まったんだけど、八街・富里の農民の猛反発があって、結果として若干規模を縮小して、三里塚に決めます。三里塚には御料牧場という天皇の牧場がある。これは国有地だから、そこを活用すれば、少数の農地買収だけでできるんじゃないかということです。同日、三里塚芝山連合空港反対同盟が結成されて、委員長戸村一作、事務局長北原鉱治という体制ができます。

当初、これに対して総評、千葉の県労連、それから社会党、共産党も支援を決定し、全力をあげて現地闘争に取り組みます。共産党は現地に闘争本部をつくります。社会党もつくります。こういう形で、三里塚反対同盟の闘いを支援するという陣形ができました。動労千葉も当初はそういう労働組合のひとつとして、三里塚闘争を支援をしていたわけですね。

当時は、六五年に反戦青年委員会ができて、六七年には一〇・八羽田闘争があり、いよいよ七〇年安保・沖縄闘争に向けて大きな激動が開始される時期ですね。そういう状況の中で、地元の三里塚闘争に千葉県反戦青年委員会も、当時の議長は僕ですが、取り組まなければいけないということで、いち早く六七年の一一月に現地集会を主催します。一〇・八羽田の直後です。これに当時の三派全学連が参加するかしないかをめぐって大揺れに揺れます。当時反対同盟は、芝山に共産党員もいました。これが連日、戸村さんの家に押しかけてきて、「トロツキストは入れるな」と直談判を繰り返す。農道に「トロツキストは帰れ」というステッカーが貼られるということも起きたんです。

◎支援の先頭に立つ反戦派と全学連

僕は当時は親組合の役員をやっていましたけど、千葉県反戦青年委員会の議長だから、動労青年部を代表して現地に行った。それで反対同盟の青年行動隊を中心として、支援共闘の三原則を打ち立てるんですね。反対同盟は、反対同盟の統制下にある限り、あらゆる支援を受け入れるということを内容とする三原則をつくったんです。それに基づいて一一月三日、千葉県反戦青年委員会主催の集会に三派全学連が登場することになりました。

現地は大変緊迫しました。反対同盟という空港反対闘争の主体がそういうことを決定しているにもかかわらず、共産党という党派がクレームをつける。反対同盟は、これは断じて認めがたいと言って、反対同盟と共産党の間に大変な亀裂が生まれます。

その後、測量が開始されるわけですけど、その時に、戸村さんが「だいたい『ガンバロー』って歌っていれば測量が阻止されるわけじゃないんだ」という大アジテーションをやって、共産党・民青のような実力闘争否定派、同盟と一緒にスクラムを組んで座り込んだりすることを否定するやり方に対して、反対同盟は怒り心頭に発して、これを契機にして共産党がだんだん反対闘争から後退していきます。

これをとおして反戦青年委員会や全学連、当時安保・沖縄闘争を闘ったいわゆる新左翼と言われている労働者・学生が三里塚闘争に参加し、反対同盟と共闘関係を形成していきます。それ以降三十何年間、残っているのはこの勢力だけでしょう。あとはとっくにいなくなっている。これが初期の段階です。

それで七一年九月に第二次強制代執行をめぐる闘争が激しく闘われます。このころには現地は火炎瓶が飛び交います。こういう激しい闘争になるのは当たり前ですね。農民が農地を強制的に奪われようとしているわけですから、あらゆることをやって抵抗するのは、古今東西どこでも当たり前です。日本の農民はまだまだ柔らかいぐらいですね。フランスの農民は、例えばイタリアからワインを輸入するなんて言うと、トラクターでワイン列車を止めちゃう。あれを日本でやったら大変なことだよね。ヨーロッパに行けば、そういうのは当たり前。日本はまだまだだけど、三里塚では激しい闘いが展開されました。

この中で、だんだんと総評、県労連、社会党が現地から去っていきましたが、動労千葉は「連帯して闘うということを決めた以上、勝手に去るなんていうのはおかしい」ということで、最後まで支援の闘いを続けるという関係ができました。

 

◇2.燃料輸送問題の発生

◎成田開港の最大のアキレス腱

そういう状況の中で、七三年開港とか七四年開港なんて言われました。しかし内陸空港だから、アクセスが最大の欠陥だった。つまり鉄道がない。あの時は成田新幹線と言って、成田から東京まで新幹線を通す計画だった。それが途中で挫折して、在来線を使うことになった。東関東自動車道もそう簡単にできるわけじゃない。

一番大変だったのは燃料輸送です。千葉港からジェット燃料をどうやって成田まで運ぶのか。パイプラインということだったんだけど、パイプラインを埋めるわけだから、周辺の住宅は大変ですよ。その過程で各地で市民運動が起こったり、住民訴訟が起こったりして、「タンクローリーや国鉄で運ぶのは非常に危険なんだ」と空港公団が言っていたわけです。「パイプラインが一番安全なんだから、なんとか認めてほしい」と住民工作をやっていた。

◎福田内閣の登場

そういう中で、いよいよ七六年一二月に福田内閣が登場する。福田内閣は三木内閣をはさんで田中角栄の後ですから、七三年のオイルショックを受けて、政治的にも経済的にも非常に多難な時に登場します。福田は七七年一月の年頭のあいさつで、二つのスローガンをうち出しました。一つは労資安定化、もう一つは三里塚の年内開港です。成田空港開港が射程に入り、燃料問題が急迫した。ジェット燃料を輸送するパイプラインが住民の反対運動などによって開港までに完成しないという中で、国鉄を使って千葉港と鹿島港から成田空港まで燃料を運ぶという計画が急浮上してきたわけです。

これは動労千葉にとっては、今まで支援団体のひとつにすぎなかったのが、農民の闘いを支援するだけじゃなくて、自分の問題になったということです。千葉県内の国鉄の貨車輸送、貨物部門は一〇〇%動労千葉が機関士ですから、われわれは逃げようがない。そういう状況に直面して、はたしてどうしようかということになったんです。

◇3.動労千葉の方針

◎七六年動労第九四回中央委員会~七七年動労第三三回全国大会

動労千葉は、「これと真っ向から闘いぬく」ということを確認したわけですが、当時はまだ動労千葉地本ですから、千葉地本として独自に指令を下ろして闘うというふうにはなりません。動労中央本部の決定に持ち込むということがないと闘いにならないという制約があった。七六年一二月一六日の中央委員会で、僕が中央委員に出て決議を提出して、それを満場一致で決定したんです。

僕は、革マルがこれに対してどう出るかということが、非常に心配だった。というのは革マルはもう三里塚闘争から排除されていたから。革マルは、三里塚闘争に来るための支援動員の道路に釘をまくとか、どこかの食堂に行って食い逃げするとか、いろいろ闘争妨害をやっていた。そんな苦情が全部反対同盟に殺到し、革マルを三里塚闘争から排除することが三里塚反対同盟の中で決定されていた。動労の中には革マルがいる。三里塚闘争でジェット燃料闘争というのは大変な位置を占めているわけで、動労で決定したら革マルが乗り込んで来るんじゃないかと。そうすると反対同盟に大変な迷惑をかける恐れもあるなということを考えながら、にもかかわらず動労千葉は動労の一員だから、動労全体の決定をとらないと身動きもとれないということで、恐る恐る特別決議を提出したら、これが満場一致で通っちゃった。これが翌七七年の水上全国大会で再確認されるわけです。

そういう状況の中で、満を持して政府・公団が七八年三月三〇日開港を決めるわけです。開港する以上、それまでに油を運び込んで成田空港のタンクを満杯にしておかないとダメなわけです。いよいよ国鉄による燃料輸送を始めるということが、七七年一二月に国鉄当局から提案されます。

◎三里塚・ジェット闘争を闘う四つの視点

このジェット燃料闘争を闘うために、労働組合としての闘う論理をつくらなければいけない。そこで動労千葉としてはまず何よりも、今まで反対同盟を支援してきた立場から、三里塚空港には反対である。労農連帯―反対同盟の農民と連帯するという視点。それから危険なものを運ばないという運転保安の視点。労働強化を許さない。組織破壊を許さない。この四つの視点を確立して、この論理で三里塚ジェット闘争を闘おうと決定しました。僕は職場集会に行って、「労働組合はゼニ・カネのためだけに闘争をやるんじゃない。ゼニ・カネ以外だって闘争をやることはあるんだよ。そうだろう」と言ったら、みんな「そうだ」と言った。これでできたという要素があるけれど、僕はそういうことが非常に重要だったと今でも思っています。

この闘争では動労千葉の中に不協和音はあまりなかったですね。同時に、動労本部にいよいよ浸透し始めてきている革マルが大変な妨害をするだろうということは、組合員全体の読み筋だから、革マルに対する対抗意識もあった。労働者というのはいろんな要素で闘うわけです。そういうことが動労千葉が決起していく非常に大きな基盤になりました。

 

◇4.動労千葉の燃料輸送阻止闘争(その1)

◎七七年一二月三~五日

これは、福田内閣の最重要課題に対する闘いになるわけで、やはり大変だった。七七年一二月三日から闘争に入ります。最初の三日間は強力順法闘争ですけど、事実上、千葉だけの闘いになるんです。全国的な闘いになりません。動労本部は、非常にあやふやな安全確認行動とか、そういうたぐいのことしか指令を下ろさなかった。だけど僕は書記長として、これを拡大解釈をして、めいっぱいやらせました。この三日間で三二二本の運休を出したんですね。それで首都圏はガタガタです。

その三日間の闘いを終えて、開港は三月三〇日ですから、それに向けてほぼ一〇〇日、闘争に次ぐ闘争の連続。もちろん順法闘争をやりっぱなしじゃありません。三日やってまたやって、また次やるというようなことを繰り返し、あるいはストライキをやったり、集会をやったりということで、阻止の声を上げました。

この闘いは大変な反動との闘いになる、動労内においても、本部革マルが何をやってくるかわからない。必ずスト破り、「かごぬけ」が出てくると読んでいましたから、組合員のテンションを上げて団結を強化しないとダメだと思っていましたので、この一〇〇日間闘争も全力をあげてやりました。

◎密集せる反動との闘い

案の定、密集せる反動が襲いかかりました。この時、自民党タカ派の瀬戸山三男が法務大臣だった。彼が最初の三日間の闘いの後、「順法闘争に刑事罰を適用しなければいけない」という談話を発表するわけです。法務大臣がそういうふうに発言するわけだから、当然警視庁が動く。僕はこの時、動労千葉の事務所にガサが来て、委員長か書記長、もしくは両方とも逮捕されるかもわからないと覚悟しました。

それだけでなく、朝日新聞が社説で「労働組合を逸脱した順法闘争」と書いた。朝日新聞に抗議に行った。論説委員長みたいなのがちゃんと会うんだね。それで「いったいこれはなんだ」とがんがんやりました。「誰が書いたか言え」と言ったけど、絶対に言わない。労働組合担当の編集委員で、富塚とか松崎と仲のいいやつがいる。そいつが書いたということが後でわかったんだけど、その時は頑として口を割らなかった。

◎不発に終わった警視庁の弾圧

警視庁は、千葉鉄道管理局の列車の運行をつかさどる電車課、列車課だとか司令などの担当者を一週間ぐらい毎日呼び出した。警視庁は、「誰が一番最初にやったのかをはっきりさせろ」ということなんだね。つまり順法闘争だから、遅れ始めた最初の運転士がいるわけでしょう。国鉄当局側は「わかりません」と言っている。警視庁の方は「こんな過密ダイヤで、コンピューターもあるのに、わからないはずがない。おまえら、組合とつるんでいて隠しているんだろう」と朝から晩までゴリゴリやったわけ。

それで呼びつけられた担当者が警視庁に行って夜になって帰ってくると、うちの事務所に来て「書記長、大変でした。朝から晩まで警視庁でやられたけど、実際、わからないんだからしょうがない」と言うんですよね。当局の担当者はけっこう中野シンパが多かったから、警察に言わなかった面もあるとも思うけど、実際にわからなかったと思う。ローカル線ではわかるんですよ。管理局の列車司令室に、○○線のどこに列車が走っているのかが赤ランプで表示される。だけど国電区間にはそういうのがないんですよ。国電区間はそんなことをやってられない。コンピューターでこなせるほど安易じゃないんですよ。つまり二分間隔で走っているから、信号機と乗務員の能力によって動いているわけですよ。

どの列車が遅れたのかということは、駅で「採時」と言って、総武線でいうと津田沼、船橋、錦糸町という主だった駅に管理局の課員を派遣して、例えば○○Cの電車は何分遅れたという時間をとって総合的に集めないと、どこでどの電車が遅れたかわからなくなっちゃう。人事課や労働課、運転をあまり知らない課員が行く。そうすると二分間隔で次から次へと電車が来るわけだから、わけがわからなくなってしまう。

それで結論が出たら、一番最初に遅らせたのは国労の乗務員だった。しかし国労がジェット燃料闘争で順法闘争をやるわけないんだから、わけがわからなくなったわけですよ。後で処分が出るんだけど、乗務員にほとんど処分がなかった。動労千葉の組合員で誰が一番最初に遅らせたのか、誰がどれぐらい遅らせたのかという現認報告がないんだから。それでたまりかねた警視庁が担当者を呼び出したわけだけど、結局わからなかった。だから僕は逮捕もされず、動労千葉の事務所はガサもされなかった。

◎「動労ジェット闘争支援共闘会議」の結成

順法闘争だから電車はガタガタになりますから、当然のことながら、乗客が怒るわけです。誰だって電車に乗っていて遅れれば怒ります。それも満員電車ですから当然です。それで遅らせた張本人は動労千葉だということになる。

その時に「動労ジェット闘争支援共闘会議」が結成されます。浅田光輝さんという立正大学の教授や反対同盟の北原鉱治さんが呼びかけて、支援共闘会議が結成されて、支援してくれました。中央線から総武線沿線で毎日のように街頭宣伝が行われて、ホームの運転席が止まるところに激励部隊が来て、チョコレートを差し入れてくれた人もいますけど、要するに乗務員を守ってくれたわけですよ。乗客という名の労働者が乗務員に乱暴を働くことを、体を張って阻止してくれた。

僕が一番感激したのは、当時の全学連の若い女子学生たちです。「全学連が来ていますから、書記長、少し激励してやってください」と言われて出てみると、女子学生ばかり五~六〇人。津田沼に行って来たと言うんだよ。「大変だったろう。乗客にぶん殴られたり文句を言われたりしなかったか」と聞いたら、「全然ない」と言う。通勤の帰りでくたくたに疲れているところで電車が遅れて、中には一時間も二時間も家に着くのが遅れた人もいるでしょう。その闘いを支援しようという街頭宣伝をやっているわけだから、ぶん殴りたくなるのは当たり前。それが違うと言うんだ。こうした過程で一〇〇万円もカンパが集まりました。この時には、僕は「ああそうか」と思った。半端な順法闘争じゃないから、めちゃくちゃな順法闘争だからね。

これも大きな力になって、弾圧を未然に防いだ。もちろん向こうのミスもあるけれど、僕はそういうふうに総括をしているわけです。

◎動労革マルの敵対

最大の問題は、動労革マルが動労本部を動かして、「かごぬけ」やったということです。

当時、千葉は乗務員の数が非常に足りなかった。足りないところに労働条件を改善させていったから、ダイヤ改正のたびに要員減にならない。合理化が要員減を生まないで、増えちゃう。当時、時間短縮があって、千葉鉄道管理局だけはちょっと先送りという状況の中に燃料輸送問題が起こった。燃料輸送には乗務員が必要でしょう。だから「こんなことはやれない。やるんだったら先に時間短縮をやれ」とか、そういう論理になる。

さらに、佐倉の機関区には燃料を運ぶためのディーゼル機関車がなかった。どこからか持ってこなければいけないわけです。全国から余っているDD51とか、そういう機関車を持ってこなければいけない。重い貨車だから、DD51ぐらいじゃないと運べないんですよ。機関車を移すのを「転配」と国鉄で言うんですけど、それをしなければいけない。

だから動労が全国的にジェット燃料輸送反対闘争をきちっと原則的にやれば、燃料輸送はできなかった。機関士もいないし、機関車もないわけですから。だから、国鉄は、機関車を岡山などいたるところから送り込んできた。それを動労本部が承認しているわけですよ。機関士も足りなくて、秋田だとか静岡だとかから送り込んでくる。特に国労が多かった。この連中は、帰ったら好きなところに転勤させるとか、いろいろ条件付きで来るわけです。

◎国労本部、動労本部の裏切り

その上で、許せないことに、国労と動労の本部が条件交渉をやる。例えば成田は昔は「無級地」と言ったんです。つまり都市手当がつかない。それを三級地かなんかにしたんです。千葉駅から成田までの間の等級を上げたり、どこにカラーテレビを入れろとか、こういうたぐいのくだらないことを要求して、それで手を打つという方向が出たんですよ。動労千葉の闘いをエサにして。

だから僕は当時、国労に「どうせ利用するんだったら、もっとちゃんと利用しろ」と言ったんです。その当時、国鉄の長期債務が何兆円という規模でしょう。僕はこの膨大な借金が必ず足かせになると思っていたから、「運輸大臣に話をつけて、この借金をチャラにしろ。そうしたら燃料輸送に協力してやる」とか、「総評を動かして、それぐらいのことをやれよ」と言ったけれど、実際にやっていたことは、みみっちい条件闘争だった。

千葉市の方がまだ偉い。ジェット燃料は浜野から蘇我まで来て、千葉駅を通って幕張まで行って、幕張から折り返して成田に行くわけでしょう。一日二本ですよ。二本通す代わりに、千葉市は、国鉄の空いている用地を全部いただいちゃったわけ。例えば今、西千葉と稲毛の間に公園があるでしょう。あれは千葉気動車区の跡地なんですよ。これはジェット燃料輸送の見返りですよ。また国鉄は野球場を持っていたけれど、これも千葉市にとられた。沿線の各市町村は、消防署をつくれとか、消防車を何台よこせとか、みんな要求した。ところが国労は、カラーテレビを一つよこせという次元でしょう。そういう「かごぬけ」があるという大変な状況の中で、このジェット燃料闘争をやりました。

だから「前門の虎、後門の狼」みたいな心境で、薄氷を踏む思いの闘争だったわけですよ。この闘争をやるために僕は毎日毎日、目黒の動労本部に行って、当時、相手は革マルだから、革マルとやり合って指令を下ろさせるわけです。指令を下ろさせないことには闘争にならないから。それは大変な状況だったけれど、そういう中から、ジェット燃料闘争を成功させて、これがその後、八一・三のストライキまで行くわけです。

 

◇5.動労千葉の燃料輸送阻止闘争(その2)

◎「拒否から阻止へ」

しかしこの闘いは、このまま続けていくことはできなかった。この過程で当局は、機関士出身の助役に助役兼機関士という職名を発令して、彼らにハンドルを握らせたわけです。動労千葉の機関士はハンドルを握っていない。全部、助役機関士が動かしている。しかし当時の動労本部と当局の間では、これも暫定的措置なんです。ずっとやらせているわけじゃない。ちゃんと話ができているということは、われわれも読み筋だった。結局は動労千葉の機関士に強制されるということは明らかだった。

この状況を打開するためにはどうしたらいいかといろいろ考えて、七八年四月六日に千葉地本臨時大会を招集して、その中で「拒否から阻止へ」という方針を出したんです。つまり「燃料輸送を拒否する」ということじゃなくて、「ハンドルを握って自ら阻止する、われわれのストライキで阻止するという方針が、労働者としての真っ当なやり方だ」と。自分たちの職場生産点を職制に蹂躙されていて、それで潔しとしている、「俺たちだけはやらないんだ」と考えている労働者は腐敗、堕落する。だから、「これからは鉄路のヘゲモニーを握って闘うんだ」と、臨時大会で提案したんです。その時は全マスコミが入っている。動労がジェット燃料闘争について大変な戦術転換をするという噂が流れていますから、テレビも放映しました。

すると、成田支部の村上さんという支部長がさっと手を挙げて、「中野書記長はちょっと頭がいいと思って、われわれの知らない言葉を使ってごまかそうとしている」とだけ言って、座っちゃった。つまり「鉄路のヘゲモニーを握って」と書いてあるけれど、「ヘゲモニー」なんてわからない言葉を使ったと言って、要するに路線転換に反対した。このまま拒否で続けろということなんだよ。それをめぐって討論して、その時は落ち着いたけど、成田支部と話をつけるのに、それから半年ぐらいかかりました。

◎「農民は土地を武器に、動労は鉄路を武器に」

当時は動労の千葉地本だから、動労本部は革マルが握っている。これは常に動労千葉をつぶそうと思っている勢力でしょう。こういう中で綱渡り的戦術をとっている。しかも事が成田空港へのジェット燃料輸送阻止闘争という、いわば政治闘争です。こういう状況の中でどうしていくのか、大変苦労しました。

そうしたら反対同盟の中でも案の定そういう部分が出てきた。後ほど脱落していった青年行動隊のグループです。「動労千葉は偉そうなこと言ったって、結局燃料を運んでるじゃないか。ふざけんじゃないよ。あんなもの、ゲリラをやってぶっつぶしてしまえばいいんだ」と、青行隊がいろんな集会で言ったという話があった。それで動労千葉執行部と青行隊、今、芝山町長をやっている相川だとか、石毛、柳川、島など七~八人が集まって、動労千葉の本部で大論争をしました。それで自己批判書を提出させた。

だけどこの時、中途半端だったんだね。彼らは、労働者の闘いを本当に理解してはいなかった。それでそうとう対立的になったけれど、当時、戸村委員長がまだ存命の時で、彼は素晴らしい感性の持ち主だなと思ったけれど、ある集会で「動労千葉は鉄路を武器にして闘う。反対同盟は農地を武器に闘う。これが労農連帯である」と言った。短い言葉だけど、労農連帯の核心をついた演説をしました。これで全体がまとまった。

 

◇6.八〇年代の闘い切り開いたジェット闘争

動労千葉は、この闘いをいろんな意味で教訓化しました。結局それ以降、春闘とかいろんな闘いのたびに、燃料輸送貨物列車をストライキに入れました。その集大成として八一年三月の闘争を構えます。成田空港は、七八年五月に開港し、燃料輸送は三年間という期限が決められていたのに、三年間を超えてもパイプラインができないから延長すると提案してきました。「ふざけんな」と言って、八一年三月に指名ストから始まって全線を止める二四時間ストまで一週間にわたるストライキをやりました。これで当時の執行部四人が公労法解雇を受けました。

七七年からのジェット燃料輸送阻止闘争は、福田内閣による成田空港七七年開港方針、および労資安定化路線を打ち破ったことは間違いありません。それだけではなく、スト権闘争以降の日本の労働運動を今の連合のように全体として変質させていく路線に激しく対決して、それを後景化させるという闘いをやりきったと思っています。

さらにこの当時、三里塚反対同盟に襲いかかっていた分裂策動と対決するものだった。つまり七八年の暫定開港以降、反対同盟をそのまま放置しては成田空港はできないということで、いわゆる「話し合い」路線が出てくるわけですが、これをわれわれの闘いが完全に粉砕して、いったん後景化させます。それはまたぶり返して、八三年にはいわゆる三・八分裂という大変なことが起こりますけれど、いずれにしてもそういう策動を少なくとも五年、一〇年という単位で遅らせることはできたと思います。

マル生闘争が勝利したことによって、連合結成が一〇年遅れたと言われますけれど、それだけじゃなくて、動労千葉のさまざまな闘い、とりわけジェット燃料闘争が国鉄の分割・民営化攻撃を遅らせることに役に立ったんじゃないかと思います。その闘いをとおして動労千葉は、この後、七九年の動労本部との分離・独立の闘いに勝ち抜きます。

いずれにしてもこの七〇年代、総評労働運動がスト権闘争を経て大きく後退を余儀なくされるという中で、それに対抗する新しい勢力の運動の旗手的な存在として動労千葉は闘ってきたし、精一杯七〇年代をのりきり、八〇年代を準備した闘いであったと総括できると思います。

●第三章 動労革マルとの対決から分離・独立へ

 

◆Ⅰ/動労革マルとの闘いの経緯

 

分離・独立闘争というのは、国鉄千葉動力車労働組合の結成にいたる過程のことです。それまで動労千葉は、国鉄動力車労働組合千葉地方本部という組織でしたが、七九年三月三〇日、国鉄千葉動力車労働組合という組織を旗揚げする。そこにいたる過程、特に動力車労働組合の中における革マルとの激しい闘いの歴史と教訓をお話ししたいと思います。

 

◇1.千葉地本青年部に対する革マルの攻撃

◎新小岩支部滝口誠青年部長解雇撤回闘争に対する敵対

動労の中で対立が始まったのは一九六八年です。当時、新小岩支部滝口誠青年部長が不当解雇された。これを千葉におけるマル生攻撃の始まりととらえ、闘いを組みました。勤務時間中の飲酒など、いろんなことを事件にデッチあげられた首切り攻撃です。

千葉地本の青年部運動は大変なダメージを受けました。新小岩支部というのは青年部の中心的な拠点で、青年部員が二〇〇人以上いました。その青年部長が見せしめ的に首を切られたわけですから、衝撃を受けないわけがない。その時に、当時の東京地本青年部を牛耳っていた革マルが、この滝口君の解雇撤回闘争に敵対したわけです。当然のことながら、千葉の活動家の中に「東京のやつらは許せねえ」という意識が大きく生まれた。これが、動労革マルとの対立の始まりです。

◎二年間にわたる組合諸会議でのテロ・リンチの日常化

七〇年安保・沖縄闘争の過程から、千葉地本の青年部が組合指令に基づいて中央の会議や諸行動に参加するたびに、激しいテロ・リンチが加えられるという事態が約二年間も続きました。当時は「さらしを巻いて殴られてこい」と指導したことを今でも覚えていますけれど、さらしを巻いてその中に週刊誌を入れて腹を守って、悲壮な決意で青年部の諸行動に参加したんです。

この過程はマル生攻撃がピークに達していて、職場では激しい組合つぶしの攻撃が日常的に行われていました。そして他方では組合の諸行動に参加すると革マルからテロ、リンチを加えられる。これでは動労千葉の青年部活動家たちが組合活動に嫌気がさすというのは当たり前ですよね。「なんだ、この労働組合は。当局と闘うんじゃなくて、行けばいちゃもんをつけてぶん殴りやがる。こんな組合にいられるか」という気分が生まれたことも事実です。革マルはそれを狙っていたんですね。

◎千葉地青拡大常任委員会「不参加」決定―動労本部「組織一六号」発出

これに対して七二年に千葉地本青年部の常任委員会が、「釈明と自己批判がない限り、一切の諸行動に参加しない」ことを決定しました。

すると七二年九月、当時の動労中央本部が「組織一六号」を発出しました。青年部の行動の中でいろいろなことが起きていたわけですが、動労本部はそういうことはまったく知らない。動労本部青年部を握っているのは革マルですから、革マルの言い分だけ聞いて、会議に参加しない千葉の青年部が問題だとして、「千葉の青年部は会議、行動に参加しなさい」と発出されたのが「組織一六号」です。

◎船橋事故闘争に対する敵対

七二年三月には船橋事故が発生して、船橋事故をめぐる闘いが千葉の中から起こる。この船橋事故闘争、つまり反合・運転保安闘争ですけれど、これに対しても革マルは敵対してきます。当時の動労の中でも「事故は本人の責任で、労働運動の課題になり得ない」「乗務員分科会はその乗務員を救済するのが関の山だ」という意見が多かった。これに対して千葉地本は、「労働組合の第一級の闘いに据えるべきだ」と主張して、闘いをやってきたわけです。これに対して東京の革マルを中心に敵対してきた。

具体的には、当時の本部の全国乗務員分科会は、さすがに「全乗務員の署名運動をやろう」という指令を全国に発出したんですが、東京だけは、本部指令の「高石運転士を守る署名」を現場に下ろさず、取り組まない。高石運転士が起訴されて、裁判闘争を闘っている渦中にです。

◎千葉地本青年部役員六人の組合員権利停止処分と、地本執行部総辞職

そういう中で七三年一月、会議をボイコットしていた動労千葉地本青年部の六人に対して、無期限の権利停止処分が出され、査問委員会が設置されます。当時の千葉地本執行部は、「本部が決めたことだから」と、この本部方針を受け入れました。それをめぐって臨時大会が開かれて、青年部に対する処分撤回要求決議が圧倒的多数で可決されました。

当時、僕は支部長でしたが、約九割の代議員がこの青年部の処分に反対します。本部方針が否定されたわけですから、動労本部の書記長などが乗り込んできて恫喝を加えてきましたけれど、頑として言うことを聞かなかった。「この処分はおかしい。暴力をふるった側が免罪されて、暴力をふるわれた側が統制処分にされるなんて、こんな理不尽なことがあるか」という、きわめて単純で素朴な怒りでした。

当時の地本執行部は、本部側の立場で提案をしたわけですから、それを否定されたという現実をもって、篠原委員長以下が総辞職するわけです。それに対して動労本部からは、「千葉地本で本部方針が通らない。本部方針に従わなければ千葉地本は再登録だ」という恫喝もありました。この臨大が四回も続いて、同じ年の九月の定期大会までずるずるとそういうことが続くわけです。

◎千葉地本関川・中野体制確立(七三年九月)

九月に定期大会が行われ、この大会の中で関川委員長、中野書記長という体制が確立されます。僕は動労本部や革マルからは、いわば千葉地本青年部運動のリーダーと見られていましたから、そのリーダーが今度は親組合の専従書記長に就任した。

この時、僕が書記長に立候補したら、委員長にも副委員長にも、執行委員にも、誰も立候補しない。立候補届を出しているのは一人だけ。立候補すれば過激派たる中野洋、動労の中で最大のターゲットになっている中野と一緒に仕事をやるようになるわけだから、誰もやりたがらない。しかし、中野をたたきつぶそうと思っても、勝てる対立候補はいない。それで最後に関川宰さんが委員長を引き受けてくれて、大会流会の直前に三役体制が確立されました。それで関川・中野体制ができます。これによって、もう青年部問題ではなくて、千葉地本対動労本部、千葉地本対革マルという構造に転換したわけです。

 

◇2.動労本部の右旋回と動労千葉地本

◎東京地本大会「順法闘争自粛」「労使正常化」方針(七四年)

七三年三月というのは、ちょうどマル生闘争が勝ち始めてきて、春闘もオイルショックという不況下で、激しく労働者の闘いが高揚した時でした。とりわけ七〇年安保・沖縄闘争の影響を受けて、それを担った青年労働者たちがいろんな労働組合の先頭で激しく闘った。そういう中で、七三年三月の春闘過程で、上尾暴動が起こりました。四月末にはそれが首都圏全体に広がって、首都圏暴動が起きた。

この二つの暴動はいろいろな意味で影響を与えました。一方では、「もうスト権を条件付きで付与してもしょうがないんじゃないか」という機運が支配階級の中に生まれます。他方、労働組合の中ではこの上尾暴動で完全に動転して、「もう順法闘争なんかやれないんじゃないか」という声が出てくる。その最たるものが、当時東京地本の委員長をやっていた松崎明です。

松崎は、翌七四年の大会で「順法闘争自粛」論を出しました。同時に、合理化問題なども含めて当局との話し合いを重視し始めました。当時、国鉄当局が推進した「労使正常化」路線です。マル生で疲弊した国鉄の労使関係をなんとか正常に戻さなければいけない。そこで、労働組合と仲良くして、労働組合を丸ごと闘わない労働組合にしてしまおうという「労使正常化」路線が国鉄本社の方針になるわけですが、それに乗る形で松崎は、東京地本大会でそういう決定をするわけです。

これとあわせて、この上尾暴動の時から革マルは「権力の謀略論」を言い始めました。例えば三里塚闘争なんかも全部「謀略」と言います。三里塚反対同盟は「権力の走狗」になるわけです。この「謀略論」を七〇年代に満展開していく。その始まりが上尾暴動です。国鉄労働者の順法闘争を契機として起こった労働者大衆の闘い、乗客はほとんど労働者ですから、これが暴動的闘いになるのに対し、この怒りをどう労働者階級の側が獲得するのか、あるいは権力の側に利用されるのか、ある種の分水嶺をなす時代に直面したわけです。

◎札幌地本問題発生、全動労結成(七三年暮れ~七四年初頭)

七三年暮れから七四年初めにかけて、動労の中で、札幌地本問題が起きます。七三年、出雲で行われた動労全国大会で、目黒今朝次郎という動労本部委員長を社会党公認で参議院選挙に出すことを決定したんです。そのためには選挙資金が必要ですから、一人あたり二〇〇〇円を一回の手当ごとに五〇〇円、二年間かけて徴収するという方針が決定されます。これに対して共産党が権力を握っていた札幌地本が、選挙闘争資金を拒否したわけですね。理由は「政党支持の自由」です。「社会党を支持する者もいる。共産党を支持する者もいる。それを強制するのはおかしい」という日共の論理です。

この当時の日共は、総評大会やあらゆる組合の中での唯一の主張が「政党支持の自由」論です。これは労働者階級の階級性や、労働者階級の階級的団結をまったく否定する論理です。簡単に言えば、「労働者が自民党を支持すると言ったら、それも認めろ」ということです。われわれは、労働者が自民党を支持したら、「自民党は資本家側の党だ」と、その労働者と闘いますよ。日共の場合は政党支持の自由、思想・信条の自由の問題にしてしまう。これは労働組合の団結ということから言えばまったく反動的な主張です。

いずれにしても共産党はその当時はそういう方針でしたから、共産党が握っていた札幌地本はこの選挙闘争資金に反対するわけです。それで本部は全国大会の決定違反として、ただちに一二月に社会文化会館で臨時全国大会を開き、札幌地本の凍結を決定してしまう。そして飛行機を予約しておいて、ただちに役員が札幌に飛んで、雪の中でごりごりオルグを始めた。札幌地本は四〇〇〇人の大地本でしたが、あまりにも乱暴なやり方だから真っ二つに割れて、動労側に残ったのが一八〇〇人。他方、七四年初めに全動労という組織が結成され、こちらに二〇〇〇人。それで大きくは決着がつきました。

当時、千葉地本も委員長以下執行部が札幌に動員で行くわけです。札幌の連中に「おい、この次はおまえら、千葉の番だぞ」などと言われましたが、「俺たちはおまえらと違って政党支持の自由とか、五〇〇円やそこらのみみっちい話ではやらない。やる時は地本をあげて闘争するから、心配するな」と言ってやりました。

◎いわゆる青年部問題の一応の「決着」(七六年三月)

話を戻します。このころから、青年部問題ではなく、千葉地本問題になった。「千葉地本は諸悪の根源、動労のガンである」と言われました。

七六年三月に動労三一回臨時全国大会が日本青年館で行われました。三月ですから、一応は春闘の総決起を実現するための大会というのが名目でしたが、実際は、この大会で千葉地本の再登録を決定し、一気に千葉地本を解体しようということを決めるための大会だったんです。われわれはそれを読んで、ここで一応決着をつけようと対応します。

要するに「これからは青年部を諸会議に参加させる」ということを、当時書記長だった僕が、ヤジと怒号の中で発言したんです。この時、千葉地本の大会代議員は八人いましたが、議長はみんな革マルだから、手を挙げてもなかなか僕を指さないんです。それでも、地本の中では「俺だけが手を挙げて発言する」と確認していましたから、千葉問題なのでしょうがなくて僕を指した。僕は勇躍、マイクの前に立って延々三〇分以上にわたる大演説を開始した。僕の前に松崎がいて「うるせえ、許せねえ」なんてヤジっているのが聞こえましたよ。千葉のすぐ目の前が東京の代議員席だから。最後は、演説をやっているうちに、マイクを抜かれちゃいました。

その時に日本青年館には、動労千葉から四〇〇人から五〇〇人動員しました。上は五五歳から下は一八歳まで、勤務以外の組合員を全員動員しました。「今の動労の中で何が起こっているのか、誰の主張が正しいのか、自分たちの目で見ろ」ということで、全員動員した。これが二階の傍聴席を全部うずめているわけです。それで僕が演説し始めると革マルがワァッとヤジる。それに対して千葉も負けずにヤジりますから、もう何をしゃべっているのかさっぱりわからない。聞きたい代議員は、会場の外にスピーカーで流れていますから、会場の外に行く。

僕は発言で、組合の諸行動に参加中のテロやリンチを徹底的に弾劾した上で、「次からは青年部をきちっと体制を整えて行動に参加させる」と主張したから、松崎以下革マルは怒っちゃって、「ふざけんな。今さらそんなきれいごとで済むか」と、僕の目の前でヤジっているわけです。

普通、大会が終わってから議事録をつくりますよね。だけどこの大会の時は、僕の発言だけはその晩ただちに起こしたんです。その晩、速記の人たちがヤジと怒号で聞こえないところを僕のところに聞きにきました。「そんなこと、大会が終わってからやればいいじゃないか」と言ったら、「あなたの発言だけはただちに提出しろと、中央執行委員会が待っているのよ」と言われた。「そうか。あいつら、俺の発言に反組織的な言動があったら、それを理由にしてやるつもりだな」と思ったんです。そのあたりは僕は非常に巧妙ですから、口実を与えるような発言をまったくしなかった。だから何もできなくて、その時は圧倒的に勝ちました。

おもしろかったのは、松崎明の対応です。松崎というのは「大物」ですから、大会でも手を挙げて発言したりしないんですけれども、僕がしゃべったものだから、怒りにまかせてぱっと手を挙げたんです。ちょうどそのころは、革マル派と中核派のゲバが激しくやられていたでしょう。それで僕の家にゲバを理由にガサが来たんですよ。国鉄の宿舎にいたけれど、それで「鉄パイプを何本押収」なんて新聞記事が出た。鉄パイプというのは、現場の検修が、電車や気動車の網棚のパイプを使って文鎮にしたり、いろいろつくったやつをくれたのが二~三本あったんです。それで松崎は、「新聞を見たら、中野代議員の家に暴力行為でガサが入った。俺はそんな悪いことをしていない」と発言したわけ。さすがに社会党系の民同の諸君からも、「あの発言はないよ。権力の弾圧じゃないか」と、大変なひんしゅくを買いました。松崎は、権力の弾圧に反撃をするんじゃなくて「俺はああいう悪いことをしない」と発言したわけですから。

この大会直後の三月末に、総評青年協が青年労働者を集めた春闘総決起大会がありました。全国から数万人の青年労働者が集まって、赤、青、白、いろんな党派がヘルメットをかぶって登場する大集会だったんだけれど、千葉地本青年部がここに登場したわけです。この時は、大会後初めての参加ですから、青年部だけでなく執行部も一緒に参加させました。その時、動労青年部と社青同解放派がぶつかったんですが、どう見ても動労青年部革マルの方が挑発して、悪さをしている。社青同解放派の周りを取り囲んでデモをやったり、挑発しているわけですよ。それで解放派の方が満を持してコーラ瓶などを投げつけるようになる。そういう委細を全員に報告書として書かせて、動労本部に提出しました。「動労青年部は本部機関の決定で参加した行動でこういうことをやっている。これでいいのか」と突きつけました。ますます憎しみを買うわけだけれど、本部は何も回答できませんでした。

ここで一定の決着をつけたんだけど、結局、動労千葉を解体しようという意図は変わりませんから、後から後から難題を吹っかけてくるわけです。

◎「ヘルメット問題」(七七年)

次に出てきたのはヘルメット問題です。あの当時、ヘルメットというのは党派を表したんです。白ヘルは中核派、白ヘルにテープ巻きは革マル、社青同解放派は青、ブント系は赤、緑はどこどこというように、いろいろあったでしょう。

動労千葉地本青年部は、一番最初にヘルメットをかぶったんです。これは六八年、三里塚闘争に参加する時に、当時の青年部長が動労本部まで行ってもらってきたヘルメットです。あの当時、各組合の倉庫にはヘルメットがいっぱいあった。六〇年の三池闘争の時に、総労働対総資本ですから、組合が動員して三池に行ったんですが、三池は危ないから、みんなヘルメットをかぶった。これがたまたま白ヘルだった。普通、ヘルメットは白か黄色しかないんだから。その時の白ヘルが動労の倉庫にいっぱいあったから、それを三〇〇ぐらい借りてきて、それをかぶって三里塚闘争に登場したんです。当時動労本部の組織部長だった中江さんが「本部にヘルメットがあるから、みんな持っていけや」と言ってね。

革マルはその後からかぶり始めたから、白ヘルにテープを巻いた。学生は赤とか、労働者は青とか、巻いていた。それで、七七年に「千葉地本青年部はヘルメットにテープ巻け」と言い始めた。「テープなんか巻けるか。あれは革マルのヘルメットじゃないか」というのは当たり前の話です。しかし革マルにとっては、動労青年部の行動の時に、他の地本の青年部は全部テープを巻いているのに、千葉の青年部だけはテープを巻いていないのが、なんとも悔しかったんじゃないか。

この問題をこともあろうに、動労中央本部に持ち上げた。ヘルメットをめぐって何回も会議をやっているんです。考えてみれば暇な組合だと思うけれど、僕なんかも呼ばれた。動力車会館の会議で、東京地本の委員長は松崎明、僕は千葉地本の代表で行って、そこでしゃべりまくりました。「ヘルメットというのは今、党派の色なんだ。動労青年部のヘルメットは革マルというふうに世の中は認定しているんだ。なんでそんなヘルメットをかぶらせるんだ」と。加えて、「千葉の青年部のヘルメットには伝統があるんだ。六〇年三池闘争以来の伝統をもってかぶっているんだ」と、これは事実だから。「文句あるか」と言ったら、黙ってしまった。

しかし、動労本部に革マルはだんだん浸食していったから、最後は指令を下ろしてきました。「これからの動労青年部のヘルメットは、白いヘルメットに青色のテープを巻いて、字は黒で書いて周りを赤で囲め」と、そういうところまで指令で下りてきている。こんなものが、本部指令で出たんですよ。「動労はいったいどうなっちゃったんだ」と思いました。

この時に僕は動労千葉の青年部に、「ヘルメットにテープを巻け」と言いました。もうわかったわけです。これはあらゆる難癖をつけてわれわれを排除して、再登録にかけようと考えているなと。そんな挑発には乗らないということで、青年部を集めて、「地本の判断だ。テープを巻いたヘルメットをかぶれ」と指示したんです。

その時に関川委員長が僕に、「書記長、青年部に革マルのヘルメットをかぶらせるのはあまりにもかわいそうだ。俺は見るに耐えない。俺がかぶるから、堪忍してやってくれないか」と言うんですよ。僕は「委員長、あんたがかぶったからといって解決しないんだよ。青年部にこれをやらせる以外にないんだ」と言って、会館の会議室に三〇〇から五〇〇のヘルメットを並べ、それに全部テープを巻かせました。「革マルのヘルメット」がどんどんできていくわけだから、それは異様な雰囲気になっちゃって、青年部も、涙を流しながらみんなかぶりましたよね。

僕はこういうことに耐えられる、そういうこともやりぬく労働組合でなければダメだと思いましたから、青年部が何と言っても頑として引きませんでした。このことをきっかけに、一〇人ぐらい、一時期青年部運動から身を引いた組合員もいた。「革マルのヘルメットをかぶるなんて、絶対に嫌だ!」と言って。これもまた正しいよね。

ちょうど翌日、三里塚現地集会があって、動労千葉は、あの当時は三〇〇人ぐらい動員していました。反対同盟の集会では、動労千葉は演壇の真ん前が指定席なんです。反対同盟の司会が「今、動労千葉が入場しますから、みなさん、場所を空けてください」と必ず言うわけ。そこに動労千葉の隊列が登場するわけですよ。そうしたら、革マルのヘルメットをかぶっているもんだから、場内が一瞬しーんとしちゃってね。今でも覚えていますけど、そんなこと知っているのは誰もいないんだから。「革マルが来たんじゃないか」「どうも違う。動労千葉らしい。動労千葉がなんで革マルのヘルメットをかぶってくるんだ」。それは一回きりにしましたけどね。だから今でも『おれたちは鉄路に生きる』という当時のジェット闘争の時のパンフレットには、うちの青年部がテープを巻いたヘルメットをかぶっている写真が出ているでしょう。あれはその時の名残なんですよ。

つまり動労千葉はあくまでも耐えがたきも耐えるという姿勢なんです。革マルのヘルメットをかぶるということは、動労千葉青年部にしてみれば屈辱以外の何物でもない。それをあえてやった。「青年部もそこまでやるのか」というのが、うちの親組合の中でも広範に生まれたし、ここまで千葉が譲歩しているのに、という千葉地本への共感が全国的に広がりました。僕はそういう効果を狙いました。青年部には申し訳なかったけどね。

 

◇3.三里塚ジェット闘争に対する敵対

◎口先で「反対」、実際は「かごぬけ」

そういう中で三里塚ジェット闘争を始めたわけです。三里塚ジェット燃料貨車輸送阻止闘争というのは、千葉地本が単独でやった闘争ではありません。七六年の動労中央委員会の時、僕が中央委員で、千葉地本を代表して特別決議を提出して、満場一致で決まったんです。翌七七年の水上の全国大会でも、千葉を先頭にしてジェット燃料貨車輸送阻止闘争をやると決めたし、千葉地本の旗開きには林大鳳という当時の動労委員長が来て、「反対同盟との連帯を強化して、わが動労も闘う」と決意を表明しました。

そういう三里塚ジェット闘争の中で、ある意味では動労千葉は独走しました。だって当時の組織部長の革マルの城石や書記長の青木などは、闘争指令を下ろさないんですから。だから指令を下ろさせるために、僕と当時副委員長だった西森君の二人で毎日のように目黒の動力車会館まで行って、「機関決定なんだから指令を下ろせ」と要求しました。こうして、三里塚ジェット闘争をやりきったわけです。

ジェット燃料輸送というのは、新しいものを輸送するわけですから、当然にも千葉に機関車を増配しなくてはいけない。機関士も足りなかった。その時に動労本部の革マルが、動労組合員の機関士を千葉に送り込みました。一方では「反対」と言いながら、一方ではそういうことをやる。これを「かごぬけ」と言うんです。

◎動労第三四回全国大会(津山)で三里塚絶縁宣言

その翌年、七八年七月の津山大会で本部は、「三里塚反対同盟と一線を画す」と決定しました。「一線とは何だ」と言ったら、「絶縁だ」と言いました。それから、「貨物安定宣言」を打ち出して、公然と反合理化闘争を放棄しました。「国鉄貨物の需要が減るのは、組合がストライキをやるからだ。だからストライキをやる時には貨物列車を除外する」ということなんですが、実はそれまでも、貨物はほとんどストライキに入れたことがないんです。貨物は当局が止めていたんです。スト権闘争の時も千葉は、貨物列車は一本もストライキに入れていませんからね。だけど当局が、「旅客列車が動いていないのに、貨物だけ動かしたらおかしくなる」と言って、貨物も全部止めちゃうんです。だから貨物列車をストライキの対象にしたことは、もう一〇年ぐらいありませんでした。なのにあえて動労本部がそういうことを言ったのは、この時、貨物合理化がすさまじかったからです。つまり実際上は、反合理化闘争を放棄する宣言だったんです。

それとあわせて、「水本運動」と言って、水本という革マルの学生活動家が水死体で発見された事件を「権力の謀略だ」と言って、これを追及する運動を当時革マルが始めますが、その取り組みをこともあろうに動労の運動方針にしたわけです。

こういう無茶苦茶なことが起こったのが津山大会で、この時にはまだ本部方針に対して、四〇%ぐらいの反対がありました。そして千葉地本が先頭に立って闘ったわけだけど、それが僅少差で負けた。その津山大会の四日目、大会が終了するころには、千葉地本の代議員が全員大会会場から排除されました。そして大会終了後に出口で革マルが待ちかまえていて、出てくる千葉地本の代議員と傍聴者に殴る、蹴るの暴行を働いたわけです。

◎三里塚集会に千葉地本四〇〇人動員

津山大会は七月ですが、この後の九月に三里塚で全国集会がありました。この時、動労本部は「一線を画する」という方針ですから、どうしようかと考えたんですね。そこで、当時は反対同盟の集会は三里塚第一公園でやっていましたから、われわれは道路を一本隔てた第二公園で、動労千葉の独自集会を開いたんです。「道路を一本隔てているから、一線を画しているだろう」という理屈で集会をやって、「あとは組合動員じゃない。参加したい人間が勝手に参加しただけだ」という建前をとったんですよ。だけど実際は関川委員長を先頭にして全員が、反対同盟の集会に参加しました。第二公園からデモで第一公園に行ったわけです。マスコミはその背景を全部知っていますから、この集会の報道では、反対同盟の戸村委員長の発言よりも関川委員長の発言の方を、NHKのニュースなどが延々と流しました。

◎動労第一〇一中央委員会で千葉地本役員に対する査問委員会設置決定

NHKニュースに流れたことを口実に、関川委員長以下が査問委員会にかけられます。普通、労働組合で一地本の委員長を査問委員会にかけるのなら、多少は事情聴取とかいろいろなことが必要です。しかしまったくやらない。「なんでやらないんだ」と言ったら、「ちゃんとテレビに出ている。あれが証拠だ」と。それを理由にして動労中央委員会で査問委員会の設置を決定しました。

査問委員会を設置するということは、組合に対して反組織的な行動をしたということですよね。しかし査問委を設置したのが一一月で、動労千葉の分離・独立は翌年三月ですから、この間、査問委を設置しておきながら、その「反組織的」な行動をした関川宰という最高責任者をそのまま放置していたわけです。地本委員長というのは指令権を持っているわけだから、普通は執行権を停止します。あらゆる会議の招集権、動員指令権、当局との団交権、協約協定の締結権、すべてを委員長が持っている。その委員長に対して査問委員会を設置しておきながら、そのまま放置したわけです。

しかし委員長というのは、千葉地本の組合員が選出した委員長で、本部から任命された委員長ではありません。委員長を執行権停止や組合権停止にした場合、その組合はただちに副委員長が委員長を代行して大会を招集して、新たに別な委員長を選ばなければいけない。しかし多数派が委員長を選出しているわけですから、そういうことはできない場合が多い。だから、再登録になるんです。改めて「本部のもとにやるのかどうか」という再登録を始める。札幌地本問題みたいなことがすぐ起こるわけです。しかし千葉の場合には札幌と違って、再登録運動がなかなかできなかったんですね。動労本部としても、「再登録運動をやったら、組合員はみんな関川派に行ってしまう」と判断せざるを得ない力関係だったということです。

僕はこの問題が起きた時にいろいろ考えました。当時、千葉地本の各支部長クラスはもう腹を決めて、「動労本部と決別しよう」という意見が圧倒的多数です。これに対して「ちょっと待てよ」と言う人はほとんどいませんでした。一人で悩んで一番日和っていたのは書記長だった僕でした。それはそうなんですよね。独立したとして、財政は持つのか、当局との団体交渉権は成り立つのか、いろんな問題を考える。千葉における共闘との問題はどうなるのかとか、いろいろあるわけです。そういうことをすべて考えて、僕は六畳一間にこもって一人で悩み苦しんだあげく、ある日執行委員会で、「ここまで来たら、腹を決めて、本部と決別しよう」と言いました。そう提起したらいろいろと意見が出ると思ったら、「おまえが腹を決めるのを待っていた」と言われました。「委員長以下俺たちは、みんな腹は決まっているんだ。書記長のおまえがいろんなことを考えているから、おまえが腹を決めるのを待っていたんだ」と。執行委員会で、まったく何の議論もなかった。そこで決定して、そこから分離・独立へ向けて闘い始めたわけです。

まず、一一月から組合費を本部に納めるのをやめました。動労は単一組合ですから、組合費はいったん全額本部に上納して、それから交付金という形で下りてきたり、地方本部の専従者や書記の賃金も全部本部から下りてくるという仕組みでした。その組合費の納入を全部ストップしちゃったんです。これは後ほど、動労本部に「組合費を払え」という裁判を起こされて、二〇〇〇万円ぐらい取られちゃったけど、そういうことなんかも含めてやって、三月に向かう過程でありとあらゆることを考えました。

札幌地本の経験もありました。革マルがどういうことをやってくるかということを、僕は僕なりに一〇ぐらい考えて、それに対して万全の体制をとったんです。万全と言っても一四〇〇人あまりの組合員ですから、そんなには体制をとれないですね。だけどわれわれのやれる範囲で万全の体制をとろう、と。

例えば、本部の暴力的なオルグが必ず来る。向こうは一〇〇~二〇〇人。うちの組合員は一四〇〇人ですから、一支部平均一〇〇人。多いところは何百人いるけれど、小さい支部は三~四〇人しかいないところもある。そういうところの対応をどうするかということで、「ベトコン方式で行こう」とか、「来たら全員逃げちゃえ」とか、「向こうが少なかったら集まってやっちゃえ」とか、いろんなことを考えてやったんですね。

分離・独立した後は、動労千葉としても財政を持っているわけです。一一月から組合費を全然納めていないから、けっこうなカネを持っていたわけですね。全部労金に預けていた。そうすると、「このカネはどっちのカネか」ということが必ず問題になって、仮処分で差し押さえができるんです。そうすると、どっちも下ろせなくなる。動労本部側は下ろせなくてもいいけれど、うちは下ろせなくなったら困るから、動労千葉を結成する直前にカネを全部下ろしちゃったんです。今でも忘れませんが、袋に分けて運んでね。何千万円というカネは、けっこう重いものですよ。「こんな大金、どこに隠そうか」なんていう笑い話もありました。

 

◇4.国鉄千葉動力車労働組合の結成

◎関川委員長らの除名処分と分離・独立

そういうところまで全部手を打って構えたところで、三月三〇日に動労本部が一〇四回中央委員会を開きました。そこで、関川委員長以下、僕も含めた四人の除名処分と執行部全員の組合員権停止処分を決定したんです。この時は、動労本部内に、向こうの動きをわれわれに教えてくれる人たちがけっこういたから、彼らの動きは全部わかっていた。この日にやろうとしていることもわかっていたから、われわれも同日に、動労千葉地本臨時大会を招集していたんです。それで動労本部が統制処分で関川委員長の除名を決定した直後、間髪を入れずに動労千葉の結成大会を開き、同じ役員を選出しました。

なぜそうやったのかというと、統制処分になると、動労千葉地本が事実上解体したことと同じ意味になるんですね。そうすると三六協定は誰が結ぶのか、二四協定は誰が結ぶのか、そういうことがただちに問題になる。団体交渉をどうするのかということも問題になる。組合員の利益を代表するのが労働組合だから、間髪を入れず動労千葉をつくって、「これが千葉における正統派だ。立派に千数百人を組織している組合である」ということをはっきりさせなければいけない。

だけど実際は、六月まではダメでした。六月まで、公労委が認知しなかったんです。われわれは動労千葉への加盟署名はとらないで、「動労本部のやり方は間違っている」という団結署名をとったんです。つまり動労千葉の加盟届を出すということは、動労本部に脱退届を出すということでしょう。われわれは別に動労が憎いわけじゃない。動労を牛耳っている革マルが憎いからやっているだけなんだから、動労には絶対に脱退届を出さなかった。動労千葉にも加盟届を出さないわけだから、おかしな存在になっちゃったわけですね。当時「二重権行使」と言って、「動労千葉地本であると同時に、国鉄千葉動力車労働組合だ」という変な理屈をこね回してやったんです。これはけっこう説得力があった。われわれにとって見れば、動労内にもまだ発言権があるよということですからね。

◎動労を二分する反対派の結集

だから翌八〇年の熊本大会の時は、僕も当時副委員長だった布施君、そして本部副委員長を辞任して千葉の分離・独立に合流した中江さんと一緒に、三人で熊本まで乗り込んでいきました。大会会場には行かないけれど、各地本の役員を集めて、「よし、この方針で行こう」「こういう修正動議を出そう」「こういう緊急動議を出して割っちゃえ」というような方針を毎晩毎晩討論した。この熊本大会で動労を割るつもりだったから、工作がどんどん進んで、いいところまで行ったんです。鹿児島の太田派の人たちが反革マルで、鹿児島県評というのは太田派ですから、その人たちの助けを借りて、鹿児島に全部移って大会をやろうと。宿舎も全部手配して、割るところまで行ったわけです。

その時に反対したのが協会派です。だから今、協会という名前を聞いただけで虫ずが走るというのが、まだ動労千葉の活動家の中にはけっこういます。要するに「統一と団結」論です。「動労を割るのは間違っている」と。だけど、あの八〇年時点であれば、動労は数としても真っ二つに割れました。タラレバを言ったら歴史はキリがないんだけれど、割ったら分割・民営化反対闘争には絶対に勝てましたよね。そういうところまで画策しました。

この過程は、動労千葉だけが分離・独立すればいいということじゃなくて、動労を真っ二つに割るということを戦略に入れて千葉はやっていたんです。それが途中で協会派の仙台と鹿児島の諸君が反対してぐちゃぐちゃになっちゃって、革マルに各個撃破され、結局は動労水戸がああいう形で出るしかなかったんです。水戸も、全地本をあげてわれわれと行動をともにする予定だったんです。僕は仙台に行ったり、宇都宮に行ったり、秋田に行ったりして、それで段取りを全部つくったんです。そこまでつくったんだけど、結局はうまくいかなかった。

◎当局と一体となった革マルの襲撃

この過程は、革マルは完全に当局と一体となってやってきました。動労千葉の結成大会以降、各支部をどんどん結成して、実力を発揮していったけれど、七九年の四月一七日の津田沼事件というのがありました。この時、革マルが二〇〇人ぐらいで竹槍をかついで、バールとかいろいろなものを持って、津田沼電車区を襲った。それで津田沼電車区それ自体が滅茶苦茶に破壊されちゃった。その時に、津田沼支部の片岡支部長がぶん殴られて、頭蓋骨骨折の重傷を負った。その結果、国労の組合員が出勤できなくなり、それで電車が百本くらい運休した。

こういうことが起こっても、当局は何ひとつ問題にしませんでした。普通なら告訴するでしょ。器物が破損され電車が遅れて、運休したんだから。しかし当局は何もしない。この時は、さすがに現場の区長たちが怒って、突き上げましたよね。その時に総務部長が僕のところに来て、「国鉄としては告訴しない。お願いだから、組合から告発してくれ。組合が被害者なんだから」と言ってきたんです。僕は、「俺たちは反権力闘争を闘ってるのに、なんで権力にお願いしなけりゃいけないんだ。これは労労問題なんだから、俺たちは俺たちで決着をつける。当局は当局でやってくれ」と答えましたけれど。

それで僕は「労労問題だから、当局に迷惑はかけない。電車の運行に支障を与えるようなことはしない」と、局長にはっきり断言しました。そして彼らがやってくることを想定して、館山、勝浦、銚子、成田、その他全支部で、革マルが来て現場を制圧された時には運転士はどこに出勤させるかということも決めて、電車だけは動かしました。

津田沼には国労の運転士が半分以上いたから、国労の運転士が出てこなくなっちゃった。そりゃそうですね、電車区の中で大乱闘をやってるわけだから。誰も出勤できなくなっちゃう。それで電車が止まっちゃった。やはり本社の職員局サイドは、結局動労本部に加担していたわけです。

彼らはオルグに来ると、まず区長室に行くんです。現場の最高責任者の部屋に行って、「俺は動労の○○だ。出世したかったら俺の言うこと聞け」と言うんですよ。三〇歳くらいの若造が。区長だって、こんなやつらにそんなことを言われたくないよね。だから怒っちゃうわけですよ。で、やりたい放題破壊していく。新小岩も、乗務員詰所は滅茶苦茶に破壊された。津田沼の組合事務所もガッタガタ。成田の区長室も乱入されて滅茶苦茶に破壊されて、区長が捻挫するということまで起きました。

だから、僕のところに現場長がいっぱい来ましたよ。「当局からはいろいろ言われてるけれど、この次にやられたら、私は首覚悟、退職覚悟でやりますから」と、現場の区長が言ってきた。それほど革マルは、国鉄本社と一体となってやったんです。「ちょっと本社はおかしい。動労革マルにあまりにも加担しすぎじゃないか」という現場の管理者たちが出てきちゃった。それまでは「動労千葉は順法闘争をやるし、言うこともきかないし、どうしようもねえ」と思っていた管理者が、みんな革マル憎しで動労千葉ファンになっちゃった。

これはおもしろいですね。やっぱり血が騒いで、「あいつら許せねえ」ってことになっちゃうから、革マルが部隊で東京から移動し始めると、当局は情報網を持ってますから、全部僕に教えるんですよ。「東京駅で快速の何列車の何両目と何両目に一〇〇人が乗った」とか、連絡がくるんですよ。で、僕はすぐ「津田沼、気をつけろ」とか支部に連絡してね。その点では有利だったけど、何分、多勢に無勢ですよね。向こうは何千人も動員してくるんだから。

◎「労使正常化」路線を打ち破る分離・独立

当時の国鉄本社はマル生攻撃の総括の上に立って、「労使正常化」路線でした。「労使正常化」路線というのは、国労を中心に、後々は動労も国労に統合して「一企業一組合」にして、その組合全体を労資協調組合にしよう、という路線です。それで、組合の幹部に毎日飲ませ食わせ、「今日はゴルフだ」「明日は料理屋だ」ということが起きたわけですよ。千葉の国労なんて、それで全部ダメになっちゃった。

動労千葉は当局と一切飯も食わない、レクリエーションも一杯飲み会も何もやらないお固い組合だったけれど、執行委員会で「地本の指導部だから、そういうことも必要悪だ。ただし、それをやるのは一人だけにしよう。書記長がやれ。それ以外の役員は絶対ダメだ」と決めたわけですよ。それで、僕は飲めない酒を無理して飲みました。

その過程で、こともあろうに動労から動労千葉が割れちゃった。それは、国鉄当局の「労使正常化」路線、「一企業一組合」路線に反することであるわけです。だから「千葉をつぶせ」と。

これは国労もそうでした。千葉では、県評ではなくて、県労連でした。総評系だけでなく、中立労連も含めて県労連と言いました。その議長が国労の井原完輔という人で、国労内でも右寄りだったけれど、義理人情の男なんですよ。それで動労千葉が分離・独立した後に、当時の国労千葉地本三役が県労連に行って、「動労は分離・独立したんだから、もう動労の千葉地本じゃない。県労連から排除しろ」と言いに行ったんですよ。

そうしたら、県労連の井原議長が「何を言ってるんだ。ここは千葉だぞ。動労千葉は県労連の優等生組合だ。県労連の方針を嫌がらずに何でもやってくれた。それに比べて国労のおまえらはなんだ。動労千葉の爪のアカでも煎じて飲め」と一喝して終わりになっちゃった。それで革マルが、その県労連の議長の家に何回もオルグに行くわけですよ。しかし「血は水よりも濃い」、頑として譲らない。これで終わりでした。

◎県内共闘関係の維持

動労からわれわれが分離・独立した後、しばらくたって、動労本部は「本部動労」と言われる数十人の「動労千葉地本」をデッチあげました。動労本部にとっては、そっちが「正統派」であるわけですよ。だけど千葉においては、動労千葉が正統派です。

だから全労済や労働金庫などは困っちゃった。全労済の理事は関川委員長でした。理事が認めないから、本部動労の連中は、全労済にも労金にも、二~三年加入できませんでした。

結局は、県内の共闘関係も全部維持しました。それが実現できたのは、やはり力関係ですね。動労千葉には当時、約一四〇〇人の組合員がいましたけれど、そのうち約一三五〇人が関川委員長のもとに集まったんですね。勝ったんですよ。動労本部に行った連中は、銚子と佐倉のごく一部だけでした。やはり、すべて力関係だなと思いました。

この当時は、総評でも、「理は千葉にあるけれど、東京のすぐお隣で、動労本部が当局とつるんでやったら、せいぜい中野につくのは二〇〇人がいいところ」と言われていました。

松崎明なんて、千葉鉄道管理局の大森局長を直接呼びつけて恫喝していましたからね。しかし大森局長は、毎日現場から報告が上がっていますから、「松崎さん、そうは言ったって、ほとんど関川委員長のもとに行っちゃうよ。松崎さん、それは甘いよ」と言ったそうです。そうしたら、「中野一派」にされた。大森局長がその後に転勤した時に、本部動労は「中野一派を追放した」というビラを出しました。自分たちとちょっと違うことを言うと、全部「中野一派」にしちゃうんですね。

そういうことも含めて、十数年にわたる動労革マルとの闘いに、僕たちは勝利したと総括しています。

 

◆Ⅱ/分離・独立闘争の背景と教訓

 

◇1.七〇年代の激動と動労千葉の闘い

◎若者が牽引した七〇年安保・沖縄闘争

この闘いの背景ですが、ひとつは七〇年安保・沖縄闘争と国鉄労働運動の結合に対する、国家権力と一体となった革マルの恐怖です。

七〇年安保・沖縄闘争とは、まず、沖縄のペテン的返還策動が焦点でした。これがベトナム反戦闘争と結合して、七〇年安保・沖縄闘争になった。六〇年安保闘争は、社会党、共産党、総評などがつくった国民会議が闘争の主力でした。これに日共指導から決別した全学連が合流して、全学連の戦闘的闘いが全体を牽引したのが六〇年安保闘争です。これに対して七〇年闘争は、最初から社会党や共産党、総評が完全にネグレクトする中で、反戦青年委員会に結集した青年労働者の決起と、全学連や全共闘に結集した学生の決起、つまり一〇~二〇代の若者たちがこの七〇年安保・沖縄闘争の主役でした。

これは、それまでの既成の枠組みを突破する、日本の階級闘争史上初めての出来事でした。ちょうど僕は一九六〇年の時に二〇歳で、七〇年の時に三〇歳です。僕の思想や人格も、この一〇年の中で形成された。つまり、七〇年闘争は自分たちがつくりあげた闘いだったんです。

だから僕はあの当時、この一〇代、二〇代の連中があと一〇年たったら、労働組合も含めて、日本の社会のあらゆる分野の中心的存在になっていく、そうしたら社会党や共産党に代わる労働者党の建設は可能だと思いましたよ。六九年一一月の佐藤訪米阻止闘争の時など、全国から万単位の青年労働者が結集して、それぞれ色とりどりのヘルメットをかぶり、火炎瓶や鉄パイプを持ったりして機動隊とぶつかり合う。そういった激しい闘争が、日本の戦後の階級闘争の中でひとつのエポックでしたよね。僕はあの渦中にいて、「よし、これから一〇年たったら俺は四〇歳だ。今二〇歳の連中が三〇歳だ。そうしたら日本は変わるんじゃないか」、こういう気持ちがものすごくあった。

◎七〇年闘争に恐怖した権力と革マル

七〇年安保・沖縄闘争の高揚に、誰よりも一番恐怖したのは国家権力でした。このまま行ったら、どうなっちゃうのか。だからあの過程で、三度にわたって、革共同やブントに対して破防法が適用されました。

そして、権力と同じように闘いの爆発的高揚に恐怖したのが、革マルだった。革マルは六九年の東大闘争から逃げたとかいろいろありましたけども、結局は「他党派をどうやってつぶすか」ということだけを考えていたことは間違いない。ですからこの七〇年代初頭、特に中核派への攻撃を始めて、機関紙で「首根っこ、急所論」を展開します。革マルという党派はけっこう、本音を書いちゃうんですね。権力は中核派やブンド、社青同解放派などに対して破防法などの弾圧で首根っこを押さえる。その時に自分たちは急所を蹴っ飛ばすんだ、と。これが「首根っこ、急所論」です。言い得て妙だよね。

動労では、今まで動労の中で一定「左翼」面して民同や共産党を批判し、青年部などを握ってきた革マルの「左翼」的言辞も、この七〇年闘争をとおしてだんだんほころびが見えてくる。それで革マルの言う「階級的労働運動」がだんだんボロボロになってきちゃうということがあった。

それともうひとつ、七三年上尾暴動で完全に動転したんです。こういった中で、動労の中で、民同労働運動をのりこえて闘おうとした千葉地本に対する集中的な攻撃が始まったわけです。

その本質は、革マルの意に沿わない勢力は暴力でつぶすということです。テロをテコとした革マルによる動労の私物化に動労千葉は反対したわけです。そして、動労の先輩たちがつくってきた戦闘的伝統を継承し発展させる、「動労大改革運動」だと、自分たちの闘いを位置付けました。

同時に、その当時「右翼労戦統一」が進んでいました。つまり総評をつぶして、今で言えば連合をつくって、労資協調のナショナルセンターにもっていこうという策動に反対する闘いでもあった。

それは同時に、国鉄労働運動解体攻撃に反対する闘い、つまり国鉄分割・民営化攻撃反対闘争につながっていきます。

 

◇2.分離・独立闘争の教訓

◎「内ゲバを動労に持ち込むな」

この闘いは、けっこう大変だったんです。組合員にしてみると、「中核と革マルの内ゲバじゃないか。それを動労の中に持ち込まれたら困るんだ」という意見が、七〇年代の初めには圧倒的に強かったですよ。当時は、青年部がいろいろな諸行動に出ていくたびにテロ・リンチされて、ケガして帰ってくるってことがずっと続いた。親組合の組合員も、最初のうちは、「若い衆がやってっから、しゃあねえな」「そのくらい元気がなくっちゃいけねえ」くらいの目で見ていた。しかし実はこの問題は、青年部レベルの話ではなくて、動労千葉地本という自分たちが所属している組合の存亡に関わる問題だということがだんだんとわかってくる。

そういう中で出てきたのは、「中核と革マルの内ゲバを動労の中に持ち込まれたら困る」という意見です。これはきわめて真っ当な意見で、各職場、どこでもそういう意見が出てくる。それに対して、「そうじゃねえんだ。労働組合には、中核派も革マル派もいるし、社会党も共産党もいるし、いろんなグループがある。問題は、そういった党派やグループが、労働運動に対してどういう認識や構えや方針で組合員のために闘っているのかってことだ」ということを、うまずたゆまず訴えました。

そうしているうちに、今度は組合員というのはおもしろいもんでね、「親分同士で話つけろよ」という話になったんですよ。「革マルの親分は、松崎明だろう」と。そりゃ知ってるわけですよ。「うちの親分は、中野洋じゃないか」と。「この二人で手を打てば、この紛争に決着がつくじゃないか」と。これもまた真っ当な意見なわけですよ。

この時に僕がとった方針は、物事を隠さずに、すべてのことを明らかにするということです。例えば、動労本部が発行する『動力車新聞』は、千葉の悪口ばかり書いてあるんですから、普通は下ろさない。地本はそういう権限を持っていますから、下ろさなくてもいいんですよ。でも、「動労本部革マルはこう主張している」と全部組合員に明らかにして、それに対して「千葉の主張はこうなんだ」ということを全部明らかにしました。

だから彼らがオルグに来た時に、うちの組合員は、『動力車新聞』で彼らが何を主張しているかを全部知っていました。本部革マルはおそらく、動労千葉は中野が鉄パイプで組合員を脅して支配していると思っていた。しかし実際は、全然そうじゃない。全部組合員に明らかにして、それをめぐって職場でそうとう激しく粘り強い討論をしてきました。「労働組合とはどうあるべきか」ということを、全支部を回って討論したことを、昨日のように思い出します。

◎徹底した内部討議をとおしての団結

核心は、労働組合の団結とは何なのかってことです。労働組合の団結とは、資本と闘うための団結でしょう。労働組合の団結を堅持し発展させるためには、組合内に当然ながら存在する反動的な思想や考え方、またそれを体現する潮流、党派、グループが存在することもまた当たり前で、これと不断に日常的に闘うということを抜きにして、労働組合の闘う団結は成り立ちません。労働組合とは、闘う方針のもとに団結するわけで、何かこうふわっと団結するわけじゃないんです。

組合員だってそうです。組合員も、資本主義社会の中で生まれ育ってきているわけだから、その腐敗した考え方をみんな身につけているわけですよ。カネの問題なんかもそうです。だから一人ひとりが持っているブルジョア社会の腐敗した考え方は、否応なしに出てくる。だから個々の労働者がそれと闘い、闘いの中でこの考え方は間違っているとはっきりさせることが必要ですよね。組織だって同じなんです。「一人ひとりが自分さえよければいいとなったら、労働組合の団結は成り立たないんだ」というようなレベルも含めてあるわけです。だから労働組合は、内部におけるいわば「党派闘争」を抜きに、闘う方針の形成や、そのもとでの団結ができるわけない。どうでもいいような団結だったら資本と闘えない。

今の連合傘下の労働組合は団結していませんよね。労働組合という形態だから、一見団結しているように見えるけれども、実際は不団結状態で、組合員がバラバラの存在にされている。

労働組合とは、好き嫌いは別にして大衆組織だから、いろいろな思想の労働者がいて、いろいろな党派がいる、これは当然のことです。で、どの党派のどういった考え方を選ぶのかということは、組合員が選択することです。例えば分離・独立の過程で言えば、「千葉の中野が正しいのか、東京の松崎が正しいのか、それは組合員が決めることだ」と。「手打ちしてどうにかするとかいうことじゃないんだ」という話をそうとうした。だから、七六年の日本青年館の全国大会には、千葉地本から五〇〇人、一般組合員を全員動員して「松崎がどういう発言しているのか、東京の連中がどういうことやってるのか、全部、自分たちの目で見ろ」ということです。これは「百聞は一見に如かず」で、一〇回や二〇回職場集会をやるよりも、はるかに効果があった。組合員が全部自分の目で見る。

僕は、うまずたゆまず組合員とこの一〇年あまり、本部との問題を話してきました。組合員も、組織問題ですから、賃上げで何百円の違いというレベルではないことがわかる。自分が所属する動労千葉地本という組織が、下手したらどうなるかわからない。間違いなく組合員も関心が高くなりました。

もちろん指導者がそういうものとして提起しなければダメです。今の国労の「四党合意」をめぐる問題もそうですが、組合員に都合のいいことだけ知らせて、事実を知らせないことが多い。それじゃダメなんですよ。組合員にちゃんと事実を明らかにすれば、それで組合員はちゃんと判断してくれます。

◎総評労働運動始まって以来の勝利

動労千葉の分離・独立闘争の勝利というのは、総評労働運動が始まって以来の事態なんです。つまり、組織問題が起きて、一四〇〇人の労働組合のうち一三五〇人が中央に楯突いた側について、多数を占めたというのは、初めてのことです。もちろん、資本と結託してやったケースはありますよ。例えば、石川島播磨では、一万人という労働組合があっと言う間に資本と結託した第二組合に行っちゃった。こういうことはありましたけど、資本と結託したわけじゃなく、闘う姿勢を堅持して闘って、それで九〇%以上の組織を獲得したという例は、総評労働運動史上初めてです。だから労働組合の運動を知っている人たちは、動労千葉の分離・独立闘争を、否応なしに評価せざるを得ないわけです。

動労千葉はなぜここまで闘いができたのか。まず革マル式の労働運動が明確に破産したということです。それに対抗するように動労千葉が、ちょうど七二年の船橋事故を契機にして、反合理化・運転保安闘争や三里塚ジェット燃料闘争などをとおして、闘いを前進させた。特に七五年のスト権闘争の敗北にもかかわらず、動労千葉の闘いは確実に前進した。この過程で、労働条件も獲得していきました。

そうやって闘いを前進させていったことにより、革マルとの闘いの過程でも、組合員がものすごい自信と誇りを持っていた。動労本部があらゆることをやってきても、それに動じない体制ができた。何か革マルとドンパチだけをやって勝ったわけではないということです。

何よりも、執行部が逃げないで、徹底した討論をしたということです。組合員の疑問に真っ向から答える。「中核と革マルの内ゲバを持ち込むな」なんて言われて、答えようがないでしょ。それでも答える。

また組合員を可能な限り三里塚闘争や反戦政治闘争に参加させる。若手はもちろん、親組合の職制に近い層もどんどん動員する。労働者というのは、闘いに参加する中でしか変わらないんですね。

◎分割・民営化反対ストにつながる意識変革

革マルの乱暴狼藉に対する動労千葉の組合員の怒りはすごいから、いたるところで反撃するわけですよ。成田支部では、石灰入りのドラム缶を屋上に一〇本ぐらいつくっちゃって、「来たー!」って言ったら屋上からぶん投げて、革マルがみんな眼科に行ったとかね。そんな話はたくさんあるんですよ。「あんまりやっちゃいけないぞ」と、組合員をたしなめたほどです。

それは、怒りを持ってるし、満を持してますから、やる時はやっちゃうんですよ。津田沼電車区に革マルが率いた動労青年部が二〇〇人くらいで来て、検修車庫に行った。検修は国労が主流で、動労千葉の組合員は二〇人くらいしかいなかった。昼間だから、仕事をやっている最中です。でも、当局はその「オルグ」を認めるわけです。これは大変だ、多勢に無勢でやられちゃうと思ったら、この二〇人が負けないんですね。みんな安全靴をはいてますから、飛び蹴りは出るし、みんなやっつけちゃった。それで後に動労本部が『動力車新聞』号外で、「暴力行為を受けた」とか「ポロシャツがボロボロになった」とか言っているから、「何を言ってるんだ。二〇〇人が二〇人にやられるわけがない」と言ってましたけどね。

それで津田沼の区長が、「書記長、やっぱり二〇人が二〇〇人をやっつけちゃうとまずいですよ。世の中のバランスが取れませんよ。勝っちゃうとまずい。ほどほどがいいんですよ」と言ってきた。だけど、向こうの襲撃に対しては「われわれだって、団結して立ち向かってやる」というのがないと、やられっぱなしではダメですよね。この過程で、動労革マルの襲撃に動労千葉が反撃したことを理由として、前副委員長の布施君が日鉄法で解雇されました。

こういう闘いというのは、普通みんな嫌がるじゃないですか。中核だ、革マルだ、協会だ、革同だって話は、組合員は嫌がるわけでしょ。だけどこういうことは、嫌がろうが嫌がるまいが、労働運動の中には否応なしにあるんです。だから、何が正しいのかということをこれははっきりさせなきゃいけないんですよ。日本中で毎日のように「どこそこの大学で、中核と革マルの内ゲバ」と出ているわけです。そういうことも逃げずに、ちゃんと提起して、考えてもらう。「世の中で起きていることは、われわれ労働者にとって無関係なのか。無関係じゃないんだ。労働組合をどういう労働組合にしていくのかという問題なんだ」ということを真っ正面から提起しました。

だからこの闘いをとおして、組合員が飛躍的に意識転換をかちとった。あるがままの労働者だったら、分離・独立した後、関川委員長のもとに来ませんよ。でもこの闘いをとおして、その後、八一年三月の三里塚ジェット闘争で五日間ストライキを闘った力も培われた。さらに国鉄分割・民営化に対して、国鉄の中で唯一、二波のストライキを敢行できた原動力も、七〇年代の一〇年間の革マルとの闘いにある。この中でいろいろなことを感じ取った、組合員の大変な意識変革にある、ととらえています。

◎権力・資本が見捨てつつある革マル

その上で革マルとの闘いは決着がついたのか、まだ決着はついていない。大きな意味では決着がついたとは思っていますけどね。革マルはもう左翼じゃないと、世の中から見られているわけですから。

われわれは最初から、「こいつらは労働者を裏切る連中だ」と思っていたけれど、革マルもかつては、表向きは「当局と闘う」「権力と闘う」と言っていたわけです。だけど、動労千葉が分離・独立した数年後には、国鉄分割・民営化攻撃に対して、いとも簡単に転向して、もう本性が明らかになったわけです。そして今や、権力やJR資本にも見捨てられつつあります。

彼らは、JRという資本に身を寄せて、資本の庇護のもとで、その力を借りて労働者を制圧し、労働者を恫喝し従わせることで生き延びてきただけです。自分たちの方針や闘いによって組合員を獲得しているわけではありません。「労働者なんて、脅かせば言うことを聞く存在だ」と思っているんですよ。

しかし動労千葉の闘いを見ればはっきりしていますが、動労千葉の組合員は、いろいろな面で、動労千葉にいた方が損しているわけです。だけど労働者としての誇りをかけて動労千葉に結集しているわけで、人間としてのレベルが違います。そこに戦争を仕掛けてきたわけだから、それは、動労千葉の労働者は受けてたちましたよ。

◎JR総連革マルに引導を

今、最大のチャンスが来ています。平成採と言われているJRになってから採用された青年労働者たちをめぐる攻防です。彼らは、分割・民営化を知らないわけですよ。労働運動のことも、ストライキのことも何も知らないわけですよ。

この若い青年労働者は、全部JR総連に入っている。この労働者たちに対して、動労千葉は今、労働者はどう生きるべきか、労働組合とはどうあるべきかということを日常不断に自分の身を持って教育しています。この若い労働者たちを動労千葉に結集させるということは、会社とJR東労組の結託体制を粉砕する重要な力です。

今、勝負どころが来ています。これだけの悪行を重ねてきた連中に、もう引導を渡さなきゃいけない。それは日本の労働者の共通の願いです。国鉄一〇四七名闘争を支援し、勝利させたいと思い、注目している労働者は、みんなそう思っている。

そういう意味でこの分離・独立闘争の教訓について、少しでも参考にしていただきたいと思います。動労千葉も、もう一回初心に帰って、自分たちがやってきたことを自覚して、これからの新しい闘いに突き進もうと思います。

 

●第四章 国鉄分割・民営化反対闘争

 

◆Ⅰ/中曽根「戦後政治の総決算」攻撃と国鉄分割・民営化

 

◇1.経済成長の完全な行き詰まりと国家財政の破局

そもそも国鉄の分割・民営化はどうして始まったのか。理由としては、日本の経済成長の行き詰まりです。七〇年前後までは高度経済成長を続けていましたが、それがもう国内市場だけでは立ちいかなくなって、壁にぶち当たりました。そして一九七一年八月、ニクソン・ショックが起き、さらに一九七三年の第一次オイルショックに追い打ちをかけられて、日本の経済は大変な危機に直面しました。そこで、徹底した公的資金の投入と、徹底した労働者へのリストラが行われました。もうひとつはアメリカを中心に洪水のごとき輸出攻勢、これで七〇年代の日本経済は生き延びました。

それで七〇年代後半に、アメリカとの経済摩擦が起きました。「日米争闘戦」と言っていますが、日本とアメリカの経済が、あらゆる業種にわたって激突を始めた。最初は繊維でしたが、自動車、電機、鉄、その他諸々の分野で全部激突が始まりました。日本の安い商品がアメリカ市場を席巻して、アメリカの当該企業が全部経営危機に陥ったわけです。

同時に、日本の国家財政は、公的資金をどんどん投入したことにより、危機に直面しました。しかしこのころはまだ、一九八二年度末の国債残高は九六兆円でした。今と比べれば、たった九六兆円という感じです。しかし当時は、「国債残高をこのまま放置したら大変になる」と言われました。

 

◇2.日米争闘戦のもとでの安保・防衛政策の危機

もうひとつ、輸出で自国の商品がどんどん売れていればいいという問題ではありません。資本主義国、帝国主義である以上、それに対応する軍事力を持っていない限り、うまくいかない。そこで、日米安保条約に基づいた日米安保同盟政策が、大きく再編を余儀なくされ、「安保・防衛政策の危機」に直面します。日本の政府中枢は、このころから軍事大国化への踏みきりを決断していく。そこで七八年、福田内閣の時に、「日米防衛協力指針」、いわゆる旧ガイドラインが制定されました。

それから七九年にイラン革命が起こります。この背景には、アメリカのベトナム敗戦があります。「世界の憲兵」を自称するアメリカ帝国主義が、七五年にベトナム戦争で敗北して、アメリカの地位ががたっと落ちてしまった。同時にドルも暴落して、アメリカ経済も危機に陥る中で、「アメリカ恐れるに足らず」と、七九年にイラン革命が起こった。イランはそれまでは、パーレビ王朝という中東では唯一親米国家で、アメリカはイランを軸にして中東を支配していたわけです。それが、アジアにおけるベトナム失陥に続いて、一九七九年、中東でもイラン革命が起きて、イスラム教の指導者であるホメイニ師が権力を握って、一気に反米国家になりました。イスラム原理主義という言葉が使われるようになったのは、このころからです。そして産油国イランで革命が起こったわけですから、当然にも第二次オイル・ショックが起きました。

同じく七九年、ソ連がアフガニスタンに侵攻を開始しました。

イギリスでは「鉄の女」と呼ばれたサッチャー首相が登場する。八〇年にはアメリカにレーガン政権が登場し、同時に、韓国の光州で民衆の蜂起が起こりました。

日本では、高度成長の完全な行き詰まりと国家財政の危機、安保・防衛政策の転換という、国の先行きを決める大きな問題に直面する中で始まったのが、行財政改革でした。行政改革というのは、日本の国家の改造計画であり、日本の国のあり方を根本的に変えるものです。今までの延長線上ではうまくいかないとして、行財政改革が始まりました。

 

◇3.「戦後政治の総決算」攻撃

一九八二年一一月に首相に就任した中曽根康弘は、就任後初の記者会見で、「私は戦後を総決算する使命を担って総理になった」と公言しました。それ以降、「戦後政治の総決算」という言葉は、中曽根のメインスローガンとなりました。一言で言って、憲法体制のもとにある日本の「戦後政治」を根本から転覆して、戦争のできる国家へと大改造しようということです。

まず安保・防衛問題では就任早々、「日本列島不沈空母化」や「三海峡封鎖」をぶちあげ、それまで日本の防衛費の「上限」とされていた対GNP比一%枠を突破し、軍備増強の道を突き進みました。

根っからの極右天皇主義者・改憲論者である中曽根は、「行政改革で大掃除をして、お座敷をきれいにして、そして立派な憲法を安置する。これがわれわれのコースである」と言い放ち、内閣総理大臣として靖国神社公式参拝も行います。そして愛国心教育の復活を目指して教育改革を重視し、「国民の意識改革」「日本人としてのアイデンティティの確立」などと叫んで臨教審(臨時教育審議会)を設置しました。

また三里塚では、七八年の暫定開港以来進んでいなかった成田空港の二期工事着工を強行しました。

そして中曽根は、「戦後政治の総決算」攻撃の頂点に臨調・行革攻撃をすえ、「(国鉄の分割・民営化は)中曽根行革の最大の目玉であり、行革の二〇三高地」と位置づけて、突っ込んできたのです。

 

◇4.日本国の中のもうひとつの日本である国鉄の解体

いよいよ行革に踏みきっていくという時に、国鉄がターゲットにされました。なぜターゲットになったのか。国家財政の危機と国鉄の財政危機が一緒に爆発した、発火点になったからです。この当時、国鉄の借金はもう二〇兆円近くありました。国鉄が赤字になったのは、東海道新幹線ができた一九六四年、減価償却前赤字になったのが一九七二年ですから、それから一〇年もたっていない。しかしこの過程で、田中角栄の「日本列島改造計画」などが行われ、その中心に国鉄の新幹線網の確立があった。だから国家財政と国鉄財政が一緒におかしくなったのは、当たり前です。新幹線や高速道路がどんどんつくられて、その借金を全部国鉄に押しつけるという構造でした。

国鉄の借金はだいたい財政投融資資金です。郵便貯金や厚生年金の掛け金を全部大蔵省に預け、大蔵省が公共部門に貸した。つまり、簡単に言うと国鉄は国から借金をしたということなんです。しかし財産が、新幹線や駅庁舎、橋梁やトンネルという形で残っているわけです。だから当時国鉄の官僚は、一〇兆円から一五兆円ぐらいの借金があっても、「借金している」なんて意識を持ってる人間は一人もいませんでした。

しかし考えてみると、一〇兆円というのは大変な金額です。当時の財政投融資の利息は、安いもので六%ぐらい、少し高めだと八%でした。一〇兆円を借金していれば、年間の利息だけで五%でも五〇〇〇億円、八%なら八〇〇〇億円。ものすごい借金です。これからしばらくたつと、国鉄は毎年、利息だけで年間一兆円から二兆円払っていましたから、元金は全然減らない構造になっていきました。

そういう状況の中で、当初から「行政改革の最大のターゲットは国鉄だ」と言われました。しかし国鉄というのは大変な存在で、「日本の国の中のもうひとつの日本の国」なんですね。国が決めたこと以外のことを勝手にやってしまう。国鉄は、組織としては運輸省の鉄道管理局の指導下にある組織にすぎませんから、他の私鉄とまったく同じです。ただ巨大だというだけです。

しかし国鉄というのは上も下も、特に官僚は、運輸省を指導機関とは全然思っていません。国鉄官僚というのは、運輸省なんて見下していて、指導をまったく聞きません。駅や踏切、トンネル、鉄橋、車両などをつくる時にも、運輸省には全部基準があります。しかし国鉄は、運輸省の言うことはまったく聞かずに、勝手につくっていました。だからJRになった時に、JR東日本だけで運輸省の規格にあわないトンネルが八〇〇ヶ所ありました。そもそも規格にあわせてつくろうとしないわけです。

機関士、運転士の養成方法も、国鉄が持っている学校で勝手に入試をして、卒業させて、見習いを経て発令通知を出して、機関士や運転士にしていました。私鉄は国家試験です。国鉄は、自分でやった試験を勝手に「国家試験だ」と言って、勝手に乗客を乗せて走らせていた。

そして、国鉄は自分で何でも持っていました。水力発電所、火力発電所も、国鉄独自で持っていた。今でもJRが持っています。昔は炭坑まで持っていました。日本最大のオンラインを持ったのも国鉄です。「みどりの窓口」は、日本で一番最初にできたオンラインです。ポンと押すとどの特急に空席がある・ないとすぐにわかり、予約できるというシステムは、国鉄が一番最初に導入しました。全国自動通話も、電電公社よりも鉄道電話が先です。電電公社がまだ「もしもし、何番」などと言っている時に、国鉄ではもう自動通話になりました。だから電話交換手もいました。国鉄の職場には、一級建築士から畳屋さんまで、あらゆる仕事をしている人がいました。国鉄労働者の作業服をつくる被服工場もありました。国鉄には本当に何でもあったんです。

だから昔は、鉄道官僚あがりはみんないい地位につきました。佐藤栄作も、国鉄では大阪鉄道管理局長までやって、それから政界に出て、総理大臣までやりました。

国鉄というのは、日本の国の中にありながら、主幹局の言うことを聞かないで勝手なことをやるところだったわけです。こういう存在がそのままでは、行政改革は成り立ちません。しかも一〇兆円とか二〇兆円の借金をしていて、運輸省とは関係なく自民党との関係でばんばん線路はつくるし、電化工事もやる。そして、八五年度末には二四兆円の長期債務を抱えたわけです。ですから「国鉄の改革なくして行政改革なし」と言われました。

 

◇5.戦後日本労働運動の中核部隊・国鉄労働運動の解体

国鉄分割・民営化攻撃の最も大きな柱は、戦後労働運動の中核部隊である国鉄労働運動、とりわけその中心的な組合である国労を完膚なきまでにたたきつぶそうというものでした。「この世の中から国労という名前を消してしまえ」ということです。

同時にこれが、「右翼労戦統一」、今の連合結成へ向けた攻撃でした。総評、同盟、中立労連、新産別とナショナルセンターが四つありましたが、これを全部統合する。当時は民間の労働組合は、もうすでに全部労資協調運動になっていました。唯一全金だけが抵抗しましたが、全金もこの過程で入ります。みんな労資協調だから、選別方針なんです。総評は「全的統一」を要求したけれど、総評の中でも、例えば「共産党系の組合はダメ」「過激派の多いところはダメ」「国際自由労連に入ることが条件だ」などと、取捨選別をしました。

労戦統一の動きは六〇年代からありました。一九六七年、全逓の宝樹委員長が、反共労戦統一を『月刊労働問題』に発表しました。そういう動きはずっとありましたが、七〇年安保・沖縄闘争が爆発したり、国鉄の反マル生闘争が爆発したり、全逓の物ダメ闘争が爆発したりすると、動きが沈静化、後景化する。逆に、労働運動がだんだんダメになってくると、発言力が強くなる。

そして八〇年九月、労戦統一推進会ができました。今までは右寄りというか、総評系以外の組合が動いていましたが、この時初めて総評傘下の組合が参加しました。中心組合は全日通でした。それで八一年一二月には労戦統一準備会が結成されます。総評傘下の組合もこれには参加しました。そして八二年には民間先行で全民労協が結成されます。国鉄分割・民営化が準備されていくのは、こういう過程でした。

後に八八年二月、総評が臨時大会で、「全的統一」を決定します。総評は当初からずっと受け身で、労戦統一に反対するのではなく、「こういう条件を加えてくれ」「取捨選別はまずい」などと言って、「全的統一」、つまり全部が統一することを求めていただけです。そしてついに八八年に、「全的統一を条件にして八九年に旗揚げをしよう」と決定します。この過程で総評の五項目要求などが出てきましたが、大きくは労戦統一に参加していくわけです。

この労戦統一は、「総評と同盟と中立労連と新産別が別々に分かれていては、労働者の力は減じられてしまう。労働者がみんな団結すれば、労働者の発言力も強くなるし、社会的地位も向上する」というのが建前です。しかし今や、そのウソははっきりしていますね。連合になって、労働者の地位はどんどん下がっている。そもそも連合の存在感が全然ない。昔は春闘の時は、総評議長の太田薫や事務局長の岩井章を、当時の内閣官房長官や労働大臣とともに新聞で取り上げたり、インタビューしたりということが必ずありました。今、そんなことは全然ありません。だから、自民党本部や首相官邸に請願に行くんです。つい最近も、連合会長の笹森が自民党に請願に行った。その時、自民党の山崎幹事長に「君たちは選挙では民主党を支持し、請願をする時には自民党に来るのか」と皮肉を言われたそうです。そうしたら笹森が「いや、わが連合も今、民主党支持を見直しています」と答えたという。これで労働者の要求が通るはずがありません。

日本の労働運動全体を右に持っていくための策動と、国鉄分割・民営化攻撃は一体のものだったということを、ちゃんととらえる必要があります。

 

◆Ⅱ/第二次臨時行政調査会(第二臨調)

 

◇1.行(財)政改革とは

国鉄分割・民営化に一番大きな役割を果たしたのは、八一年三月一六日に結成された第二次臨時行政調査会(第二臨調)です。会長は、土光敏夫という経団連前会長で、この時は経団連の名誉会長でした。石川島播磨重工の社長だった。当時、「自分は非常に質素な生活をしている。銀座、赤坂、六本木で一切飲んだことはない。朝食はいつもめざしだ」ということを売り物にし、マスコミも「清廉潔白で、質素な人柄だ」などとデマ宣伝しました。

六〇年代の池田内閣の時に、第一次臨調というのがありましたが、この時は、何もせずに終わりました。第二臨調には、第一部会から第四部会までできて、第四部会が三公社、つまり国鉄、電電、専売の分割や民営化を扱う部会でした。第四部会の座長は、今千葉商科大学長をやっている加藤寛という人間です。当時は慶応大学経済学部教授でした。

第二臨調は何をやろうとしていたのか。一九八二年の自民党の運動方針で「行政改革とは二一世紀に日本が生き残るための国家の大改造である」とはっきり言っています。加藤寛は「行革を成功させなかったら、日本は再び恐慌、そして戦争のための軍事化に進む」とか、「行革ができなかったら、あとは革命しかありません」という言葉を吐いています。支配階級の側は、ある意味で大変な危機感だった。体制側評論家、体制側知識人、体制側イデオローグのような連中はみんな、そう考えていました。

特に中曽根は、「行革とは精神革命であり、国家改造計画だ」「徹底した精神革命が重要だ」と言い、結局一人ひとりが滅私奉公の精神で生きよ、「私」は捨てて「公」のために尽くす人間でなければいけない、そういうことを軸にすえないと、コストを節減するだけではダメだと言っていました。

 

◇2.第二臨調は何をやったか

第二臨調は一九八一年三月に発足して、二年後の八三年三月には最終答申を出しました。最終答申では、電電公社、専売公社については民営化するだけで、財産も人間もそっくり新会社に移行します。しかし国鉄だけは違います。国鉄分割・民営化の基本骨格を、この第二臨調の第四部会がつくりました。「国鉄を分割・民営化しろ。新しく発足した会社は二一万五〇〇〇人体制だ」と、数まで言っているんです。第二臨調が発足した一九八〇年度末の時点では、国鉄には四一万三〇〇〇人いましたから、二〇万人が首ということです。

 

◇3.緊急一一項目とは

それに先駆けて八二年七月には、第二臨調の基本答申を提出し、当面する課題として「緊急措置一一項目」を打ち出し、現場において先行的にどんどん実施してきました。緊急一一項目とは何か。

「職場規律の確立」「私鉄並の生産性」や、新規採用の停止、外注、あらゆる手当の削減、既得権の剥奪など、全部書いてあります。例えば「永年勤続乗車証、精勤乗車証、家族割引乗車証の廃止」、こんなのはささやかなことです。電車というのは、一人乗ろうが乗るまいが経費は同じです。しかも鉄道員の安い賃金のかあちゃんが、「家族割引」を一年にそんなに使うわけでもないのに、そういうものまですべて廃止する。あるいは国鉄で三〇年、四〇年働いた人たちに定年退職の時に、「永年勤続」と言って、一年間に何日間かの乗車証を渡したんですが、それも廃止。この「緊急一一項目」の全面的実施という攻撃が、これから八七年に向かって、国鉄の職場に吹き荒れました。

そして、自民党は一九八二年二月、自民党の中に国鉄再建小委員会、いわゆる三塚委員会をつくりました。委員長の三塚は、後に福田派・安倍派を継承して三塚派になった。松崎明と途中まで仲がよかったけれど、途中からけんかした人間です。この三塚委員会に「国鉄再建派」の国会議員が入って、これが国鉄職場に視察に入りました。千葉はこいつらを入れなかったけれど、例えば甲府などは徹底的にやられました。マル生の時には、野党が不当労働行為をやっている現場視察をやったんですが、この時は逆で、自民党が全国の「問題ある」とされる職場に次から次へと視察に入り、「ビラだらけじゃないか」とか大宣伝しました。動労千葉の職場なんて、この時はビラだらけでしたけれど、千葉には来なかった。

この三塚委員会のパフォーマンスが、けっこう、ある種のムードをつくりあげたんです。この「緊急一一項目」が、分割・民営化までの約五年間、職場を吹き荒れ、それに対して労働組合がまったく対抗できないということが起きたわけです。

 

◆Ⅲ/国鉄分割・民営化までの経緯

 

分割・民営化にいたる過程で、特徴は二つあります。まず、労働組合がどう対応したのか。もうひとつは、分割・民営化される対象、「日本の国の中のもうひとつの日本」と言われていた国鉄がどう対応したのかということです。

 

◇1.「国鉄改革派」と「国体護持派」

国鉄の官僚は、中心的なメンバーはほとんどが「国鉄擁護派」で、「国体護持派」と呼ばれていました。「国鉄改革派」と言われるのは少数派だったんです。だから、国鉄官僚のままではあまり出世しないような連中が「改革派」になり、その後、分割・民営化が成功したためにいいポストについた例は多い。JR東日本社長になった松田や、今JR東海社長の葛西は、国鉄が続けば、途中で「はい、さよなら」と扱われるような人間でした。こういう連中がだいたい「改革派」になったわけです。国鉄の本社の官僚層の主流派はほとんどが「国体護持派」でした。

八三年六月に「国鉄再建監理委員会」ができます。会長が亀井正夫、当時の住友電工会長です。国鉄時代もJRになっても、電線のケーブルは全部住友電工に発注されたという利権がらみです。委員には、隅谷三喜男という、後に三里塚の円卓会議をやった人間なども入っていました。

そして、「国体護持派」が主流を占めていた国鉄本社は、国鉄再建監理委員会から、「国鉄改革のために」と、国鉄が持っている財産やその他さまざまな資料を提出することを求められても、資料の提出を拒否した。それほど、抵抗しました。

こうした事態に直面したため、八五年六月、仁杉という国鉄総裁が更迭され、運輸事務次官だった杉浦喬也が国鉄総裁になりました。これで分割・民営化攻撃が一気に走り出しました。当時、運輸省の官僚は、国鉄に大変な憎しみを持っていたんです。国鉄というのは、運輸省の最大の組織です。しかし、運輸省の官僚が国鉄総裁になったのは初めてです。歴代の国鉄総裁にも常務理事にも、運輸省の事務次官は一人もいません。国鉄は、自分の主管官庁である運輸省の官僚を全然入れなかった。しかも、運輸省の言うことをまったく聞かない。ですから、この杉浦をはじめ運輸省の官僚は、「国鉄なんかたたきつぶしちゃえ」と、憎しみを待っていたわけです。そういう人間を国鉄総裁に据えた。

つまり国鉄分割・民営化というのは、それぞれの本流がやった仕事じゃなくて、亜流がやった仕事なんです。中曽根も、自民党の中では、国鉄からは何も利権を得ていない小派閥の領袖です。田中派や福田派は、国鉄から莫大な利権を受け取る立場にあったけれど、中曽根派などは全然相手にされなかった。

官庁では運輸省です。例えば運輸省の官僚が千葉鉄道管理局課長に出向で来たら、もてはやしていいはずなのに、国鉄はそういうことを全然しない。国鉄本社からエリートが来るともてはやすんです。だから国鉄に来た運輸省の官僚は、国鉄から戻ると全員が「アンチ国鉄」になると言われました。そういう人間に国鉄分割・民営化をやらせたわけです。

もうひとつ、労働組合も亜流である動労を先兵に使った。国鉄の労働組合の主流は国労ですよ。動労は運転職場しかないんだから、亜流です。でも、この動労を手先に使った。

国鉄というのは、日本の世の中全体から言えば「妖怪」みたいな存在でした。だから、国鉄をたたきつぶすためには、当局も労働組合も、国鉄からあまり恩恵を受けていない、利権をもらっていない、そして快く思っていない、つまり失うべきものが何もない連中に全部やらせたわけですね。

ですから国労は、ぎりぎりまで「国鉄の分割・民営化なんてできるはずがない」と考えていたんです。余談ですけれども、岩井章さんも「国鉄が分割・民営化できるはずがないと思っていた」と言っていました。そのぐらいの感覚しかなかったんですね。

しかし仁杉国鉄総裁が更迭された直後の八五年七月、国鉄本社の「国体護持派」の常務理事を全員一掃し、「改革派」を常務理事にして、一気呵成に突っ込んできたわけです。ですから結局、国家権力がその気になれば、国鉄の権力を握っていようが、対抗するすべがまったくないことがはっきりした。

しかし国労本部は、最後まで「国体護持派」に依拠したり、「田中派と話をしよう」なんて言ったりしていたんですよ。国労本部は、国鉄分割・民営化攻撃にかけた日本帝国主義の激しい執念や意図をまったく見抜けなかったということです。

 

◇2.貨物切り捨てと「首切り三本柱」

国鉄の分割・民営化が強行された八七年までに、「緊急一一項目」に基づいて徹底したリストラ・合理化が行われました。毎年二万人、三万人という規模です。国鉄は一九八二年を最後にして、新規採用をストップし、それから約一〇年間、新規採用をとりませんでした。どんどん要員が合理化され、どんどん余剰人員をつくりあげて、その余った労働者を入れるために、人材活用センターもつくりました。そうして、労働者にものすごい不安感をあおっていったわけです。

この時の合理化攻撃の核心は、貨物の徹底した切り捨てです。今のJR貨物は目的地まで一直線で運ぶフレイトライナーですが、国鉄の貨物はヤードスタイル貨物でした。途中にヤード(操車場)がいっぱいあって、貨物を全部いったんヤードに入れ、そこで目的地別に組成編成をして出した。今は旅客列車が走っている武蔵野線も京葉線も、そもそもは貨物線としてつくったものです。そのため武蔵野ヤードという巨大な近代化した操車場をつくったけれど、これもたいして稼働しないうちに廃止されて、直行型貨物に全部切り替えられました。

貨物は一九六〇年代までは国鉄の稼ぎ頭で、国鉄は旅客よりも貨物で儲けていたんです。日本全体の物流の三十数%を占めていました。千葉でも六〇年代の新小岩機関区は、二四時間、常にヤードの中に貨車があったから、機関区から総武線の電車が見えなかったほどでした。今は新小岩に貨車がほとんどありません。

その貨物が、分割・民営化の過程で徹底的に切り刻まれた。新小岩、大宮、新鶴見、そして武蔵野ヤード、みんな二四時間フル稼働で満杯でした。それらが、この過程で一斉になくなりました。

さらに、地方ローカル線が徹底的に切り捨てられました。特に北海道、九州、日本海側は、分割・民営化の前にどんどん第三セクターに切り替えられた。また分割・民営化の過程で、北海道の総延長一〇〇キロ以上あった天北線は、全部線路をはがしてしまうという強引なこともやられました。

労働組合では、国鉄分割・民営化推進派は、動労を中心として、動労と鉄労と全施労。これに対して、一応反対派が、国労、全動労、動労千葉。この分割・民営化に賛成しない労働組合に対する集中的な組織攻撃が行われ、その最先頭に立ったのが動労の革マルでした。

八四年六月に、国鉄当局が「余剰人員調整策」と言って、退職制度改悪、一時帰休、出向を提案してきました。この三つを「首切り三本柱」と言いました。そして一〇月には国鉄当局が組合との交渉を打ち切り、一方的実施に踏みきりました。「退職勧奨」は、五五歳ぐらいになったら肩をたたいて、「退職金を上積みするから辞めろ」というやり方です。そして出向や一時帰休。

そして同時に、これをのまない組合との雇用安定協約を破棄すると通告してきました。動労、鉄労、全施労とは雇用安定協約を継続して締結するけれど、国労、全動労、動労千葉とは締結しないということです。とりわけ「三ない運動(辞めない、休まない、出向しない)」を展開していた国労に対しては、「余剰人員調整策を妨害している」と攻撃しました。

なぜ雇用安定協約かと言うと、国鉄職員は今の公務員と同じく雇用保険に入っていません。それは、首を切られないからです。しかし日鉄法二九条第四項に、「経営がおかしくなった場合は、解雇もありえる」とあります。それを消すために、六〇年代から雇用安定協約を労働組合と結び、これは毎年自動的に更新されていた。それを持ち出して、「『余剰人員調整策』を認めない労働組合とは雇用安定協約を締結しない」と言ってきたわけです。

まったく本末転倒した話です。そもそも、雇用安定協約を締結するか否かということと、余剰人員対策に応じるかどうかというのは、全然別問題です。関係ない問題を持ち出して「だから、雇用安定協約を締結しない」などと言ってくること自体が、まったく不当極まりない組合破壊攻撃です。

しかも「余剰人員調整策」の中には、「組合には出向や一時帰休を強制しない」と書いてある。出向や一時帰休は、あくまでも職員本人の意思を尊重してやるものです。

だから動労千葉は、「当局が職員に希望を募ることは、組合は妨害しない。ただし『協力しなかったら、新会社に行かれなくなる』などと強制した場合には闘う」ということをはっきりさせた。動労千葉は「三ない運動」を方針としていませんし、組合で「応じるな」という方針も出していない。そんなことを掲げなくても、動労千葉の組合員は応じませんから。

しかし雇用安定協約を締結しないと言っても、ただちに首にすることはできない。例えば千葉は、輸送需要がいっぱいあり、毎日仕事があって、要員は必要なんだから、首を切るとはなりません。雇用安定協約の破棄というのは、不安や動揺をあおって組合の団結にひびを入れ、労働組合を屈服させるための手段であって、労働組合や労働者が毅然としていれば、何も実際の効果はないものだったんです。だから、事の本質をよく見ればたいしたことはないんだけど、動労が国労組合員に対して現場で「おまえら、雇用安定協約がないんだから、首になるぞ。新しい会社に行けないぞ」とごりごりやる。国労本部が何も方針を出さないから、現場の組合員は動揺して、国労からの脱退が起こり始めます。

 

◇3.動労革マルを使った国労つぶし攻撃

また八六年三月に、国鉄当局が北海道と九州で「広域異動」を募集しました。北海道と九州は廃止されるローカル線が多くて、余剰人員も非常に多い。ここから、東京周辺や大阪周辺の仕事の多いところに広域異動するという提案でした。これは明らかに、当時の動労革マルと国鉄当局の仕組んだ罠です。実際に応じたのは、北海道と九州の動労組合員、特に運転士です。運転士が大量に北海道から東京に、九州から大阪に来る。それで電車区に配属されると、その電車区は人が余るわけで、余った国労組合員がばんばん配転されるわけです。北海道からも九州からも、革マルの活動家が大量に来ました。北海道、新潟、盛岡、九州では門司からです。それで国労の活動家が運転職場から一掃されて、あっと言う間に、動労が主流派になったわけです。

このころから、国鉄の駅に直営のうどん屋や売店、ミルクスタンドなどがどんどんつくられました。動労千葉でも売店に飛ばされた人が多くいます。

あと今も東京にあるベンディング職場、あれは、自動販売機の「大清水」の缶飲料を毎日入れ替えてるだけです。学生アルバイトでもできるような仕事を、五〇歳を過ぎた職員にそれなりの賃金を払ってやらせてるわけです。関連会社の仕事を、本体の社員がやるという、逆のことをやっている。あそこには、国労の活動家がみんな集められています。国労の活動家はうるさいのが多いから、これを見張っている助役がいっぱいいて、大変な人件費を使っている。これは、八七年のJR発足直後にできました。

この過程で、労働組合も真っ二つに割れて、分割・民営化に賛成しない労働組合に徹底した攻撃がかかり、それを動労の革マルが先頭になってやった。中曽根が当時、「労働組合も認識が変わってきた」ということを公然と自民党のセミナーで言いましたけれども、これは動労のことを言っていたわけです。

この当時、松崎が大活躍するわけです。自民党の機関紙『自由新報』や勝共連合の機関紙『世界日報』に載ったり、いたるところに登場しました。そこで、「自分はもう社会主義、マルクス主義はやめた」「革マルとは離れた」とウソを言っていました。

当時、当局がかけてくる既得権の剥奪攻撃がいろいろあって、焦点のひとつがブルートレインでした。国鉄労働者は「青大将」と呼んでいましたが、東京から鹿児島あたりまで走る夜行寝台特急列車です。これは東京機関区が引っ張っていて、検査係が添乗した時に添乗旅費を払うことになっていました。これを、全検査係に平等にしようということで、何回乗ろうが同じ添乗旅費を払うということを労使間で確認して、払っていました。つまり国鉄当局も認めて払っていた。それが、「ヤミ手当だ」と大キャンペーンされた。この時はすごかったですよ。東京機関区の検査係の家まで電話をかけてきて、「お宅のだんなは今日は添乗していますよね」と聞くんです。するとかみさんは何も知らないから、「いや、うちでもう寝てます」と答えて、それをマスコミに流す、なんてことまでやられた。そして国鉄当局は八二年七月に返還訴訟を起こしました。これに対して、動労は率先して返還を決めました。

問題は、国労がいつまでたっても闘う方針を出さなかったということです。僕は、八五年一一月のストライキの直前に国労本部に行って、「もうここまで来たら、動労千葉はストライキをやります」と話しました。そうしたら、当時の国労本部は威張りくさっていて、山崎委員長なんてソファーに座って、ダブルの背広を着て葉巻かなんかくゆらせて、「そうですか。国労もやる時にはやるよ」なんて言ってね。僕は小さな組合の委員長ですから、「あぁそうですか」と言って戻ってきましたけれど、「この野郎、生意気なこと言いやがって。今に見ていろ」と思いました。案の定、いつまでたっても闘わない。

 

◇4.国労修善寺大会

そして国労が、八六年七月に千葉で全国大会を開催し、「大胆な妥協」路線を決定しました。「大胆な妥協」路線というのは、分割・民営化を公式に認めるということです。ただしこの時、代議員が「中央執行委員会が具体的な妥協方針を決めた時点で、もう一回機関を開催しろ」ということを求めて、それも含めて大会決定となりました。それで一〇月、修善寺で臨時大会を開催したわけです。

修善寺大会の時にはすでに、「首切り三本柱」を認めればいいというレベルではありませんでした。八六年一月には、鉄労、動労、全施労が「第一次労使共同宣言」を当局と一体となって発表しました。「合理化を推進する。ストライキはやらない。国鉄改革のために協力する」と宣言している。さらに七月には、その三組合と真国労の四組合が国鉄改革労組協議会(改革労協)を結成し、八月には改革労協が「第二次労使共同宣言」を発表した。これは、国鉄改革を推進するだけでなく、民営会社になってスト権を持ってもストライキはやらないというところまで踏み込んだ労使共同宣言です。だから、国労もそこまで認めなければいけなくなったわけです。労働組合と資本との関係、権力との関係とは、そういうものです。後から後から難題をふっかけ、ハードルをどんどん高くしてくる。

そして通常国会に国鉄改革関連法案が提出された。七月のダブル選挙で自民党が三〇〇議席をとって大勝した。それと同時に七月に全国の国鉄職場に「人材活用センター」が一〇〇〇ヶ所以上設置され、国労、動労千葉の活動家が次々と隔離された。

国鉄当局が「『三ない運動』をやっている国労とは、八五年一一月末日で雇用安定協約を破棄する」と脅したことに震え上がった国労は、すでに八五年一一月に、動労千葉のストライキの前に「三ない運動をやめる」と決定していました。

しかし国鉄当局は「本部が『やめる』と言っても、地方機関では三ない運動が今も続いている」と言って、雇用安定協約を結ばなかった。さらに八六年になるとハードルががんと高くなって、今度は「労使共同宣言」だと言われた。結局、国労は最後まで雇用安定協約を締結してもらえなかった。

そういう中で開かれた修善寺大会では、代議員は夏の定期大会の時と替わらないわけですから、本部方針がそのまま通ってもおかしくなかった。それが、千葉大会以降、「大胆な妥協」路線に賛成した協会派や革同の代議員たちが、現場の激しい突き上げにあったわけです。特に、人活センターに送り込まれた活動家たちの怒りはすごかったから、彼らが修善寺に大結集しました。そういう中で、修善寺大会では執行部提案を否決して執行部が総辞職し、六本木敏委員長体制ができた。総辞職した国労旧主流派は、後に国労を脱退し、翌年二月には鉄産労をつくる。修善寺大会以降に全国で開催された地本大会で、国労は次々と分裂していきました。

残った国労は、「協共連合」と言われる執行部が形成されます。つまり協会派と共産党の連合、今と同じですね。協会派で、当時は妥協を拒否した連中が、今チャレンジグループとなって、「四党合意」を推進している。「一六年前に自分たちがやったことを、もう一回考えてみろよ」と言いたくなりますよね。

この修善寺臨大で「大胆な妥協」路線を否決したから、今の国労がもっているわけです。もしあの時、国労が「労使共同宣言」に加わっていたら、JRになる時点で、国労は間違いなく解散していた。JRに移行した時には「一企業一組合」にすると言って、動労も鉄労も全施労も、全部組合大会で解散を決定して、鉄道労連(現・JR総連)になりました。だからこの時に国労が「労使共同宣言」を認めていたら、当然国労も解散して、敵のもくろみどおりに国鉄労働運動は完膚なきまでに解体されていた。しかし修善寺臨大で阻止したから、国労が残ったわけです。

動労千葉にとってみれば、もし国労があそこで「労使共同宣言」を認めてしまった場合、反対を貫くのが動労千葉しかいなくなってしまう。動労千葉だけが残るというのは大変なことだと思って、動労千葉も修善寺まで行って叱咤激励しました。

この過程で当局は、国労を動揺させ、分裂させるために、あらゆることをやりました。例えば、一九七五年一一月のスト権闘争に対して、国鉄当局は二〇二億円の損害賠償請求訴訟を国労と動労を相手取って起こしました。それを八六年九月に、動労に対しては取り下げたんです。こういうことでも国労は、がたがたに揺さぶられました。

八七年四月一日にJRが発足しますが、その前の二月一六日にJRの採用が通知され、北海道と九州で大量の不採用者が出ました。「採用差別」と言われますが、特に北海道と九州では、最後まで反対を続けていた国労組合員が差別されました。他方、本州は定員割れになりました。これは、嫌気がさして辞めていく労働者が非常に多かったからです。

 

◇5.甘い汁を吸ったのは動労革マルだけ

これは、国労だけがやられて、動労や鉄労はうまくいったというわけではありません。動労でも鉄労でも、特に年輩の組合員は組合から強制的に辞めさせられたんです。松崎の出身の田端機関区では、五〇歳以上の動労の組合員は、「おまえら、いつまで残るんだ。後進に道を譲るのがおまえらの役目だろう」と言われて、みんな辞めさせられました。それでも「今辞めるわけにいかない」という組合員は、ロッカーの中に水をぶっかけられるとか、ひどい嫌がらせやいたずらをされました。ですから、動労千葉の新小岩機関区の乗務員が田端に乗り入れると、便所に「松崎、殺せ」といっぱい落書きが書いてあったそうです。公的部門に応募した人も、動労組合員の数が多い。この前、NTTでデータを革マルに渡したということで逮捕された人間がいましたが、元動労の組合員です。郵便局に行ったのもいます。動労組合員でも、辞めていった人間は非常に多いです。

つまり、動労組合員であればうまくいったということではなくて、動労でも鉄労でも、特に年輩の組合員はみんなはじかれたんです。国労組合員は頑張ったから、採用差別に対して今も闘ってますけれど、どこの組合に所属しても、きれいにJRに行ったわけじゃない。うまくやったのは、動労を握っていた革マルたちだけです。これははっきりしている。組合の幹部たちだけがうまい汁を吸ったわけです。

結局、八七年四月一日に清算事業団に持っていかれた人が七六二八人いました。これは五五歳以上の人たちも含まれていたし、すべてが国労組合員ではありません。その人たちも含めて、国労に残った組合員は四万四千人、鉄産労が二万八千人、鉄道労連が約九万人でした。この八七年四月一日に、分割・民営化は一応表向きは完了したという形になりますけれど、ここまで約五年間に、約二〇万人の労働者が職場を去ったわけです。この過程で首になったのは、動労千葉がストライキを闘って公労法で首を切られた二八人。あとは九〇年四月一日、国鉄清算事業団から整理解雇された一〇四七人。残りは全部、希望退職です。日本は終身雇用制ですから、理由もなしにやたらと首を切るわけにはいかない。逆に言うと、団結しさえすれば、闘いようはたくさんあったんです。

分割・民営化のために政府は国鉄改革関連八法をつくりましたが、その核心である国鉄改革法の第二三条には、「新会社の社員は、国鉄職員の中から選ぶ」と書いてあります。つまり、国鉄職員以外から採用してはならないんです。ですから、国鉄労働者が団結し、国労と動労が団結して徹底抗戦したら、分割・民営化は絶対にできないんですよ。よそからいきなり連れてきても、電車の運転士はできないし、そういうことはしてはいけないと書いてあるわけだから。そこには矛盾があるんです。しかも一人ひとりの労働者は、国鉄も終身雇用制ですから、就職した時に労働契約を結び、「退職まで働く」ということで就職しているわけです。

ここがミソです。国鉄職員がJRに行くとなっているわけです。三公社の中で、電電公社と専売公社は、人も物もそっくりそのまま民間会社になったのに、国鉄だけが、新会社の労働者数を国鉄再建監理委員会で決めて、それ以外の労働者をはじいたわけです。労働組合の活動家を一掃しようと狙ったことは間違いありません。それがたまたま本州は定員割れになったから、本当なら首にしたかった活動家まで残った。北海道、九州は余ったから、大量に首を切られたわけです。

ですから、JRに採用された国鉄労働者は全員、八七年三月三一日付で国鉄に退職届を出して、翌日にJRに採用されたんです。賃金はそのままです。賃金制度も民間並みにするということまではできませんでした。そんなにあらゆることをできるわけがない。だけど、当時の国鉄労働者は国鉄に退職届を出した。出さなかったのは、採用差別され清算事業団送りにされた労働者だけです。清算事業団は国鉄を継承したから、退職届を出さずにそのまま行ったわけです。

そうやってJRが発足したわけですけれど、労働組合が団結して一体の方針を持って闘っていれば、もっと違う事態になっていたことは間違いない。いかに大がかりであろうが、矛盾は必ずある。その矛盾をつけば、闘い方はいくらでもありました。

僕は、分割・民営化が強行された後も全国を回りましたけれど、各地の県評は、分割・民営化反対闘争で本格的に一戦を交えるつもりでいたんです。県評に国労も動労も加盟していて、けっこうな戦闘力を持っていましたから。それが動労が裏切ったことにより、県評レベルでも統一した対応ができなくなったという話をよく聞きました。特に九州、北海道は、完全に分割・民営化反対闘争をやる気でした。

 

◇6.五〇〇〇万署名運動だけの総評

では国鉄分割・民営化攻撃に対して、労働組合はどう動いたのか。

まず総評は結果としては、五〇〇〇万署名運動しか提起できませんでした。自治労出身の真柄事務局長が、「三池闘争以来の大闘争にする」と大上段に訴えたんです。しかし五〇〇〇万署名を提起するだけで、署名が終わっても何もしませんでした。この署名は、総評始まって以来の署名数が集まりました。僕が八五年秋に国労委員長と話をした時には、「五〇〇〇万署名運動が終わったら」と言っていたんですよ。署名の最終集約が八六年三月でした。三五〇〇万ぐらい集まった。この署名は本当に集まりました。動労千葉も、「この署名をやってくれ」と、全県下を歩きましたからね。

この時にもう総評の中は、労戦統一問題で、推進派と慎重派がぶつかっていて、大わらわになっていたんです。分割・民営化攻撃についても、総評内部から、全電通が「電電は民営化されてる。なぜ国鉄だけ分割・民営化反対なのか。そんな署名運動はできない。『分割反対』だけならやってもいい」と屁理屈をこね回したりね。

その過程で、動労がどんどん裏切って、合理化をのみ、分割・民営化の先兵になっていった。そうすると、総評の中から「国労も少しは動労を見習え」という声が出たりして、総評の中が完全に不統一でした。総評は何ひとつできなかった。国鉄分割・民営化という総評の屋台骨を揺るがし、総評が吹っ飛びかねない大攻撃にもかかわらず、結局、五〇〇〇万署名以外に何もやらなかったわけです。

 

◇7.たこつぼに入る国労

国労は民同労働運動の最たるもの、五五年体制労働運動の最たるものですね。結局、民同、革同・共産党の指導部には、本当に国家権力の全体重をかけた攻撃が襲いかかってきた時に、これに立ち向かうような思想は何もなかった。一言で言えばそういうことです。その流れが今でも残っているから、四党合意も認めるわけです。「自民党にも政府にも、物わかりがいいやつはいる」、そんなことを平然と思っている連中です。国家権力というのは、全体重をかけた時には、そんなことにはかかわり合いなく一気呵成に突っ込んでくるんですよ。

そういうことを本気で考えると恐ろしくなる。だからこの当時、「たこつぼ論」と言いました。たこはつぼの中に入る。で、敵がいなくなったらふっと顔を出す。この時の国労では、「たこつぼに入れ」「嵐が吹いてる時に闘うのはおかしい」、そういうことが公然と言われました。国労という組合は、日本の左翼の全党派が存在していたところです。社会党(民同)だって、協会派をはじめ各派。日共(革同)。新左翼も中国派も全部います。いない党派はいないほどです。そのそれぞれが地本、支部、分会、青年部などを握って、それなりに闘っていたから、総和として、国鉄労働運動はそうとうな闘いをやる力を持っていました。ここが全部ずっこけた。国鉄分割・民営化攻撃にかける敵の勢いに恐れをなして、「たこつぼに入って生き延びよう。嵐から身を避けたい」という気持ちだったんですね。

 

◇8.国労解体の「チャンス」に飛びつく動労

動労は何をしたのか。動労は八一年、全日自労や運輸一般など、総評の中の共産党系の労働組合と統一戦線を組んで、「反ファシズム統一戦線」を掲げて集会をやったことがありました。一回きりですけれどね。それで日本共産党の金子満広書記局長、国労高崎機関区出身ですけど、彼を動労大会であいさつさせました。これも蜜月は半年ほどで終わりました。そういう混乱を経た上で、松崎ははっきりと、国労を解体して生き残ろうと腹を決めます。

まず八二年一月に「国鉄問題に関する動労の考え方」を出して、「効率が上がらないから赤字が増えると言われているんだから、一生懸命働いて効率を上げよう」という運動を始めるんですね。当時われわれは「働こう運動」と言って批判しました。国鉄というのは職務分担がはっきりしている職場で、運転する労働者、検査・修繕の労働者、列車を誘導する労働者、みんな職務分担が違います。この職務をみんな兼掌化して、電車の検査・修繕もするし運転もするという運動を、動労革マルが一番最初にやりました。『動力車新聞』で「これはすばらしい」と評価していた。

八二年三月に、国労、動労、鉄労、全施労という四つの組合で「国鉄再建問題四組合共闘会議」をつくったんですが、これも数ヶ月でパンクします。動労が抜け駆けをどんどんやったからです。

そして八三年二月、「八三年われわれの組織的課題」を出しました。動労はこれ以降、国労をつぶすことが動労革マルの生き残る道だと言って、本格的な国労解体運動を始めました。国労に対する批判をどぎつく書き連ねた文章です。

その理論的根拠として、「冬の時代」論と、「総評労働運動終焉」論を掲げました。「冬の時代」論とは、「日本の労働運動は今、冬の時代だ。だから今闘ってはいけない。冬の時代に闘うのは、労働運動のリーダーとしては素人だ」ということです。しかし彼らの論理では、いつまでたっても春は来ない、ずっと「冬の時代」なんです。もうひとつの「総評労働運動終焉」論は、「もう総評の歴史的使命は終わったんだから、総評労働運動は残っていても意味がない」ということです。

こうして動労革マルは、分割・民営化によって国労を解体し、自分たちが国鉄労働運動の主流派に躍り出る絶好のチャンスが来た、という感覚でした。

労働組合というのは結局、労働者を信頼し、労働者の団結に依拠して、敵の攻撃に対抗する以外にすべがありません。しかし動労革マルには、抜きがたい労働者蔑視があります。「労働者の団結など、たかが知れている。労働者なんてどうせ愚民なんだ」という考え方です。だから分割・民営化攻撃に対して、動労の組合員の力に依拠して闘うという発想などまったく出てこない。「国家権力が本気でやってきたら、結局はやっつけられる」という、民同とまったく同じ考え方です。

一九五七年の国鉄新潟闘争の時、新潟地本の相田委員長が総評大会に乗り込んで、新潟闘争への支援を訴えて血を吐くような名演説をした。その時、太田薫総評議長が「三十六計逃げるにしかず」という有名な演説をした。国労新潟代表は怒って、席を蹴って帰ってしまった。そういう思想に日本の労働運動はずっとおかされているし、革マルも同じです。

 

◆Ⅳ/動労千葉の二波のストライキ

 

八五年六月に仁杉国鉄総裁が更迭されて杉浦が総裁に就任した後、七月に、各鉄道管理局長も分割・民営化推進派に代わりました。千葉鉄道管理局には、後にJR西日本の取締役になった草木局長が乗り込んできました。

そして七月二六日に国鉄再建監理委員会が、国鉄七分割を基本とする「国鉄改革に関する意見」という最終答申を発表し、政府がそれを「最大限尊重する」と閣議決定します。

すでに八二年から分割・民営化攻撃が吹き荒れていて、いわゆる「ヤミ・カラ」キャンペーンも、「カラスの鳴かない日はあっても、国鉄の記事が載らない日はない」というほどやられて、激しい合理化攻撃・権利剥奪攻撃が吹き荒れていました。

八二年から八五年の三年間で、要員は約一二万人も合理化されています。八二年初めに約四〇万人いた国鉄職員が、八五年初めには約二八万人。国鉄は八二年を最後に新規採用をストップし、要員補充せずにどんどん合理化攻撃を遂行し、職場には相当数のいわゆる「余剰人員」も出始めて、運転士も駅に出て乗客整理をやらされたりしていました。動労千葉といえども、明示に「国鉄分割・民営化に反対してストライキで対決する」という方針を決めきれない状況がありました。

 

◇1.スト決起を決断した背景

組合のリーダーであれば、国鉄分割・民営化攻撃が、政府、全資本、マスコミなども含めて総がかりで襲いかかってきた攻撃であることは、十分わかるわけです。だから、「じっと首をすくめておとなしくしていれば、嵐は通り過ぎる」というようなものではないことは強烈に自覚していました。国労と国鉄労働運動をこてんぱんにたたきつぶそうという攻撃であるとの認識は強く持っていました。

一方で動労千葉は当時一一〇〇人、国鉄労働者全体の中では本当に小さな勢力です。国家権力を相手に戦争して勝てるのか、それどころか残れるのか、本当に悩みました。しかも闘った結果、加わるであろう激しい弾圧を受けて、組織的にも財政的にも維持できるのか、組合員がもつのか、あらゆることを考えました。労働組合側にとっていい条件は何もない。何よりも「鬼の動労」と呼ばれた動労が転向して敵の手先になったことは、労働組合にとって大変な出来事です。そして総評全体も力を喪失していく。

だから、悩みに悩んだと言っても、八二年に分割・民営化攻撃が始まってから約三年間、同じことがぐるぐる頭の中で回っている状態だったと言っても過言ではありません。

しかも動労千葉の指導部も、誰も相談にのってくれない。うちの役員や組合員は「そういうことを考えるのはおまえの仕事だ」と言う。しょうがないから考えて考えて、悩んで悩んで、結局、「迷ったら原則に帰れ」という言葉どおり、「ここで組合員を信頼し、闘うことをとおして団結を固めていく以外に動労千葉の進む道はない」という結論に達したのが八五年前半ぐらいです。「やろうじゃないか。やる以上はとことんまでやろう」と腹を決めたわけです。本当に「死中に活を求める」決意でした。

その過程で、組合員たちと日常的にいろんな話をしていて、その中でだんだんと「うちの組合員もまんざらでもないな」という気持ちも生まれてきた。組合員があまりビビっていないし、むしろ怒りの方が強い。これは、動労千葉のこれまでの闘いの蓄積が大きいと思う。動労千葉は七九年に動労本部との分離・独立闘争を闘いぬき、八一年三月にジェット燃料闘争で管内全線を止めるストライキを闘った。そして八二年から分割・民営化攻撃が始まった。だからうちの組合員は、分割・民営化攻撃の嵐の中でも萎縮せず、むしろ怒りの方が強かった。僕は、こうした組合員にものすごく勇気づけられて、「よし、こいつらと生死をともにしよう。僕が本当に自分の全存在をかけて、命がけで闘いの先頭に立てば、必ずついてきてくれる」と確信を持ったし、「ここで一戦を交えよう」という決断になった。

その時に僕が思ったのは「魚は頭から腐る」ということです。指導部には一番情報も集中するし、いろんなことが一番よくわかる立場にいます。政府の動向、国鉄当局の動向も一番見える。だからこそ、指導部がプレッシャーに負けてしまうという要素がある。今までの経験から、「こういう闘争をやれば、これだけの報復が来る」ということも、現場の労働者以上にわかる。だからだいたいそこでビビるのは指導部なんです。これは僕自身も一貫して体験してきたことです。僕にしても、弱音を吐きたくなる気持ちもなかったわけじゃない。それにむち打って、「よし、ここで一戦交える以外に、動労千葉の団結を維持することはできない」という結論に達したということです。

なぜ闘うのか。わかりやすく言うと、組合員の団結を維持するとはどういうことなのか、ということです。職場で団結するだけじゃない。動労千葉には家族ぐるみで付き合っている組合員がたくさんいます。そして当時、「三人に一人は首を切られる」と言われていましたから、われわれ執行部が少しでも動揺したら、現場は一気に大動揺する。そうすると、昨日まで「一杯飲みに行こう」と酒を飲んでいた仲間が、ある日から突然口をきかなくなる。家族ぐるみの付き合いもダメになる。そんなことでいいのか。労働組合が動揺しておかしくなったら、そうなるわけです。そういうことは嫌というほど見てきたから、「絶対にそういう状況にしてはならない」と考えました。組合の団結とは、そういうことも含めて団結だと考えていました。

もうひとつ、動労千葉は運転士が圧倒的に多い。第二臨調が発足してから分割・民営化までの五年間、連日連夜、運転士が多数の乗客の命を預かって運転しているわけです。その運転士の頭の中に、常に不安がある。ここで事故を一発起こしたらどうなるんだ、と考えましたよ。分割・民営化が迫ってくればくるほど、不安になるわけだから。当局は現場の労働者に不安をあおり、労働者の団結を解体しようということばかりやっている。その中で、少なくとも運転士がきちんと仕事ができるようにしなければいけない。そのためには確固とした方針をつくらなくてはいけないと考えて、「闘う以外にない」と腹を決めたわけです。

七月に千葉鉄道管理局に新しく来た草木局長と話をした時に、「それでは『飛んで火にいる夏の虫』ですよ」と言われた。僕は「そういう言い方はないだろう。あんたは千葉鉄道管理局にいる七~八〇〇〇人の労働者がどういう気持ちで働いているのか知っているのか。人命を運ぶ仕事をしている労働者たちが、日々不安にかられながら働いているんだぞ。管理局長の仕事は国鉄分割・民営化をどう推進するかってことじゃない。大事故を起こさないために頭を痛めるのが、あんたの最大の仕事じゃないか。そんなこともせず、俺に『飛んで火にいる夏の虫だ』なんて、それはないじゃないか。そこまで言うんだったら、徹底的にやってやる」という話をしました。

結局、攻撃の激しさが、二者択一を迫ったということです。動労革マルのように敵に頭を垂れて、敵の手先になることによって延命する道を選ぶのか、それとも闘って組合の団結を堅持しぬくのか、そのどちらかを選択せざるをえない攻撃だったんです。そういう攻撃であるにもかかわらず、どちらも選択せずに「中間派でありたい」と願ったのが、国労だった。だから、最後まで何もできなかった。国労がそういう惨状をさらしたのも、必然だと思います。

 

◇2.八五年九月定期大会

八五年九月九、一〇日、動労千葉第一〇回定期大会を開催しました。ここで初めて執行委員会として、「分割・民営化攻撃に対して、ストライキで対決して闘う」という方針を打ち出したわけです。スローガンは、①国鉄の分割・民営化に反対する、②一〇万人首切り合理化に反対する、③運転保安確立、列車の安全を守る、「国鉄を第二の日航にするな」(日航ジャンボ機の御巣鷹山墜落事故が起きた直後だった)を掲げ、④未曽有の国鉄労働運動破壊攻撃を粉砕せよ、という四つをスローガンにして、第一波ストライキを一一月末に決行することも決めました。

◎雇用安定協約期限切れ

なぜ一一月末に決めたのか。まずひとつは、一一月三〇日が雇用安定協約の期限切れとされていたということです。八五年夏ごろには、動労千葉、国労、全動労の三労組とは、一一月三〇日で雇用安定協約を再締結しないことがほぼはっきりしていました。最大組合である国労とは締結せずに、少数組合とだけ締結するというやり方も、国鉄史上初めてです。ですから雇用安定協約の期限切れである一一月三〇日を焦点にすえて、「雇用安定協約を締結しろ」ということを掲げてストライキを構えました。

もうひとつは、七月の再建監理委員会の最終答申で国鉄分割・民営化のデッサンが出て、最大の関心事である要員は、ほぼ二〇万人とされました。そして一〇月に国鉄当局が「今後の要員体制についての考え方」という報告で、八七年四月一日の新会社発足時の要員は一九万五三〇〇人と打ち出した。つまり約一〇万人の労働者が新会社に行けないということです。「三人に一人の首切り」です。

定期大会に向けて、再建監理委員会の答申を細部にわたって徹底的に分析し、分割・民営化された後、どうなるのかを必死で考えぬきました。組合員一人ひとりの人生と生活がかかっているわけですから。

◎「闘いによってしか団結は守れない」

定期大会の冒頭の委員長あいさつで、僕は一時間以上演説しました。「新会社に残れる組合員も、はじかれる組合員もいるかもわからないけれど、『去るも地獄、残るも地獄』だ。民営会社に行っても、激しい合理化と労働強化の嵐の中にたたきこまれることは間違いない。賃金もどうなるかわからない」と、われわれの生活と労働条件はどうなるのかということを、多岐にわたってリアルに訴えました。

そして「三人に一人の首切りに対して闘わなかったら、組合の団結は絶対に破壊される。残りたい組合員が仲間を裏切って当局に擦り寄り始めたら、組合員同士が疑心暗鬼になる。職場の仲間の連帯感は破壊されてしまう。そんなことを放置できない。闘うことによってしか、団結を守れないんだ」と、強く訴えました。

さらに、いわゆる「ヤミ・カラ」キャンペーンや「国鉄=国賊」論への怒りです。「労働者が仕事もしないでさぼっているから、国鉄はこんな赤字になった」と大宣伝されている。それは事実とはまったく違います。

当時、八七年完成予定の青函トンネルも本四架橋の費用も全部国鉄赤字に上乗せされて、国鉄の最終赤字は三七兆円になった。田中角栄の「日本列島改造計画」に基づいて、国鉄の設備投資が野放図に始まってからできたものですから、赤字の最大の原因は自民党政治にあることははっきりしていました。当時は「我田引鉄」という言葉があって、「政治家が地元に新幹線を引っ張ったら、孫の代まで国会議員に当選することは間違いなし」と言われていた。

にもかかわらず、「赤字は、労働者と労働組合のせいだ」と大宣伝されて、組合員は怒り心頭に発していた。特に動労千葉は運転士中心の組合で、運転士はいったんハンドルを握ったら仕事が終わるまで手抜きなんてできません。勤務は不規則で、多くの人たちが寝ている時に乗務し、正月も盆もない。それなのに「さぼってばかりで国鉄をダメにした」と言われることに、ものすごい怒りを持っていた。「ふざけるな。もう黙っていられない」という気持ちは強烈にありました。だから「国鉄分割・民営化の本質を明らかにしなければいけない。『すべての責任は国鉄の労働組合と労働者にある』という宣伝に対して、国鉄赤字の元凶をはっきりさせて、社会問題にしなくてはいけない」と強く訴えました。

それから「動労千葉が闘えば、国労も必ず立ち上がる。国鉄労働者全体の壮大なゼネストを実現して、分割・民営化攻撃を粉砕しよう」と訴えた。動労千葉という一一〇〇人の組合が千葉でストライキを闘ったからと言って、この攻撃が止まるなどとは誰も思っていない。だけど「われわれが立ち上がれば、必ず全国の国鉄労働者は立ち上がるんだ」とそうとうアジりました。後で組合員に「委員長、国労は全然立ち上がらないじゃないか」と言われたけれど、「修善寺大会を見ろ。国労も分割・民営化反対の旗を守ったじゃないか。動労千葉が闘わなければ、国労も労使共同宣言にくみする組合になっちゃったんだぞ」と答えましたけどね。

「悪者にされたまま、三人に一人が首を切られて、われわれは黙っていられるのか。ここまで来たらストライキに打って出よう。決然と立ち上がって、労働者がストライキをやって、その信を社会に問おう」ということを強烈に訴え、それが組合員の持っている怒りや意識にものすごくフィットした。

◎満場一致でスト方針を採択

だから大会は、ものすごい熱気あふれる大会でした。冒頭の委員長あいさつで、もう異様なほど盛り上がった雰囲気になって、発言も圧倒的に賛成意見ばかり。「本部はよくぞ決断してくれた」「ここまで来たらやろう」という意見が代議員からばんばん出た。満場一致で決まりました。

組合員は、率直に言って闘いの呼びかけを待っていたんですよね。組合員一人ひとりがいろんな不安を抱えながらも、「組合が闘う方針を提起すべきだ」「ここまできてやらなかったら、われわれはもうダメになってしまう」と思っていたんです。

定期大会や支部大会の過程で、ストライキ方針に反対する意見はまったく出ませんでした。みんな、数十人という規模で解雇されることはわかるから、「組合の財政はもつのか」という質問は出たけれど。仲間が首を切られるわけだから、みんな食べさせていかなきゃいけないと、真剣でしたよ。僕は「やってみなきゃわからない。だけど俺たちが必死になって闘えば、必ず日本中の労働者が支援してくれる。食べていく道はいくらだってある」と答えました。

動労千葉の組合員は、いろんな闘いの経験を持っていましたから、なおさら、「今度の攻撃は、国家権力の総力をあげた大変な攻撃だ」ということは肌身で痛感している。この大会で方針を決定することの重みを十分わかっていたからこそ、それだけ熱烈な大会になったんです。

この大会の議長や発言した代議員の名前や発言内容は、『日刊動労千葉』に載せましたから、その人たちは後にストライキへの処分が出た時に、集中して重い処分を下されました。議長だった銚子支部長は公労法で解雇されたし、発言した代議員は同じ停職処分でも重い処分でした。

もうそのころ、全国で国鉄労働者の自殺者が出始めていましたけれど、動労千葉では最後まで一人の自殺者も出ていません。闘えば自殺者は出ないんです。「国労を脱退しなければ、新会社に行けない」と言われて、でも仲間との団結も乱したくないと、当局と組合員の狭間に立たされて悩み苦しんでいた人が自ら命を絶つというところに追い込まれた。それもやはり、指導部が闘う方針を打ち出すことができなかったという問題が大きいと思っています。

◎支部大会─全支部長が決意

大会でストライキを一一月下旬と決めましたから、大会終了後二ヶ月足らずで、全支部大会を一斉に開催しました。支部長は首になるのがわかっているんだから「辞めたい」と言っても不思議はない。しかしこの支部大会で、支部長がみな留任したんです。成田支部だけは前から代わることが決まっていて予定どおり代わりましたけれど、それ以外は誰も降りませんでした。支部長が全員留任するという形で、支部の先頭に立って闘う決意を明らかにしたわけです。僕は「これでやれる」と思いました。

この情勢でストライキをやったら、どこまで首になるかわからないということは、現場の労働者が一番よくわかっています。しかし役員がみんな逃げず、一致団結して組合員の先頭に立った。このことが、ストライキを闘いぬくことができた最大の要素のひとつですよね。

◎家族を含めた地域集会

大会で満場一致で決まったら闘争になるというわけではありません。やはり家族は不安を抱えていますから、家族を含めた地域集会を開催することを決めました。「家族も、地区労の労働者も集めてくれ」と言って、全部僕が直接行って訴えました。地域集会は千葉、佐倉、成田、銚子、木更津、館山、勝浦、津田沼、新小岩で開催し、家族も多く集まってくれました。館山や勝浦のような小さい支部でも、三〇〇人ぐらい集まりました。かみさんが来られないところはおばあちゃんが来てくれた。「せっかくお堅い国鉄から婿さんをもらったのに、婿さんが首になるかもわからない」と心配していますから、「今日は委員長さん、娘が仕事で来られませんので、私が代わりにきました。よろしくお願いします」などと、おばあちゃんからあいさつされました。

そこで僕は、本気になって一世一代のアジテーションをやりました。大会の委員長あいさつで発言した内容に加えて、「役員が首を覚悟してやらなければこの闘争は勝ちぬけない。弾圧は来るし、処分も来る。相当数の解雇者も出る。少なくとも支部長は首を覚悟してくれ」とはっきり言いました。支部長に、「今日はかあちゃんが来ているから、かあちゃんの前でそこまで言わないでもいいじゃないか。俺は腹は決まっているからよ」って言われたけどね。

「組合の団結さえ崩れなければ、必ず展望は切り開かれる」ということを強調しました。「分割・民営化攻撃の最大の焦点は、労働組合の団結をどうやって解体するかにある。闘って、組合の団結を絶対に守ろう。労働者は仲間を裏切っちゃいけない。組合が闘わない限り、結局は仲間を裏切らざるをえなくなるんだ」ってことを中心に話しました。

この時は、僕が演説していると、組合員も家族もシーンと静まりかえって、話を食い入るように聞く。支援の労働者なんかは演説を聞きながらワーッと拍手したりするけれど、組合員や家族は拍手なんて全然しない。まばたきもせずに僕の顔を食い入るようににらみつけているという感じですよ。それはみんな、自分と家族の人生や生活がかかっているわけだから、真剣そのもので、ものすごく緊迫した雰囲気の中での集会でした。

集会が終わってみんなが帰っていく時、僕も出口の近くに立って「ご苦労さま」とあいさつしていたら、おばあちゃんたちが「委員長さん、今日はいいお話を聞かせていただいてありがとうございました」「よくわかりました」と頭を下げて帰っていくということは、随所でありました。田舎に行けば行くほど、隣近所みんな国鉄労働者というところがとても多い。年中行き来しているし、一緒に旅行に行ったり、家族ぐるみの付き合いがとても多いから、「労働者は仲間を裏切っちゃいけない」という話をとてもよくわかってくれたんだと思いました。

だからストライキに立った時、動労千葉の組合員の大半は首を覚悟していました。首を覚悟しなかったら、あの闘争はできませんでした。世の中は、とてもじゃないけど分割・民営化に反対してストライキをやるなんて雰囲気じゃない。それはものすごく重たかった。しかし国鉄労働者はみな、「冗談じゃない。俺たちは朝から晩まで、夜中も仕事しているのに」「俺たちのせいで赤字になったんじゃない」「一発異議申し立てしなかったら、腹の虫がおさまらない」という気持ちはみんな持っていた。問題はそれにどう正しく火をつけるかということでした。

そういう中で、一気に闘争体制を確立して、一一月にストライキに入ったんです。

 

◇3.第一波ストライキ

◎一一月二八日、二四時間スト突入

一一月一七日、日比谷野外音楽堂で、動労千葉主催の全国鉄労働者総決起集会を行いました。この集会で僕が発言して、「一一月二九日、始発から二四時間ストライキに突入する」と発表した。ストライキ拠点は津田沼と千葉運転区、総武線の緩行と快速をストライキに入れるということです。

しかし直前の二七日午後の執行委員会で、ストを半日前倒しして、二八日正午からスト突入と決定しました。警察が「ゲリラ対策」と称して、総武線沿線に一万人もの機動隊を配置して、津田沼電車区の周りにはフェンスを張り巡らせて完全に包囲する体制をつくった。そして動労革マルと国労本部が一緒になって、当局のスト破り体制に協力しようとした。こうしたストライキ封殺の体制に対する抗議として、一二時間前倒しという方針を決定したわけです。

当日、何百両という電車を持つ津田沼電車区の広い構内の周りを約三〇〇〇人の機動隊が完全に包囲しました。蟻の子一匹通さないという感じでした。千葉運転区は乗務員職場だから、津田沼ほど広くありませんが、ここも周りは機動隊に包囲されました。そういう騒然たる状況の中で、ストライキに突入したわけです。

こんな中でストライキをやるというのは、並の労働者ならビビりますよ。動労千葉の組合員は三里塚闘争などの闘いの経験があるから、機動隊の乱闘服やジュラルミンの盾を見ても、全然ひるまなかった。何よりも、組合員が「もうここまできたら首になっても闘う」と腹を固めていたから闘うことができた。そしてそういう闘いができたから、みんな生き残れたし、団結を維持できたんですよね。

津田沼電車区は機動隊に封鎖されて、後から駆けつけた組合員は構内に入れない。構内には、国鉄当局が全国から動員した職制や非現業の「白腕章」が、

 

組合員の人数以上いる。その中で、二〇〇人足らずの組合員が二四時間、家にも帰らず籠城しました。一一月末で寒いからドラム缶にぼんぼん火をたき、ヘルメットをかぶって、機動隊が盾を持って構えているところまでジグザグデモで押し寄せて、機動隊の盾をがんがん蹴っ飛ばしたり。当局は「機動隊をあまり挑発しないでください」と言ってきたけれど、現場の組合員はへっちゃらでがんがん闘った。津田沼支部は二〇歳代が主力で非常に若かったから、パワーがあってね。

あまり激しく闘うから、現場に派遣していた本部役員が困ってしまって、組合本部にいた僕にひっきりなしに電話をかけてきましたよ。「組合員がみんなやる気になっちゃって、俺がいくら制止しても止められない。このままでは機動隊が構内に突入してくるかもしれない。委員長が『やめろ』って言ってくれないと止められない」と。それに対して僕が「大丈夫。ビビって震え上がってもおかしくない状況なのに、それだけ意気軒昂としているのは、みんな本気で首を覚悟して闘っている証拠だ。それだけの意気込みがあれば、警察は簡単に突入できない。心配するな。これでもうこの闘争は勝ったってことだ」と答えると、「そうか」と言って電話を切るんだけれど、また三〇分たつと「どうしよう。大変だ」と電話をかけてくる。そんなことを夜中まで繰り返しました。

こういう緊迫した中での闘争では、普段は当局ともあまりけんかしないような人がものすごく決起して、ごりっとした対応をしたりする。そうするとみんなも「あぁ、あんなおとなしい人が」と思って、また勇気づけられる。そういうことが随所で起きました。みんな普段からよく知っているだけに、感動するんですよね。そういう人は、労働者から本当に尊敬されます。大衆闘争の中では、必ずそういう人が出てきます。

千葉運転区は総合庁舎にあったから、ストの間、庁舎内で集会をやったり、下に降りていって集会やデモをしたり。ここも周りは機動隊が包囲していた。それで国労に対して「スト破りする気か。おまえらだって分割・民営化に反対だろう」とがんがん追及して、結局、国労の千葉運転区分会は分会長以下役員が辞任しちゃったんです。

◎国労津田沼分会の決起

総武線の乗務員の半分は国労組合員ですから、動労千葉の組合員の最大の関心事は国労がどうするかということです。

この時、動労は分割・民営化推進派だから、無条件にスト破りに応じます。そして国労本部も、雇用安定協約を締結してほしくてしょうがなくて、「こういう厳しい情勢の中では、業務命令が出たら従わざるをえない」と言って、スト破りに応じることにした。今までは動労千葉がストライキをやれば国労も協力して全部止まったし、国労がストをやる時には動労千葉も協力して全部止まったんです。しかしこの時は、国労本部は、スト破りのための変ダイヤに乗務するという方針でした。

これに対して、国労津田沼電車区分会の中からも決起が始まりました。二八日正午からストに入れたから、二八日は国労組合員もスト破りの電車に乗務させられたわけです。その連中が乗務から戻ってきて、国労役員に「なんでわれわれにこんなことをやらせるのか。国労も動労千葉のストライキと一緒に闘うべきなのに、スト破りをさせるなんて許せない」と怒りをたたきつけた。うち二人の国労組合員は、その日のうちに国労を脱退して、動労千葉に加盟した。津田沼電車区内には、国労事務所と動労千葉事務所が隣り合わせで並んでいたから、国労事務所に行って国労バッチをたたきつけて、そのまま動労千葉の事務所に来て、動労千葉に加盟しました。

その後も、国労本部から乗り込んできた中執の説得を、逆に組合員が徹底追及して、結局夜中の一時ごろに「スト破りのための業務命令には従わない」と明言させたんです。そして国労役員が真っ青な顔をして当局に通告に行きました。それを聞いて、うちの組合員は「やった! これで総武線は全部止まるぞ」と大歓声を上げましたよ。国労の最も良心的な部分は、やはり動労千葉の闘いにこたえて決起したわけです。

◎ストに対する報復処分、業務移管

この第一波ストライキは、社会全体に激しい衝撃を与えました。何よりも多くの国鉄労働者に大変なインパクトを与えたことは間違いありません。直後に動労組合員からも「動労千葉のストライキはすばらしい。われわれも一緒に闘いたい」と手紙が届きました。国鉄分割・民営化に反対する最初のストライキですから、マスコミも大きく報道しました。

他方で、動労千葉のストライキと同じ日に、浅草橋でゲリラが起きて、世の中が騒然としました。すると、杉浦国鉄総裁は「ゲリラを惹起したストライキに対して、厳正な処分をする」と声明を出した。さらに、なんと国労の委員長山崎と動労の委員長松崎がストライキ非難の共同声明を出したんです。毎日新聞は一二月初めに、一面トップで「スト指導者・参加者の全員解雇を決定」と報道しました。

これらは、いかにストライキのダメージが大きかったかということを示していました。当時、当局は本当に押せ押せムードだったわけです。動労はもう当局の手先になっている。国労は闘わずして、脱退者を出している。そこに、起こるはずがないストライキが千葉からたたきつけられた。よほど憎らしかったんでしょう。だから僕は腹の中では、「ざまぁみろ、俺たちが勝った」と思っていましたよ。

そしてストライキに対する報復として、八六年一月二八日、国鉄当局が史上空前の大量解雇処分を発表しました。第一波ストライキの対象は総武線だけ、運休本数は二四三本です。それに対して解雇二〇人、停職二八人、減給六五人、戒告六人、訓告一人、合計一二〇人というすさまじい処分でした。一九七五年に国労、動労が闘ったスト権ストでは、全国で一五万本の運休を出した八日間のストライキに対する処分が、国労と動労の一五人の解雇でした。動労千葉のストに対する処分がいかに過酷なものであったかがよくわかると思います。

本部執行委員はすでにジェット燃料闘争などの解雇者がけっこういましたから、首になっていなかった役員はこの時、全員解雇です。拠点だった千葉転と津田沼は、支部長、副支部長、書記長、そして執行委員もほとんど解雇です。成田支部はスト拠点ではありませんが、成田運転区の運転士も特急列車を東京に乗り入れたところでストに入れたので、成田支部長が解雇されました。

もうひとつの報復は、業務移管です。千葉から東京の三つの管理局に、総武線の緩行線・快速線と我孫子線の運転業務七〇〇〇キロの業務移管が一月に提案され、三月のダイヤ改正で強行されようとした。千葉から仕事そのものを奪って過員を生みだし、配転や首切りの対象にして組合組織の根幹を揺るがそうという攻撃です。自分たちの仕事を奪うという大攻撃に対して、組合員は大変な怒りを持った。

業務移管攻撃に対しては、ただちに反撃しました。線路見習い訓練を二月五日から実施したんですが、それに対する線見阻止闘争を展開しました。成田や幕張電車区、津田沼電車区に東京の運転士が乗り入れてくるわけだから、それと激しい攻防を闘った。成田駅などのホームを毎日、プラカードを持った何十人もの組合員が埋め尽くして、線見訓練に来た乗務員への抗議闘争を展開した。ホームが組合員と当局側の職制で満杯になってしまって、当局は、東京の運転士を守ろうと戦々恐々としていました。そういう中で、線見をやらされている労働者からも「俺はもう嫌だ」というやつも出てきた。この過程で、国労田町電車区分会が国労東京地本や新橋支部に「千葉の闘いを破壊するための業務移管には、田町電車区分会として応じられない」と申し入れをするということも起きた。

 

◇4.第二波ストライキ

◎第二波ストと新たな報復

八六年は、一気呵成に国家権力と国鉄当局の反動攻勢が強まった一年でした。国鉄労働運動を壊滅的にたたきつぶす攻撃が本格化し、他方では八七年四月一日までに二〇万人体制にするための大合理化攻勢を一気にかけてきた年でした。動労千葉はある意味でこの八六年の攻防を見越して、八五年第一波ストライキを闘い、八六年第二波ストライキを敢行したわけです。

八六年二月一五日、第二波二四時間ストライキに立ち上がりました。この時には、第一波の時の四本のスローガンに加えて、「大量不当処分撤回、業務移管反対」を掲げ、スト拠点は、千葉運転区と津田沼電車区に加えて、成田運転区、そしてスト戦術として「千葉地区」も加えました。館山、勝浦、銚子などはスト拠点にはしないけれど、館山、勝浦、銚子などの運転士もみんな千葉駅に乗り入れるわけだから、いったん千葉駅に入ったら、帰りの電車には乗らずにストに入る。例えば外房線の一番列車が千葉駅のホームに入ったら、そこでストに入れる。そうすると次の電車は千葉駅に入れないから、一つ手前の本千葉駅で止まるしかない。そうやって各駅に数珠つなぎになってしまうわけです。それは国鉄当局もよく知っているから、結局全面ストップするしかなくて、事実上、千葉の全管内が止まりました。

そして三月一四日、第二波ストへの処分が出ました。解雇八人、停職三一人、減給二三三人、全体で二七二人という大量報復弾圧です。今度はスト拠点ではなかった館山、勝浦、銚子も、支部長が解雇されました。結局、ストライキに突入した支部では、支部長がみな解雇されたということです。

もうひとつの報復として、三月一八日、第一波ストに対して三六〇〇万円のスト損害賠償請求訴訟が提訴されました。スト対策として北海道、西日本などから動員した職制の助勤旅費や時間外労働手当、夜勤加給、さらに特急券の払い戻し金額、代行バスのレンタカー代などを全部合計した金額を、動労千葉に請求したものです。国鉄時代、損賠訴訟が起こされたのは、七五年スト権ストに対する二〇二億円損賠請求訴訟と、動労千葉の第一波ストの二回だけです。

また、八六年三月には第一次広域異動が提案されました。これは、北海道や九州から動労組合員を本州に配転して、「血の入れ換え」により国労や動労千葉の組合員を「余剰人員」にすることを狙ったものですが、実は、千葉には一人も来ることができませんでした。当時の動労本部は「動労千葉はとんでもないやつらだ」と大宣伝していましたから、動労組合員が「千葉に行ったらどうなるかわからない」と恐怖感を持っていたんでしょう。全員が「千葉に行くのは嫌だ」と東京を希望したため、全員が東京に配属され、千葉には一人も来なかった。

そして二波のストライキ以降八七年四月まで、数波の順法闘争や非協力闘争を展開しました。とりわけ焦点としたのが、成田運転区廃止問題です。成田運転区は八六年三月のダイ改で千葉運転区成田支区にされ、さらに一一月ダイ改で廃止された。成田は鉄道の要衝でしたから、運転区廃止というのは非常に非効率的なものです。成田運転区は全員が動労千葉の組合員で、しかも三里塚ジェット燃料闘争の拠点だったから、動労千葉の拠点つぶしのためだけに運転区を廃止して、成田支部の組合員は全員ばらばらに散らされたわけです。これに対して順法闘争、非協力闘争、安全運転闘争をとことん展開しました。

◎二八人の被解雇者の生活を守る闘い

二八人の解雇とは、間違いなく戦後労働運動の中でかつてない大量不当解雇攻撃でした。しかも当時一一〇〇人という規模の動労千葉が、それ以前の解雇をあわせて、三四人の被解雇者を抱えたわけです。

これほどの大攻撃の中で組合の団結を守りぬくためには、被解雇者が組合のもとに団結して、解雇されても組合の先頭に立って闘うことが最大の課題です。やはりここにそうとうな労力をつぎ込みました。

被解雇者も、組合活動の経験などはいろいろで、それほど指導的な活動家ではない組合員も含まれていたし、初めての処分が公労法解雇という人もけっこういました。また青年部長は規約上は執行権がありませんが、本部と津田沼支部、成田支部の青年部長も公労法解雇。また、支部で組合費を集めるだけの役として執行委員をしていたために解雇された人もいます。

だから意識の差もありますし、家族ぐるみ腹を決めている役員・活動家もいれば、家族との関係がものすごく深刻になった組合員もいたし、個々が大変な苦労をしたことは間違いありません。だから処分が出た後、被解雇者の家族を集めて、「絶対に食うに困るようなことはさせない。動労千葉に結集して最後まで闘いぬこう」とずいぶん話をしました。家族から「こんな無謀なことをやった委員長が悪い。私の亭主の首を返してくれ」としんらつな批判を浴びせられたこともあります。

そこで本人が「自分は国鉄労働者として正しいことをやったんだ。何ひとつ間違ったことはしていない」と家族と対決した組合員は、今でもすいすいやっている。かみさんに「あなたは委員長の言うことばかり聞いていたから、首になったんだ」と言われて、「ふざけんな。四〇歳を過ぎた男が、自分の意志で闘って首を切られたんだ。それを認めないんだったら別れる」と対決して、その結果、家族も一緒に闘いぬいてきた被解雇者もいます。二八人の被解雇者が一人ひとり、いたるところでそういうやりとりをしながら、闘いぬいてきたんですよね。

しかしとにもかくにも、二八人の被解雇者の生活を維持しなければならない。物販をやったり、会社を設立したり、アルバイトを始めたり、いろんなことをやりました。

二八人のうち本部役員は四人で、あとはみんな支部の役員です。支部に専従者を置く余裕はありませんから、ただちに全員を本部に吸い上げて、動労千葉が雇用する役員という扱いにしました。これは、国労の闘争団への対応と違うところです。しかしそれだけで、膨大な人件費がかかります。組合の財産を全部人件費に投入して、必死でもたせました。年金や健康保険、雇用保険も半分は事業主が払うわけですから、社会保険だけで年間何千万円も支払っていました。年間の人件費だけで一億円を軽く超えましたね。一人五〇〇万円でも二八人で年間一億四〇〇〇万円ですから。

被解雇者とは、個別面接で討論しました。本部の専従になるか、物販をやるか、外に働きに出るか、本人の希望が大切ですから。でもほとんどの人が「外に働きに出たい」と言って、組合の専従役員を希望した人は少なかった。それは組合員は、「動労千葉の役員が一番大変だ」とわかっているんですよね。文章は書かなくてはいけない、しゃべらなくてはいけない、交渉しなくてはいけない、労働時間なんてまったく関係なし、労働基準法はあってなきに等しいってね。

それで、外に出て働くことにした被解雇者も、賃金の扱いは本部役員と同じにしました。稼いだ賃金はいったん全額組合に入れさせて、それと別に、首を切られた時の賃金水準に応じて組合から賃金を渡す。これを一〇年近く続けました。最初のうちは自分の稼ぎの方が多い人は少なかった。被解雇者は四〇歳代半ばから二〇歳代までいましたが、みんな電車の運転士一筋で、ほかにたいした技術を持っていません。アルバイトも含めてあらゆる仕事をみんな必死でやりましたけれど、すぐには国鉄当時に匹敵する賃金なんて受け取れませんから。だから物販の利益も、当時全国に呼びかけた「一億円基金運動」のカンパも、被解雇者の賃金に全部つぎ込みました。そのころが財政的には一番厳しかったですね。

ただし強調したいのは、動労千葉の場合は、「被解雇者の闘い」というだけじゃないということです。もちろん被解雇者自身の闘いという独自の領域はあります。しかし、被解雇者二八人と清算事業団に採用差別された一二人以外は、みんなJRに残ったわけです。二波のストライキで停職などの処分を受けて、「俺はこれだけの処分を食ったんだから、もう新会社には行けないんじゃないか」と腹を決めていた組合員も、みんな残った。だから動労千葉は「本体に残った組合員が闘うことが、解雇撤回闘争だ」とはっきりさせて闘ってきました。だから物販も、まずは本体の組合員が夏・冬と二万円ずつ、年間で計四万円分を買った上で、他の労働者に支援を要請する。物販オルグも、被解雇者も行くけれど、それ以上に本体の組合員たちが行く。

そして、被解雇者は毎月一回、被解雇者を集めて争議団会議を行い、定期大会や大きな闘いの集会には参加してきました。今でも被解雇者も組合員ですよ。そして後に、九七年に公労法解雇を撤回させた時点で、金銭決着だったから、九〇年四月一日段階で退職したとしたら受け取っているはずの退職金相当額を被解雇者一人ひとりに渡しました。九〇年四月一日以降の分については、一〇四七名闘争が勝利したら処理しようと確認しています。

 

◇5.採用差別と清算事業団での闘い

◎八七年冒頭、「一本書き」を指示

八七年冒頭には、本州三社の定員割れということがはっきりしてきた。千葉鉄道管理局の要員状況などを調べれば、動労千葉の組合員のうち少数は清算事業団に送り込まれるとしても、とても大量に首を切ることなんてできない、基本的にほとんどが新会社採用となるという見通しは立ちました。

八六年一二月に「配属先希望調査票(意志確認書)」が配布され、一月初めが提出期限とされました。この時、動労千葉は、全組合員に「一本書き」の指示を出しました。電車を運転している組合員は「JR東日本」一本書き、新小岩と佐倉、蘇我の貨物職場の組合員は「JR貨物」一本書き、と方針を出した。それで二月一六日に新会社の採用通知が行われ、採用差別された組合員が一二人、残りは全員、新会社であるJR東日本もしくはJR貨物に採用になりました。

この時に国労では、現場の動労との闘争などの関係で、「分割・民営化に反対だから、書かない」と白紙で提出したり、「分割・民営化反対」と書いて提出したりした人もけっこういた。そういう人は自動的に清算事業団に送られました。しかし千葉では、国労組合員も多くは、動労千葉と同じ一本書きをしました。

◎清算事業団の一二人

動労千葉では、清算事業団送りになった一二人は、みんな二波のストライキを闘って停職処分を受けた組合員ばかりです。ストの処分で停職三ヶ月を二回受けたら、無条件に清算事業団送りでしたから。二月一六日の不採用通知の時には不採用の基準は説明されなかったんですが、労働委員会闘争や裁判闘争を闘う中で、「過去三年間に停職六ヶ月または二回以上の処分」という基準だったことが明らかになりました。本州は定員割れでしたから、そのままではストライキを闘った動労千葉の組合員も全員採用せざるをえなくなる、それをなんとか首を切るためにひねり出した基準だったわけです。これにより、ストライキ拠点だった千葉運転区支部は五人が清算事業団に送られ、これで現場からは執行委員が一人もいなくなりました。

清算事業団の三年間も、動労千葉の組合員はけっこう好き勝手にやっていましたよ。「今のうちに、清算事業団のカネで自動車免許取ってこいよ」と、みんな免許証を取ったりして。人活センターの時もそうだったけれど、動労千葉の組合員に対しては、当局もあまり嫌がらせとかできないんですよ。だから、あまり「大変だった」という話はない。組合員の方が圧倒しているから、職制が居丈高にやるようなことができなかった。

 

 

そして九〇年三月には六〇歳になった人もいたから、一二人のうち三人は九〇年三月三一日、清算事業団に「退職しても闘争は継続する」と表明して退職しました。それで、残りの九人が四月一日付で清算事業団から整理解雇されました。

 

◇6.JR体制下の闘いに突入

八七年四月の時点で、組合員数は約八〇〇人。定年退職者もいたし、若手でも国鉄を希望退職してほかの職場を探して役場に行った人もいましたから、組合員は一定減りましたが、それでも分割・民営化反対闘争で四〇人が首を切られても、組織の基本骨格は守りぬいて、JR体制のもとでの新たな闘いに突入することができました。

その結果、JR発足時に全国で唯一、千葉管内はJR総連が過半数を取れない支社となったんです。動労千葉の組合員で売店などに飛ばされたのも五〇人ぐらいいたけれど、それでも運転職場のシェアは約五六%、過半数の運転士を動労千葉が握っていました。

◎動労千葉の団結力、統制力

JR発足前日の三月三一日、千葉鉄道管理局長と話しました。「当局はこれからどうするんだ。これからも徹底攻撃してくるんだったら、俺たちは受けて立つ。それともこれからは労資できちんと話し合うという姿勢に変えるのか」と言ったら、「これからは、みなさんときちんと話し合ってやっていきたい」と言ってきた。それで、僕は「今までのあり方を変えて、ちゃんと話し合っていくんだったら、わかった」と答えて、「何か条件はあるか」と聞いたら、「できればみなさんに、ネクタイをしめて、ワッペンをはずしてもらいたい」と言ってきた。そこですぐに全組合員に、「明日からはワッペンをはずして、ネクタイをしめろ」という指令を下ろしました。

そうすると四月一日から、組合員全員がただちにそれに従った。当局はびっくりしていたけれどね。「俺はそんなの嫌だ」という組合員もいたけれど、僕は「ダメだ。これからはそういうレベルの闘争じゃない。動労千葉は、全組合員の利害をかけて節々でストライキを構えて闘うんだから、そんな小さなことで争わない」と言った。国労の場合は、国労本部のていたらくの中で、国労バッチをつけていることがかろうじて職場の闘いの象徴になりますよね。動労千葉は、闘う時には組織全体で闘いますから、そういうことは枝葉のことになるわけです。そういうことは動労千葉の組合員はよくわかっているから、一斉に従った。そうすると、当局も驚いちゃう。動労千葉の団結力、統制力をがんと示すわけだから。こんなことが一日でできるというのも、組合の強さだと思います。

一〇〇〇人程度の組合で四〇人が首という大変な血を流したら、普通の労働組合は終わりです。何よりもまず財政がもたない。しかし動労千葉は「自分たちの闘いは、必ず全国の労働者の気持ちをつかむ」と考え、この闘いを全国に広げ、物販などをやりながら動労千葉は生きていくんだと腹を固めて、全国の労働者、労働組合の支援で今日まで来たわけです。

この過程で宮島義勇監督が来てくれて、映画『俺たちは鉄路に生きる』を撮ってくれた。この映画を持って、北海道から沖縄まで、うちの役員も派遣して上映会をしました。この映画会には延べ一万数千人も集まってくれて、これが動労千葉の大変な財産になりました。

◎いすみ鉄道

分割・民営化と一体で八八年三月、木原線(大原駅~上総中野駅)が第三セクター化されて、いすみ鉄道になりました。木原線の運転士は全員、動労千葉の組合員でしたから、今度はいすみ鉄道に出向という形になる。その出向について、当初は会社側が「基準に基づいて行います」と言う。それに対して「ふざけんな。そんなことしたら一戦交えるぞ。動労千葉が拒否したら、いすみ鉄道は動かないぞ」と言って交渉したら、「組合側と話し合って、希望にそってやります」ということになった。

木原線は電化されていない内燃機関だから、電車の運転資格だけでなく気動車の資格が必要なんです。その資格を持っている運転士は、あの周辺では動労千葉しかいない。つまり、動労千葉が拒否したらいすみ鉄道は動かないんですよ。そして勝浦支部は木原線当時から、希望者を年齢順に出すと決めてきたから、第三セクター化されても出向する人は動労千葉が決めることを認めさせたわけです。今もいすみ鉄道には、動労千葉が決めた順番で出向に出しています。

 

◆Ⅴ/動労千葉はなぜ闘うことができたのか

 

◇1.二波のストライキの意義

動労千葉の闘いは何よりも一つ目に、戦後最大の労働運動解体攻撃に対して、唯一動労千葉が労働者の誇りをかけて闘い、一矢を報いたという意味を持っていました。全党派が存在する国鉄労働運動において、あらゆる勢力が敵の手先に転向するか、闘う方針を持たずに組織を切り崩されていくか、という状況だった。その中で、動労千葉が一矢を報いた。「ノー」と言える労働組合があること、「おまえらの言うことに、唯々諾々と従うようなことはしない。屈服しないぞ」ということを示した。これが一番重要だと思っている。

二つ目には、国労が修善寺大会で「労使共同宣言」路線を拒否して、分割・民営化が強行された時点でも四万四〇〇〇人が残った。つまり動労千葉の闘いは、国労の旗が残るという事態をつくり出した大きな力となったと思う。そのことが結局、八九年には総評が解散して連合が結成されても、国労が連合に参加しないということをとおして、国労をつぶし、国鉄労働運動をつぶすという敵の狙いを阻んだと言えます。

三つ目に、国鉄分割・民営化が強行されてもなお動労千葉が残り、国労が残り、そしてそれ以降、「一〇四七名闘争」と言われる国鉄分割・民営化反対の闘いを、今も脈々と継続している。動労千葉の二波のストライキは、その基礎をなした闘いになったと思います。

それぞれの組合が今いったいどうなっているのかを考えてみれば、よくわかります。動労、鉄労、全施労は解散し、鉄道労連を結成した。他方、JR発足後も、国労は一応残ったし、全動労も残った。しかし国労は、八二年に組合員数が二三万人以上いたのが、五年後の八七年四月には四万四〇〇〇人。五分の一以下になった。

それに対して、分割・民営化攻撃と血を流して満身創痍で闘った動労千葉だけが、組織比率で言うと最も基本骨格を守り、団結を維持したまま残ったんです。国鉄労働運動を解体するという彼らの野望を、最後の一線のところで阻止したと言えると思う。たかだか千葉という一角ですが、果敢に闘いを挑んだことにより、闘いの炎を残した。それは今も動労千葉の組合員たちの誇りになっています。

四つ目に、動労千葉の闘いが、動労革マルの悪行を完全に暴いたということです。動労革マルが分割・民営化の手先となって行ったことは、労働組合運動史上例のない、とてつもなく反労働者的なことです。しかし、もしあれで動労千葉や国労が解体されてしまえば、彼らの悪行は悪行じゃなくなってしまった。やはり動労千葉が闘いぬいたからこそ、革マルの反労働者的な本性が完全に暴かれたんです。

それまでは、革マルも左翼の一派だと思われていたんですよ。一応分割・民営化までは、革マルと中核派のゲバも、「どっちもどっち」「同じ革共同なのに」というように見ていた人もいました。

しかし動労革マル活動家が国労の分裂工作をやったから、国労から一ヶ月に一万人以上の脱退者が出るようなことになった。しかも、革マルは、動労組合員を強制的に広域異動に応じさせたり、出向に出させたり、当局にもできないことを、労働組合の名でやったわけです。

他方で動労は、八六年七月の総評大会から退場し、総評脱退を正式決定しました。こうして、国鉄分割・民営化で国鉄労働運動をつぶし総評を解散させるという、中曽根をはじめとした日本の支配階級の先兵としての役割を担ったわけです。

それで分割・民営化後、JR総連という大組合の権力を資本からの「ご褒美」としてもらった。しかし九〇年を過ぎると、もう箱根以西では「革マルは御用済み」とはじかれて、「走狗煮らる」という言葉のとおりになった。JR東海、JR西日本、JR九州、JR四国では、JR総連は完全に少数組合になっています。そして今やJR総連の最大実体であるJR東日本でも、革マルが大分裂を始めました。世の中、それほど甘くはありません。

今、革マルほど多くの労働者人民から忌み嫌われている存在はありません。そして権力・資本からも見放されている。こういう非常に悲惨で無惨な醜態をさらけ出しています。こういう状況は、分割・民営化の過程を経てつくり出されたものです。

動労千葉はストライキを闘って、あわせて四〇人の首を切られました。しかしこの闘いの中で、何が正しくて何が間違ってたのか、労働組合とはどうあるべきなのかということをはっきりさせたという自負は持っています。このことはとても大事なことだと思っています。

 

◇2.労働組合観の違い

動労革マルや国労民同・革同とわれわれとでは、まずやはり、労働組合観が全然違った。労働組合運動に対する認識が全然違ったということです。

当たり前のことではあるけれど、労働組合とは幹部のものではなく組合員のものです。労働組合は、資本・当局のあらゆる攻撃に対して組合員の階級的利益を守るために、団結して闘いぬくものです。

資本主義が経済成長期や経済安定期である時には、誰もが、どの党派もが、左翼的なことを言えるし、それなりに格好つけてもいられる。国労はその典型で、高度経済成長の時には格好つけられても、不況になり、物も取れなくなった時には力がなくなってしまったわけです。しかし、労働者が本当に苦況に立った時こそ、労働組合の存在理由、存在感がある。そういうことを僕は常日頃、自分にも言い聞かせてきたし、組合員にも訴え続けてきました。

総評の民同労働運動は、七五年のスト権ストをいわば「最後の闘争」として、低調になっていった。ちょうど日本経済は不況期に突入して、労働者に激しい攻撃が始まった時代です。そういう時代に動労千葉が、唯一と言ってもいいくらい、三里塚ジェット燃料闘争をはじめとする闘いを継続し、闘いを前進させてきたということが、大きな蓄積になったことは間違いありません。

革マルの言う「階級闘争」では、権力の力を借りてでも他党派や他団体を解体することが「革命的」になる。そういう考え方と、動労千葉のように組合員に依拠し、その力で情勢を切り開いていくしか道はないという労働組合観、労働者観は、一八〇度対極にあると言えます。

僕は書記長の時から、「民同労働運動を乗り越えるというのはどういうことか」と考えていました。それは根底的には、動労千葉に結集している労働者の階級性、本来労働者が持っている力を掛け値なしに全面的に信頼し、それに依拠して闘うということです。それ以外に労働者は生きようがないから。口だけじゃなくて、掛け値なしにそうしてきました。

だから僕は、自分のナマの姿をさらけ出して労働者と話をするし、付き合う。そうでないと組合員は信頼してくれません。「あいつは口ではうまいことを言っているけど、本音は違う」というんじゃダメなんですよ。だけど、僕は組合員にべたべたしないで、必要な時は叱りとばしますけれどね。

さらに、この攻撃に一矢も報いることができなければ、日本の労働運動はまさに壊滅的な状況になってしまう。そうすると、戦後培ってきた労働者の権利や団結は完全に解体されてしまう。これはなんとしても闘わなくてはいけないという階級的使命感、これは間違いなくありました。

 

◇3.時代認識の違い

当時、分割・民営化攻撃をいったいどうとらえるのかという背景には、明らかにこの時代をどう見るのかという時代認識の問題がありました。

動労革マルは「冬の時代」論で、「冬の時代に闘うなんて、労働者階級の闘いに敵対する行為だ」という理論まで組み立てる。

国労は「これだけ攻撃が激しく厳しい時代だから、たこつぼに入るしかない」という認識でした。典型は日共・革同です。日共・革同は、戦後革命期に壊滅的な攻撃を受けたという恐怖感を今も引きずっている。だから国鉄分割・民営化のような攻撃が出てくると、敏感に察して、「これに立ち向かったら、戦後のレッドパージや日共の非合法化のような攻撃にまたさらされる」という恐怖感を待って、闘いを放棄していく。

動労千葉はどういう時代認識を持っていたのか。あの当時も、僕は組合員によく、「支配階級の側が盤石な時には、労働者がどんなに闘っても敵はびくともしない。しかし危機の時代には、われわれの闘いようによって敵を揺るがすこともできる。労働者階級の側から見れば、チャンスの時代なんだ」と言っていた。六〇年代から七〇年代前半の総評の全盛時代には、たかだか一一〇〇人ぐらいの組合が何をやっても、日本の労働運動全体を揺るがすことなど、とてもじゃないけどできなかったでしょう。「だけど今はそうじゃない。一〇〇〇人あまりの組合でも、団結して闘ったらいろんなことが可能なんだ」と。こういう考え方は、今でも変わりません。

敵の危機にかられた攻撃を「冬の時代」と考えて敵の陣営に加わるのか、「これに逆らったら大変だ」と考えてたこつぼに入るのか、それとも労働者階級にとってのチャンスだととらえるのか、という違いが明確にあったということです。

分割・民営化攻撃というかつてなく激しい攻撃の中にも、敵の矛盾点があることを見てとれるかどうかということだと思います。

 

◇4.体制内労働運動か階級的労働運動か

国鉄労働者に対して「ヤミ・カラ」キャンペーンや、「国鉄=国賊」論が大宣伝される中でしたから、その中で「敵は盤石じゃない。敵の攻撃の中には絶対に矛盾がある。労働者のチャンスなんだ」ととらえるということは、簡単なことではなかったかもしれない。しかし、このことをもうちょっと突っ込んで考えると、体制内労働運動か、階級的労働運動かという問題があるということです。

結局、分割・民営化攻撃の中ではっきりしたことは、日本の左翼はほとんどすべてが体制内左翼だったということです。国労には、日本の左翼の全党派が存在していて、それぞれがそれなりに闘うことによって、国労はかなりの戦闘性を持っていた。しかし結局は体制内労働運動に過ぎなかった。だから、分割・民営化という戦後最反動の攻撃に対して、転向して敵の手先になるか、闘わずして屈服するかという道を選んだわけです。

つまり、それまで掲げていた「マルクス主義」が完全に偽物だったことをさらけ出したわけです。日共・革同もそうだし、協会派も正式名称は「社会主義協会派」なくせに、いかにダメな「社会主義」だったかということがはっきりした。いよいよ敵が危機に突入して、本当に体制を打倒することがテーマとなった時に、今まで掲げていた方針を投げ捨ててしまった。

そういう意味では、体制内労働運動とは違って、マルクス主義的な物の見方をすることができたということが、動労千葉が唯一闘いぬくことができた核心だと言えると思います。それを動労千葉は、具体的な闘いの実践の中で貫いてきた。動労千葉は七〇年代にも、ジェット燃料闘争や運転保安闘争など、それ自体としてはカネにならない闘争ばかり闘い、その中で解雇者も出してきた。だから僕はよく、「物取り闘争になっちゃダメだ」と言ってきました。改良主義的改良闘争はやらない。「だけど、物も取るよ」と、革命的改良闘争はやる。そういうふうに闘ったからこそ、労働条件という面でも、国鉄の中では最高の労働条件を千葉がかちとったんです。

別に動労千葉の組合員がマルクス主義者だというわけじゃないけれど、今もこんな情勢の中で「なぜ動労千葉の組合員はあんなに明るいんだ」と言われるほど、あっけらかんと毎年闘っています。展望を持っているから明るい。そして不当な扱いを受けた怒りや悔しさをものすごく持っているから、「今に見てやがれ」とみんな思っている。だけど「俺たち動労千葉は団結して闘っているから、今こういう時代に俺たちは誇りをもって生きてるぞ」と、実感を持っているわけです。

 

◇5.「闘えば必ず分裂する」神話を打ち砕く

動労千葉は全国組織じゃないし、千葉という一地方の、しかも運転職場だけの労働組合に過ぎません。ここで「無謀」にも国家権力を相手取って闘いを挑んだんだから、「飛んで火にいる夏の虫」になってもおかしくなかった。だけど「俺たちは『飛んで火にいる夏の虫』にはならない。俺たちは絶対に死なないよ」と思って闘いぬいてきました。

だから僕は、動労千葉が分割・民営化に反対してストライキで闘うことができたということだけをとらえてほしくない。ストライキを闘い、公労法解雇と清算事業団送りを含めて四〇人も首を切られて、にもかかわらずそれ以降一六年間も闘いを継続しているということを認識してもらいたい。

戦後の日本の労働運動の中でも、その時の闘いの激しさだけを考えれば、注目すべき闘いはいっぱいあります。国労新潟闘争、全自動車日産の闘い、日鋼室蘭の闘い、三井三池闘争など、いろいろあるけれど、結局はその後、組織を崩されてしまったんです。動労千葉は組織の骨格を維持して、JR体制のもとでの闘いに躍り込むことができた。それは、戦後の日本労働運動の歴史から言えば「奇跡的なこと」でした。この闘いの中で大変な出血をしたけれど、被解雇者を守って突き進むのが労働組合だという原点を、今でも堅持して闘っているわけです。

分割・民営化攻撃に屈服した組合は、みな組織がなくなっています。動労革マルも動労を解散しました。先輩たちが築いた動労という労働組合を自ら解散したという負の遺産を、今も松崎は背負っている。われわれは、先輩から引き継いだ動労千葉という組織を今でも堅持して守りぬいている。

「闘えば必ず分裂する」というのが戦後労働運動の「神話」でした。この「神話」を分割・民営化闘争をとおして動労千葉は完全に打ち砕いたと、自信を持って言えますよ。

もうひとつ、戦後の労働運動の歴史の中で、「右の側から」の組織拡大はいくらでもありますが、「左の側から」の組織拡大を実現することができた労働組合というのは、いまだかつて存在しないんです。動労千葉はそれにも今、挑戦中です。JR総連を解体して、平成採の青年労働者を一気に組織してやろうという組織拡大闘争です。

 

◇6.革マルへの怒りが闘いのバネ

動労千葉が闘いぬくことができた底流には、動労革マルの問題があります。七九年に動労本部から分離・独立するにいたる約一〇年間、動労千葉の組合員は、革マルによる激しいテロも含んだ組織攻撃と闘ってきたわけです。

本来ならば組合員が歓迎しない革マル派と中核派の党派闘争、その当時は「内ゲバ」と言われていたけれど、そのことが動労という労働組合の場で、動労本部や動労東京地本に巣くう革マルとの闘いとして展開されたわけです。この一〇年余、職場においてうまずたゆまず、「この闘いは、労働組合の原則をいかに守りぬくのか、いかに労働者の利益を守って労働運動を進めていくのかという問題だ」と議論してきた。労働者とはどう生きるべきか、労働組合とはどうあるべきかということが、底流にずっと流れていた。その実践によって培った、組合員自身の労働組合観が、動労千葉にはしっかりとあります。

その激しい組織攻防戦を闘いぬいて分離・独立しましたから、全組合員が「激しい組織攻撃にさらされたけれど、自分たちで一三〇〇人の動労千葉という組合をつくった」というものすごいロイヤリティを持っている。だから「この組合は、誰がなんて言おうと死守しなくちゃいけない」という意識が、強烈にあるんです。

そして当時から動労本部革マルは、国鉄当局の意向を笠に着た連中でしたから、そういう本質も組合員はみんなよくわかっていた。その動労革マルが分割・民営化攻撃の先兵になるのを目の当たりにして、組合員の誰もが「あいつらにだけは負けられない」という思いを強烈に持ったんです。

だから動労千葉の組合員は、当局に対して「分割・民営化攻撃は許せない」と怒るのと同時に、労働組合の名において分割・民営化攻撃の手先になった革マルの存在はなおさら許せないという思いがものすごく強い。そして「ここで俺たちが後退したら、革マルに屈服することになる。それだけは、生き方の問題として絶対にできない」という意識が組合員に強烈にある。この怒りが、腹を固めて闘いぬいているバネだとも言えます。

 

◇7.現場指導部の闘いの位置

労働運動というのは、一人がいなくちゃいけないけれど、一人だけじゃできない。僕という存在があったから動労千葉という組合があったというのも一面の事実ですが、やはり僕だけじゃできなかったというのも事実です。僕を支えてくれる各現場の活動家集団がいたから、これだけの闘争ができたんです。

どんな職場でも、必ずリーダーシップを握る人がいます。動労千葉の場合は、そういう人が全員組合派、動労千葉派だった。日常的に組合員と一番密に関係を持っている支部長が、全員首になることを覚悟して闘いの先頭に立ったことが、現場の組合員をものすごく奮い立たせたことは間違いない。

その上で、やはり日常的な支部の活動の積み重ねがすごく力になった。動労千葉では、組合費の徴収がとても重要な闘いです。動労千葉は今でも、賃金からのチェックオフでもなく、各支部の執行委員が毎月、全組合員から組合費を直接徴収しています。動労千葉の組合費は他組合よりもずっと高いけれど、それを組合員が自分の財布から直接払う。あえて言えば支部の活動の半分は組合費徴収にあると言ってもいい。そのことをとおして役員は、組合員全員と接点を持って、みんなの意見を聞いたり、組合の方針を話したりする。

支部が組合費を徴収できる強さを持っているという組合は、今ではほとんどなくなってしまいました。ある組合の幹部から「組合費のチェックオフが打ち切られたら組合がもたないから、当局とけんかができない」と言われたことがありますが、当たり前です。組合の財源を資本に握られていて、けんかができるわけがない。動労千葉はここがしっかりしているから、いざという時はいくらでも当局と闘うことができるんです。

 

◇8.職場闘争・実力闘争が闘いの土台

分割・民営化当時の動労千葉の支部は、全部職場闘争をやる力を持っていた。支部ごとに当局とやりあって、職場支配権を組合が完全に握っていた。

動労千葉は、仕事を楽するのが労働組合運動だと思っていません。「やることはやる。その代わりに言うことは言う」。それは協会派などと全然違うところです。仕事をちゃんとやるということは、搾取されるってことですが、同時に労働者の誇りなんです。特に動労千葉は、電車の運転や検査・修繕をする仕事の労働者が圧倒的に多いわけで、ある種の技術屋集団ですからね。仕事をちゃんとやらないやつに、本当の怒りなんか出てこない。

国労はマル生闘争以降、現場協議制に依拠して闘ってきたから、現場で野放図な要求をいっぱい出していました。国労は、実態のない現場協議制により、当局を追い込んでいるような錯覚に陥っていたんです。

動労千葉は、現場協議制などに全然依拠せずに、実力闘争で闘った。だから団体交渉のやり方も国労とは違います。ぐずぐずやらない。ダメだと言われたら、「あぁそう。じゃあ俺らは俺らでやらせてもらう」と言って帰ってきて、すぐに順法闘争を対置したりして闘争をやる。合理化の結果、線路が悪くなったら、運転中にスピードを上げない安全運転闘争に入る。そうすると毎日毎日、何千分と列車が遅れるわけだから、当局は困ってしまう。それによって、次のダイヤ改正の時に、安全に運転できる運転時分に変えることを強制したり、線路を直さざるをえない状況を強制したりする。

動労千葉と国労は、分割・民営化攻撃が始まる前までの闘い方も違った。実力闘争で闘って労働条件なども取っていた動労千葉と、現場協議制などに依存していた国労との違い、組合としての団結の強さの違いが、分割・民営化に対する闘い方の違いとして現れたとも言えます。

 

◆Ⅵ/動労千葉の総括と教訓

 

◇1.「二者択一」の場合は、左を選択することが正しい―原則を守るということ

労働組合は、二者択一を迫られる時があります。分割・民営化の時もそうです。これに賛成するのか、反対するのか。中間はありません。国労は中間派でありたいと願ったけれど、中間派など存在しえないから、がたがたにされました。二者択一の時は、どんなに困難でも、間違いなく左を選択した方がいい。労働者の団結を本当に堅持して、団結して組織を維持するためには、左を選択する以外にない。これが原則を守ることだと痛切に感じました。今でもそうです。

動労千葉の現場の組合員も、もう十何年も闘って突っ張っているから、「いつまで突っ張るんだ。もういい加減にしよう」と言ってくる時もあります。では、突っ張らない方法はあるのか。JRの中には見本がいるわけです。JR総連、国労、鉄産労、そして動労千葉がある。国労組合員は、動労千葉以上に強制配転されています。だから「突っ張らないってことは、動労千葉を解散して、JR総連革マルに頭を下げて、『僕たちも入れてください』と言うってことだ」と言うと、「それはそうだな。それだけはできない」という話になります。

国鉄の分割・民営化に対しては中間的立場がないんです。国労も、国労の旗を守り闘うのか、国労を解散するのか、どちらかしかありません。今の国労のままで生き延びていく方法はない。動労千葉も同じです。だから、動労千葉は今でも闘う方針を下ろしません。下ろしておいて、一〇四七名の解雇撤回闘争は成り立ちません。

二者択一を迫られたら、左を選択すべきである。これは、全産別、同じことです。そこで既成指導部はみな右を選択するから、現場の労働者がみんな大変な目にあっているわけです。

 

◇2.労働者は闘うことによってのみ団結を堅持し、展望を切り開くことができる

そして、労働者は闘うことによってのみ団結を堅持できるということです。あるがままの労働者があらかじめ階級的な存在であるというわけではない。動労千葉の組合員も、さまざまな闘いを実践する中で、非常に意識が変わりました。そのことによって、動労千葉の団結は形成されています。闘って団結することによってのみ、展望は切り開かれる。

動労千葉の存在がなかったら、そして今のようにだらしなくなったとはいえ国労が存在しなかったら、JR総連の分裂問題なんて絶対に起きません。われわれが存在しているから、国労が存在しているから、起きたことです。そのことにしっかり確信を持つべきです。

 

◇3.指導部・活動家が団結して闘いの先頭に立てば、組合員の八割以上は必ずついてくる

動労千葉がなぜ闘うことができたのか。動労千葉の指導部全員が一致団結して先頭に立って闘ったからです。そうすると八割は必ずついてくる。控えめに言っても八割、実際は九割ぐらいついてきます。

ストライキ方針を決定した後の支部大会で支部長がみんな逃げずに留任したというのは、大変大きなことです。現場の組合員は指導部をよく見ていますから、言葉だけでなく本気で闘う姿勢を示した指導部を心から信頼して、全体が打って一丸となって闘う体制が確立できたんです。

この時留任した支部長たちは、みんな首になりました。だから今も、動労千葉の組合員は、「彼らが先頭に立って、首になるまで闘ったから、自分たちは今、JRに残って働いているんだ」という気持ちを強烈に持っていますよ。

国労は、その点がダメですよね。国労は首を切られた闘争団員に対して、「あいつらはお荷物だ」と言っている。そもそも国労は一戦もストライキをやっていないから、「まじめに働いていたのに、国労組合員というだけで首になった。こんなひどい話はない」と言うんです。動労千葉は違います。みんな「あれだけの闘いをやったんだから、首を切られた」と思っているわけです。だけど「ふざけんな」という思いで闘っているんです。これは人間にとって、大きな違いですよ。

分割・民営化にいたる過程で、成田運転区という伝統ある職場が廃止されました。成田運転区は全員動労千葉だったからです。そして分割・民営化の後には、やはり全員が動労千葉だった勝浦運転区も佐倉機関区もつぶされました。今、旧津田沼電車区も廃止という方向が出ています。かつて動労千葉の強力な拠点だったところは、どんどんつぶされています。こういうことが一つやられたら、だいたい普通の労働組合はダメになります。でも、動労千葉は三つも四つも取られてもつぶれない。それは、分割・民営化の時のストライキの時の経験が、組合員の腹の中に、労働者としての誇りとして残っているからです。

だから動労千葉の組合員は退職すると、OB会などでは自分が闘った時の話ばかりしますよ。「マル生の時に闘ったから、今の動労千葉があるんだ」とかね。労働者ってそういうものです。労働者は、自分が日和った時のことは覚えていません。自分が闘った時のことしか覚えていません。これは大事なことだと思います。やはり労働者が誇りを持つということなんです。

 

◇4.一〇四七名闘争は、国鉄分割・民営化反対闘争の延長戦である

一〇四七名闘争は、国鉄分割・民営化反対闘争の延長戦です。われわれは今、延長戦を闘っているんです。まぁ九回は終わって、延長十何回か二十何回かを闘っている。敵もさるもので長引いていますけれどね。この闘いは、敵が音を上げるまで終わりませんから。そう自覚して一〇四七名闘争を闘っていたら、四党合意など入り込む余地はありません。

しかし敵にとっても、解雇された労働者が執拗に闘いを継続していたら、どうしようもありません。毎日毎日運輸省やJR東日本に行って「ふざけるな」と騒いでいたら、首を切られた労働者の側が正当性を持ってるわけですから、目の上のたんこぶになってしょうがない。これから失業率がさらに高くなっていったら、首を切られた労働者はどんどん国鉄闘争のもとに集まってきますよ。

延長戦ということは、国鉄分割・民営化は、ある意味で、敵も志半ばで終わっているということです。確かに狙いどおりに総評は解散に追い込まれ、連合というナショナルセンターができました。社会党も解党し、社民党もぐらぐらになっています。しかし、一〇四七名闘争が今も続き、国鉄闘争が日本の労働運動全体の再生の中心に座る展望を持っている。このことは敵にとって、絶対に放置できないことです。

そういう中だから、僕たちが労働者階級の団結を基礎にした闘いをどのぐらい推し進めていけるかということに勝負がかかっていると思います。

 

●第五章 国鉄一〇四七名闘争の意義と背景

 

◆Ⅰ/世界と日本をのみこむ動乱の一六年

 

国鉄分割・民営化から一六年たちました。この間、世界も日本も大きく変わりました。日本の政治、日本の階級闘争という点でも、総評がなくなり、社会党がなくなり、五五年体制が崩壊した。その出発点となったのが、一九八七年の国鉄分割・民営化ですが、しかしこれをめぐる闘いは、一〇四七名の国鉄闘争として今日まで連綿と闘いつがれている。これが、この一六年間の日本の階級闘争、労働運動のごく大まかな骨格だと言えます。

ここでは、この一六年間の国鉄闘争の意義を、動労千葉の闘いを軸に見ていきますが、その前提として、まず一六年間の世界と日本の動きについて簡単におさえておきます。

 

◇1.ソ連の崩壊と戦争と恐慌の時代

一言で言えばそれは「動乱の一六年間」とも言える、非常に激しい歴史的転換の時代でした。一番大きいのは、やはりソ連の崩壊です。すでに一九八九年に、ベルリンの壁が崩壊し東欧諸国が軒並み崩壊する。また中国の天安門で大きな民主化運動が起こり、中国の人民解放軍がそれを弾圧するということが起こった。そして一九九一年、ついにソ連邦が崩壊した。一九一七年にロシア革命が起こり、世界で初めて労働者が権力を握って以来七〇年たち、ついに崩壊した、これは大変な世界史的な出来事でした。

そもそも二〇世紀でもっとも大きな出来事は、一九一七年のロシア革命だと僕は思っています。そのソ連がその後、スターリン主義体制になり、腐敗・堕落し、ついに崩壊を遂げました。これによって米ソの「冷戦構造」が崩壊し、アメリカが唯一の超大国になった。

そのとたんに九一年、いわゆる「湾岸戦争」、イラク・中東侵略戦争が、アメリカを中心とする多国籍軍によって開始されました。九四年には、朝鮮半島をめぐる戦争が一触即発の情勢に入りました。九八年にはユーゴスラビアにアメリカとNATO軍が戦争をしかけました。そして二〇〇一年、九・一一反米ゲリラ事件が起こり、アメリカはアフガニスタンへの戦争を起こし、〇三年三月には米英軍がイラク侵略戦争に突入しました。

一方、全世界で経済危機が非常に深刻になっています。分割・民営化が強行された一九八七年の一〇月、いわゆる「ブラック・マンデー」、ニューヨークで株式の大暴落が起きました。それ以降、アメリカでは「経済のグローバル化」とか言って全世界の富を集め、バブル経済を一〇年近く維持してきましたが、今や「IT革命」も崩壊した。当時は、「マルクスが言っていたことはもう古い。資本主義は永遠に成長していく」と言われました。しかしそれもまったくペテンで、今やアメリカ経済も大変な危機に陥っています。

この過程で全世界で失業者がどんどん増えています。一九九四年に「ILO世界報告」が、「全世界の失業者は八億二千万人、全就業人員の三〇%にあたる」と報告しました。この後、OECDも同じような報告をしています。今や失業者や半失業者、例えば一日一ドル以下で生活をしている人が、全世界で半分近くになっています。国鉄分割・民営化政策の考え方でもある「新自由主義」は、「資本主義の原理どおりに市場原理に全部まかせて、弱肉強食の世界にしよう」ということです。強いやつは生き残るし、弱いやつは死んでもしょうがない、という論理がむき出しで強調されました。

このような、一方におけるソ連の崩壊、他方におけるまったく新たな質を持った資本攻勢の中で、日本でも、アメリカでも、イギリスでも、労働運動は大きな後退を強いられました。日本では中曽根が国鉄労働運動に襲いかかり、アメリカではレーガンが航空管制官の組合をたたきつぶし、サッチャーは炭鉱労働者の一年間にわたる闘いを圧殺した。しかし、九〇年代後半からようやくこの逆流に抗して闘う労働運動の新しい台頭が見え始めてきたことは、すでにアメリカにおける労働運動の動きとして紹介してきました。イラク開戦前夜における全世界二〇〇〇万人と言われるかつて例のない国際的反戦闘争のうねりは、これらの動きの上に初めて実現されたものです。

 

◇2.日本経済の長期不況と戦争国家化攻撃

日本でも、この一六年間は大変な出来事が起こりました。

まず経済的には、「世界第二位の経済大国」と言われた日本経済が危機に突入した。八〇年代後半に日本ではバブルが起こった。実はこれを大きく促進したのが国鉄解体をはじめとする三公社改革で、国鉄の土地と電電の株の放出が一役買っています。一九八九年の東証株価の最高値は三万八九一六円でした。当時の大蔵省、日銀や銀行、証券会社などが仕組んで、株価や地価をつり上げて、バブルを推進していった。しかし八九年をピークにバブルの崩壊が始まります。最近では株価は八五〇〇円ぐらいまで下がりましたから、ざっと三万円も株価が下がったということです。銀行や大手企業、生命保険会社などは、保有株の株価が三万円も落ちて、資産喪失総額はだいたい四五〇兆円ぐらいです。不良債権の最大の原因はこれです。九〇年代の日本経済は、「失われた一〇年」と言われるような長期不況と、底知れぬデフレの一〇年でした。

その中で、政府は人為的な景気刺激策として大量の国債を発行し続けました。国債残高は、分割・民営化攻撃が始まった八二年度末には九六兆円でしたが、国鉄が分割・民営化された八七年四月には一三〇兆円。そして二〇〇一年度末の国債残高は四四八兆円です。一六年間で三倍以上になった。さらに地方自治体の借金を加えると、六〇〇兆円とも七〇〇兆円とも言われている。いずれ一〇〇〇兆円になるでしょう。

そして失業率は、一九八七年には三・二%で「過去最高」と言われたんですが、今はもう五・六%で、一六年間で二ポイント以上も上がったわけです。

アメリカの戦争政策との関係では、日本の安保・防衛政策が戦後的な制約を大きく突破して、まさに戦争国家に飛躍してきたのがこの一六年です。「戦後政治の総決算」を掲げて国鉄分割・民営化を強行した中曽根は、同時に日本の軍事大国化を強力に推し進めましたが、まだこの時点では「専守防衛」とか「海外派兵せず」などの枠内のものだった。しかし、ソ連崩壊と湾岸戦争を決定的転機として、まず「国際貢献」の旗のもとに九二年自衛隊PKO派兵が始まり、九四年朝鮮危機を経て九六年日米安保再定義、そして九七年新ガイドライン、九九年周辺事態法と続き、いよいよ〇三年に有事三法が制定された。この間、〇一年九・一一情勢下で、〇一年一〇月の対テロ特措法、〇三年七月のイラク新法を成立させ、自衛隊の海外派兵と日本の戦争国家化はいよいよ本格化してきました。

まさに日本においても、この一六年間をとおして、戦争と恐慌と大失業の時代が到来したと言えます。

 

◇3.総評・社会党の解体と五五年体制の崩壊

まさにここで最大の問題は、このような労働者人民の生活と平和を破壊する激しい攻撃の嵐に対して、これと対決すべき階級闘争、労働運動が後退につぐ後退を強いられてきたことです。

日本の政治をめぐってこの一六年間に起こったことで一番大きいのは、言うまでもなく五五年体制が崩壊したことです。一九九三年に自民党が分裂し、自民党単独政権が崩壊して細川内閣が成立しました。自民党は単独で政権を維持する力がなくなった。これをもって「五五年体制は崩壊した」と言われました。確かに戦後政治の中で一貫して野党第一党であり続けた社会党は解体しました。九三年の細川内閣に与党として参加したのが「終わりの始まり」で、翌九四年には自民党と組んだ村山内閣で政権党になる。この過程で小選挙区制に賛成し、安保・防衛政策で従来の立場をことごとく投げ捨て、転向したことの当然の結果として、九六年になると社会党は、社民党、民主党、新社会党に三分解します。

ところが五五年体制の一方の軸であった自民党は、九三年政変で一度は野に下るものの、一年後には社会党を取り込んで政権に復帰します。だから五五年体制の崩壊というのは、世界的規模での冷戦崩壊がソ連の崩壊とアメリカの一極超大国化であったように、結局戦後日本の政治における保守対革新の対立において、革新の主座を占めていた社会党が一方的な解体・消滅に追い込まれたということです。

しかし、このような日本の政治地図の一変の基底にあるのは、やはりなんと言っても、八九年の総評の解体であり、それに代わる連合(と全労連)の出発です。このことの不可避的で必然的な結論として、九〇年代中葉における社会党の解体もあったと言えます。この総評解体にいたるいわゆる右翼労戦統一の動きは遠く六〇年代にさかのぼることができますが、その最後的仕上げが八七年の国鉄分割・民営化であり、それをとおした国鉄労働運動解体の攻撃だったということです。

そこでこの総評解体・連合結成の歴史的・階級的意義という点について見ていきます。

 

◆Ⅱ/総評解散・連合結成の歴史的意味

 

◇1.民間先行の右翼労戦統一運動

一九八七年四月一日にJRが発足しましたが、国労はこの当時、清算事業団に送り込まれた約七六〇〇人を含めて約四万四〇〇〇人です。動労千葉が約八〇〇人でした。動労、全施労、鉄労等々は全部解散大会をやって、鉄道労連、後のJR総連になりました。こうして、戦後の日本の労働運動を牽引してきた国鉄労働運動において、国鉄分割・民営化の先兵の役割を果たしたJR総連が主流派を占めたわけです。

その結果として、総評が一九八九年一一月に解散しました。戦後労働運動の主軸を担った総評が幕を引き、連合が発足しました。そして共産党系の労働組合は、全労連という組織を結成しました。それはまさに、右の労働組合がどんどん台頭し、総評の左派と言われた官公労の労働組合がどんどん屈服していく過程でした。

それ以来の日本の労働運動は、春闘になっても赤旗の一本も立たない。資本の言うことを忠実に実践し、それを組合員に強制する御用組合が、日本の労働組合の主流を占めるという状況になりました。その原因はいろいろありますが、国鉄分割・民営化で、中軸となる労働組合がたたきつぶされたことが大きなきっかけであることは間違いありません。

連合というのは、戦後長く日本労働運動のナショナルセンターが総評、同盟、中立労連、新産別の四つにわかれていたのを一本化して誕生したものです。六〇年代からこの労働戦線統一の動きは始まりますが、一貫して「民間先行」と言われたように、それをリードしたのは一九六四年にできたIMF・JCなどに参加したビッグ・ビジネスのビッグ・ユニオン、つまり鉄、電機、自動車など日本の高度経済成長を牽引した大企業の労働組合でした。これと全繊同盟をはじめとする同盟傘下の組合が手を組んで進めたのが労戦統一運動です。したがってそれは総評に代表される階級的労働運動を右から解体し、吸収・合併しようという志向を一貫して持っていました。

これに対して当然ながら総評、特に官公労系は強い警戒感を持ち続け、民間労働運動の右傾化・御用組合化が進む一方で、官公労、特に国鉄労働運動の戦闘化が進みました。例えば七〇年代初めに国鉄反マル生闘争が勝利すると、右翼労戦統一運動は一時大きく後退するという事態も生まれます。

しかし総評労働運動の最後のアダ花と言うべき七五年スト権ストが敗北するとともに、いよいよその動きは本格化します。総評民間の中でも最後まで抵抗していた全金(高野派の伝統を引き継ぐ)も八〇年代に入ると取り込まれ、さらに私鉄総連ものみ込まれ、連合結成の二年前の八七年一一月には、民間だけの労戦統一としていわゆる全民労連(民間連合)が生まれます。

 

◇2.国鉄労働運動が残ったことの戦略的大きさ

ここに官公労系を吸収して八九年連合結成が実現されますが、これはそういう意味を込めて「全的統一」と呼ばれました。しかしこのような表現とは裏腹に、すでに見たような流れからも想像できるように、その実態は徹底的な差別・選別でした。だから、共産党系や新左翼系など、「階級的労働運動」を標榜する勢力は徹底的に排除されました。

その中で、全逓や全電通(現在のNTT労組)は七〇年代以降急速に右展開を深め、このころはむしろ右翼労戦統一の旗ふり役を演じていました。また自治労や日教組も「バスに乗り遅れるな」「国労のようになったら大変だ」ということを合言葉にして連合に合流します。もっともこの二労組は、共産党系の一部分が自治労連と全教という形で分裂しました。

最大の問題は国労をはじめとする国鉄労働運動です。ここでは権力がむき出しの力で運動を壊滅する、特に動労革マルの裏切りと先兵化をテコに国労を解体し、JR総連というまったく新たなファシスト組合をつくることで連合に結集するということが起こりました。これを眼前にして、震え上がって、自治労や日教組の動向も決まったと見て間違いないでしょう。

だから、連合結成にいたる右翼労戦統一と第二臨調のもとでの国鉄労働運動解体攻撃は、あざなえる縄のような関係で一体的に進行しました。後者の成就なしに前者の完成はあり得なかった。国鉄労働運動の解体は、連合にとっても一産別の動向という次元にとどまらない、その成否を決する大きさを持っていたということです。

しかし連合の結成の時点で、敵はいまだ国労も動労千葉もつぶしきれなかった。そして連合結成の直後から国鉄分割・民営化反対の闘いは、国鉄清算事業団から首を切られた一〇四七名の国鉄闘争として出発し、今日まで続いている。当時僕は、「国労が入らない連合なんて、クリープの入っていないコーヒーみたいなもんだ」と言った記憶がありますが、国鉄闘争の存在は今なお連合の喉元に深く突き刺さったトゲのような位置を持っているということです。

 

◇3.ルビコン河を渡った連合

この連合の初代会長となったのが、全電通出身の山岸章です。山岸は徹底して政治志向を貫き、九〇年代に入って起こる五五年体制崩壊を前後する政治再編劇にうつつを抜かした人間です。そしてこの過程で連合の階級的性格も完全に明らかになっていきます。一言で言えば、総評も同盟も、左か右かの違いはあれ、社会党や民社党という労働者を基盤とする政党を支持してきました。しかし連合が支持するのは歴然たるブルジョア政党になります。ブルジョア政党を支持して、テンとして恥じるところがなかった。

もちろん労働組合にとっては、常に自分たちの利益を代表する政党が必要です。政権政党がいかなる政党であるのか、自分たちの支持する政党が議会でどれだけの位置を占められるかは大きな問題です。旧総評においては、選挙において社会党支持一本を打ち出す本部に対して、「政党支持の自由」という右翼的スローガンを掲げて、共産党系の労組が共産党支持を訴えるというのが年中行事になっていました。これに対して一般に右翼労戦統一の出発点になったと言われる六七年一月に『月刊労働問題』に掲載された宝樹論文(宝樹は当時全逓委員長)は、七〇年に向かって自民党政権に代わる政権を打ち立てるために、社会党と民社党の連立、さらに総評と同盟の統一を呼びかけたものでした。共産党はそこから排除されていました。

このように当初から政治志向の強い右翼労戦統一の動きは、七〇年代半ばに高度経済成長が終わり、職場や地域の闘いで要求を獲得することが困難になってくるとともに強まり、いわゆる「制度・政策要求」闘争と呼応しながら進んでいきます。労働者大衆を組織し、職場闘争やストライキで要求を実現するのではなく、「経営参加」や「国政参加」をとおして、そこでの交渉によって要求を実現しようとする。しかしそもそもこの「制度・政策要求」闘争という言葉を最初に使ったのは共産党で、総評も七四年の「国民春闘」以来こうした主張を始めます。だからこれ以降、この言葉がもっぱら右翼労戦統一運動と一体のものとして語られるようになった。そして、「そのためにも、共産党は排除し、万年野党の社会党を変革し、自民党政権に代わる政権をめざそう」と主張されても、総評はこれに抗することができなくなったわけです。

八九年に連合が結成された時も、旗印は「自民党政権に代わる政権の樹立」であり、「二大政党制の確立」でした。しかしこの時の非自民とは、従来言われていたような単なる社公民ではありませんでした。同じ八九年に土井社会党が、消費税・リクルート問題の参議院選で大勝し、これを決定的な契機として当時の自民党幹事長小沢一郎の主導で「政治改革」運動が始まり、九二年末には自民党の最大派閥・竹下派が真っ二つに割れ、翌年小沢の率いる新生党が生まれます。これが九三年総選挙での新党ブームと自民党敗退、五五年体制崩壊の引き金になりますが、この時、小沢と手を組んで「政治改革」に突っ込み、社会党の解体に血道をあげ、小沢の新生党を公然と支持したのが、連合の会長山岸だったんです。連合はこの時、ルビコン河を渡ったわけです。

 

◇4.激しく進む連合の危機と空洞化

しかし、この山岸路線は無残に破産します。小沢の新生党はその後、公明党、日本新党、新党さきがけなどとともに新進党を結成します。ところがひとたび野党となった自民党は、これに対して社会党と手を組み、社会党党首村山を首班とする内閣をつくる(九四年)という離れ業を演じて、与党に復帰しました。自民党と対抗してできた新進党といえども、しょせん利権が命綱のブルジョア政党で、野党になったとたんにたちまち空中分解した。こうなると連合の支持政党はバラバラになり、連合の存在そのもののかなえの軽重が問われることになります。山岸以降の連合はいったい何なんだ、という話になる。

ちょうどそのころ、九五年に日経連プロジェクト報告「新時代の『日本的経営』」が出されます。終身雇用制や年功序列賃金制を切り捨てるというこの日本ブルジョアジーの大方針は、当然にもそれと一体のものとしてあった企業別組合を直撃し、その上に存在していた連合を直撃します。これによって連合は以後急ピッチで空洞化を深め、前に見たように、今日では日本経団連からさえ危機感をもたれる、つまり「御用組合として、産業報国会としてこれでは有効に機能しない」と心配されるというところまで落ちぶれます。

そもそも連合には、かつての同盟のような労働組合主義もない。右は右なりに、例えば旧総同盟の流れを組むゼンセン同盟などの場合は、労働者と資本家の対立という考え方はある。彼らは戦前は「三反主義」といって、反資本主義・反共産主義・反ファシズムの旗を掲げていました。戦後は総評が強かっただけ反共が前面に出ていたけれど、資本家もあまりひどいことをやったら闘うという姿勢はある。こういう姿勢は、ゼンセン同盟や海員組合などの旧総同盟系には今もあります。しかし連合の中でも、中軸をなしているJCの流れを組む自動車や電機などは、もうまったく資本の労務担当以上でも以下でもなくなっている。それは労資協調主義でさえない。

その結果どうなるか。連合結成とともに、地域的には、総評時代の地区労は次々解体されて、地域連合がつくられていきました。しかしこれによって地域の運動体はことごとく解体されてきた。そもそも職場闘争がない。組合員教育をやらない。だから活動家が育たない。地域の労働運動を支えられなくなっています。総評時代には、例えば千葉の全逓出身の赤桐操は、別に全逓本部の役員をやっていたわけではないけれど、千葉県労連の役員をやっただけで国会議員になっていた。今の連合では考えられないことです。

連合は結成時八〇〇万人で、早急に一〇〇〇万人連合をめざすと豪語していたんです。しかしその後、組織人員は減る一方で、今では七〇〇万人を割っています。しかしこれはまだいい。問題はその内実の激しい空洞化です。一昨年の参議院選挙では、連合の組織内候補に集めた票は全国あわせて一七〇万票弱です。組織の内部崩壊的現実が、選挙において隠しようもなく表れていると言えます。連合はまさに崩壊的危機に立っており、その中で、〇三年の会長選挙が初めて組織を二分する選挙になるということが起こっている。

しかしこの危機はいずれにせよ連合をいっそう反動的な方向へ導いていくでしょう。九〇年代前半、例えば安保・防衛政策について連合は、参加単産・単組の意見の食い違いで意見をまとめられなかった。しかし連合は〇二年五月には、有事法制を支持する見解を出し、〇三年三月には北朝鮮問題で排外主義的な立場を表明しています。労働法制改悪問題などでも結局権力・資本の手先の役割を担っていることは明白です。

 

◇5.連合の対抗基軸としての国鉄闘争

この連合結成に対抗して共産党系の全労連がつくられますが、これはまったく連合の対抗基軸になりませんでした。そもそも共産党にまじめに労働運動を指導するなどという考え方がない。共産党の選挙のためにどちらが有利かという基準だけで全労連結成に踏み切ったのでしょう。この連合に対する対抗基軸となったのは、あくまで国労を中心とする国鉄労働運動であり、この周りに集まった「(連合に)行かない、行けない」労働組合の結集体としての全労協でした。

連合も全労連も、労働者大衆に顔を向けていないという点ではまったく同じです。職場や地域で労働者を組織し、闘いを巻き起こし、その力で要求を闘いとるという考え方はほとんどなくなっていました。彼らの顔はどこに向いていたのか。それはもっぱら経営と行政に向けられ、そこでなんとか若干のおこぼれにあずかり(制度・政策要求闘争)、それによって労働者大衆を支配し、つなぎ止めておくというのが彼らのすべてでした。特に連合の場合は、こういうことになれば、支持政党も野党よりも与党の方が話が早い、新進党がダメなら自民党に接近しようとなるのは当然の結論でした。

これに対して国鉄労働運動は、この総評解体以降の日本労働運動の右翼化と無力化の流れからいわばはみ出した存在でした。はっきり言って国鉄労働運動の中でも、国鉄分割・民営化を強行した国家権力とその結果生まれたJR資本に対して、組合員の力を総結集して、職場生産点からの死力をつくした闘いを挑んだのは、動労千葉だけだったと断言できます。国労は八六年の修善寺大会で屈服を拒否した(これはもちろん極めて重要で、これがあったからその後の国労も存在できたのですが)ことを除いて、闘いらしい闘いを何ひとつ組まないまま、今日まで来ています。

にもかかわらず、国労という総評労働運動の最有力単産が、総評がなくなって一四年間も連合に加わらず存在し続けているのは、一にも二にも、一九八七年四月時点で七千数百人がJR不採用になり、さらに九〇年四月時点で一〇四七人が国鉄清算事業団から解雇され、これに対する「解雇撤回・地元JR復帰」の闘いが続いてきたことにあります。国労本部はこれに対して、労働委員会闘争以外にこれといった指導をしてこなかった。いや当初から一日も早く国鉄闘争を終わらせたいという姿勢を露骨に示していたんです。しかし国労闘争団や動労千葉争議団、全動労争議団の不屈の闘いがこれを許さなかった。そしてこの闘いは、国労組合員だけでなく、連合傘下で呻吟する多くの労働者の共感と結集を組織しました。「この仲間たちを見捨ててよいのか」という広範な労働者の意識が連合内外に沸き上がり、それに支えられて一〇四七名の一六年間の闘いという、文字どおり史上最大・最長の争議団闘争が、国鉄分割・民営化を強行した国家権力と真っ向から対決するものとして今日まで継続してきたのです。ここにこそ、まさに連合に対する鋭い対抗基軸があったわけです。

 

◆Ⅲ/国鉄一〇四七名闘争の一六年

 

一言で一六年と言っても、それは極めてダイナミックな攻防の一六年でした。一九八七年四月一日に国鉄が解体され、JRが発足してから今日までの間に、大きな節目・関門が三回ありました。

第一は九〇年四月一日で、国鉄清算事業団から解雇された一〇四七名の国鉄闘争が始まった日です。権力とJRとJR総連がまったく予測していなかった事態が発生したわけです。

第二は九四年一二月二四日で、村山自社さきがけ政権の亀井静香運輸大臣が国労に対する二〇二億円損賠訴訟を取り下げた日です。権力の姿勢が、「力による国労解体」から「取り込み」に変わった。

第三は九八年五月二八日で、東京地裁が一〇四七名問題に関する労働委員会命令を全面的に覆す極反動判決を出した日です。権力の姿勢が再び力ずくの国労解体路線に変わった。これは〇〇年五月三〇日の「四党合意」まで続きます。

 

◇1.国鉄清算事業団の三年間

八七年四月一日、JRに不採用になった(所属組合ゆえに採用差別された)国鉄労働者は、正確には七六二八人で、大半が北海道と九州の国労組合員でした。彼らは各地につくられた国鉄清算事業団雇用対策支所に送り込まれ、三年間の期限つきで「再就職をあっせんする」という触れ込みで、実は毎日狭い部屋に座らされました。そしてまったくアリバイ的で劣悪な再就職先を紹介されるだけで放置され、結局自ら仕事先を見つけて去っていくにまかされた。権力・国鉄清算事業団の予定では、三年間もたてば全員が嫌気がさして辞めていくに違いない、そうすれば国鉄分割・民営化時の「余剰人員」問題は、形式的には一人の首切りもしないで解決できるという計算でした。

確かに多くの労働者が生活上の止むを得ない理由から、JR以外の再就職を決断し、あるいは北海道、九州から本州のJRへの広域採用に応じるなどしました。しかしそれでも九〇年三月が近づく中で何千人という規模の労働者があくまで「解雇撤回・地元JR復帰」を求めて清算事業団に踏みとどまった。この背景には、国労がこの問題で唯一取り組んだ闘いと言ってよい労働委員会闘争で、八八年ぐらいから各都道府県地労委で次々と組合側完全勝利の命令が出たことがあります。

採用差別が国家的不当労働行為であることを認め、原地原職奪還を求めた国労側の申し立てに対して、JRは、「たとえ不当労働行為があったとしても、それは国鉄がやったことで、別法人の新会社JRに責任はない」という傲慢な態度に終始し、労働委員会そのものに出席しませんでした。こうして地労委の審理では、組合側の主張だけが一方的に述べられ、反対意見もない中で、ある意味では当然ですが、組合側が完勝しました。しかしこれが清算事業団に送られた労働者を大きく激励したことは事実です。

国労本部の対応は、あくまで九〇年三月までに清算事業団の労働者を再就職させようというもので、革同や協会派などは八八年ごろから、「このままでは(つまり清算事業団にまだ何千人も労働者が残っているようでは)、間もなく最終的な首切りが来る」と

 

危機感をあおり、特に革同の活動家などを北海道、九州から本州への広域採用に応じる方針に血道をあげたんです。それでも家庭の事情などでどうしても地元を離れられない労働者が多く残ったわけです。

そういう中で国労本部が打ち出したのが、八九年六月の臨時大会における「全面一括解決要求」路線です。今日まで国労をしばりつけている和解路線の出発点がここにあります。それはせっかく地労委で完勝しているという有利な情勢だったのに、あくまで国家的不当労働行為との闘いにシロクロをつけようとするのではなく、「採用差別問題からスト権スト時の二〇二億円損賠問題までを一緒に中労委の場で和解解決しよう」という路線でした。

さらに九〇年四月が目前になると、社会党の田辺書記長と自民党、労働大臣、運輸大臣は、「いったんJRに復職させて、同日付で退職する」という、炭労三池闘争の時の「藤林あっせん案」と同じようなもので和解決着することを策動しました。当時のJR東日本の担当者は「国労はこれを飲むんじゃないか」と言っていました。

しかしこうした和解交渉を完全に吹き飛ばしたのが、九〇年三月の動労千葉の八四時間前倒しストライキです。その結果として、四月一日付で清算事業団から一〇四七人が解雇され、ここから一〇四七名闘争が始まったわけです。

 

◇2.国鉄闘争の開始とJR総連の大分解

一〇四七名が九〇年四月一日の関門を突破したことは、JR体制、国鉄分割・民営化体制の根幹を揺るがす事態でした。もっとも激甚に反応したのがJR総連です。自民党や社会党などではこの間、四桁の労働者の首切りという事態を何度目かの広域採用などで解消しようという動きが強まりますが、これに対してJR総連は「政治介入は許さない」「ゴネ得は許さない」などとわめきながら、労働者の首切りを要求する「総決起集会」を日比谷野音で開きます。さらに松崎は「もし清算事業団の労働者を少しでも再雇用するなら、ストライキで闘う」などと血迷ったことまで言い始めます。

このことを契機に、翌九一年初めにはJR西日本労組委員長がJR総連に対して「絶縁宣言」を出し、西日本、東海、九州、四国と箱根以西のJR総連傘下の単組が次々とJR総連を脱退、九二年五月にはJR連合が結成された。ここにJR労働運動は、依然として東日本、北海道、貨物を握るJR総連と、箱根以西を制したJR連合、そして闘争団を抱えた国労が鼎立するという状況に突入します。

国鉄分割・民営化というのは、結局国労を中心とする国鉄労働運動を根絶やしにする攻撃でした。それにとって代わるものとして当初は自民党とも太いパイプを持って登場したのが、旧動労革マルを中心とするJR総連でした。国家権力も、自民党も、JR資本も、JR発足後に望んでいたのは、「一企業一組合」としてのJR総連の全一支配でした。しかし国労修善寺大会に続いて、九〇年四月における一〇四七名闘争の出発は、このJR総連を文字どおり空中分解させ、権力が描いてきた労務政策の根本的見直しを強いたのです。

 

◇3.二〇二億円訴訟問題と国労取り込み策動

この中で次の大きな転機となったのが、九四年一二月、亀井静香による二〇二億円損賠訴訟の取り下げです。

九〇年代に入ると、一〇四七名の攻防の舞台は中央労働委員会に移ります。国労は地労委での完全勝利の上に、当然中労委での早期の勝利命令を求めるべきでした。しかし国労はあくまで八九年の「全面一括解決要求」路線にそって、中労委での和解を求めたのです。中労委はズルズルと引き延ばしますが、九三年一二月になるとこれ以上引き延ばせなくなり、北海道と大阪の採用差別事件に関する命令を出します。それは、JRの当事者責任があることは認めたものの(JR側の、「国鉄とJRは別法人だから不当労働行為があってもJRは無関係」という主張は退けたものの)、不当労働行為の成立そのものについては、大阪の二人については否定。北海道は一七〇〇人余という膨大な申し立て人のうち一部に不当労働行為が成立することは認めたものの、その範囲はJRの「公正な選考」に委ねるというふざけたものでした。そしてこの後、国労本部は政治和解路線にカジを切り、その延長で九四年一二月の事態が起こります。

二〇二億円損賠訴訟というのは、七五年スト権ストに対する報復として自民党の圧力で国鉄当局が国労と動労を相手取って起こしたものですが、動労に対しては八六年八月の時点で、動労が国鉄分割・民営化の先兵になったことのご褒美として取り下げられました。そしてその分も含め全額が国労にかぶさってきた。長期の裁判が続きましたが、九五年春には判決が予定され、ほぼ国労側の敗訴は確実とされ、その場合は二〇年間の利子を含めると四〇〇億円の損害賠償の支払いが国労に義務づけられると言われていました。そうなれば国労会館を含め、国労の全財産に赤紙が張られることは確実で、国労にとっては存亡にかかわる問題でした。

このような二〇二億円問題での亀井の動きの意味するところは明白で、要するにそれまでのJR総連を使った力で国労を解体する方針から、国労を取り込もうということだった。二〇二億円損賠訴訟を取り下ろすのと引き換えに、国鉄一〇四七名闘争を一定の水準で解決させて終わりにしちゃおうということです。実際、当時は何百人かをJRに採用するという噂もあったんですよ。

箱根を境に東西で大分裂したJR総連は、この過程で革マル的ファシスト性をむき出しにしてあがきにあがいた。こうしてJR総連は箱根以西のJR資本に見捨てられるだけでなく、権力中枢の目にもさすがに容認できない存在と映っていく。二〇二億円問題は、結局権力中枢がJR総連に見切りをつけ、その代わりに国労をからめとり、内部から変質させていこうとする方針への転換だったわけです。

 

◇4.和解決着策動に対するJR各社の拒絶

当然これに対してJR総連は激しく反発し、「国労による亀井への秘密献金」などのデマキャンペーンを大々的に張ったり、国労を「カメイ組合」などと呼んで、組織のタガはめに必死になりますが、これは逆にJR総連内、とりわけその最大の拠点JR東労組内における非革マル分子の動揺と離反の動きを促進し、九五年末までに新潟を中心とした旧鉄労系の分裂が起こります。そして九六年に入ると、当時のJR東労組の委員長が実は反松崎・反革マルの首謀者であることが明らかになるなどの騒ぎの中で、革マルは一連の列車妨害などによって「権力の謀略」論を振りまくなど、ますます墓穴を深めていくようになりました。

しかし、亀井という政府・自民党中枢の二〇二億円損賠訴訟取り下げをテコとした国鉄一〇四七名闘争の和解決着の策動は、別にこのようなJR総連・革マルの悪あがきによって粉砕されたのではありません。最大の問題はJR各社の対応でした。亀井はこの時、JR各社社長に会っていますが、この問題では、西も東もなく、すべてのJR会社社長が、亀井の言う和解決着(一〇四七名のうちの一定数のJR採用を含む)を一致して拒否しています。亀井は激怒して、JR東日本の松田社長に「おまえは革マルか」と言ったら、松田が「いや、革マルではありません」と答え、それに対して「革マルと仲良くしている連中はみんな革マルだ」と言ったとか言わないとかいう話も伝わっています。いずれにせよ、この時点での権力側の国労取り込み(その裏側でのJR総連切り捨て)路線による一〇四七名問題解決という思惑は、何よりもJR資本が拒絶したことによって挫折しました。

この中で国労本部は、「このチャンスを逃したら大変だ」とばかりどんどん屈服を深めていきます。八六年八月三〇日に国労が行ったJR各社への申し入れは、「国鉄改革法に基づいて推移している現状を承認」という表現で、国鉄分割・民営化を正式に認めました。明白な路線転換であり、亀井の二〇二億円訴訟取り下げに対する国労側の回答でした。同時に中労委命令以降、採用差別事件がかかっている東京地裁も、九七年五月には結審し、この時点でJR、国労、中労委、清算事業団の関係者に和解勧告を出すにいたります。しかしここでもJR各社が一貫して拒否の姿勢を貫くことでこの政治和解策動は挫折します。

 

◇5.九八年五・二八東京地裁反動判決

九八年五月二八日の採用差別事件に関する東京地裁判決は、このような国鉄問題をめぐる身動きとれないすくみあい状態を反動的に突破するものでした。判決は二つの部から出され、若干の違いはあったけれど、ともに労働委命令を全面否定する極反動判決であることに変わりはなく、特に片方はJRの当事者責任性を完全否定するものだった。それは事前の和解勧告でJRをも関係者とあつかってきた裁判所の姿勢とも矛盾する判決で、一言で言って、労働三権を保障した憲法二八条よりも国鉄改革法の方を高位に置いた判決でした。

「すばらしい判決が出ることは間違いない」という幻想をあおってきた国労本部も、国労弁護団も、協会派も、革同も、これで骨が折れます。国労はこの反動判決に怒りを燃やして反撃に移るのではなく、九六年八・三〇路線転換の延長で、全面屈服の道をひた走ります。九八年八月の国労大会には、突如、宮坂書記長が「補強五項目」を出した。その内容は、国鉄改革法承認、不当労働行為提訴の取り下げから国労の名称・組織のあり方の「検討」まで含むもので、さすがにこの大会一回だけでは通らなかったけれど、翌年三月の臨時大会では、国鉄改革法承認だけが強行採決されます。

そしてさらに翌二〇〇〇年五月三〇日に登場するのが「四党合意」です。四党合意とは、与党三党(自民・公明・保守)プラス社民党の合意です。その核心は、「国労がJRに法的責任がないことを認め、それを大会で承認しろ」ということで、結局九八年五・二八東京地裁判決を全面的に受け入れろというものでした。さすがにこの直後に開かれた七・一国労臨時大会では、闘争団とその家族の怒りが爆発して、演壇占拠によって議事が中断し、四党合意受け入れは阻まれますが、国労本部は引き続き、八月、一〇月と大会を重ね、〇一年一月二七日の臨時大会で機動隊によって大会会場を包囲する異常事態の中で強行採決しました。

しかし、四党合意は「JRに法的責任がないことを大会で認めれば」「人道的観点から」「雇用の確保等の検討」とうたっていたにもかかわらず、敵はさらにハードルを高め、今度は「まだ国労内に四党合意反対派がいるからダメだ」などと言い出し、これに押される形で、国労本部は〇二年に入ると、「四党合意」にあくまで反対する闘争団員を除名処分するための査問委員会を設置します。そして五月二七日の国労臨時大会では、闘う闘争団の査問委送致を決定した。そしてこの五・二七臨大の暴挙に反対して宿舎でビラまき・説得活動にあたった国労組合員ら一〇人を一〇月になって警視庁が逮捕し、八人の仲間を起訴するという暴挙が発生しました。八人は逮捕から一〇ヶ月たっても、まだ勾留されています。

四党合意そのものは、〇二年一二月に、結局国労内に根強い反対勢力が存在することを理由にして、自民党、公明党、保守党の与党三党が離脱を表明、完全に破産します。しかしこれによって権力はいっそう凶暴化し、まさに有事体制下の労働運動対策という名にふさわしい、警察権力のむき出しの暴力によって国鉄闘争をつぶす方向に突き進んでいます。国鉄闘争は、分割・民営化から一六年を経て、新たな転換期を迎えています。

 

◆Ⅳ/動労千葉の一六年間の闘い

 

動労千葉は現在約五〇〇人の小さな労働組合です。しかし動労千葉は分割・民営化時に二波のストライキをうち抜き、JR体制下でも闘いにつぐ闘いで組織の団結を維持してきました。だから、僕たちは誇りを持っていますよ。でも国労では、四党合意が粉砕された今、本当なら四党合意反対派が組織のヘゲモニーを奪わなければならないのに、まったくそうなっていないんです。四党合意がなくなって、賛成派も反対派も展望を失い、九月定期大会を前にまさに国労は存亡の危機に立っています。国労を今日まで国労たらしめてきた闘争団も例外ではありません。「お父さんは何も悪いことをしていないのに、こんなひどい目にあった」と訴えるだけでは、はっきり言ってダメです。

国労にないのは、JR資本との闘いであり、国家権力との闘いです。労働組合である限り、資本との和解はいくらでもありえます。しかし和解路線はダメです。闘いと闘いによる職場、地域、産別、そして全国的な階級的力関係を変えることなしに、われわれ労働者は前進できないし、なんの成果を獲得することもできない。この当たり前のことを、今こそはっきりさせるべきだと思います。

今国鉄・JR労働運動は、JR東労組の分裂騒動も含め、再び戦国乱世的な様相を深めています。そしてこの戦争と大失業の時代において、今こそ全国の無数の労働者が、総評労働運動をのりこえる階級的労働運動の再構築を求めています。国際階級闘争の新たな高揚が日本の労働者人民の階級的覚醒を急速に促進しています。そういう立場から以下、動労千葉の一六年の闘いとその教訓について若干述べます。

 

◇1.JR体制下での新たな闘いの柱

動労千葉は分割・民営化に反対して二波のストライキを闘い、二八人が解雇されました。そして一二人が採用差別で清算事業団に送り込まれました。本部や現場の中心的な活動家が全部首を切られて、四〇人の被解雇者を抱えたわけです。特に津田沼や千葉運転区というストライキの拠点支部は活動家が一掃されましたから、それは大変なダメージだった。財政的な問題だけじゃない。労働組合とは、本部があり支部があり、そこで活動家や役員が日常的な活動を展開し、組合員に多くの情報を提供し、組合員の要求を吸い上げ、組合のさまざまな諸行動に参加するという体制があって、初めて成り立つ。そういうことを担ってきた活動家が四〇人解雇されたわけですから、それは大変でした。

被解雇者四〇人は、それぞれアルバイトに出たり、物販活動に出たりしたから、基本的に現場から四〇人の活動家がいなくなっちゃったわけです。その後、新しい執行体制を組むと、それがまた配転で飛ばされる。一番極端な例は津田沼支部で、支部の執行部三役が全員千葉運転区にボンと転勤させられるなんてことまで起きた。役員をつくると、それがまた配転される。こういう中で、本部は被解雇者が役員になっていたから大丈夫でしたが、支部の執行体制をどうつくるのか、大変苦労してやってきた。とにかく各支部の組合員がよくこたえてくれて、各支部の体制を一生懸命つくってくれた。これが動労千葉がこの大きな難局を乗り切れることができた最大の力でした。

そういう中で八七年四月、JRが出発した。これだけの傷を受けていますから、本来ならば傷をいやす時間が多少必要で、当時、組合員とも「しばらく温泉にでもつかってゆっくりしようか」なんて話をしていたんだよね。だけど敵の攻撃はそれを待ってくれなくて、結局ただちに闘いに突入したんです。

そこでその時、動労千葉はどういう闘いをやろうかと考えて、いくつかの柱を立てました。

◎分割・民営化反対闘争による二八人の公労法解雇と国鉄改革法による一二人の採用差別との闘い

ひとつは分割・民営化反対闘争で公労法解雇された二八人、そして採用差別により国鉄改革法で不当労働行為を受けて首を切られた一二人、この解雇撤回闘争をまず何よりも第一におきました。解雇撤回闘争を闘うということは、裁判や労働委員会闘争などの闘いもあるけれど、財政的な基盤をつくることが必要ですから、全国で物販闘争を展開することを含めて、組合員が一丸となってやり抜こうということを、大きな柱に据えた。

公労法解雇の二八人は解雇された時点で裁判闘争に入り、清算事業団に送られた一二人についてもただちに裁判を始めました。当初は、「労働委員会で勝利命令をとっても、どうせJRは従わないんだから」という判断で、まず裁判を始めたんですが、労働委員会闘争も並行してやろうと決めて、一年後に始めました。それでも千葉地労委では、九〇年三月闘争を前にして、二月には勝利命令が出ました。

◎JR発足後の新たな組織破壊、強制配転、出向、士職登用差別、昇進・昇格差別、業務移管、基地廃止攻撃などとの闘い

JR発足後も、分割・民営化に抵抗した唯一の組合である動労千葉に対して、組織破壊攻撃が執拗に続きました。例えば、分割・民営化を前後して、成田、勝浦、佐倉という伝統ある動労千葉の三つの拠点職場が廃止された。それぞれ、資本にとっても合理的な理由で廃止されたのではない。効率から言えば、成田に運転区があった方がいいわけですが、いまだに成田は運転区を廃止したままで、成田車掌区だけがある。かつては二〇〇人の運転士がいた総武線の拠点の津田沼電車区も、ものすごい数の車両を抱えながら、乗務員は数十人しか配置しないで、いまだに無理な運行を続けています。JR資本にとっても非効率的な運行を続けているのは、すべて、動労千葉の拠点つぶしだけを目的としているからなんです。

労働組合にとって、三つの拠点職場を奪われるということは大変なことです。しかし動労千葉は、職場の廃止という大攻撃と闘いぬき、それをうち破って新たな団結を形成し、新たな支部を結成して闘ってきました。

また、分割・民営化から一六年間、一貫して、動労千葉の組合員は昇職や昇進で差別され続けています。JR移行の時点で、運転士の資格を持っていた当時二二~三歳の組合員が、今はもう四〇歳になっているのに、いまだに運転士に登用されない。この「士職登用」問題は、千葉地労委では勝ったけれど、中央労働委員会で塩漬けにされたままです。後から平成採で入ってきた若い労働者はみんな運転士になっているのに、動労千葉の組合員はまだ運転士に登用されない。運転から駅、営業業務に配転された組合員も、今でも四〇人以上、そのまま置かれています。

JRの運転士は、普通の運転士は指導職、その上に主任職があるんですが、動労千葉の組合員は主任職が圧倒的に少なくて、みんな指導職です。検査係も同じで、主任職はほんの数人しかいません。動労千葉の組合員については昇進、昇職もまったくできない。これらとの闘いが二番目の柱です。

◎JR発足以降も続く極限的人減らし、反合理化・運転保安確立の闘い

分割・民営化の過程で、一九八二年には約四〇万人いた国鉄労働者が一九八七年四月には約二〇万人、つまり半分に合理化されました。旅客の仕事は増えたのに半分の労働者で仕事をしているわけだから、それ自体が大変な合理化と労働強化ですよ。しかしそれに加えてこの一六年間、さらに合理化攻撃が続いています。だから当然にも、列車の安全の危機が深刻です。これに対して、動労千葉の伝統である運転保安闘争、運転保安闘争というのは動労千葉用語なんだけれど、列車の安全を守る闘い、これを三番目の大きな柱に据えました。

◎激化する反動と侵略戦争と対峙する反戦・政治闘争

四番目に、この過程で、日本政府は日米安保を再定義し、アメリカが戦争をやる時には日本も一緒にやる体制に変えたわけです。九六年に日米安保共同宣言が出され、九九年には周辺事態法をはじめとする新ガイドライン関連法がつくられた。そして〇三年、いよいよ戦争をやるための法律である有事法制も制定された。労働関係その他、大変な反動的な治安弾圧の法律がどんどん出てくる中で、これに反対する反戦闘争、政治闘争をしっかりと闘うことを、もうひとつの柱にしました。

◎総評崩壊後の闘う労働運動の新潮流運動を創造する闘い

五番目は、総評がなくなった後、労働組合が全体として弱体化していく中で、「たたかう労働組合の新しい潮流をつくろう。闘う労働組合の共闘関係をつくり、労働運動全体が闘う体制をつくっていこう」という取り組みです。

一九九八年からは、関生支部、港合同と動労千葉の三組合が呼びかけて、「闘う労働組合の全国ネットワークをつくろう! 一一・八全国労働者総決起集会」を開催しました。闘う仲間たちの賛同と協力によって、毎年一一月に集会を積み重ね、二〇〇二年の一一・一〇集会で第五回を数えるにいたっています。

これまでのさまざまな問題をのりこえて、今こそ闘う労働組合が大同団結することが求められているという思いを込めて、「全国ネットワークをつくろう」と呼びかけたのです。

◎総じてJR―JR総連革マル結託体制をうち破り、組織拡大をかちとる闘い

その全体をトータルして、JR東日本におけるJR資本とJR総連革マルの結託体制という異様な体制をうち破って、組織の強化・拡大をはかっていく闘いを、当初から動労千葉の基本的な方針に据えて闘ってきました。

 

◇2.動労千葉の主な闘い(その1)

JR体制下において動労千葉は以上のような六つの柱を立てて闘ってきましたが、ここではさらに具体的にいくつかの典型的な闘いを紹介してみましょう。

◎強制配転に対する初めてのスト

JR発足後、まず強制配転問題が起きました。駅の売店やうどん屋、ミルクスタンド等々に組合員が強制配転されましたから、これに対するストライキは八八年から始めました。八八年四月の第一四回臨時大会で、「長期波状ストで闘う」という方針を決定し、反撃を開始しました。

八八年五月には、千葉駅や亀戸駅、銚子駅などで次々とストに立ちました。JR発足後初めてのストライキです。しかし例えば、五月二〇日の亀戸駅ミルクスタンドでのストは、たった一人の組合員のわずか一時間のストに過ぎないのに、動労千葉の動員者一〇〇人に対して、機動隊、私服刑事、職制六〇〇人がホーム、コンコースをうずめ、応援に行った組合員を全員逮捕しかねないほどの常軌を逸した弾圧体制の中での闘いとなった。警視庁としては「動労千葉は千葉の片隅でやっていろ。江戸川を越えて東京まで出てきたのが許せない」ということだったのかもしれない。とにかく非常に憎悪に満ちた弾圧体制でした。

◎東中野事故糾弾・JR発足後初の乗務員スト

そして八九年一二月五日、満を持して、JR移行後、本線乗務員を初めてストライキに入れました。前年の八八年一二月に、中央線の東中野駅で追突事故が起こり、動労千葉の組合員ではありませんけれど運転士が死に、乗客も死んだんです。これをめぐってそうとう団体交渉をやったけれどらちがあかず、ちょうど一年後の一二月に、「東中野事故一周年・運転保安確立」を掲げてストに立ち、三五〇本の列車を運休に追い込みました。

この八八年ごろ、全国で貨物列車の追突や脱線・転覆事故が次々発生したんです。JR貨物は自分の線路は持っていませんから、東日本であればJR東日本の線路を借りて貨物列車を走らせているわけです。そうすると、列車を運行するための列車司令は東日本会社の労働者だから、他の会社の列車である貨物列車のことを忘れちゃって、それで貨物列車の事故が続発した。

そういう中で、動労千葉が運転保安闘争としてストに立ったことは、多くのJR労働者に共感を持って受け止められて、この闘争は大成功しました。やはり労働者は闘うことをとおして団結を固める。そのことによって動労千葉は、分割・民営化をめぐる攻防で受けた大変な傷をいやすことに成功したと思っています。

◎一〇四七名闘争の出発を飾る九一年三月スト

九〇年四月の清算事業団労働者の首切りを目前にした三月一八日、動労千葉は「労働委員会の命令を守れ。動労千葉一二人の採用差別者をJRに復帰させろ。解雇は絶対に許さない」と八四時間のストライキを構えました。当初は国労にあわせて一九日から二一日の七二時間ストを予定していたんですが、本部役員を職場に入れなかったり、津田沼支部では組合事務所の周りをトタンで囲い込んだり、いろいろなスト妨害がやられて、「正当な労働組合の争議行為に対する明らかな介入だ」と抗議して、一二時間前倒しでストライキに突入しました。

当局はこの時、JR総連革マル系の運転士を全部スト破り要員に動員して、異様なまでのスト封殺体制を敷いた。三月一九日の始発からストをやる予定だったから、始発からスト破りダイヤを組んだわけです。それが半日前の一八日正午からストライキに入ったから、東京圏、東京―千葉が完全にガタガタになっちゃった。総武快速線もガタガタ、東京まで全部止まりましたよ。

JRになって唯一よかったことは、ストライキ権が合法化されたことです。国鉄時代は、ストライキをやるたびに首を切られたり、処分されたりしていたのが、JRになってからは、組合が団結してやる気になりさえすればストライキがいつでもできる。当局もそれには介入できないわけです。しかしその代わりに、当局がいろいろな制限をつけてきました。

そもそもJRになってから、労働協約が全面的に変わって、「労使関係に関する協定」という総合協約になりました。JR総連や国労は締結していますが、動労千葉は、会社側が圧倒的に有利で労働組合はその下僕という扱いの労働協約であるため、締結を拒否しています。そのため、例えば団交の時、普通なら団交の交渉員は勤務を解放して団交ができるけれど、動労千葉はそれができない。苦情処理委員会も動労千葉とJRの間にはないし、職場に組合の掲示板もない。今、被解雇者が多いから専従は置いていませんが、労働協約を結ばないと専従も置けないんですよね。

その「労使関係に関する協定」に、ストライキに関して「何日前に通告しろ」「どの範囲でストライキをやるのか。いつまでやるのか」などの通告義務がある。動労千葉は協約を結んでいないから、本来なら自由にできるわけです。しかし一応、「何日からストライキをやる」ということは今でも通告しています。そしてストライキの通告書には必ず、「もしストライキに不当な介入をした場合には、戦術を拡大して対抗する」と書いているんですよ。例えば一〇〇人をストライキに入れる予定だったのを二〇〇人にするのも戦術拡大だし、二四時間ストライキを四八時間にするのも戦術拡大です。「われわれにはいくらでも戦術を拡大する権利がある。当局にとやかく言われる筋合いはない」と主張して、この時は一二時間の前倒しストライキを行いました。

しかしこのストに対して、当局は「違法ストライキだ」と言って、二人の停職をはじめ、計一四一人に対して処分を出しました。さらに「違法ストライキによる損害は組合が払え」と、二一〇〇万円のスト損賠請求訴訟を起こされました。

しかし結果としては、この闘争が全国を席巻して、当時の国労本部や社会党、その他諸々の画策を全部吹き飛ばしたわけです。そのことにより、九〇年四月一日、国鉄清算事業団が一〇四七人の労働者を整理解雇して、一〇四七名闘争が始まったという、大きな意義を持った闘いになりました。動労千葉の威力を示し、国労闘争団の中にも動労千葉を見直すという動きがこのころから広がり始めます。

◎恒常的ストライキ体制の確立

それから、JR資本の日常的な不当労働行為やさまざまな差別に対してどう反撃していくのか。当局とJR総連革マルの結託体制で、問答無用でやってくることに対して反撃するために、九六年に恒常的ストライキ体制を確立しました。ずっと一方的にやられていたことに対して、どう反撃しようかと本部も支部も懸命に考えぬいた結果の戦術です。

恒常的ストライキ体制というのは、「職場で不当なことが起こった場合には、その職場だけ翌日から全部ストライキに入れる」ということです。恒常的だから、毎日ストライキをやってもいい。これを定期大会が終わると必ず、当局に通告しているんですよ。いくつかの項目あげて、「こういうことをやった場合には、その職場だけストライキに入れる」と。例えば千葉運転区で何かやってきた場合には、千葉運転区だけ入れる。春闘のように「何月何日から何時間ストライキ」と通告すると、彼らはスト破り体制をとる。だけど不当配転や不当労働行為をしてきた時に、翌日からストライキに入れるということだから、スト破り体制をとれない。この恒常的ストライキ体制を確立したことにより、動労千葉は、強制配転などをずいぶん阻止しました。当局もあまりえげつないことはできなくなった。これは今でも続けています。この戦術をとってから、現場でも反転攻勢が始まりました。

 

◇3.動労千葉の闘い(その2)

◎動労千葉と一〇四七名闘争

さらに清算事業団闘争、一〇四七名闘争です。いくつかの山場がありました。まず、一九九三年の中労委命令です。動労千葉は、地労委では一二人全員が勝訴しました。しかし中労委では「二人だけ救済、一〇人は地労委命令を却下する」という命令でした。なぜ一〇人はダメなのかという理由は何ひとつ説明しない。

国労に対してはもっとひどくて、北海道も何を命令したのかよくわからない。ただ「JRに法的責任はある」ことだけは認めて、不当労働行為の範囲についてはJRの判断に任せるというデタラメなものです。国労も裁判所に中央労働委員会の命令を取り消す裁判を起こしますが、九八年五月二八日、東京地裁で反動判決が出て、国労には、「もういくら闘ってもかなわない。負けるんだ」という雰囲気がつくられてきました。

五・二八反動判決は非常に重大です。労働組合法に「不当労働行為はやってはならない」と書いてあるにもかかわらず、国鉄改革法でこれを否定した判決で、労働委員会制度を解体していく大きな突破口にしようとしたわけです。民間では特に労働委員会闘争を闘っている争議組合は多いから関心は高かった。港合同や関生支部との付き合いが始まったのも、五・二八判決が大きなきっかけになったんです。国家総ぐるみの不当労働行為を開き直り、労組法―労働委員会制度を否定するこの判決に対し、「これは国鉄だけの問題じゃない。こんなものがまかり通ったら、不当労働行為=組合つぶしも首切りもやりたい放題だ」という危機感と怒りを強烈に持ったことが、三組合の「呼びかけ」の出発点になりました。

この裁判は今、国労は最高裁まで行っています。全動労も二〇〇二年に高裁で判決が出て、最高裁まで行きました。全動労の高裁判決もまたひどい判決です。国労の五・二八判決は「JRに法的責任がない」いう判決ですが、全動労判決は「JRにも責任がある」と言った上で、しかし「国是」、つまり国鉄分割・民営化という国策に反対した以上、「採用差別をされても不当労働行為とは言わない」という判決です。動労千葉にどういう判決が出るかわかりませんが、動労千葉は東京高裁で争っています。

中労委命令の後、村山内閣の亀井運輸大臣が、二〇二億円損賠訴訟取り下げを条件に国労に一定の和解条件を出したことはすでに述べました。しかしこの時は、国労側も腹を決めていなかったんでしょう。四党合意なんか飲むんだったらこの時にやればいいんですがね。そうすれば四〇〇人か五〇〇人は戻ったかもしれない。しかしこれは国労だけの責任じゃありません。JR会社サイドがそうとう激しく抵抗したことは事実です。JR総連革マルがものすごく激しく抵抗した。

ともかく僕は当時「国労は二〇二億円訴訟もなくなったんだから、あとは一〇四七名闘争をがんがん闘えばいい」と言ったけれど、国労はそうはならなかった。四党合意の時も自民党の甘利が「国労は信用できない」と言っていましたが、それはこの二〇二億円訴訟の取り下ろしの件を指しているんですよ。政府にとっては「二〇二億円訴訟を下ろしただけで、国労に食い逃げされた」ということなんです。だから政府も自民党指導部も、今でも「国労は信頼できない」と言っている。

この過程、特に中労委の反動命令が出た直後に国労内で、秋田などを中心にして、公然と「闘争団はお荷物だ」と称して、一〇四七名闘争の切り捨てを主張するグループが登場します。チャレンジグループです。この連中は九五年春にも二〇二億円損賠訴訟の判決を期して、反動的に蜂起して国労闘争団を切り捨てる方向で策動します。しかしこれは、当時の国労永田執行部と亀井運輸大臣の間での二〇二億円問題をめぐる手打ちでいったんは封じ込められます。だが、このグループはその後も生き続け、九八年五・二八判決を境に、当時の国労本部の宮坂書記長らを取り込み、国労内の主流として登場し、四党合意の受け入れまで突き進むことになります。

動労千葉は一貫して「国労闘争団は、国鉄労働運動が生み出した精華だ」という立場から、国労内のこのような傾向に強く反対してきました。僕は動労千葉こそ、国労の誰よりも国労闘争団の闘いを評価してきたと自負しています。

◎二八人の公労法解雇撤回をかちとる

二八人の公労法解雇の撤回闘争については、九二年と九三年に千葉地裁で、第一波の被解雇者二〇人のうち七人、第二波は被解雇者八人のうち五人が解雇無効の判決を獲得しました。これもまた判決の前提は「国鉄分割・民営化に反対するという政治闘争をやった、不らちなストライキだ」ということです。「しかし解雇権の乱用だ。あまりにもひどい」という判決だった。初めての処分で首になった人がいっぱいいたわけですから。

それで東京高裁で争っている途中の九五年二月、東京高裁が裁判長の職権で和解を提案してきました。動労千葉は「和解の前提条件は、あくまでも全員の解雇撤回だ」と主張してきましたから、和解決着の可能性はほとんどあり得ない、解雇撤回に乗るわけがないと思っていた。ところが清算事業団は、われわれの予想を超えて追いつめられていたんだよね。九月になって、清算事業団が突然「組合側の条件について検討したい」と言い出したんです。そして結局九七年三月、国鉄労働運動の歴史の中でも前例のない、二八人全員の公労法解雇撤回という大きな勝利をかちとりました。

ただ、国鉄当時の解雇だから、争っている当事者はJRではなく国鉄清算事業団です。清算事業団には復帰する職場がないし、JRに復帰させるためにはまた裁判を始めなければいけない。被解雇者の年齢やいろんな問題を考えて、金銭和解をしました。和解時点で雇用関係の終了を確認し、この間の賃金未払い分を和解金として支払うとともに、第一波ストに対して国鉄当局が起こした三六〇〇万円のスト損賠訴訟も取り下げるということです。組合本部である動力車会館の土地も、国鉄当局から清算事業団の土地に承継されていて、立ち退きの請求の裁判が起こされていたけれど、その件も含めて、全部決着をつけました。動労千葉は二八人全員の解雇撤回をかちとったということを高く評価して、臨時大会を開いて、和解の受け入れを決定しました。

 

◇4.国労の政治解決路線の問題性

国労は一貫して政治解決路線、つまり和解路線です。膝を屈して「どんなことでも飲むから、少しでも返してくれ」という運動です。動労千葉は違いますよ。JRに復帰を求めているんだから、JRと闘う。しかもJRの中心会社はJR東日本なんだから、「JR東日本の中で闘って力関係をひっくり返さない限り、JR復帰など成り立たない」という立場で、JR体制との闘いを軸に据えた一〇四七名闘争を闘ってきました。だから労働委員会や裁判だけに依拠した闘いじゃありません。

だから動労千葉の一〇四七名闘争の主力は、JR本体の組合員です。もちろん一〇四七名で首を切られた九人の組合員も頑張っていますが、やはり本体の労働者が闘っています。例えば物販も、国労は、闘争団員がいろんなところを回って歩いています。動労千葉は被解雇者もやりますが、現場の組合員が物販のオルグに行く。内弁慶が多いから、「よその職場に行って口をきくのは嫌だ」「説明を求められたら困っちゃう」「何もしゃべんなくてもいいんだったら行く」等々、いろいろ言いながら、それでもオルグに回っています。この闘いを十数年やって、動労千葉の組合員も井の中の蛙ではなくなりました。

国鉄労働者というのは国鉄の中だけで生きてきたから、よそのことをあまり考えなくてよかったんだよね。その最たるものは国労です。だけど物販でいろんな職場に行って、いろんな労働者と会って、そういう人たちが自分たちの闘いをどう見ているのかということがよくわかる。これは本当に組合員の実地教育になったよね。一〇回の学習会より効果がある。だから動労千葉は、本体の組合員が解雇撤回闘争の中心です。「被解雇者が俺たちの指導者として首をかけて闘ったから、自分たちが今本体に残って仕事ができている」と考えているからです。組合の指導部であるわれわれも、組合員に常にそういうふうに訴えてきました。

国労の物販も、被解雇者のための物販であるにもかかわらず、例えば千葉で物販をやれば千葉地本が一割取って、残りが闘争団の財政になる。「そういうふうにしないと、組合員が取り組まない」と言う。こういう姿勢は問題だと思う。動労千葉は違う。今でも夏と冬になると、まず一人ひとりの組合員が二万円ずつ買います。自分たちが買って、それからほかの組合や労働者に協力を要請するのが筋だということです。基本的なスタンスが、国労とはまったく違うんだよね。

国労は、闘争団員一人あたり一月二万五千円の生活援助金だけは、組合員からカンパを集めて払ってきましたが、あとは闘争団員が自分たちの商売や物販で自活している。犠救(犠牲者救済規則)は適用されていません。これが全逓の四・二八処分と違う。全逓の四・二八は東京で六〇人ぐらい首を切られた後、みんな全逓の支部や本部の書記として賃金を払っていたんです。それで自民党の金丸と社会党の田辺の会談で、「郵政省の試験をもう一回受けたら、全員が合格するようにしてあるから」と言われて、全員が裁判を取り下ろして受験したら一人も受からなかった、というひどい話なんだけれど、それまでは賃金を払っていた。だけど国労は、組合が賃金を払ったりしてはいません。国労闘争団員は自活して、物販オルグで全国を行脚したり、それぞれの闘争団で会社をつくって仕事したりしながら、十数年間も闘っている。そこがまったく違う。

動労千葉は、本体の労働者の闘いが解雇撤回闘争の主体だという立場だから、争議団の九人に対する「お荷物」論はありません。国労のチャレンジグループは「一〇四七名闘争ばかりやっているから、本来のわれわれの労働条件をめぐる闘争ができない」などと言うけれど、こんなのはウソもいいところだよね。国労本部は、一〇四七名闘争など何もやっていない。国鉄改革法を承認したり、「四党合意」を認めたり、足を引っ張ることばかりやっている。解雇撤回闘争なんて、まったくやっていません。

動労千葉はこの一六年間に、職場における闘いを基軸にしながら、多くの裁判闘争、労働委員会闘争、選挙、それから三組合共闘に代表される闘う労働運動の新しい潮流運動づくり、そういう闘いを精一杯闘いながら、二一世紀を迎え、二〇〇一年九・一一の衝撃的な反米ゲリラに遭遇し、そして動労千葉も今の状況の中で一段と飛躍をしなければいけないという立場で頑張っています。

 

◆Ⅴ/転換期を迎えた国鉄闘争

 

◇1.国鉄闘争をめぐる総決算攻防

今、国鉄闘争が大きな転換点を迎えています。そのことは、敵の出方を見ればわかる。たかが二万人ほどしかいない国労、ストライキをやっても列車が止まらない国労。にもかかわらず、なぜ国鉄闘争に対して、政府がこれほど「四党合意」などの攻撃を大がかりにやるのか。それはやはり国鉄闘争、特に国労の存在を敵の側がいかに重視しているかということの表れです。

確かに日本の労働組合は、大きく連合に収れんされて労資協調になった。しかし国労という日本の労働運動の老舗が入っていない労働戦線の統一や連合では、敵にとってもダメなんだよね。例えば、国労がもし今度の労働法制改悪に反対して旗を振ったら、五万人や一〇万人の労働者が集まりますよ。国労は有事法制に反対する陸・海・空・港湾二〇労組の闘いの一角を占めています。しかし海員組合や航空連などに比して、国労の存在は影が薄い。なんでもっと陸の王者として、こうした反戦闘争の先頭に立たないのかって思うよね。確かにストライキをやって列車を止めることも力ですが、それだけでなく、そういう闘いを展開することも政治的な力です。国労が闘えば闘うほど、敵にとっても「国労を野に放しておいたら大変だ」となるわけです。敵が国労をどう見ているのかということと、今の国労の幹部が自分たちの存在をどう見ているのかということに、ものすごいギャップがありますね。

一〇四七名闘争をめぐる四党合意もそうです。もし和解したいのであれば、和解してもいい。しかし「もっと高く売りつけてくれ」と言いたい。「和解金が一人あたり八〇万円」なんていうのは、まったくお話になりません。敵はどれほど国労の存在を階級的に見ているかということが、国労の幹部は全然わかっていない。それで、「一〇四七名闘争さえなくなれば、自分たちは連合に行く」なんてことばかり考えている。

いずれにしても四党合意が破産した。そしてこの過程で国労、全動労、動労千葉を横断した一〇四七名闘争陣形が確立された。それから国労五・二七臨大闘争をめぐって八人の仲間たちが逮捕された。そして東日本におけるJR総連と革マルの結託体制にくさびが打ち込まれた。

こういう状況を見ると、いよいよ国鉄分割・民営化をめぐる総決算攻撃が始まったことは間違いない。分割・民営化攻撃とは、国労や動労千葉を全部なくす攻撃だったにもかかわらず、それが生き残った。それから、革マルに協力してもらったから分割・民営化ができたということにも、早く決着をつけたい。箱根以西は切ったけれど、最大の東と貨物と北海道が残っている、これをなんとかしなければいけない。革マルとの癒着の問題が、あれほど国会でも騒がれているわけですから。そういうことも含めて、いよいよ決着をつけなければいけないという時期がきて、警察権力が介入してきた。

だから動労千葉は今、「この次は動労千葉だろう」と警戒しています。動労千葉は団結しているからまだ手を出せないだけで、動労千葉の団結がゆるんだら、いつでも向こうは突っ込んでくると自覚しながら、闘っています。

逆に言うと、革マルとJRの結託体制が崩壊し始めたわけだから、われわれにとって組織拡大の大きなチャンスが生まれたということです。平成採のJR総連の組合員にとって、JR総連にいることがプラスにならなくなってきた、目先の得にならなくなってきたということです。

 

◇2.国労のどこが問題なのか

国労がしっかりすることが、この闘いのためにも非常に重要な課題です。なぜ国労が今のように、誰が見ても間違っていることをしているのか、ということをはっきりさせなければいけない。

◎国労は一戦も交えなかった分割・民営化闘争の総括をいまだまったくしていない

国労は総評最強の組合と言われながら、分割・民営化に対して一発のストライキも闘わず、一戦も交えずに終わってしまった。一戦も交えなかったけれど、四万人も組合員が残ったところに、逆に国労のある種のすごさがありますが。執行部は何も方針を出さないけれど、組合員は四万人も、差別・選別の嵐にさらされながら、「だけど俺は国労だ」と残ったわけです。こんな組合はどこにもありません。それは本部が偉いんじゃなくて、現場が偉いんです。だけど一戦も交えなかった。

ではなぜ、戦後日本労働運動の重戦車と言われた国労が、分割・民営化攻撃に対して一戦も交えられなかったのか。このことについて国労本部は総括していません。国労を指導している協会派や革同・日共も総括していません。総括していないから、今も同じことをやっているわけです。

◎八六年修善寺大会(労使共同宣言をめぐり分裂)以降も無方針

二つ目に、動労千葉が二波のストライキを闘った後、八六年一〇月に修善寺大会がありました。そして六本木委員長体制になりました。しかしこの執行部も、何ひとつ闘う方針は出しませんでした。唯一の方針は、採用差別事件の労働委員会闘争だけ。新たにJR資本に対してどう闘うのかという方針はまったくなかった。一応「分割・民営化反対の旗は降ろさない。労使共同宣言に入らない」となったけれど、それでも闘う方針は形成されないまま、鉄産労の分裂により一気に組合員が激減するという事態を拱手傍観することしかできなかった。

JRが発足して以降も、労働委員会に不当労働行為を申し立て、採用差別事件の労働委員会闘争を始めるというのが、唯一の方針でした。これに対してJR各社が労働委員会への出席を一切拒否した。労働委員会の審問は、組合側の主張だけで展開されたわけですから、申し立てから約二年間で、地労委はすべて組合に対する勝利命令を出した。

◎諸悪の根源は「全面一括解決要求」路線

そして八九年六月に臨時大会を開き、「全面一括解決要求」という方針を決定しました。中央労働委員会の場で、採用差別事件や二〇二億円損賠など、すべての問題を一括して解決しようという要求です。和解とは、お互いが譲歩するから和解というわけですが、その時の国労にとっては、和解の切り札は「労働委員会で勝利命令をかちとった」ということしかありません。だから当時の国労は、中央労働委員会での勝利命令を求めなかった。「中労委命令が出たら和解ができなくなってしまうから、命令を出されては困る」という立場だったんです。

この方針が、今にいたるも国労の諸悪の根源です。この方針があるから、闘争団も含めて全部和解路線、政治解決路線になっているわけです。中労委は命令を出しましたから、中労委の場での和解はできませんでした。そこで、次は政治解決路線。そして九八年五月二八日に東京地裁が反動判決を出して、負けた。そうなると、ますます政治解決路線に傾斜していったわけです。その路線上の根拠は、八九年六月の臨時全国大会の「全面一括解決要求」方針にある。このことをきちんと総括しなければいけないと思います。

労働組合は、伊達や酔狂で大会を開くわけではありません。どういう闘いの方針を確立するかということを、徹底的に議論して決めるわけです。そして労働組合である以上、そこで決められた方針に基づいて行動するわけです。その大会で決定された方針が和解路線、政治解決路線だから、肝心のJR資本と闘うという方針が出てこない。和解しようと思っていたら、和解の相手とケンカできるわけがありません。だからJR資本からどんな攻撃がかけられても、まったく闘わない。国労はこの間、JR資本にあらゆる攻撃をかけられているのに、まったく闘っていません。こういうことをきちんと総括すべき時期が来ているということを、特に国労の組合員に訴えたい。

JR資本と闘わないで解雇撤回・JR復帰をかちとることができるわけがありません。特にJR東日本では、資本が革マルとの結託体制ですから、この結託体制と闘わないJR復帰は成り立ちません。しかしこれがまったくやられていない。

国労が一六年間、動労千葉と同じ立場に立ってJRと執拗に闘ったら、もっと国労に平成採の労働者が入り、組織拡大だって実現できたでしょう。今は、組合の大会に機動隊を導入するなんてことばかりやっているから、良心的な国労組合員ほど嫌気がさしてしまって、脱退者が出ている。千葉では、国労組合員があきらめて動労千葉に来ています。そういう組合のあり方こそが問題です。

四党合意が破産した後、四党合意の反対派も、ある意味で茫然自失状態になってしまっています。彼らもやはり政治解決路線だからです。もちろん労働運動ですから政治解決も和解もあります。しかしそれは、組合が団結を強化して闘って、資本や政府が困った時に初めて出てくるものです。それを最初から方針化したら、際限なく屈服する以外にありません。それを国労は典型的にやった。国労以外の労働者は、こういうあり方を他山の石にしなければいけない。「こういうことをやったら本当に惨めになる」という典型です。

今、チャレンジグループは国労の財産をぶんどって、国労を解体して連合化する道をひた走っています。すでに一部で脱退の動きがあります。〇二年一一月の国労全国大会では、スト基金の取り崩しが議題となりました。スト基金とは、ストライキをやった時の賃金カット補填分として積み立てたもので、それ以外の用途に使ってはいけないと明記されています。にもかかわらず、それを各エリアに分配しようとしている。さすがに一回の大会では決めきれず、「一年間の職場討議にかける」となりましたけれど、今度の全国大会では決めようとしています。このスト基金を各エリアで分割したら、「はい、さようなら」と国労から逃げ出すという動きが間違いなく始まります。今年の大会は勝負どころです。

JR資本とJR総連革マルの結託体制に亀裂が生まれ、しかも革マルの中でも分裂が起こっています。JR東日本で資本は、革マルが握っているJR総連という五万人の組合を活用して労務政策をとっていたわけです。これで何でも合理化攻撃をできたわけです。しかしこの結託体制が崩れ始めている。国労にとってはチャンスが到来しているということです。国労が、今こそ原点に立ち返ってJR資本との闘いを基軸に据えて解雇撤回闘争に踏み出せば、非常に大きなチャンスが生まれる時が来ています。

国労東京地本と国労本部が国労組合員を警察に売り渡した国労五・二七臨大闘争弾圧事件の裁判が行われています。あっという間に佐藤昭夫弁護士をはじめとする著名な方たちが発起人になって、「国労五・二七臨大闘争弾圧を許さない会」が結成されました。この運動をどんどん国労内外に広げていくことをとおして、国労の解体をもくろんでいるチャレンジグループと共産党・革同の執行部を打倒して、闘う闘争団が中心となった新しい闘う執行部をつくるべき時です。闘争団はもう十何年間も闘っていろんなことを経験してきているわけです。今の本部は何もやっていません。あんな執行部はいない方がいい。僕は今の国労がそのまま残るとは思いません。今度の国労大会は、左派がしっかりすれば、分裂含みの大会になります。そういう立場に立って闘わなければならないと思います。

◎階級的力関係の転覆の先頭に立とう

必要なことは階級的力関係を全体として変えていくことです。その先頭に国労が立つことです。まずJR資本との闘いを強めなければ問題にもならない。労働者の権利を次々と踏みにじっていく攻撃との闘いの先頭に立たなければならない。戦争と戦争法案の激しい進展と真っ向から対決する闘いの先頭に国労の旗が立たなければならない。このような闘いにうって一丸となって挑み、要するに国鉄分割・民営化以降大きな後退を強いられてきた日本の労働運動、日本の階級闘争の反転攻勢をかちとること、その先頭に国労が立つこと、それと一体のものとしてのみ、国鉄一〇四七名闘争の勝利の展望もまた見えてくるということを肝に命じなければなりません。そして今待ったなしに求められているのは、四党合意にうつつを抜かしてきた本部執行部を打倒し、四党合意反対派をもおおっている展望喪失状態をのりこえて、国労の「解体的再生」を実現することです。国鉄・JR労働運動の新たな再編・流動状況の到来の中で、チャンスはいたるところに転がっている。

チャンスと危機は、常に裏表です。チャンスを正しく闘いに生かせればチャンスになるけれど、チャンスを生かしきれなければ危機に転化します。チャンスを本当に生かしきる闘いを、なんとしてもやらなければいけないと思います。

資本主義が労働者に飯を食わせていけない時代に入った。同時に戦争しなければ延命できない時代に入った。全世界で、怒っている労働者の反乱が起きています。数千万という規模でヨーロッパでもアメリカでも、アジアでも中東でも始まっている。この闘いと日本も無縁ではありません。日本でもそういう闘いを実現することはまったく可能です。その中心に国鉄闘争が座らなければならない。労働者が決起する条件がいたるところに噴出している。そういう状況を正しく認識して、これからも動労千葉は闘っていきたいと思っています。

分割・民営化以降一六年、さまざまなことを動労千葉も学び、教訓化しています。これを生かしながら、要は現場の団結にある、組織の強化拡大にあるということを据えて、日本の多くの労働組合の模範になる闘いを展開したいと思っています。

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